闇夜の従者とヒスイカズラ
青々と茂っていた木々の葉はすっかり落ち消え、外出時にはコートが必要な季節になってきた。店内の花も数が減り鮮やかさも無くなってきたが、それでも、花の彩りは美しい。
ローザが1人で店番をしていると、少々乱暴に扉が開かれる。
「いらっしゃいませ……あら、ベルナルド、ど、ど、どうしたのそんなに慌てて」
がらんがらんと荒々しいドアベルの音をさせたベルナルドは小走りにカウンターまでやってくると切羽詰まったように言う。
「ごめんローザ、ちょっと匿って」
「えぇ? あー、裏手でいい?」
戸惑いながらも、ローザはカウンターの仕切り板を持ち上げてやる。狭いカウンター内を抜けようとするベルナルドはローザの肩に手を置き
「ありがとっ」
と小さく囁いて裏手へと入っていく。
状況を把握しきれないままのローザが仕切り板を元通りにすると、大きな窓の向こうに馬車が一台止まる。
「あら、お客様かしら……あの馬車」
馬車扉に〝孔雀〟のマークを見つけたローザは閉じたばかりの仕切り板を持ち上げた。しかし、ローザがカウンターから出るよりも早く、店の扉は大きな音を立てて開かれる。
「失礼するよ、ローザ」
「シーギスムンド様っ。い、いらっしゃいませ。お出迎えもせずに申し訳ありません」
ローザは仕切り板を持ち上げ店内へ出ようとするが、カウンターの角にエプロンを引っかけてしまう。数ヶ月姿を見せなかった人物が突然来訪した事もあって焦ったのだろう。ローザがもたもたとしている間にシーギスムンドはカウンターまで来てしまう。
「いや、急な来店ですまない。商談も連絡のみで来店せずすまなかった」
「いいえ、お元気そうでよかったです」
にっこりと笑うローザに、厳めしいシーギスムンドの顔が少し和らぐ。
「本日は如何なされましたか。何か、ご入り用の物がございましたでしょうか。レスティカーナが不在ですので商談は難しいのですが……」
「いや、取り立てて急ぐ用事はない。商談も電話連絡で十分だ」
「あら、それじゃぁ」
どうして、という疑問を隠しもせず、ローザは不思議そうな顔でシーギスムンドを見上げる。多忙を極めるパヴォーネが用も無く来店するとは思えない。それが生真面目で堅実なシーギスムンドとなれば尚更だ。店内に入ってきたときもドアベルが大きく揺れていたし、窓の外に馬車を見かけたと思ったら店に入ってきたのだから、馬車が止まりきる前に下車した筈。
どう考えても急ぎの用事だと思ったのだが、そうではないと言われローザは頭に疑問符をいっぱい並べ、シーギスムンドの言葉を待つしか無い。しかし、シーギスムンドは貝のように口を閉じたまま、じっとローザを見下ろすばかりだ。
ローザが少し首を傾げてみると、シーギスムンドは目を少し見開く。反応はあるものの、やはり何も言わない。もともとシーギスムンドは口数が少ない男だ。会話が無くとも可笑しな事ではないのだが……。
「お時間はありますか。シーギスムンド様」
ローザが静かに問う。
「お急ぎのご様子でしたが、もしお時間があるのでしたら、お茶でもいかかです?」
「ここは、花屋だろう」
「はい。ですが、お花を選ぶのは時間がかかりますから」
ローザはふっと笑い、顔を横向け店内の花へと視線を向けた。
「花は誰かに贈る物です。相手を想って、相手と過ごした時間を思い出して、花を選んでいただきます。色と香りと、大きさ。一緒に見た花でもいいですし、花言葉に思いを託す方もいらっしゃいますね」
花を見て語るローザを、シーギスムンドはじっと見つめる。
「ご来店したその日に決めなくても構いません。お話を伺っていると、沢山の思い出が蘇って消え、いっぱいある花の何を贈ったらいいか迷っちゃうんです。だから、ここには椅子が置いてあるんです。花から作ったお茶を飲んで頂いて、どの花にするかゆっくりと選んで頂きたいから」
1つ、ゆっくりと瞬きをしたローザはシーギスムンドへと視線を戻し言う。
「お客様の中にはシーギスムンド様の様に、言葉にするのが苦手な方もいらっしゃいます。無理に語ろうとなさらなくていいんです。ただ、花のお茶を飲んで考えるだけでいいんですよ」
にっこりと笑い言うローザにシーギスムンドが目を見張る。
「いかがですか、シーギスムンド様。お時間があるようでしたら、お花のお茶でも」
「……残念だが、そこまでゆっくりしていられんのだ」
「そうですか。それは残念です」
残念そうに、しかし笑顔のままでローザがそう言う。
「ローザ」
「はい」
名を呼ばれ、ローザは間を開けずに返事を返す。シーギスムンドはいつにもまして真剣な顔つきでローザを見、言葉を紡ぐ。
「次、いつ会えるかわからん。だが、また必ず会いに来る。その時に、頼んで良いだろうか」
きょとん、と目を丸くしたローザは直ぐにふわりと優しく笑いかえした。
「勿論です」
「……そうか。ではまた。急に悪かったな」
「いいえ。お会いできて嬉しかったです」
ローザが扉を開け、シーギスムンドがメインストリートに待たせた馬車へ向かう。躊躇いがちに振り向いたシーギスムンドに、ローザは何時も通りの言葉をかける。
「またのお越しをお待ちしております。シーギスムンド様」
ローザが頭を下げて直ぐ、御者の声がした。急ぐ馬車の音はあっというまに遠くなる。姿勢を正したローザは小さく息を吐くと、なんとはなしに、メインストリートを見渡してみた。
肌寒くなったせいか人影は少なく、馬車の馬足も忙しない。けれど、記憶にあるこの時期はもう少し、人が居て賑やかだったはずだ。鼻頭を赤くし新調した冬物を纏う人達が、聖誕祭の話題で盛り上がっていた。
小さく息を吐き、ローザは店内へと戻る。
「…………」
誰も居ない店内を見渡し、ローザは静かにカウンターへと歩き出す。仕切り板を持ち上げて中へ戻り、裏手を覗き込むと、薄暗い中で頭を抱えてしゃがみ込んでいるベルナルドがいた。ローザは少し考え、ベルナルドに声をかける。
「……大丈夫? 怪我は?」
首が横に振られ、ローザは安心した吐息を漏らす。
「気が済んだらこっちに出ていらっしゃいな。お茶煎れてあげるから」
反応らしい反応は無かったが、ローザはそっとカウンターに戻ると戸棚からティーセットを取り出し、茶葉を選ぶ。
かっとん かちゃかちゃ こと
できるだけ音を立てないように気を使っている作業音が聞こえ、ベルナルドはのそりと顔を上げる。電気の付いていない裏手は暗く、店舗へと続く入り口から差し込む灯りはくっきりと陰影を付けていた。灯りに誘われ、ベルナルドは床を這うように移動し、そうっとカウンターを覗きローザの姿を盗見る。足下から見上げているからか、ローザはベルナルドに気がつく様子もない。
以前のローザなら、悩んだとしてもベルナルドに声をかけなかっただろう。匿ってくれと言う程の何かがあったのだろうけれども、聞いてはいけない事かも知れない。それに聞いたところで自分には解らないのだから、聞かない。聞いても意味もないし、何の解決にもならない。ローザはそういう選択をしていた。
けれど、あの夏の日。他でもないベルナルド自身が、偶然とはいえローザを説き伏せる事となったあの日から、ローザは少しずつ変わっている。
休日でも外出する事の少なかったローザだが、レスティカーナを初めとするインセットの仲間とよく出掛けるようになった。街中で見知った人と出会えば、相手との距離感に気を配りながら会話を交えている。
ベルナルドへの対応は、一見するとあまり変わっていない。だが、前よりも、気を使ってくれているのはベルナルドが肌で感じている。元々笑顔の多いローザだったが、前にも増して、よく笑いかけるようになってくれたのだから。
しかし、少々残念な事にローザが笑いかけるのも気を配るのも、ベルナルドだけではない。それが、ベルナルドには嬉しいような苦しいような、なんとも言えない事でもある。特にシーギスムンドのような、ローザに気のある男へも平等に頬笑む姿が増えており、ローザの周りが騒がしいのも問題だ。
ここ最近のベルナルドはローザに変化を与えられた事を喜び、自分を褒め称えたい気持ちと同時に、なんて迂闊なことをしたんだと己を罵るのに忙しい。
かちゃかちゃ こぽこぽ
紅茶を入れる姿をベルナルドがぼうっと見上げていると、視線に気がついたのか、ふいにローザと目が合う。まさかしゃがみ込んで覗いていると想わなかったのだろう。ベルナルドと視線が合った瞬間、ローザはぴょんと大きく飛び跳ねた。ぱちくりと瞬きをして、まじまじとベルナルドの姿を見た後に、笑い出す。
「あっ…………。あ、あっはは、やぁだもう、驚かさないでよ、ベルナルド。あー、びっくりした」
大きく口を開けて笑うローザにつられ、ベルナルドの顔もほころぶ。ベルナルドはこの、ローザの笑顔が大好きだ。女性の殆どは感情を大きく表に出す事は品位に欠ける、はしたない事だと考えている。笑顔は頬笑むか、微笑ばかり。
ベルナルドはその、本当に楽しいのか嬉しいのかがわからない笑みを浮かべる女性が苦手だ。マンマレジーナの様に不快感を覚えない微笑みを向けてくれる女性など滅多にお目にかかれない。
ローザの笑顔を好きな人は大勢いる。あの仏頂面なパヴォーネのシーギスムンドや彫刻の様に表情が変わらないラチェレのミケーレも、ローザに笑顔を向けられると眼を細めて笑うのだ。気難しい人も笑顔にしてしまうローザの魅力は誇らしいが、そのせいで敵が増えるのもまた事実。
もう少しローザには自身と自覚、そして警戒心を持って欲しい。そう思う傍ら、そうなってしまうとベルナルドも側にいられなくなりそうで、ベルナルドは何も言えずただ見守るばかりだ。成り行きと勢いで言い含めたものの、自分に対する態度が全く変わらないローザは、ベルナルドを異性として見てくれていないと思われる。
「お茶、できたわよ」
ベルナルドは小さく頷き、立ち上がる。仕切り板を上げ、店舗側へと廻ってカウンターの椅子に座れば、甘い香りの白い湯気を立てた紅茶が置かれた。
「ありがとう。匿ってもくれて、助かった」
「あまり危ない事しない方がいいんじゃないの?」
「多少危ない事しないと売れる情報は手に入らないさ。ローザだって花を咲かせる為に蜂の世話もするだろ?」
「それとこれとは違うような……」
「蜂だって刺されたら危ないんだから同じさ」
むぅ、とどこか納得のいかない顔のローザが自分のカップに紅茶を注ぐ中、ベルナルドはカップを傾ける。
この〝魔女の街〟の住人は皆、どこかのマフィアの一員だ。下っ端の下っ端や、親兄弟が所属しているから必然的に所属している、という人もいる。しかし、ローザの様に全く関わりがないのは極めて稀な事だ。産まれ育った子は親から教わり、この街を目指してくる者は初めから〝魔女の街〟がどういう所かを理解してやってくる。
だから、誰もが他者を疑う。
ローザは周囲との距離は取っていたが、他者を疑う事はしていない。どこのマフィアチームに所属していても、笑顔で話すしこうしてお茶も出す。今でこそ、ローザの煎れた紅茶を楽しみにしている客は増えている。しかし、初めの頃は誰もが、ローザの事をただの馬鹿だと思っていた。
ローザが知っているかどうかは解らないが、この花屋で紅茶を出した時、客は誰1人として紅茶に手を伸ばさなかった。人によっては見向きもしない。
毒物を疑っていたからだ。
『味を知らなかったら、買いたいって思えないでしょう?』
そう言っていた、ローザにとっては普通の事だったお茶を出すという行為も、この街では暗殺を疑われる要因でしかなかった。だが、花を選ぶときにローザと言葉を交わした者は、ローザはただ純粋にお茶を振る舞っていると理解し、警戒心は消え失せる。
ローザは平和な場所で産まれ育った。他者を疑う事も警戒することもない、平和な場所で。それを愚かだと見下し、しかし、どこかで憧れていたのだろう。ローザから花を買う客は日ごとに増えていたのだから。そうして、気がつくのだ。ローザは決して、危害を加えない。不利益を与えない。敵にならない存在だ、と。
あ、と何かを思い出した様にローザはポケットを漁りだす。
「あった。ねぇベルナルド、甘いの食べる?」
ローザの掌には薄茶色のパラフィン紙に包まれた物がいくつか転がっている。
「なに、それ」
「ハニーキャンディ。ジンジャー入ってるからちょっとぴりっとして美味しいよ」
はい、と差し出され、ベルナルドはキャンディを1つ取る。かさかさと包みを開け、白いつぶつぶの混ざったキャンディが姿を現す。ベルナルドはぽいと口に放り入れ、ころころと口の中で転がした。
「ほんとだ。ジンジャーの味がするハチミツだ」
「そのままじゃない」
小さく笑うと、ローザも小さいのを1つ口に入れる。花を悩む客人の前でただ静かに佇んでいる事の多いローザは、他人と一緒に居る無言の時間が苦痛ではない。
一緒にいるのだから何か話さなければと考え、無理に話そうとする人が多い中、ローザはただ、そばにいてくれる。
『大きな樹木に寄りかかってる、っていうのも好きなのよね。あたし。そんな風になれてたらいいなー。なんて』
そう言っていたのは、いつだっただろうか。物言わぬ花と過ごす方が多いローザにとって、無言の時間は花との語らいの時間なのだという。
「ねぇ、ローザ」
椅子に座り直したベルナルドが、改めてローザへと声をかける。
「なに?」
「あー。前にも聞いたんだけどさ。やっぱりもう一度聞いてみたくって」
「なぁに。何かあったかしら?」
「うん。……あのさ、なんでローザはインセットに入ったの?」
「………………あー」
気まずそうな顔になり、ローザの指がくるくると赤毛を巻き出す。ローザは深く、真剣な考え事をする時にだけ赤毛を指に巻き付ける。他愛もない質問にはすぐ答えてくれるが、少々踏み込んだ質問や、花の事を聞いた時はいつも赤毛を弄ぶ。逆に言えば、この仕草をする時のローザは真剣に考えてくれている、という事だ。以前聞いた時は少し考えてくれたものの、明確な答えは貰えなかった。
だが、今なら、どうだろうか。
笑顔が増え、行動や考え方の変わってきたローザだが、自分は異性に好意を向けられる対象では無いのだという部分だけは変わらず、強く思い込んだままだ。
そのお陰でシーギスムンドのアプローチは無駄に終わっているわけだが、ベルナルドの好意も同じ様に伝わらないので無意味である。
ベルナルドはそれなりにローザに信頼され、近しい存在だと思って貰えている、はずだ。正直まだ、自信はない。もし今、答えを教えて貰えるのなら、多少は関係が進んでいると思える。
それに、やはり気になるのだ。
いくらマンマレジーナに誘われたとはいえ、深い意味も理由もなくマフィアになどならないだろう。
平和な故郷には家族がいて、大好きな花を育て、誰かと結婚し、平穏な人生を全うできる。それら全て、故郷を捨てて家族とも二度と会えず、マフィアの一員として〝魔女の街〟で生涯を終えるのをローザは選び、ここにいる。
近い国ならまだしも遠すぎる故郷には〝魔女の街〟から援助を送る事もなく、名を借りて後ろ盾にする事もできない。かといって、家族や村に莫大な借金があったわけでも、壊滅するような被害があったわけでもない。
故郷を護る為でもなく、家族に売られたわけでもない。
なれど、ローザはマフィアになった。
ローザを知れば知るほど、その疑問は膨れるばかりだ。
「実はね、ベルナルド。そんな隠すような、たいした理由じゃないんだけど」
「教えてくれるのか?!」
カウンターに手をおいて立ち上がり、前のめりになったベルナルドがぐんとローザに近寄る。
「だ、だから、ほんと、すっごいくだらないのよ? ベルナルドが聞いたらそんな理由で? って言うくらい」
背中を反らせたローザは慌てて言い、胸の前で両手をぱたぱたと交差させる。
「ローザにとっては、くだらなくない理由だったんだろ?それにそこまで言うくっだらない理由でマフィアになるって決めた、っていうのもすっごい気になる」
「まー、ね。自分でも時々、思い出してはバカだなーって思うから」
自嘲気味に言うが、ベルナルドは話の続きを待ちきれない様子でローザを見る。
くるり、と一巻き。ローザの指が円を描く。
「咲かせてみたい、花があるの」
「………………うん」
「それだけ」
「………………………………うん?」
たっぷりと間を開けて、ベルナルドは不審の声を上げる。
「ね。くだらないでしょ?」
ローザが苦笑して言う。ベルナルドは一度俯き、どん、と音を立てて額をカウンターに当てる。数分はそのままだっただろうか。頭を上げ、身体を起こしたベルナルドはそのまま、腰に両手をあて天井を見上げる。
「まった。ローザ」
「うん。なにかな。ベルナルド」
「花だよな」
「そうよ。お花」
「今も、花を咲かせているよな」
「うん。マンマレジーナにお願いしたからね」
天井を見上げていたベルナルドの顔が動き、ローザへと向けられる。ローザはいつもと変わらぬ、少し困ったような笑みだ。
「ここに、〝魔女の街〟に来ても花を育てさせて欲しい、って?」
「そう」
「それが、ローザがインセットに入る条件?」
「だいたい、そんな感じ」
ベルナルドは俯き、腰に当てていた右手で顔を覆う。綺麗な前髪がさらりと流れる。
「ね。くっだらないでしょう?」
「んんんんんん、ローザだし、なぁ」
「なぁに、それ」
くすくすとローザは笑うが、顔を上げたベルナルドの表情は眉間に皺が寄っているものの、真面目な物だった。
「だってローザは花が育てられたらそれでいい、なのは知っているからさ。あんまり変じゃないというか、ローザだもんなって理解できるんだけど、やっぱり、まだ何かあるんじゃないかなって思うんだ」
「何かって?」
「それが、っううううう、インセットにならなければいけない理由…………。花を咲かせたい、だから。そう、この〝魔女の街〟じゃないと咲かない花、とか」
口元を手で覆い隠し、真剣に考えていたベルナルドは問いかける視線をローザに向けると、ローザは小さく口をあけ、目を丸くして驚いていた。
「ベルナルドって、ほんと、実は頭良いわよね」
「ほんと、とか実は、とか、いつも引っかかるんだけど、ローザの中の僕ってどんなんなのさ?」
「んーー。王子様みたいに綺麗で格好いいのに、大事なところでミスしてる、どこか抜けてて可愛い……あ、子犬みたいな感じ?」
褒められては喜び、けなされては哀しい顔に、くるくると表情を変えるベルナルドにローザは小さく吹き出す。
「やーねぇもう。褒めてるわよ?」
「手放しで喜べないんだよ」
「でも、そうね。ベルナルドの言っている事は当っているわよ。マンマレジーナのお力添えがなきゃ、その花を咲かせることは無理だったわ。〝魔女の街〟の土や気候も合ってた。だから、あたしはインセットの一員になったの」
「ローザらしい」
「インセットのみんなもそう言ってたわ」
肩を竦め、苦笑して言っていたベルナルドの顔が変わる。
「あれ、もしかして、インセット以外は誰も知らない?」
「そうよ。ベルナルドだから教えたの。内緒にしておいてね」
「……へぇ。じゃぁ、その花がどんな花かは」
「さすがに教えられないわ。でも、咲いたら見せてあげる」
「本当に? いいのか?」
ベルナルドはカウンターに手を置き腰を曲げると、ローザと視線を合わせる。
「えぇ。咲いたら、ベルナルドのおかげだもの」
「僕の?」
「……教えてくれたでしょ。あたしは決めつけて考えすぎだって」
「いや、あれは……」
口を挟もうとするベルナルドを、ローザは首を横に振って止める。
「いいの。あれのおかげでね、花の事も考え直せたわ。ずっと、花が咲く季節や環境を決めつけていたの。同じ種類の花と同じ季節なんだ、書き残されていた資料も、これの事に違いない、って。でも、違うかもしれないって思えた。ね。ベルナルドのおかげでしょ?」
どこか寂しそうに笑い言うローザに、ベルナルドはかける言葉が見つからず、ただ、ローザの名を呟いた。
「ありがとうね。ほんと、ベルナルドには色んな事を教えて貰ってばっかりで。ベルナルドはあたしの大事な…………、友達だわ」
「ローザ……」
言葉を溜めた事で期待したのだろう。ベルナルドがっくりと頭を落とし、ごん、と大きな音を鳴らす。
「っ。そこは。せめて、もうちょっとこう、さぁ」
身体を震わせ、声を絞り出して言う。その、あまりに悲痛な声に、ローザは引きつった顔で笑うしかできなかった。
※ ※ ※
馬の蹄音と車輪の廻る音だけを耳にし、ローザは1人荷馬車を操る。秋晴れの空には薄い雲が川のように流れていた。
「風が強いのかしら。お山はすっかり茶色くなって。……あら、あれは……」
葉の落ちきった山を眺めていると、その向こうに何か違う色が見えた気がし、ローザは眼を細める。じっと見つめていると、茶色の山と青空の間にもわもわとした灰色の雲があった。青空に滲むように、どんどん広がっていく。
「雨……ううん、雪になるのかしら。ちょっと急いで行きましょう」
ローザは手綱を波打たせる。ぱしん、という乾いた音と共に馬の足が速くなった。
ぱちん、と暖炉の薪が弾け火の粉が舞う。
教会の花々を受取り、木々や花畑の冬支度を手伝ってきたローザが郊外の教会へやってきたのはもう、夕暮れ時だった。教会のシスターは勿論、教会で世話になっている人や子供達も手伝ってくれたおかげで、大きな木の冬囲いは終わらせられたのだが、片付けまでした頃にはすっかり日が落ちてしまう。
山の麓にある教会付近は野犬や狼、熊などの野獣が多い。しかも今は初冬。冬眠前に少しでも多く食べ物を蓄えたい獣が殺気立っている時期である。暗い夜道を女一人で帰すのは当然ながら、危険だとわかっていて行かせるわけにはいかないとシスターに強く言われ、ローザは教会に一泊する事となった。
客人としてもてなされ、ありがたくも暖炉に火まで入れて貰えたローザだが、何もしなくて良い時間の訪れに戸惑っていた。
「やる事が無いのは、苦手なのよね」
変なことを考えるから、という呟きがとても小さく続けられる。
ローザに与えられた部屋は広い。手足が伸ばせるベッドに水差しの置かれたサイドテーブル、ティーセットも揃っているキャビネット、背の低いテーブルとそれを挟み向かい合う1人掛けのソファ。どれも長年使い込まれているようだが、とても綺麗に手入れされており、貴族の様な偉い人の為の部屋なんじゃないだろうかと不安になる。
ベッドに腰掛けぼうっと暖炉の炎を眺めていたローザは、荷物に本がある事を思い出し、鞄を開ける。以前、文字の読み書きを勉強している、とシスターに話した時に貸して貰えた本だ。
「最後にもう一度、読もうかしら」
寝るには早すぎるし、何時もより動いていないからか眠気もない。ローザはソファを暖炉の前に移動させて座ると、ぱらりとページを捲る。炎の灯りが本の文字を浮かび上がらせた。
『始めに、神は天地を創造された』
教会の本はどんな内容の本であっても、必ずこの一文で始まっている。本の中身が相反する物も多いが『神が世界を創られた』という、この部分だけは共通だ。幼少時にも何冊か教会の本を読ませて貰い、この一文は何度も読んで覚えている。子供ながら『世界』という言葉になんだか大雑把に括ってる様な、という印象を持っていた。だが、故郷を離れこの街にやってきた事で、ローザはやっと『世界』という括りを理解する。
世界は広すぎた。
広すぎるから『世界』と括るしかないのだ。
隣の村、隣の町。その隣には国が並び、その向こうにも国がある。海や山もある。
家から外へ出れば、何処までも続く草原を駆け回った。裏山で迷子になった時は歩いても歩いても森が続き、この森はなんて広いんだいつまでも出られないと、大泣きした事だってある。
それよりも『世界』は広い。
故郷からこの街までの間、いくつかの国を通り抜けてきたが、たった三年の間に無くなった国もあり、新たに建国されたところもあるという。
「広すぎて見えないだろうけれど、そこに在るんだよ、って伝えてるのよね。この一文は。自分以外の、自分も知らない人と国は遠くで生きているんだよって」
身近な人とすら距離を置いていたローザには、遠い異国の見知らぬ人の事など、理解できようもない。もの悲しい気持ちになったローザを励ますように、ぱちっと火の粉が上がる。続いて、ドアをノックする音が聞こえた。
「あ、はい」
ローザはソファに本を置くと小走りでドアにかけよる。扉を開けると蝋燭台を持ったシスターが立っていた。
「こんばんは、ローザ。ごめんなさいね。キャビネットにお茶の葉を置いていなかったでしょう? よかったら少しお話でもしようかと思って、一緒にクッキーも持ってきたの。どうかしら」
蝋燭台を持ったのと逆の手には紅茶箱と、薄いピンク色のリボンが結ばれた小さな白い袋がある。トレーに乗せず手に持ってきたという事は、親しい友人として部屋を訪れたという、シスターの意思表示だ。
「わぁ、嬉しい。どうぞ、今お湯を沸かしますね」
「あら、ありがとう」
ローザは扉を大きく開けシスターを招き入れる。キャビネットからティーセットを取り出し机に運ぶと、シスターは紅茶箱を開け、中から茶葉と小さな小瓶を取り出した。
「ローザに頂いたラベンダーのチンキも持ってきたのよ」
「お役にたってます?」
「勿論よ。紅茶に少し入るだけで良い香りだし、ぐっすり眠れるの」
「よかった」
ローザは小さなケトルを暖炉にかけ、ソファに座ろうとして置いたままの本に気がつく。本を持ちソファへ腰を下ろすと、シスターが話しかける。
「その本、どうだったかしら」
「面白かったです。神様が少し身近に感じられました」
「身近に?」
「えぇ。こんな言い方、良いのかどうかわかりませんけれど、なんだか、神様というより、あたしたちと同じ人っぽい感じがして」
「受け取り方は人それぞれ。私もいろんな方の考えを伺ってきました。けれど、ローザの思いは初めて聞きます。良かったら、どうしてそう思ったのか教えてくださるかしら。今後の参考にしたいのだけれども」
優しく頬笑んで言われ、ローザは肩を竦ませる。
「そんな、あまり良い受け取り方ではないかもしれませんし、お役にたつとは思えないのですが」
「いいえ、そんなことはありませんよ、ローザ。ローザと似た考えを持っている人は、きっといます。私が今まで会えなかっただけ。でも、これから先。いつか助けを求めて教会の扉を叩いた人が、ローザと似た考えを持っている人が訪れたとしたら、今日のお話が役に立ちます。人を1人、苦しみから救う事ができるのです」
優しく諭すように言われ、ローザははっとする。
ベルナルドに言われてからというもの、ローザはいつもと違う行動を起こしていた。だが、今は無意識のうちに自分の考えなど役に立たないからと決めつけ、シスターの願いを拒否している。身に染みついた考え方はそう簡単に変えられるものではない。なれど、ローザは今、気がつけた。ベルナルドから教えて貰い、シスターが導いてくれている。
「……そうですね、知ってからじゃないと、わかりませんよね。えぇと、」
ローザは本を膝の上で開き、適当にページを捲る。
「この本は挿絵も多くて、子供向けだと思いました。それか、読み書きのできない人の為の本。内容もこの教会の信仰を伝えるというより神様が何をし、どういう存在なのか、今はいないと言われている魔女がどういう存在かを教える本、です」
「ふふふ、そんな畏まらなくていいのよ。でもローザの言うとおりです。その本はあの街で生きねばならない人には必ず見せる本なの」
「はい。他に読んだ本でも〝魔女〟の事は書かれていましたが、この本ほど詳しく書かれていなかったと思います。とくに〝魔女〟も神様がつくった〝人間〟だというのは、はっきり書いてなかったと思います。それで、身近に感じたのが、ここです」
ローザはぱらりとページを捲り、挿絵を指し示す。
「あぁ、世界を創り、動物を創った神様が〝人間〟を創ろうとしたけれど、何回も失敗しているところね」
シスターがくすりと笑い言う。かたかたとケトルの蓋が震え、ローザは机に本を置き茶葉を入れたティーポットにお湯を注ぐ。紅茶の香りがふわりと広がった。
動物が増えた頃、神様は物足りなさを感じたと、本には書かれている。動物の世界は弱肉強食、その姿は正しいと思うが、多種族とも仲良くできないものかと悩む。同時に、神様も家族が欲しくなったともあった。
そこで自身で考え物を創る〝人間〟を創造しようとしたが〝人間〟はうまく産まれない。
「動物の親子が同じように、神様も自分と同じ〝人間〟を創ろうとした。けれど、神は全知全能で〝人間〟にはなり得ず、故に〝人間〟は神とおなじ全知全能では産まれなかった。今もよくわかっていないんですけど、これって神様には性別がなかった、という事でいいんですよね?」
紅茶を蒸らす間、ローザは机に置いた本を眺め言う。本の内容を覚えているのだろう、シスターは何事もなく質問に答えてくれる。
「その解釈であっているとおもいますわよ。動物が番で子を産むのにならい、神様は〝人間〟に男女という性別を与えたのですから」
「それでも、〝人間〟はまだ産まれなかった。動物と同じ様にしたのにどうして、ってまた悩んでいると書かれていて、この失敗して悩んでいるっていうのがすごく〝人間〟らしいなって思っちゃいまして」
控えめに笑い言うローザに、シスターも笑い返す。紅茶をカップに注ぎ入れ、ラベンダーチンキを数滴垂らす。紅茶の芳しい香りに心に安らぎを与える香りが混ざった。
「諦めず長い時間をかけて考えた結果、神様はまた〝自分が全知全能である事〟が問題だと気がつき〝人間〟を2つの種類にわける。片方には自然の力を借りて魔術を使えるように、もう片方には自然の物を加工できる技巧を与えた。この自然の力が〝エーテル〟の事、なんですよね」
「えぇ。〝エーテル〟は〝魔女の遺産〟だと言われているのもそこからきていますね。〝人間〟が産まれたばかりの頃には技巧の人も魔術の人も共に生きていたのですから、全て等しく〝人間〟であった筈です。諸説ありますが〝エーテル〟を扱える人が減り続け、女性ばかりが残った事から魔術を使える女性を〝魔女〟と呼ぶようになったのでしょう」
「〝エーテル〟を扱える女は〝魔女〟」
冷たさを感じる声で言いながら、ローザは本のページを捲る。
「そうなるとローザもわたしも〝魔女〟になってしまうわ」
「……ラチェレの錬金術師は男性が多いですから、女性だけというわけではないのでしょうけど、今更、呼称を変えるのは無理なんでしょうね」
少し、哀しそうにローザが言う。
「ローザの故郷では、赤毛は忌み嫌われていたわね」
「…………はい」
「〝魔女〟はお嫌い?」
「その質問、メルにもされました。だけど……。どう、なんでしょうか」
ローザは暖炉へと顔を向ける。
「〝魔女〟は悪魔だ、死を呼ぶ物だと言われていた時代に、あたしの故郷でも〝魔女〟は火刑にされていました。赤毛の女は火刑にされた〝魔女〟だと、今でも言われています。〝エーテル〟が使えなければ少しは良かったんでしょうけど、あたしは普通に〝エーテル〟が使えてましたから」
見えない壁の存在を感じ続けて生きてきたローザは、自然と自分から距離を取るようになっていた。『世界』が先に自分を拒絶するというのなら、先に自分から距離を取ろう。その方が傷つかずに済む。深く踏み込まなければ良いという自己防衛でもあった。
ゆらりと大きく、炎が揺れる。
「誰も、言いはしないんです。ローザは〝魔女〟だって。でも、態度や視線が言うんです。ローザは〝魔女〟だ、って。それがすごく、拒絶というか壁を感じていました。〝エーテル〟が扱える子は便利だし、作物は良く育って豊作になる。家族も優しいけど、子供ながらに良いように使われている気がして、1人で森にいる方が好きでした。それも、ローザは〝魔女〟だからって思われちゃう原因だったんでしょうけど」
はぁ、と大きく息を吐き、ローザは少し俯く。
この〝魔女の街〟に赤毛を忌み嫌う人はいなかった。しかし、拒絶とまではいかなくとも、余所者であるローザを警戒する壁は感じ取れる。だから、ローザは村と同じ様に生きていた。しかし、警戒心というその壁は年々薄くなり、低くなり、消えていく。故郷と違い、〝魔女の街〟の住人はローザをちゃんと受け入れてくれたのだ。だが、理解できたとしても自分で創り上げたローザの壁は、なかなか壊す事ができないでいた。
その壁を越えるきっかけになったのは、もちろん、ベルナルドだ。
ローザはベルナルドと初めて会った時に何を話したのか、覚えていない。しかし、ベルナルドの事はよく覚えている。
拒絶の壁はおろかローザの壁すらぶち壊し、全身全霊で好意を伝えてきた。他者からの好意は勿論、あったばかりの異性に交際を申し込まれたのも初めてだし、なにより、ベルナルドの外見はローザが昔読んだ挿絵の〝魔女〟にそっくりだったのだ。
透き通った空の様に青い宝石の様な瞳、真っ直ぐな黄金色の髪はさらさらと風になびき、それを留める青いリボンも色鮮やかに描かれていた。夢にまで見たあこがれの〝魔女〟が目の前にいて、自分を好きだと言ったあの瞬間は、まさに夢心地だった。
ローザは初めて出会ったあの日にベルナルドという〝魔女〟に心を奪われている。
とっくの昔に、あの男を愛しているのだ。
ローザは顔を上げ困ったような笑いをシスターに向ける。
「〝魔女〟は、嫌いじゃありません。前はちょっと苦手に感じる事もありました。〝魔女〟がいなければ、自分も〝魔女〟なんて思われないのにって。でも、憧れてもいました」
「ローザにとって〝魔女〟はとても大きな存在なのね。この街に来たのも、そのせいかしら」
「はい。それに」
マンマレジーナがローザの元にやってきた大きな要因の1つも〝魔女〟である。〝赤毛の魔女〟という呼称を耳にしたのは偶然だろうが、遠い異国の事を耳にするくらいなら、余程面白い物を持っているのだろうと思われる。
〝魔女〟という名に振り回されてきたローザに新たな道を指し示したのは〝魔女〟だった。そして――
「あの花を咲かせるのなら、やっぱりここだと思います」
故郷を捨て1人で生きる決断をローザにさせたのもまた、〝魔女〟であった。
「奇跡と呼ばれた〝魔女の花〟を咲かせるのは〝魔女の街〟が相応しいです」
かたん、と燃え盛る炎の中で薪が崩れる。
ローザが本を閉じ手に取ると、ひらりと1枚、用紙が落ちる。
「あら、なにかしら」
足下に飛んできた用紙をシスターが拾い上げると、折りたたまれた用紙が開かれる。うっすらと罫線のついた用紙はメモ用紙か、タイプライターに使われる原稿用紙だろうか。しかし、そこには文字が1つもない。記号か図系か、それとも模様なのか。よくわからないものが描かれている。その中の1つだけ、青い色が付いていた。
罫線のある用紙を使った覚えのないローザは、その用紙を使う人物に心辺りがある。
「……やだ、それベルナルドのかしら。大事な物じゃないといいんだけれども」
「お仕事の物だったら大変ね。これはローザからお返ししてください。それと、中は見なかったことにいたしましょう」
「すみません。ありがとうございます、シスター」
ローザの言葉に、シスターは静かに頬笑んだ。