その名は〝奇跡〟
花園の館に爽やかな風が通り抜けるたび、あらたな香りが広がっていく。
ローザが乳鉢に入れた岩塩の塊を乳棒でごりごりと砕いていると、ヘルモーサが近寄ってきた。
「ローザ、寝起きにすっきりできる香りってある?」
「寝起き?」
「夜が蒸し暑いじゃない? そのせいか、寝付きも悪いしすっきり目覚められなくて」
「うーん、そうねぇ、ヘルモーサは起きたらシャワー浴びる人だっけ?」
ごりごり ごりごり
「夏だから水は浴びたりするけど、シャワーは使わないわねぇ。あるんだから使っていんだろうけど、お風呂もシャワーもどうも、贅沢品すぎて」
「あはは、わかる」
「なになに、なんの話?」
楽しそうな会話に惹かれ、クラウディアがやってくるとヘルモーサがもう一度同じ事を伝える。
ヘルモーサを始め、娘達の殆どはマンマレジーナが用意したアパートメントに住んでいるが、ローザはマンマレジーナの館に住み込みだ。館に、といっても本館ではなく離れにある小さな小屋で、そこにシャワーは付いていない。風呂とシャワーを使いたい時は本館にある使用人用のを間借りしている。
インセットのボス、マンマレジーナが『女性は美しくあるべきよ』というモットーなため、アパートメントにはシャワーや風呂が付いている。だが、入浴の習慣がある娘はあまりいなかった。というよりも、水が豊富な国でも暖かいお湯で身体を綺麗にするのは貴族や金持ちくらいの話なので、気持ち良さよりも贅沢すぎる行為への心苦しさが勝ってしまうのだ。
ローザが作っているバスフィズもマンマレジーナや高級住宅街に住むようなご婦人が主に注文する。アロマクラフトの練習で作ったバスフィズを実際に使用した時は、皆たしかに香りも良いし気持ち良かったというのだが、やはり、入浴の敷居は高いままだった。
バスフィズは岩塩を粉々に砕き、重曹、クエン酸、コーンスターチ、ハチミツと精油を混ぜて固める入浴剤だ。お湯を張った浴槽に入れるとしゅわしゅわと泡立ち、香りが広がっていく。最近では固める時にプティングやマドレーヌの型に押し込み、見た目も可愛らしくしている。
「朝にすっきりする香りかぁ。なにかあるの? ローザ」
興味を持ったクラウディアがローザへと声をかける。
「ローズマリー・シネオールと柑橘系精油を合わせたらいいと思うわよ。シャワーを使わないなら、暖かいお湯に落として香りを広がらせるといいかな」
「柑橘系っていうと、オレンジスイート、グレープフルーツ、レモン、あとベルガモット?」
ヘルモーサが思い出しながら言うとローザは頷く。
「シャワーなら床に垂らしてお湯をかけてあげれば、一気に香りが広がってもっと良いと思うけどね。まぁ、お湯で試してみて気に入ったらやってみるといいんじゃないかしら」
「そうね、ありがとローザ。家にある柑橘系精油で試してみるわ」
「うーん、起きてからもいいけど、寝る前にこう、寝付きを良くするっていうか、寝苦しい夜を快適にできそうな香りを使った方がよくない?」
「それもそうだけれど、え、そういうのある?」
クラウディアの素朴な疑問に共感したのか、ヘルモーサがローザをみる。
「香りはもう、その人が感じたイメージとかが強いし、好きな香りを使えばそれでいいんだけれど。うーん、そうだなぁ。ヘルモーサは花の香りが好きだったわよね」
「そうね、樹木系や草っぽいのより花の香りがいいわ。あと柑橘系」
ローザは砕いた岩塩を容器に移し、乳鉢に新たな岩塩を入れるとまたごりごりと砕き出す。
「じゃぁネロリとフランキンセンスとレモン、かな? ヒヤシンスに近い香りだったと思う」
「いいわね、さっそく今夜にでも試してみようかしら」
言いながら、ヘルモーサはエプロンのポケットからメモを取り出し、精油の名前を書いていく。
「ねぇローザ、私は花より草っぽい香りの方が好きなんだけど、それ系では無い? 夜に使えそうな精油の配合」
「草かぁ、草……」
ごりごり ごりごり
「ネロリとサイプレスとラベンダーで、草、というより水と緑がいっぱいの場所って感じだったけれど」
「ふぅん、森の中に小さい滝がある川辺とか、そういう?」
「そうそう」
「涼しいイメージにはなりそうね。とりあえず試してみるわ」
「そうね。一度試して、そこから好きな香りを足したり他の精油と変えてみたりして自分好みの香りを見つけてね」
「ハーブの隣はなんだったかしら。あ、レスティカーナ丁度良いところに」
「ただいまぁ、あらぁ、なぁに?」
作業部屋の入り口に立つレスティカーナを見つけ、クラウディアが呼びかける。レスティカーナは右手にヘルモーサ、左手をコーデリアと繋ぎ歩いてくる。
「香りって7種類に分かれてるわよね。ほらあの、7種類の精油を円形に並べた図系。ハーブの隣ってなんだったか覚えてる?」
精油は抽出した植物の種類や香りなどにより、7種類に分類される。同じグループの精油は相性が良くブレンドするのに向いており、ローザも初めの頃は同じグループの精油を混ぜ合わせ、自分好みの香りを捜していた。次に相性が良いのを捜すのに使うのが、クラウディアのいう〝精油を円形に並べた図系〟だ。
精油のグループはハーブ系、柑橘系、フローラル系、エキゾチック系、樹脂系、スパイス系、樹木系と並び、またハーブ系へと戻る。
このように7種類のグループを円形に並べると、隣り合うグループは混ぜ合わせる相性が良い並びになっている。これも長い歴史の中で先人達が見つけ、残してくれた物だ。
この図からいけば、クラウディアの求める精油は樹木系と柑橘系になるのだが――
「クラウディア、あなたの配合だとハーブじゃなくて樹木とフローラルじゃない? そうよね、ローザ」
「え、うそ」
「そうね、サイプレスは樹木でネロリとラベンダーはフローラル系になるわ」
ほらね、ヘルモーサがクラウディアを見ると、クラウディ顔を手で覆う。
「やだぁ、草っぽい香りをお願いしてたから、てっきり」
「なんのおはなし?」
「おべんきょう?」
「ローザに目的にあった香りがないか聞いていたのよ。寝起きがスッキリするとか、寝苦しい夜が快適になりそうなのとか」
ヘルモーサの言葉に、コーデリアとシベールはぱぁっと顔を明るくする。
「いいないいな、コーデリアもほしい」
「ほしいほしい!」
「いいわよ、どんなのがいい?」
「「どんなの」」
身体を軽く跳ねさせ、興奮気味に言っていた2人は目的を聞かれた瞬間、ぴたりと止まる。
「んん。もくてき。やりたいこと。んんん」
「あ、おべんきょ! おべんきょがいっぱいすすむのがいい」
「コーデリアもそれがいい!」
「お勉強が捗る……。なら、集中できるのかしら。そうねぇ」
ローザはまた砕いた岩塩を容器へ移し、新しい塊を乳鉢に入れる。その間にコーデリアとシーベルは机の下から椅子を引っ張り出して座ると、メモ帳を机に広げペンを握った。期待に満ちた顔でローザを見る。
「ペパーミント、と、ローズウッドかな。あたしはすっきりさっぱり、気分の切り替えに使ってた」
「あまいかおりのはないの?」
「甘いのなら、タイム、フェンネル、ベンゾイン・レジノイドがいいわよ。生地にハーブを塗り込んだバターたっぷりのタルトみたいな香り」
「あらぁ、美味しそうねぇ」
「レスティカーナも何かある?」
「そうねぇ、なにがいいかしらぁ」
のんびり口調と同じく、レスティカーナがゆっくりと思考を巡らせていると、クラウディアがちょっとした疑問を聞く。
「そういえば、ローザはどこでその香りを覚えたの? まさか全部の精油を試していた、とか?」
「自分で試したのもいくつかあるけど、殆どは実家にあった本からよ。あたしの故郷じゃ精油を使うのは普通だったから、どの家にも代々伝わる配合レシピがあったわ。ただ、精油を扱う人が少なくなって、あたしの家に殆ど集まってたらしいけど」
「じゃぁ今の配合レシピとか、前に鼻がぐずぐずの時にはユーカリが良いって教えてくれたのとか」
「そう、何百年も前から伝わってた事だから、お薬と近い感じね」
ローザの言葉にクラウディアとヘルモーサは感嘆の溜息を漏らす。コーデリアとシベールはぴんときていないようで、きょろきょろと大人の顔を見比べている。
「すごいわねぇ。おなか痛い、とかイライラする、とかにも良いのがあるの?」
「うん。でも効果があるかどうかも、その香りが好きかどうかも個人差があるのは、変らないわよ」
「それでも試してみて楽になるなら嬉しいわ~。好きな香りでリフレッシュできるなんて最高だもの」
ヘルモーサの言葉に皆が頷いていると、ぽん、と手を叩く音が聞こえる。音のした方を見れば、レスティカーナが胸元で両手を合わせていた。
「きめたぁ」
「あら、決まったのねレスティカーナ。珍しく早いじゃない。それで、どんな香りがいいの?」
クラウディアが茶化すようにいうと、レスティカーナは思わせぶりに頬笑む。何かを企んでいるような、ちょっと
悪い事を考えているようなそんな笑顔だ。
ごりごり ごりごり
「男の人をときめかせるような香りがいいわぁ」
ごっ、と乳鉢の動きが止まる。
「あ、いいわねそれ。ねぇクラウディアもそう思うでしょ?ね、ね、ローザ。どうなのよ。そういうのはあるの?」
「あるわよね、だって代々続く配合レシピなんだもの、恋煩いは永遠の課題、ないわけがないわ」
「あなたたち、本当に好きねぇ」
「いいから、どうなのローザ。あるの? 無いの?」
「あるにはあるけれど」
困惑した顔でローザはコーデリアとシベールを見る。2人は大きな目をきらきらとさせていた。
「大丈夫よぉ、コーデリアもシベールも良い子だからぁ。ねぇ」
「ちゃんとつかうときはいうから!」
「いうから!」
幼くともいっぱしの女、というところか。
「催淫作用のある香りがあってね。ソレを使うといいわ」
「さいいんさようってなぁに?」
「男の子がシベールにドキドキするって事よ」
「どきどきするの? ティノもどきどきしてくれる?」
「勿論よ。それでローザ。その香りは」
5人は溢れんばかりの期待を抑えられず、前のめりになってローザの言葉を待つ。
「イランイラン、ローズオットー、ネロリ、が一番多かったわね」
「うーん。その3つだけだとぉ、ちょっと思いつかないわねぇ。何か配合レシピはないのぉ?」
「そう、ねぇ。レスティカーナになら」
「あらぁ、私にじゃなくっていいのよぉ?」
「ええええぇぇぇ、それ、えぇぇぇ」
「だってぇ、クラウディアもヘルモーサも、コーデリアとシベールだって使うんだもの。ねぇ~」
こくこくと頷く姉妹達にローズは引きつった笑いを見せる。
「じゃぁ、幾つか言うわね。1つ目はフェンネル、ローズマリー、ローズオットー。皆も好きそうな清々しくて柔らかい香りだったわ。二つ目は、イランイランとクローブ。ヴァクトマイステル夫人が好きそうなスパイシーな香りよ」
ローザは一呼吸おき、メモを取り終えるのを待つ。皆が精油の名を書いたのを確認し、ローザは続きを言う。
「シナモンリーフ、パチュリ、ローズオットー。これはソープの香りっぽかったかな。あぁ、入浴後の香りにも似てるかも。最後、四つ目はネロリ、フランキンセンス、ヘリクリサム。これはワインを熟成させている樽の香りに似てたと思うわ」
「ありがとう~。いろいろあるのねぇ」
「ワインの樽……パブには向かないかしら」
「スパイシーなのは苦手だけど、あのヴァクトマイステル夫人が好むのなら男受けはいいのかしら」
「ためすの? いまする?」
「コーデリアもかおりかぎたい」
クラウディアとヘルモーサは顔をつきあわせ真剣に考えだせば、興味津々なコーデリアとシベールが2人のスカートを引っ張る。その姿にローザはまた小さく溜息を漏らす。
「ほんと、好きねぇ」
「ローザもぉ、好きにしていいのよぉ?」
「好きにしてるわよ」
ローザは応えると同時に乳棒を動かし、岩塩を砕き出す。
「あたしはこうしているのが一番、好きなんだもの」
今度はレスティカーナが小さな溜息を漏らした。
※ ※ ※
夜のメインストリートに響く馬車音が闇夜に溶け込んでいく。暗闇に向かって礼をしていたローザとレスティカーナは頭を上げると顔を見合わせ、少し疲れた顔で笑い合う。
からんからん
「今日はぁ随分とお客様がいらっしゃったわねぇ」
ドアベルを慣らし、店内に戻るなりレスティカーナが言うと、ローザはこくこくと何度も頷いた。
「ほんと、花束のご予約が多い日ではあったけど、立て続けに来るなんて、びっくりしたわ」
驚きを隠しきれない様子のままローザはすっかり彩りの消えた店内を見る。いつもならもう少し店内に花が残っているのだが、今日は数本の花がバケツにあるだけだ。壁に飾っていたリースやカウンターに置いてあった小物類も、殆ど姿を消している。
「早いけれどぉ、今日はもう店じまいしましょうかぁ」
「わかったわ。表のランタン片付けるわね」
「おねがいねぇ」
ドアベルを鳴らし扉が開かれると、夏の夜特有のむわりとした空気が押し寄せる。湿度の高い空気に息苦しさを感じたローザがうっと声を漏らす。
「くっ、なんだいローザ。蛙を踏みつぶしたみたいな声だして」
「会うなり失礼ね、ベルナルド」
「出てきていきなりそんな声出してきたのはローザじゃないか」
くつくつと楽しそうに笑い言うベルナルドにローザは不機嫌そうな顔を向けるが、これがベルナルドではなく他のお客様だったら、そう思うとこれ以上強く文句も言えない。ローザは諦めの溜息をつくと店の扉を閉め、壁に吊されたランタンへと手を伸ばす。しかし、ローザの指がランタンに触れる前に、後ろから伸びた手がひょいとランタンを取り上げる。
「え、もしかしてもう店じまい?」
驚いた声で言いながら、ベルナルドは手にしたラタンをローザへと差し出す。ランタンを受取ったローザは少し長くベルナルドを見上げる。ベルナルドが不思議そうに目をぱちくりと瞬かせると、ローザはそっと店の扉を引く。
暗闇のメインストリートに店の灯りが伸びる。中を見ろと言われた気がしたベルナルドは一歩横にずれ、扉に手をかけて店内を覗き込む。
「うっ…………わぁ。この店にこんなに花がないの、僕、初めて見た」
「あたしもよ。ここのところ注文も多かったんだけど、今日はすごかったわ。あ、ランタンありがとうね」
「どういたしまして。ん。やあ、レスティカーナ、こんばんは。レスティカーナがこんな遅くまでいるのも珍しいね。注文が多かったから、2人だったのか?」
店の奥にレスティカーナの姿を見つけたベルナルドは声をかけながら店内へと足を踏み入れる。その後を追いかけるようにローザも店内へと戻り、扉が閉じられた。ドアベルの乾いた音に顔を上げたレスティカーナが少し驚いた顔をベルナルドへと向ける。
「あらぁ、ベルナルドぉ。見ての通りぃ、今夜はもう終わりよぉ?」
「みたいだな。こんな状態の店は珍しいし、少し見せてくれよ」
言いながら、ベルナルドは店内を進みカウンターの椅子へと座る。返答を貰う前に居る気まんまんじゃないかと呆れながら、ローザはほうきを手にし、店内の床掃除を始めだす。
「それは構わないけれどもぉ、楽しい事はないと思うけどぉ?」
「僕はローザがいる場所ならどこだって楽しいよ」
「あらあらぁ」
背中に感じる視線を無視し、ローザは床に落ちた葉や花弁を集めていた。
「これだもん。つれないよねぇ。もうちょっと愛想良くしてくれたって良いと思わない?」
「ん~。ベルナルドもお花を一輪買ってみるぅ?」
レスティカーナは落ちていた花を指先でつまみあげ、ベルナルドに見せる。爪で簡単に切れる細い枝先に、小さな白い花を咲かせるカスミソウだ。しかし、レスティカーナが手にしたのは花束を作る際に切り落とされたものなので、たった1つ、花がついているだけだ。
「買うのはいいけど、花をあげたいのはローザだよ? ローザが育てた花をローザから買ってローザにあげるって、なんか変じゃないか?」
「それもそうねぇ」
レスティカーナは指を動かし、カスミソウをくるくると回す。
「ね? かといってローザが喜ぶ薬草誌なんて僕には手が届かないしさぁ」
「薬草誌はぁ、シーギスムンド様から頂いているわねぇ」
「あぁ、パヴォーネの」
その、何気ない会話の中で発せられた声に違和感を感じたローザは掃除の手を止め、ベルナルドを振り返る。何を言うわけでも無く、じっと視線を送られたベルナルドは顔を少し引きつらせた。
「ん、なに? ローザ」
「そういえば、今日パヴォーネのヘンリク様とシーギスムンド様がご来店の予定だったけど来なかったな、っていうのと、ここのところパヴォーネのお客様が多いな、って。そう、思っただけよ」
思っただけなのだが、何かがひっかかる。からっぽのバケツが並ぶ中に残る花を見つめ、ローザは指先でくるくると赤毛を巻きだした。
「ベルナルドはぁ、今日はもうお仕事ないのぉ?」
「え、うん。別になんの予定もない。から、ローザに会いにきたんだけど」
「そっかぁ。そっかそっかぁ」
明るくのんびりとした声で、1人何かに納得したように言うレスティカーナにベルナルドは苦笑する。
「僕の情報は高いよ? レスティカーナ」
「そうねぇ。お高いわねぇ。どうしようかしらぁ」
「値段だそうか」
「でもぉ、きっとぉ、私には動かせない金額なのよねぇ。だからぁ」
言いながら、レスティカーナは雑巾をバケツに落とし、エプロンを外し出す。レスティカーナの行動にローザの指が止まる。
「ローザがお店のお片付け終わるまでぇ、私のかわりにここに居ていい、でどうかしらぁ?」
レスティカーナの提案にローザもベルナルドも目を丸くする。
「ち、ちょっとレスティカーナ」
「足りないかしらぁ?」
言葉を失い、苦悶の表情を浮かべるベルナルドにレスティカーナは追い打ちをかける。
「ぐっ……も、もう一声」
「ベルナルド! なに言ってるの!」
「しょうがないだろ! 金なら他でも稼げるけどローザと一緒に居ていいっていう許可はここでしか貰えないんだから!」
「そん、そんな必死になる事じゃないでしょう!」
「必死になるんだよ! レスティカーナがローザとここに居るっていう交換条件を出してきた以上、ローザだって僕を追い出せないんだぞ! レスティカーナ、もう一声ないの。ないなら僕だって相応の情報しか出せない」
大きな声で言い合う勢いに任せたまま、ベルナルドは噛みつくような視線をレスティカーナに向けた。
「あらあらぁ、じゃぁお店が終わったらローザをお屋敷まで送り届ける、も付けるわぁ」
「のった。成立だ」
ほうきを投げ出したローザはカウンターに駆け寄るとばんっと掌をたたきつけた。
「レ、レ、レスティカーナ、あな、あなた何を言っているの」
「ごめんねぇ、ローザ。大丈夫よぉ、ベルナルドなら安心だからぁ」
「大丈夫とか安心とかじゃなくて、どうしてこんな」
ローザの言葉が止まる。少し怯えた瞳は〝どうして金の代わりにローザを売るような真似を〟と言いたげだ。しかし、レスティカーナはまったく変らない笑顔のまま
「ベルナルドが教えてくれるわぁ」
と、ベルナルドを見やる。
「……ま、しょうがないか。しょぼくれてるローザとずっと一緒なのは僕も嫌だし。パヴォーネは最近大型の〝エーテル〟機械を手に入れてね、少し前にマンマレジーナの仲介でラチェレと交渉したんだ」
はっとし、ローザが顔をあげベルナルドを見ると、ベルナルドは口端を持ち上げてにやりとした笑みを浮かべる。
「あの日ローザが選んだ花はガザニアだったっけ。交渉は難航していたらしいけど。その大型の〝エーテル〟機械をここ最近、頻繁に動かしている。パヴォーネの動きが慌ただしいのはそのせい」
「えぇ? 〝エーテル〟機械を動かしたくらいじゃ、慌ただしく花束を贈る意味にならないじゃないの」
眉根を寄せ、疑わしそうにローザが言うと、ベルナルドとレスティカーナは困ったような顔を見せた。
「……あたし、何かわかってないのね」
「ふふふ。あとはお願いねぇ、ベルナルド」
「大損だけど、まぁいいか」
「あ、いってらっしゃい、レスティカーナ。また明日」
レスティカーナは扉に手をかけたまま振り替えり、嬉しそうに応える。
「はぁい。また明日ぁ」
レスティカーナが残していったドアベルの音がだんだんと消える中、ローザは溜息を漏らす。
「そこまでしょんぼりされると僕もしょんぼりしそうなんだけど」
ローザが店内の掃除を再び始めると、ベルナルドがふてくされた様に言う。
「別にベルナルドと一緒にいるのが嫌なわけじゃないわよ」
「え。本当? それ」
「嘘いってどうするの。単純に、あたしはまだまだ未熟なんだなってがっかりしてるだけよ」
ローザは集めたゴミを端に寄せるとカウンター端の仕切り板が閉じない様に固定し、ほうきを壁に立てかける。
「僕の情報の意味が解らなかったから?」
ローザは花の無くなったバケツの水を1つのバケツに集め、空バケツを重ねていく。水を集めたバケツへと僅かに残った花を全て移動させ、同じ様にバケツの水を一カ所に纏めては空っぽのバケツを重ねていった。かんかんとバケツのぶつかる音が店内に響く。
「そーーーーよ。そりゃ身売りされた感じでショックだったのもあるけれど、レスティカーナは意味もなくこんな事しないもの。〝レスティカーナはどうしてもベルナルドの情報が必要だった〟のは解るの。でも〝なんでその情報を必要だと思った〟のかも、ベルナルドの情報の意味もあたしはなんにもわかんなかった」
自分自身への不満を言いながら、ローザは重ねたバケツを持ち上げ裏手へと運ぶ。カウンターに座るベルナルドは椅子の上で身体をくるくると回し、店内と裏手を何度も往復するローザを眺めていた。
「そりゃそうだよ。だってローザは……いや」
「言いかけて止めないでよ、何」
問いはするが、ローザは動きを止めない。ぱたぱたと動き店内の掃除は続けている。裏手から店内へと戻る途中、ちらとベルナルドの顔を見てみると、ベルナルドはむぅ、と渋い顔をしていた。その表情に言いたくないんだなと思ったローザはそのまま問い直す事もせず、片付けを続ける。
空っぽになったバケツ全てを裏手に運び終えたローザは、順番に水の中に入れ丁寧に洗う。ざぶざぶと水を跳ねさせ、手を真っ赤にしながらぬめりを取り、洗い終えたバケツはまた同じ様に重ねていく。
全てを洗い終えたら布巾で水気を拭き取り、また店内へと戻す。店内の清掃を終え、次はカウンターの掃除だ。床の枝葉はレスティカーナが綺麗にしていったが、花束を作っていた作業台やカウンターの上はまだ手付かずのまま、乱れている。
ローザは花束を包む包装紙を揃え、レースやリボンも綺麗にまき直して元の場所に戻す。後やることは、とローザが振り返ると、むすっとした顔のベルナルドが睨付けており、ローザは身体を跳ねさせる。
「びっくりしたぁ。どうしたのよ」
「ローザはさぁ、本当に、人や周りに興味ないよな」
「へ? な、なに。急に」
ベルナルドはカウンターに肘をつくと顎を乗せる。睨付けられていた事で気がつくのが遅れたが、不機嫌というよりも、沈んでいる表情な気がし、ローザは無意識に身体を強ばらせる。
「始めはさ、僕に興味がなくてつれないのかと思った。男として魅力がないだけとか。けどそうじゃない。ローザは僕だけじゃなくて、周囲も周囲の人も自分とは関係ないって思ってるんだ。自分には大それた事だから関係ない。自分には手に負えない、解らない事だから知る必要がない。最初っから決めつけて知ろうとしないんだ」
言葉を句切り、ベルナルドは横を向くと店内に残された花を見る。
「花は誰かに贈る物なんだろ。ローザ。ローザは綺麗な花を咲かせているのに、その花を贈る人の事とかを知ろうとしないのは、そういう事なんだよな」
こちこちこち
静まりかえった店内に時計の秒針だけがする。
ぐるぐるとベルナルドの言葉が頭の中を廻る。ベルナルドの言った事に覚えがあるローザは、どう応えて良いかわからない。
マフィアの事は解らない。だから、最低限のルールだけを聞いた。それさえ護っていれば良いという事だけを。
ローザは花を育てる事しかできないのだから、聞いても何もできない。なら、知らない方がいい。だって解らないから、聞いても意味が無い。
人もそうだ。
花束を〝誰か〟が贈るだろうというぼんやりとしたイメージだけはある。しかし、正直な所ローザは花が綺麗に咲けばそれで満足だ。咲いた花を花束にすれば〝誰か〟が贈る。誰が誰に贈るか、はローザにとって重要ではなかった。
花があれば誰かは喜ぶ。
花の事以外は、ローザにとって必要ない。
それは、ローザ自身の事に関しても同じであった。自分には関係ない、自分には大それた事だ。だから――ベルナルドが自分に好意を寄せるはずがない。本気の筈が無い。
「ごめん、言い過ぎた」
ベルナルドの声がし、ローザはまた身体を跳ね上げる。
「……ううん、今の、は。あれよね。レスティカーナが教えてくれるって言ってた、事なのよね」
「そっちとは関係ない……。いや、どうなんだろう。結局はローザが自分も含めて重要視してない事が原因でもあるし、関係あるのかな」
再度、心を見透かされた気分になる。
「あぁ、そうだ。そういえばさっきの事を説明しないとなんだっけ。掃除、まだあるんだもんな。また続けながら聞いてろよ」
ベルナルドは声色を明るくし、何時もの調子で言う。いくらなんでも、ここまで気を使われて無碍にできるほど、ローザも薄情ではいられなかった。
「ううん、ちゃんと聞くわ。ごめん、あたし、酷い失礼だっ」
言葉を詰まらせたローザは俯き、ベルナルドから顔を隠す。
「いや、あの、ローザそんなさ、あの、え」
「あーーー。ごめん、ちょっと、ごめん」
ローザは身体を支える様にカウンターに右手を置き、左手は額を抑えた。
最悪だ、と胸中で独りごちる。
――どうせ本気じゃ無いんだろうって思っていたから、ベルナルドの言葉は流し続けてきたのよ。冷たくしているという自覚もあったわ。でも、だって嘘に決まっているんだから、本気にしたら、辛くなるじゃない。嫌だもの。そんなの。だっていうのに、あたしの考えも何もかも見透かされて、自分が傷つくの解ってるのにきついこと言ってくれて、でも、今だってあたしの事ばっかり心配されたら、あぁもう、無理。だめ。最悪だわ。あたし本当に最悪だ。泣くのはダメだって――
「ろ、ローザ……?」
ものすごく不安そうな声で名を呼ばれる。その声がさっきよりも近く感じ、ローザが顔を少し上げた。
「だ…………う……」
大丈夫だと言おうとするが、これ以上声を出したらぼろぼろと泣き出してしまいそうでローザは返事ができない。前髪とカウンターの隙間にベルナルドの姿が垣間見えた。わざわざ近寄ってくれたのかと気がつき、額に当てていた手で口元を覆う。
ローザは乱れたカウンターにペンとメモ用紙を見つけると、ペンを握り、メモ用紙に走らせる。
『ごめん 大丈夫 でも わるいけど ちょっとまって』
「…………いいよ。無理しなくていい。僕はいつもどおり、喋り続けてるだけだ」
優しい声が降り注がれ、ローザの心がきゅぅと締め付けられた。
ようやく落ち着きを取り戻したローザは大きく深呼吸をする。吸って、吐いて、吸って、吐く。どんな顔をしてベルナルドと向き合えばいいのだろうかとも思うが、これ以上迷惑をかけるわけにもいかない。よし、と小さく呟き、ローザは顔を上げるといつもどおりの笑顔を見せる。
「ごめんね、ベルナルド。今お茶入れるわ」
「ん。話はしていいか」
ローザの言葉に、ベルナルドもいつもの微笑みを返す。
「そうね、お願いするわ」
ローザは戸棚のドライハーブや茶葉を手に取り、ベルナルドの好きな味を選びだす。
「さっきも言ったけど大型の〝エーテル〟機械を手に入れたパヴォーネは〝エーテル〟が大量に欲しかった。だから取引のあるマンマレジーナにお願いして、ラチェレのボスとの交渉の場を作った。だけど、パヴォーネが欲しがった〝エーテル〟の量は膨大すぎた。マンマレジーナも呆れるほどにな」
カウンターにティーセットを並べ、ローザはポットに茶葉を入れる。
「ラチェレのボスは〝エーテル〟の取引事態は了承したが、量は承諾しなかった。だけど、パヴォーネは〝エーテル〟機械を動かしまくっている」
「…………。〝エーテル〟は足りてないんじゃないの?」
「足りてない筈だね。本当なら」
「それは……あら?」
ベルナルドの言葉の意味を考えながら、ローザがティーポットの蓋をすると、透明な持ち手を指先でとんとんと叩く。しかし、あるはずの動きがなくローザは不思議そうな声を出す。ティーポットを持ちあげ、耳に近づけて軽く振ってみる。
「どうした」
「これ〝エーテル〟ティーポットなんだけど〝エーテル〟が起きないのよ。まだ残っているのに」
空っぽの〝エーテル〟ティーポットを軽く振るが、何の反応もない。〝エーテル〟ティーポットはセットされた〝エーテル〟を起こすと直ぐに熱湯が沸いてくる。水を入れる必要も、火を用意する必要も無く、大変便利な道具だ。
「あー、それ、僕のせいかも」
「え? なんで?」
「少し前から〝エーテル〟と相性がもう超絶に悪くってさ。ちょっと、試してみるか」
言い、ベルナルドがカウンターから離れると〝エーテル〟ティーポットが暖かくなった気がし、ローザは慌てて〝エーテル〟ティーポットをテーブルの上に置く。間も無く注ぎ口から湯気が立ち上りだした。
「ね?」
「相性悪い人がいるのは知っていたけれど、側にいるだけでもダメっていうのは初めてだわ。……あら? でもベルナルド、前に〝エーテル〟機械を使っていたわよね?」
「うん。なんか、急にダメになった」
「あらまぁ。不便ね」
「そうでもないかな。元々、そんなに相性良くなかったし、〝エーテル〟機械を沢山持ってたわけじゃないし。で、だ。この〝エーテル〟ティーポットと同じく、〝エーテル〟機械にはちゃんと〝エーテル〟がセットされていなくてはならないよな」
ベルナルドは〝エーテル〟が止まらないよう少しずつカウンターに近寄る。幸い、一度動き出した〝エーテル〟は止まる事がないのか、ベルナルドは元通りカウンターの椅子に座る事ができた。
「あぁ、うん。〝エーテル〟の量が保証されていないのなら、控えめに使うか、使いどころを決めて使うはずよね。それなのに、いっぱい使っているのよね」
「そう。〝使ってる〟んだ」
「……ラチェレから貰ってるのは、少ないのよね?」
「そうだ」
真面目な顔で言われ、ローザはくるくると髪の毛を弄び出す。
マフィアの掟は絶対だ。
この〝魔女の街〟ではマフィアチームそれぞれの扱う商品が決められている。
インセットは〝花〟
パヴォーネは〝医療〟
ラチェレなら〝錬金術〟
インセットの商品〝花〟は生花と女。生花から派生したアロマクラフトなども含まれる。この街で〝花〟を手に入れるにはマンマレジーナの許可が必要だ。
パヴォーネの〝医療〟は医者と病院、そして薬だ。専門知識や大量の道具が必要な為、そう目立った問題はないが、モグリの医者、闇医者、流れの医者等はこの街では認められない。
ラチェレの〝錬金術〟は当然、〝エーテル〟と、ソレを使う〝エーテル〟機械や道具だ。この街にある〝エーテル〟機械は全てラチェレが管理、整備しているし、外から新しく入ってくる〝エーテル〟機械も、街の中で新しく創り上げる〝エーテル〟機械も全て、ラチェレを通さねばならない。
パヴォーネがマンマレジーナに仲介を頼み、ラチェレから〝エーテル〟機械と〝エーテル〟を仕入れたのは当然の事だ。しかし、パヴォーネは今、足りないはずの〝エーテル〟を使って〝エーテル〟機械を動かしているという。
紅茶の香りが鼻を擽り、我に返ったローザはカップに紅茶を注ぐとベルナルドの前に置いた。
しかし、自分の分はいれず、またくるくると赤毛を指に絡めだす。
くるくる、くるくると指を回し考え込むローザの邪魔をしないよう、ベルナルドは静かにカップを持ち上げ口を付けた。
ローザが低い声で問う。
「その〝エーテル〟は、どこから来ているの」
「ラチェレ以外、だろう」
「ダメ、なのよね。それ。だって。ラチェレの〝商品〟に手を出してるんでしょう?」
「聞くまでも無い。〝魔女の街〟じゃ3歳の子供だって知ってるさ」
くるくると、髪を巻きながらローザはもう一度問う。
「ラチェレとパヴォーネの間を取り持ったのが、マンマレジーナなのよね。それってさ。それってさ」
顔を青くさせたローザが震えた声で言う。
「パヴォーネはラチェレの商品に手を出してて、そのパヴォーネをラチェレに紹介したのが、マンマレジーナなのだから」
「その通りだ。だから、レスティカーナはマンマレジーナの所に走った」
ローザの息が止まる。少しして、ローザはカウンターに両肘をつき、重ねた両手の上に額を付けた。情けない気持ちでいっぱいのローザはぎゅっと眼を瞑る。
「レスティカーナは〝インセットのレスティカーナ〟として正しい判断をしたと、僕は思うよ」
ラチェレの〝商品〟に手を出したパヴォーネは、間違いなく、ラチェレと一戦交える。パヴォーネも争いが避けられないと理解しているのだ。だから花束の注文が多かった。だから花を贈っていた。
パヴォーネを紹介し、原因を作ったインセットもまた、ラチェレに襲われてもおかしくない。
このベルナルドの情報がなければ、今の状況をレスティカーナは知る事がなく、マンマレジーナの元にも報告が遅れていただろう。これはインセットの壊滅にもなりかねない、大きな問題だ。
インセットの一員であるローザは、何よりも自分が所属しているチームの安全を考えなくてはならない。レスティカーナはインセットを、マンマレジーナを護る為にベルナルドの情報が必要だと察し、しかし〝情報〟を買う金銭は動かせない。だからレスティカーナは、ローザを人身御供にした。インセットを護る為に。
「あたし、ほんっと……ほんっと…………」
ローザの手元には様々なヒントが集まっていた。花束の注文が増えていたのもだが、パヴォーネがチンキを大量に欲しがったのも〝エーテル〟機械を使うからだろう。レスティカーナの思惑にも気がつけず、マンマレジーナとラチェレのボスがこの店に訪れた事も、珍しいなで終わらせていた。
もう少し、周囲に気を配っていればもっと早く事態に気がつけ、インセットにも危険が及ぶ事もなかったかもしれない。
「しょうがないさ。ローザは本当の意味でマフィアじゃないんだよ」
ローザが顔を上げると、ベルナルドは肩を竦めて言う。
「だってそうだろ? 僕もいつ敵になってもおかしくないんだ。けど、ローザは僕の事も信用しちゃってる。こんな風にお茶までだして」
「ふふ。そうね、マフィアならいつ殺されてもおかしくないって思うところなのよね」
「常に警戒心剥き出しで、っていうのも困るけど。……でも、さ」
変に言葉を止めたベルナルドを、ローザは見る。
「僕、ローザのそういうところが好きなんだ」
「……はいはい、ありがとう」
「えぇぇぇぇ、ここでその反応なのかよぉぉぉ」
ローザの素っ気ない返しにベルナルドが情けない声を上げる。
「どんな反応したらいいのよ。ハグしてキスでもすればいいの?」
「え」
「なによ、えって。やっぱりただ冗談なんじゃないの」
「いやいやいや、冗談じゃないし僕は本当にローザの事をね」
ベルナルドの言い訳を右から左に流す。目をつり上げたローザはティーポットに触れると、あ、と小さな声をあげた。
「ねぇベルナルド。パヴォーネは、どうやって〝エーテル〟を集めているのかしら」
「え?」
ローザはティーポットから手を離し指に赤毛を巻き付ける。
「だって外から入ってくる〝エーテル〟はラチェレが管理しているでしょう? 小さい〝エーテル〟を毎日小分けに密輸するとしても、そう大量には無理だと思うのよね。それに、機械をそんなに使っているのなら、当然、錬金術師が必要じゃない」
「まぁ、そうだな」
誰にでも使える電気機械と違い、扱う人が限定される〝エーテル〟機械がまだ根強く残っているのはいくつか理由がある。その尤もたる理由の1つが、電気よりも〝エーテル〟の方が燃料として優れている事だろう。機械の大きさに必要な燃料量が左右されないのだ。
電気機械はまず、電気を作る発電所とその電気を通す線が必要だ。そして、機械が大きければ大きいほど必要な電気量も増える。
しかし、〝エーテル〟機械は何処にでも設置でき、機械の大きさに必要な〝エーテル〟量が比例しない。機械が大きいからといって大量に〝エーテル〟を消費するわけではなく、しかし、機械が小さくても大量に必要な場合もある。だが、同サイズの電気機械に比べると〝エーテル〟機械はごく少量の〝エーテル〟で稼働する物が多い。必要燃料を同等にして見た場合でも、〝エーテル〟機械の方が稼働時間が長いのだ。
更に言えば、〝エーテル〟のエネルギー量は〝エーテル〟の大きさとも関係ない。巨大な発電所と掌に収まる〝エーテル〟筒とのエネルギー量を同等にする事も可能だ。
赤毛の円を描きながらローザはこうも続ける
「だから、パヴォーネにラチェレに所属していない錬金術師がいる、って事よね? 医者としてパヴォーネに所属して〝エーテル〟機械を整備できる錬金術師が。整備できるほどの人なら……」
「まさか、その錬金術師が街の中で燃料の〝エーテル〟を作ってるって?」
「かな、って」
ベルナルドは何かを伝えようと口を大きく開けるものの、良い言葉が思いつかず口を閉じてしまう。眉をよせ、真剣に考え込むベルナルドをローザが見守っていると、ベルナルドは1つ頷き、顔を上げた。
「ローザ。今から言う事は、他に漏らさないで欲しいんだけど」
「……んんんん。漏らさない、けど」
難しい顔をするローザに、ベルナルドは小さく吹き出す。
「ははっ。何、さっきの気にしてるの?」
「気にするわよぉ」
「じゃぁ、インセットを護る為に必要だったら、言ってもいいから」
ぱっ、と一瞬明るい顔をみせるローザだが、また直ぐに顔を歪めてしまう。
「まだ何かあるのか?」
「だって、それ、ベルナルドの情報なんでしょう? あたしじゃ支払いできない金額じゃないの?」
至極真面目な顔で言われ、ベルナルドは盛大に吹き出した。
「なんで笑うのよぉ」
「だ、だって、いや、あっははは。いいんだよ。僕が勝手に言うんだから、お金とらないって。それに、ローザなら何か知ってるかもっていう打算もあるから。な」
イマイチ納得のいかない顔をするものの、ローザはこくりと頷く。
「ならいいんだけど……。それで、何」
「ローザは〝エーテル〟の色を知っているよね」
「勿論よ。火からは〝赤いエーテル〟が、水なら透明だけどちょっと歪んでてとか、そういうのでしょ?」
「そう。滲み出た物の色が残っていて、滲み出た物の大きさによってエネルギー量にも変化があるらしい」
ベルナルドはカップを指差しこう続ける。
「自然に漂っている物から滲み出た〝エーテル〟の他に、錬金術師はこの紅茶から〝エーテル〟を取り出す事ができる。この場合は茶葉の茶色や植物の緑であったり、水の〝透明で歪んでいるエーテル〟であったり、様々だ。錬金術師は同じ色の〝エーテル〟を集めて1つに纏める事ができる。ローザが花を集めて花束にするようにね。ん、ちょっと違うか? まぁいいや。それを〝エーテル〟筒に詰め込み、同量のエネルギー量を持った〝エーテル〟筒を大量に制作している」
「筒の大きさに関係なく、中身を増やす事もできるのよね」
ローザの言葉にベルナルドは大きく頷いた。
「僕らには見分けが付かないけれども、錬金術師には同じ〝赤のエーテル〟でも微妙に色が違って見えてるんだって。それで、エネルギー量の差異を見極めて、筒に詰めている。で、だ。本題はここから。〝エーテル〟の中でも、飛び抜けてエネルギー量が膨大な物があるらしい」
ベルナルドがローザの目をじっと見据え言う。
「それも、青。〝青のエーテル〟だ」
「青の………………青?」
訝しげな声で言い、ローザは首を傾げる。
「〝青のエーテル〟って、何から採れるの?」
「それさ。今の所、青い花と青い宝石から採れるのはわかってる。でもね、採るのが難しいらしくって、青い宝石から〝青のエーテル〟が採れる確率は3割。しかも、〝エーテル〟を抽出すると宝石は灰になってしまうんだってさ」
ローザは反対側に首を傾げ、もう一度問う。
「宝石は、宝石を売ったお金で〝エーテル〟を買った方が早いんじゃなかったかしら?」
「そうなんだよ。だから宝石から〝エーテル〟を抽出するような物好きは滅多にいない。金持ちが道楽で〝青のエーテル〟欲しさにがんばってるくらい」
「あとね、青の花から採れる〝エーテル〟ってそんなにエネルギー量はなかったと思うんだけど」
申し訳なさそうに言うローザにベルナルドが驚いた顔をする。
「なんだ、知ってたのか?」
「知ってる、というか。花を育ててる時にだって〝エーテル〟が滲み出る事はあるもの。〝青のエーテル〟っぽいのを見た記憶はあるわ。でも、ほんっとちっさくて見間違いかと思うような小さいのよ。それに、ほんと数回よ? 産まれてからずぅっと花を育てているけれども、十年に一度あるかないかってくらい」
「で、でもちょっとでも採れるんだろ。小さくてもラチェレの事だから青い花から〝青のエーテル〟を採って」
「それはないわ」
言葉を遮られ、ベルナルドは「なんで言い切れるんだよ」という訝しげな視線をローザに向ける。
「だってラチェレのボスもラチェレの人達も花が好きだもの。宝石から〝エーテル〟を抽出したら灰になるように、花から〝エーテル〟を抽出したら、花も萎れて死んじゃうの。そもそも、ラチェレは〝青のエーテル〟を作らなきゃいけない理由がないんじゃない?」
「理由?」
ローザはカウンター奥の戸棚に向かいながら、話しを続ける。
「パヴォーネのように『大きな〝エーテル〟機械を動かしたいから〝青のエーテル〟が欲しい』なら解るけど、ラチェレの人達は錬金術師なのよ。〝青のエーテル〟に固執しなくったって〝エーテル〟は手に入るじゃない。それにね」
ローザはドライハーブの袋を手にベルナルドの前へと戻ってくると、空っぽのティーカップに乾ききった蕾を1つ落とした。
ベルナルドの目を見、カップにお湯が注がれる。すると――
「ッ!! 何だよこれ、青い、お茶なのか?」
カップの中は真っ青に染まっている。
「マロウブルーって言ってね、お花も青いけど乾燥させてハーブティにすると青いお茶ができるの。だけど、時間が経つと紫色になっちゃう。だから、お花から〝青のエーテル〟を抽出するのも宝石と同じで大変だと思うわ」
「こ、これ以外の青い花……。ローザもまだ育てた事のない、知らない青い花、なんて、あったりする?」
「そりゃぁ、ずぅっと遠くの国とか、人が入ったことのない森の奥の、とかなら、あるんじゃないかしらね? だとしても、〝青のエーテル〟が採れる青い花、なんて、噂にならないと思う? ベルナルド」
ローザの純粋な問いかけにベルナルドはぱくぱくと口を動かし、しかし、何も言葉は出てこない。腕を組み、うんうんと唸って考えていたベルナルドは大きく身体を反らし天井を見上げた。
「良い線行ってると思ったんだけどなぁ」
「あはは。残念だったわね。でも〝青のエーテル〟かぁ。ベルナルドも気にしてるってことはとてもすごい〝エーテル〟なのね」
「なぁ、もしかして、ローザは〝青のエーテル〟の事知っていたか?」
「これも知っていた、ともちょっと違うんじゃ無いかしら。メルと〝エーテル〟の色の話をした事があってね、その時に少しだけ青い色の〝エーテル〟をしただけよ」
ローザはカウンターに背を向けマロウブルーの袋を終いにいこうとした。
戸棚に手を伸ばした時、ガラスに反射したベルナルドの顔が一瞬だけ映って見える。
それは、いつだったか高級住宅街で偶然見かけたベルナルドの恐ろしい顔だった。ぞわり、とした寒気が全身を駆け抜け、同時に、ベルナルドの吐き捨てる声が、ローザの耳に届く。
ラチェレの魔女が、と。