憧れに染まるグラジオラス
暗闇から急に伸びてきた手にランタンを取られ、ローザは驚きの声を上げる。
「あっ」
かしゃんと音を立てランタンが吊される。背中を反り後ろを見上げれば、見知った男がにっこりと笑いローザを見下ろしていた。端正な顔立ちはランタンの明かりに照らされ影をつくり、蜂蜜色の髪は闇夜に瞬く星の様にきらきらと輝いている。胸元まで伸びる長い髪を纏めた青いシルクリボンがその重みで首元を滑り、毛先がローザの額にそっと触れた。
「ベルナルド、脅かさないでよ」
「女の子が一人で夜道にいるなんて危険だよローザ。でも安心して、この闇夜の中でも僕は君をいつだって見つけられるよ。その赤い髪が灯火となって僕を君の元へと導いてくれるんだ」
薄く濡れた薄青の瞳を細め甘い囁きを零すベルナルドはローザの髪留め替わりにしているスカーフを手に取り、そっと口付けを落とす。
「どうしたのベルナルド。今度はどんな悪い事したの」
ロマンス小説のような出来事に直面したというのに、ローザの声は平静そのものだ。少し間を空け、ベルナルドは優しい微笑みから一転し不満そうな顔を見せる。
「ローザ、普通こういう時は頬を赤らめるとか恥ずかしがるとか、そういう態度を返さないか?」
「そうね、相手がベルナルドじゃなかったらあたしもそうすると思うわ」
「酷い話だ。どうやったらローザを前みたいにときめかせられるのか教えて欲しいもんだ」
「そうね、とりあえず髪留めのスカーフから手を離してくれる? 見上げっぱなしで首が痛いの」
「わかった。なぁ、何時も言っているだろ? ランタンをかける時は踏み台を使えって。僕だって何時も一緒にいられないんだからさ」
言いながら、ベルナルドはローザに手を差し出し、もう一つのランタンを渡すように手招きをする。
彼、ベルナルドはこの花屋でも一際変った常連だ。客ではない。常連客の多くは上流階級かそれ相応の金持ちで、一癖も二癖もある男性ばかりだ。話し方や持ち物は当然、その思考回路や美的センスは良くも悪くも飛び抜けている。趣味趣向はともかく、なによりも金銭感覚がローザには理解できないのだが。
そんな特徴的な中でも異彩を放つベルナルドは、まず花を買う事が滅多に無い。着ているスーツも既製品の安物で、丈を合わせると腰回りが大きく、いつもジャケットやベストの下からサスペンダーが覗いている。長い間着ているのだろう綿のシャツは襟元がくたびれ、ネクタイの皺も取れず、くたくたの肩掛け鞄も底を補修されたつぎはぎ跡がある安物だ。そんなベルナルドに生花を買う余裕など在るはずも無く、故に客とは呼べない。しかし、この花屋に足繁く通う常連の一人である事は事実だ。
説教じみた物言いにローザは少し眉を寄せるが、大人しくベルナルドにランタンを手渡す。
「ちょっと背伸びしたら届くんだからいいじゃない」
「火のついたキャンドルランタンを頭の上に持ち上げて、小さな身体をぷるぷる震わせる背伸びが危なくないって? それ本気で言ってるか?」
「そんなに小さくないしぷるぷるしないわよ。失礼ね」
「だって火だよ、火。〝エーテル〟ランタンならまだしも、手を滑らせて落としたらどうする。それとも、僕を心配させてこの時間には必ず僕が来るようにしたいからってわざとやってるのか?」
「キャンドルの火くらいなら大丈夫よ。ちょっと燃えるか火傷するくらいでしょ」
呆れ言うローザの声を聞き、ランタンを吊したベルナルドは小さく息を飲み、焦燥の声を上げる。
「ちょっとって、顔に当ったらどうすんだ。あと髪。その真っ赤な赤毛を本当の火にするつもりか?」
「はいはい。ありがとう。気をつけるわ」
「ローザ、真面目に聞け。僕は」
ベルナルドの言葉を聞き流し、ローザが扉を開け店内に入ると、ベルナルドはその後ろを付いて歩く。
「僕は本当に君の事を心配して言っているんだ。君だっていつ向こうの〝花屋〟に行くかわからないんだろ。火傷跡なんてあったら」
ローザを振り向かせようとベルナルドは大きく身振り手振りをしながら話しかけるが、ローザは素っ気なく、ベルナルドを気にかける素振りは全く見えない。ローザはカウンターへと向かい時計に目をやると、ベルナルドの言葉を遮った。
「あら、こんな時間なのにウチの店にいていいの? ベルナルド」
「っはぁ。良くは無いさ。この後も人と待ち合わせてる。でも、昨日もローザに会えなかったんだ。せめて一目会いたくって」
「一昨日は会ったじゃない」
ローザがカウンターの仕切り板を上げ中に入ってしまうと、ベルナルドは慌てて足を止める。以前、カウンターの中にまで入って酷く怒られた事があり、それ以来、入っていいといわれない限りは立ち入っていない。ローザの後ろを付いて行けなくなったベルナルドはカウンターを挟んでローザと同じ方へと歩きながら話しかける。
「一昨日はお客さんが居たから話せなかっただろ。その前はローザが店にいなかった。なぁ、少しくらい僕を見てくれないかローザ。今はお客さんもいないんだから」
ローザが右へいけば右に、左へ行けば左に。ベルナルドに背を向けなにやら作業をしていれば、カウンターに手を置き、声を大きめに語りかける。根負けしたローザが振り返ると、ベルナルドは前のめりカウンターに身を乗せた。身体を屈めて見上げる薄青の瞳が、ローザの瞳を真っ直ぐに見つめながら言う。
「僕は毎日君に会いたいんだよローザ」
ローザは額に手をあて、あからさまに迷惑そうな溜息を大きく吐きだす。
花を買わない花屋の常連ベルナルド。彼は何故かローザを熱く慕っていると言う。忘れもしない。この花屋にはじめて立ったあの日、何人目かの客がベルナルドだったらしい。らしい、というのもローザは不安と緊張でいっぱいいっぱいだった為、その日、誰と何を話していたのか、よく覚えていない。何かおかしいと思った時にはベルナルドがローザの手を取り甘い言葉を囁いていた。
初めこそローザも顔を赤らめて戸惑い困惑したものだ。しかし、ベルナルドという男の評判を耳にし、彼と彼の所属するマフィアチームを知ってからのローザは、彼の言葉を聞き流す様にしていた。
ベルナルドは情報屋だ。たくさんの人と話し些細な会話から秘密を見つけ、調査をし、その情報を取り扱う。人、物、金。老若男女を問わず、階級も関係ない。彼ら情報屋はこの街の事ならなんでも知っているし、この街に関わる他国の事も、知っている。口が上手く相手に取り入るのもお手の物。同時に、人間関係で問題を起こす事も多い。
彼ら情報屋の言葉は善し悪しに関わらず、まともに聞き入れてはいけないわよと、ローザは主人からも教わった。
どんなに冷たくあしらわれてもベルナルドは時間を作り、ローザに会いに来くる。そして、他愛も無い話をして帰っていく。もうかれこれ、二年近くこのやりとりは続いており、ローザはよく飽きもせず続くわね、と変な関心すらしてしまう。
「そうだ、新聞があるんだ。ほら見ろよ、今回はクオリティペーパーもある」
言いながら、ベルナルドは肩掛け鞄の蓋を大きく開き中から新聞と封筒束を取り出す。カウンターの上に新聞が置かれるとローザの顔に笑顔が浮かぶが、その上に置かれた封筒の束を見るとすぐに顔は顰められる。
「ねぇ、ベルナルド」
「なんだよ、ローザ」
やっと声をかけて貰えたベルナルドは喜びにぱっと顔を明るくし、さらにカウンターへ身を乗り出し、ローザへと顔を近づける。
「新聞を持ってきてくれるのはとっても助かるのよ。タブロイドも勿論、あたしじゃ買う事もできないクオリティペーパーなんて特に」
一般大衆紙であるタブロイドなら、内容を選ばなければローザにも買う事はできる。しかし、ローザが買えるようなそこら辺で売られているタブロイドの殆どはゴシップとお色気に溢れた悪名高い物ばかりだ。どうしても読みたいわけでもないのに買うのも馬鹿馬鹿しい。
しかし、クオリティペーパーは上流階級向けの知的で真面目な新聞だ。内容はわからなくとも、いつか役にはたつと思える記事ばかり。当然ながらお値段もお高い。必要とする人が上流階級や知的階層の人と限られているから刷られている枚数も少ないし、そもそも、売っている場所にローザは入る事もできないのだ。
「出て直ぐのは流石の僕にも無理だけどね、少し前のなら僕でも自由にできる。ローザが喜んでくれるのなら持ってきたかいもある」
にっこりと笑うベルナルドとは対照的にローザは微妙な顔をする。
情報を扱うベルナルドは、その、新聞に載せる情報を扱っているのだ。情報提供をした謝礼として貰ったり、仲間とトレードやレンタルをしあう。クオリティペーパーは滅多に手に入らないのだが、時々知人から譲り受けるらしく
こうしてローザにも読ませてくれる。
「そうね、別に情報が欲しいわけじゃないから、古い物でも十分だわ。いつもありがとう」
「どういたしまして」
にこにこと人好きの良い笑顔を向けていたベルナルドの笑顔が、ふわりと花が咲き誇る様な笑顔へと変り、ローザはまた溜息を漏らす。
そう、ベルナルドはこの街でも指折りの美青年だ。外見のみならず誰にでも微笑み優しい言葉を送る。話し上手の聞き上手。彼と話せば誰もが時間を忘れてしまう。ボロを着ていても美しい男は街の女達の憧れで、ベルナルドと話すためにわざわざ秘密を手に入れてくる女性は少なくない。
仕事場や家庭を巻き込んだ大騒動だって何度もあったというし、実際にローザも数件知っている。少しだけだが、巻き込まれたのも二回ほどあり、怪我人だって出ていた。ベルナルド自身が怪我をした事もあるのだろう。
そして、それは上流階級のご婦人やお嬢さん方も例外ではなく、ベルナルドがクオリティペーパーを手に入れられるのは彼女たちのお陰でもある。
そんな男の愛の言葉を信じればどうなるか。学の無い田舎娘のローザでも両手では数え切れない嫌な出来事と悲惨な未来が想像できる。
「でもね、そろそろ、この手紙は止めていいんじゃないかしら。タイプライターの練習だってもう充分でしょう?」
ベルナルドが新聞を読ませてくれるようになったのも、ローザが文字の読み書きを勉強したいと言ったからだ。多少の読み書きはできていたローザだが、それは生きていくのに最低限必要な程度の物で、字は汚く読めない文字も多くあった。花屋の仕事をすると聞き一年かけて猛勉強した今でこそ、こうして仕事に差し障りの無い程度には読み書きができるようになったが、今でも仕事中に勉強不足を痛感するときがままある。
新聞は文字を読む練習にも、文字を書くお手本にもできる最高の教科書だ。使い終わったら掃除にも使えるし、最後は薪と一緒に燃やせばいい。クオリティペーパーの内容は、客人との話を繋ぐのに役立つ事もある。
しかし、当たり前だが新聞もタダでは無い。情報屋だというベルナルドなら安めの新聞で、内容も読むのに苦痛じゃ無い物を知っているかと思ってなんとなく聞いただけだった。その時に、ベルナルドが自分の新聞を貸すと言ってくれ、ローザは喜んでお願いしたのだが、その頻度はローザが思っていたよりも多すぎた。毎日のように来ては一部、二部と置いていき、数日新聞が無かった時にはペーパーバックを貸してくれた。
大変ありがたいのだが、世話になってばかりで申し訳なくなる。だが、少し頻度を下げるようローザが伝えてもベルナルドは「ローザに会いに来る口実を自分から減らせって?」と笑い、何かお礼をと言えば「お礼を貰っちゃったら、ローザが僕の事を考えなくなっちゃうだろ」等と、よく解らない事を言うばかりだ。
「そんな事ないさ。ローザは知らないだろうけど、タイプライターも色んな種類があってさ。触った事が無いのは勿論、僕がまだ見た事の無いやつだってたっくさんある。僕はまだまだ打つのがへたくそで時間がかかるし」
「そう、なの?」
「そうなの。情報は鮮度が命だし、タブロイドの記事は書く時間がすごく短い。僕は時々しか手伝わないけど、いざという時にタイプが遅くて役に立たない、なんてなったら困るんだ。だから、ね。まだ暫く僕の練習を手伝ってよ」
にっこりと笑い言うベルナルドにローザは納得のいかない顔を見せる。
会いに来る頻度も減らずお礼も受取らない。悩みに悩んだ末、ローザはベルナルドに何か手伝える事はないかと聞いた。その結果がこのベルナルドからの手紙である。
タイプライターの練習は良い事だ。言葉や文法の勉強になるのだから文字を読むのも、構わない。
問題は中身だ。ベルナルドの手紙はいつも愛の言葉や詩が書かれた、ラブレターである。ローザ宛の様だと受け取れる時もあるが、しかし、名前は書かれていない。出し惜しみせずに綴られた甘い言葉と愛に溢れた手紙はローザの顔をリンゴの様に真っ赤にする。手伝いを申し出た手前断る訳にもいかず、かといってタブロイド記事の練習にもなっている以上、書く内容を変えろとも言えないまま、ローザはいつも手紙を読み、問題ないと思うわと伝えるだけだ。
「ローザ」
「なに、ベルナルド」
「僕の手紙、次も受取ってくれるか?」
「勿論。今まで通り、新聞と一緒に置いてってくれれば目を通しておくわ」
ローザの返答にベルナルドは一瞬目を丸くし、苦笑する。
「…………まぁ、いいか。せっかくお客さんもいないからローザとゆっくりお話できるのに、残念だけど、そろそろ行かないとマズイ」
名残惜しそうに言い、ベルナルドはローザを見たまま後ろへゆっくりと歩く。扉に手をかけおし開けば、からんからんと乾いたドアベルの音がする。
「じゃぁ、また」
「またね、ベルナルド」
小さく手を振りローザが見送ると、ベルナルドは夜の闇へと消えていった。
まだ揺れるドアベルの音色を聞きながら、ローザが小さな溜息を漏らす。力を抜いただけの吐息は思っていた以上に大きく響き、ローザはその大きさに少し、驚いた。
客人が帰った後の店内はしんと静まりかえる。ローザはこの静けさが少しだけ、苦手だ。花を選んでいる時は客人と会話をし続け賑やかだ。どんな花がいいか。色は。香りは。贈る相手の事や贈る理由を聞き、それに合った花を選ぶ。ローザにとっても楽しい時間だ。
見送った後のしんと静まりかえった店内は、選ばれなかった花がしょげているような気がしてしまう。しかし、ベルナルドが帰った後の静けさが苦手なのは、花のせいにできない。それを解っているから、ローザはいつも息苦しくなる。
「ほんっと、なんであたしなのかしら。そろそろ辛いのよね」
ローザも一人の女だ。年ももう、いつ嫁いでもおかしくないというか、いい加減いかないとまずい年齢にさしかかっている。皆が夢中になる見目麗しく優しい青年に言い寄られて嫌な気分じゃない。穏やかな口調とこちらを気遣う視線は優しく、笑顔の絶えない楽しい時間をくれる。ベルナルドの優しさは少々、度が過ぎているとは思うがローザが本当に嫌がる事はしない。ふとした表情や仕草に胸が高鳴る時は、何度も訪れている。
だが、忘れてはいけない。ベルナルドはマフィアの一員だ。そしてローザも、マフィアの一員なのだ。
ベルナルドはローザにだけ優しいわけじゃないの。パン屋のお嬢さんや煙草屋の奥様。テーラーと帽子屋のお針子娘達とホテルのメイドも、スクールの教師も銀行員、教会のシスターにだって、あの笑顔で話しかける。ローザだけを特別に扱っているわけじゃないのよ。もしかしたら、マンマレジーナの情報を手に入れようとしているかもしれないのだからと、ローザは何時も己を戒める。
「まぁ、間違っても本気じゃ無いのは、あたしが一番良くわかっているけれども」
この手紙だってそうだ。ローザに読ませ、ローザの反応を見て誰かの名前を入れ、ポストに投函しているかもしれない。それでも、ベルナルドの甘い誘惑がローザの心をじわじわと捕らえているのも、確かだ。そうでありながらも、ローザはベルナルドと関係を持ちたいとは、思えないでいる。それもこれも、ベルナルドが綺麗すぎるからだ。
「あたしもね、二目と見られない容姿じゃないわよ。人並みよ人並み。でもこの街、というか、あたしの周囲に綺麗な人が多すぎなのよ。マンマレジーナも姉妹達もだけど、ラチェレのボスだって美形だし? お連れさんだって綺麗じゃない。そのうえベルナルドよ。卑屈になりそう……あっ」
新聞に手を伸ばすと指先が封筒に触れ、雪崩を起こしカウンターの向こうに落ちてしまう。
「あぁ、やっちゃった。水こぼしてなかったわよね汚れてないかしら……あら?」
カウンターから飛び出し床を見ると椅子の間に散らばる封筒に混じり、使い込まれた帽子が落ちていた。つばもくたくたでトップクラウンもぺったんこに潰れた、汚れとほつれの目立つ帽子はベルナルドの物だろう。ローザは手紙と一緒に帽子を持ち上げる。
「やだ、もしかして新聞出した時に落としたの? 気がついたら取りに来るかしら」
手紙をカウンターに置いたローザは、軽く叩いて帽子の埃を落とす。ふと、何かがひっかかり、ローザは帽子をじっと見つめる。
「ベルナルドって、帽子かぶる事は滅多にないわよね?」
街中で彼を見つけるのはいつも、あの蜂蜜色の髪が輝いているのが目に付いた時だ。長身の男性は数多くともあの髪色を持った男は滅多にいない。髪を伸ばし、リボンを付けているとなればベルナルド以外いないだろう。これはローザの推測ではあるが、ベルナルドも自身の頭髪を目印にしている節があり、帽子もかぶらないのだ。だから、鞄に帽子を入れている事の方が珍しいのではないだろうか。
「つまり、ベルナルドは帽子が必要になりそうだったから入れていた、って事よね?」
そう気がついた瞬間、ローザは乱暴に扉を開けて外に飛び出し、大きな声で名を呼ぶ。
「ベルナルド! ベルナルド! まだそう遠くないはずなんだけど、ベルナルドーー!」
この街の上流階級では男性が人前に出る時、帽子をかぶる事が一つのステータスであり、礼儀となっている。詳しい理由は、ローザは知らない。この街にやってきた時には階級差の関係なく、街中の男性は誰もが帽子をかぶっていた。大人も子供も全て、だ。
ついさっきベルナルドは「この後も人と待ち合わせてる」と言っていた。時間を指定して人と会う約束を取り付ける事それ自体が、相手は時間に縛られている事を、つまり、上流階級の人と出会う約束である可能性が高い。
「あぁもう、いっつも大事なときに何かミスってるんだからベルナルドったら」
眉目秀麗、文武両道、才色兼備を全て揃えたような美青年、そう思わせておいてベルナルドはいつも今回の様な些細なミスをよくしている。待ち合わせ場所を勘違いしているとか、劇場のチケットを忘れるだとか、子供を助けて噴水に落ちるだとか、そういった、一歩間違えると致命的になりかねないミスが多い。最悪の場合、大惨事になりかねない物事が、しかし、それらは全て急げば間に合う様な、ぎりぎりのラインで乗り越えている為、大事になった事はないらしい。これも、噂として聞いただけで本当に大問題に発展していないかどうか、ローザが確認する術もないのだが。
「ベルナルド! もう、こんな時に限って人一人、馬車一つ通らないなんて」
メインストリートは馬車の姿もなく街灯近くに人影もみえない。辺りを見渡しても暗闇が広がるばかりだ。ローザは帽子をエプロンのポケットに突っ込み、小さく飛び上がりながら釣り金具に下げたランタンを取ると、大きく左右に揺らし辺りを見渡す。白煙と甘いバニラの香りが闇の中に広がるが、小さなキャンドルの明かりでは遠くまで見る事はできない。
ローザは空いた手でベルナルドの帽子をぎゅっと握り、今にも駆け出しそうにその場で足踏みをする。
「えっと、えっと、遠回りして、ウチの店にきたんだから、行くのは、向こうのパブ、のはず!」
ベルナルドの名を呼び、ローザは闇の中を駆け出す。もし、会うのが上流階級のお堅い人だったら、帽子が無いまま会うのは命取りだ。気難しい人は礼節をわきまえない男を気に入らないだろうし、簡単に消してしまう。たかが帽子一つの事だが、花屋の客人の中にも気難しい、偏屈な人がいた。
「ベルナルドー! ベルナルドー!」
店から少し離れた所で、街灯の向こうに駆け寄ってくるベルナルドの姿を見つけるとローザはぱぁっと顔を明るくする。
「ベルナルド、っはぁ、よかった。 間に合った」
息を切らせ、ローザはちょうど街灯の下でベルナルドに合う。
「どうしたんだローザ。そんな大きな声で僕の名前を呼んで。もしかして僕と離れるのが嫌だった? だったら嬉しいんだけど」
「そんなんじゃないわよ。はい、帽子」
ローザは帽子を握りしめていた手を突き出し、ベルナルドの胸元をとんと叩く。
「僕の帽子、え、落としてた?」
帽子を受取ったベルナルドが鞄の蓋を開け中を漁っていると、ローザが一つ頷く。
「もしかして、これを届けようとして、あんなに叫んだの? 淑女が一人で夜道を走って?」
「お説教はいいから、早く行きなさいよ」
「そうはいかないよローザ。また君を一人で、夜道を行かせろって言うのか? 冗談だろ」
「走れば直ぐだから」
「ローザ、いくら君でも夜道を一人で行くのは」
「あなたこれから人に会うんでしょう? 帽子無しで会うなんて失礼極まりないわ。あなたが人と会うのに間に合うように、あたしは届けにきたの。これであなたが待ち合わせに遅れたらあたしのがんばりが無駄になるの」
勢いを付けて言われベルナルドが口籠もると、ローザは小さく笑う。そのまま、ベルナルドの身体を回し背中を押した。
「ほらほら、あたしもお店に急いで戻るから。いいことベルナルド。次は帽子を落としても届けてあげないからね」
「そんな事言って、僕が人と会うって知ってたらまた届けてくれるんだろ?」
「気が向いたらね」
ぽん、と少し強くベルナルドの背を叩く。ベルナルドは蹈鞴を踏みながら身体を捻り、ローザを振り返る。
「ありがとうローザ。次はもっと手紙を書いてお店に行くよ」
ローザは返事をせず、来た道を急いで駆け戻っていく。幸い、店を空けていた間に来客は無かったようだ。ローザはランタンを元の場所に吊そうとして、止めた。入り口にランタンを置き、裏から踏み台を取ってきてから、ランタンをかけなおす。
「しっかりしているようでどこか抜けてて、どうしてもほっとけないのよね、ベルナルド。だから人気もあるんでしょうけど」
ランタンを見上げていると、馬車の音が近づいてきた。振り返ればメインストリートに馬車灯りが揺れている。馬車が花屋の前に止まり、御者が扉を開けると、ローザは姿勢を正す。
「いらっしゃいませ、旦那様。良いお花が揃っていますよ」
ドアベルの音が夜のメインストリートに鳴り響いた。