スイレンは日差しを残し
からんからんとドアベルの音が鳴る。時々、開店前に来客が訪れる事があるのだが、急ぎ花が欲しい人の事情は、以外と深刻な物だ。
「いらっしゃいま……」
振り向きざま、満面の笑顔で出されていたローザの声が止まる。
来客は一組の男女であった。マーメイドラインのスカートにジゴスリーブのジャケット姿の女性が店内に入ってくる。ローザの着ているものよりふっくらとした肩口と布をたっぷりつかったフリルリボンタイが硬い印象のジャケットに柔らかさを与え、女性のスタイルの良さをより一層際立たせていた。首や耳元を飾る宝石の輝きは肌の美しさの前にも身を潜め、綺麗にまとめ上げられた髪には花飾りの付いたつばのひろいハットが乗せられている。女性が顔を少し上げた事で、ローザはやっと女性の顔を見止める事ができた。
「マンマレジーナ」
驚きの溜息と共にローザは主人の名を呼ぶ。この花屋のオーナーでもありマフィアインセットのボスでもある、マンマレジーナ。ローザの祖母に近い年齢だというマンマレジーナだが、その姿はローザの母より、いや、一歩間違うとローザの姉だと言っても通じる美貌だ。
静かな微笑みをたたえ、そこに立っているだけで多くの男達が膝をつき求婚する、それがローザの主人だ。
何度見てもその美しさには目を見張るのだが、ローザが声を無くしたのはその後ろ、マンマレジーナの為に扉を開けていた男の姿だった。
「おはようございます、マンマレジーナ、と……」
ローザの挨拶を聞いたマンマレジーナは柔らかく微笑み、優しい声を返してくれる。
「おはよう、ローザ」
挨拶を交わすものの、ローザは気もそぞろにマンマレジーナの後ろにいる男性へと視線を向ける。しかし、ローザの気も知らず男はハットを軽く持ち上げ見慣れた笑顔をローザに向けてきた。
「やぁ、開店前に悪いね、ローザ」
「いえ、構いませんが……」
男はこの花屋の常連客だ。ほぼ毎日花を買いに来る、上客中の上客。いつも質の良い三揃えのスーツを身に纏い、帽子や手袋も、その方面に素人のローザがみても解る一級品ばかり。本人が来店する時は自分の胸元を飾る花を一輪欲しがり、花はいつもローザに任せてくれる。本人が来られない時は、メルという少年やラファエレ、ミケーレという彼の従者が買いに来る。一輪だけの時もあれば、一輪と花束を一緒に買っていく場合や、時には幾つかの花束を注文していく時もある。
どこかの貴族か金持ちなのだろうとは思っていたのだが……。
「ボス、マンマレジーナとお知り合いだったのですね」
ぽかんと口を開け、驚いた顔を隠さずに言うローザに、マンマレジーナの声にも驚きが混ざる。
「やだわローザ、あなた、彼がどこのボスか知らなかったの」
「は、はい。メル、えぇと、お連れの方達も〝ボス〟としか呼ばない、いえ、お呼びしなかったものですから」
「あらあら、ほんとあなた達ったら、ローザ、あなたこの街に来てもう2年? 3年だったかしら?」
こつこつと靴音を鳴らし店内を歩いていたマンマレジーナは、大きな花に顔を寄せ香りを楽しむ。
「えぇと、3年になります。このお店で働かせていただいてからは、2年くらいです」
「2年も一緒にいて自己紹介もしていなかったのね」
口元に手をやり、ころころと楽しそうに笑うマンマレジーナは入り口に立ったままの男へと顔を向ける。同じ女のローザでもドキリとする流し目を向けられた男は、しかし、和やかに笑うだけだ。小さく肩を竦めしょうがないわね、と言いたげな苦笑を漏らし、マンマレジーナは改めてローザに男を紹介する。ただ男を指し示すだけの仕草すら、しなやかで美しい。
「ローザ、彼はラチェレのボスよ」
「ラチェレ、って、あの〝羊〟の? 錬金術マフィアのラチェレ?!」
「そうよ、そのラチェレ。この街でも有数の古く強大なマフィアのボス」
驚きに目を丸くしていたローザの顔がさらに驚く。息をするのも忘れていたのか、脱力しきったような間延びした声がローザの口から出る。
「あぁ~~。それで、やだ。あたしったら、てっきり」
「てっきり?」
「いえ、あの、インセットからラチェレに来ないかって何度か言われてたんですが、冗談か何かだと思ってて、すっごく失礼な、その」
「まぁ。あなた、ローザを引き抜こうとしていたの?」
「そりゃ〝エーテル〟を扱える子なんだからスカウトするさ。この子の花はとても生き生きしてて長く持つし、オレ気にいっちゃったんだよね。可愛いし」
「それでローザ、あなたはなんて断っていたの?」
「えぇと、遠慮しますって」
「それだけ?」
「は、はい」
「酷いだろ~? このそっけなさ。何回誘ってもダメだし、花はウチでも育てて良いのにさぁ」
くすくすと笑うマンマレジーナの隣でラチェレのボスはがっくりと肩を落とす。
「す、すみませんでした。その、まさか本当にお誘いされてるとは思わずに」
「じゃぁどう? ラチェレに」
「いえ、それはお断りします」
慌てた様子で謝るローザだったが、引き抜きの言葉にはすっぱりとした断りを返す。その即答っぷりにラチェレのボスはまたがっくりと肩を落とした。
「ちぇ~。こんな良い子どこで見つけてきたのさ。マンマ」
「っふふふ、西の方、とだけ教えてあげるわ。ローザ。彼の花を一つお願い」
「はい、今日は」
「マンマとデート。なんだけど、まー。マンマの洋服見たらわかるよね、楽しいデートじゃないんだわ」
「畏まりました」
ローザは小さく頭を下げ、花に向き合う。
妖艶と言われる美貌を持つマンマレジーナは、その時の仕事に合わせて衣装を変える。友好的な関係を築きたいときや相手に好意を示す時は豪奢なドレスを、ビジネスとして対等な立場や公平な判断を下したいときはスーツを着る。今は後者だ。それに、同行するのはラチェレのボス。
インセットも古く大きな組織だが、その古さはラチェレに負ける。なにせラチェレはこの街の創設に関わり、その時からずっと存続を続けている組織なのだ。
ローザは膨らんだ蕾みを一つ採ると、剪定ばさみで茎を切り落とした。ラチェレのボスはスーツの胸元に一輪の花を飾る為、茎は短くて良い。ローザはポケットから小瓶を取り出すと水を含ませた脱脂綿に一滴垂らし、切り口を包む。水分がスーツに染みこまないよう根元を防水布で包めば、完成だ。
花を持ったローザが振り返れば、ラチェレのボスは身体を屈め胸元のポケットに指を引っかけ、口を広げる。彼の胸元に花を飾り、選んだ花の名前や逸話を語る事までが、ローザの仕事なのだ。
「ガザニア。今は蕾みですが、太陽の光が当らないと開かない花です。丁度お話が終わる頃には、綺麗に広がっていると思いますよ」
「なるほど、結果が花開くか否か、楽しみだねぇ。ところで、どうして外での会談だってわかったの? 言ってないよね?」
「マンマレジーナがつばの広い帽子を選ぶ時は外に長く居る時ですから」
「あぁ、なるほど」
心底納得した、という風にラチェレのボスが言うと、ローザとマンマレジーナは小さく頬笑んだ。
ローザは店の扉を開け、2人に道を作る。店に入ってくるときはラチェレのボスがマンマレジーナの為に扉を開けていたが、出る時はローザの仕事だ。2人が馬車に乗り込み、遠く姿が見えなくなるまでローザは頭を下げて2人を見送っていた。
※ ※ ※
食料品や衣料品などの必需品と違い、普段の生活に必要のない生花は贅沢品にあたる。それも、宝石やドレスのように一度購入したらずっと手元にある物とも異なり、数日しか持たない消耗品だ。客人の多くが上流階級で占めているこの花屋もそう、頻繁に客人が訪れる店ではない。
客人がいない時間をローザは掃除や商品の手入れに費やす。生花が売れると茎葉を切り落とすので掃除が必要だ。作り置きされ壁を彩っているリースも、売れたら別の物を考えねばならない。しかし、生憎と今日はどちらも必要がない。
「カウンターと椅子は綺麗に拭いた、小物も減ってないから補充もいらない。暖炉、も使ってないから掃除は不要。と、なると」
うーんと考えながらローザの顔は横に動く。カウンターの後ろは裏手への通路を間に暖炉とガラスの戸棚が置かれている。戸棚の中にはアロマオイルやローザ手製のアロマオイルで作った化粧品類、石鹸やサシェ、ハーブティ、それとティーセットが一組収まっていた。
「やることもないし、戸棚の中でも掃除しましょうか」
静かにガラス戸を開けたローザは壊れ物ばかりの商品を慎重に取り扱い、カウンターへと移動させる。ティーセットはハーブティの試飲用にと置いてある物だ。ごく稀に花束の相談や化粧品類の相談で長居する客人が訪れる為、カウンターには足の長い丸椅子が三脚置かれている。長時間立ち話させるよりは座ってじっくりと話を伺う方が良いし、その時にハーブティを楽しんで貰えば購入して帰ってくれるかもという思惑だ。冬場の冷え込む時は身体の温まるお茶を用意し、客人に振る舞うときもある。夏場は出番の減るティーセットだが、いつ使うともわからない。ローザは一先ず、ティーセットを裏手に持っていき簡単に洗う。それから戸棚の中を拭き、カウンターの上に置いた商品の手入れを始めた。サシェは羽箒で埃を払い、瓶類は布で乾拭きをしていく。こつこつと規則正しい秒針の音だけを耳に、ローザは丁寧に手入れをしていった。
メインストリートの街灯に明かりが灯り、大きな窓硝子に小さな光りが映る。ガス燈の灯りに気がついたローザは曇り空のように薄暗い外へと顔を向けた。
人の集まる街の中心部は背の高い建物に囲まれており、暗くなるのが早い。今も空を見上げればまだ青空は広がっているが、日差しは建物に遮られ地面まで届かないのだ。立地条件が良く日当たりのいいこの花屋でも晴天時、それも太陽が天辺付近にある時だけの、ごく僅かな時間しか日差しは差し込まない。その短い時間の中で少しでも長く花に太陽の光を与えてやりたいローザは、店内の花を並べる時、最初にメインストリート前の窓辺へと花を置く。どんよりとした灰色の景色を行く人が少しでも明るい気分になれるように、いつもほの暗いメインストリートに輝く花を添えていたいのだ。
「この薄暗い街も好きになってきたけど、花たちには日差しが足りないのよね。本当、もう少し明るい時間が長いといいのに」
太陽が完全に沈むと更に暗く、メインストリートには闇が訪れる。宵闇の中に煌々と輝く街灯の灯りは周囲の暗さを増し、安心を与えるはずの灯りは小さく、心許なく見えてしまう。
夜道を行く人は誰もが明かりを手にしている。星月の明かりの届かないメインストリートは街灯があるからまだ良いのだが、道を一歩外れると街灯は無い。灯一つ無い闇夜が静かに、ぽっかりと開いた穴のように広がっている。運良く月灯りの届く小道ならば良いかもしれない。だが、灯も持たずに夜道を行くような人はこの街で長生きできないだろう。
暗い夜道にぽっと明るい灯火があるとほっとするのは、家を思い出すからだと、ローザは思う。だからこの花屋も毎夜、店の入り口にランタンを飾る様にしている。この花屋を家だと思って欲しいわけではないが、開店している事も伝えられ夜道も照らせるのなら、丁度いいはずだ。
ローザは裏手へ行き備品棚に置かれた小さなランタンを2つ手に取った。
「今日は花束の注文はないし、少し人を誘う香りがいいかしらね」
ランタンが置かれていた横には高さの違うキャンドルが幾つか並んでいる。四角く白っぽいのは普通の蝋燭、色つきの円形はローザ手製のアロマオイルを混ぜ込んだアロマキャンドルだ。置いてあるだけでも香りが漂い、火を灯せば更に強く香りが広がっていくアロマキャンドルは、蝋の量を調整すればだいたいの時間も計れる。マンマレジーナもお気に入りの一品だ。
視線を泳がせ、どれにしようかと迷う指の動きが薄いピンク色のキャンドルの前で止まると、ローザはキャンドルを手に取った。掌に収まる大きさのキャンドルは背が低く、夜明けには消える。ローザはランタンの中にキャンドルを入れると店の入り口へと向かった。
ローザの花屋はこれからが本番だ。日の高い時間の花束は急な来客やお祝い、見舞いなどが殆どで、あまり豪奢な花束はでない。そもそも、花束を贈ろうと思った人は注文を入れるものだ。
夜に来る客人は皆、両手で抱える大きな花束を買っていく。長い間留守にし、寂しい思いをさせた妻や娘への贈り物だという人もいたが、ローザの店に来る客人の殆どは、マンマレジーナの〝もう一つの花屋〟で働く女性達に贈る花を買いに来る。
マンマレジーナの治めるマフィアインセットは、この街全ての〝花〟を取り仕切っている。生花ではない花、女という花を売る高級娼婦館がマフィアインセットの大部分を占める〝花〟だ。彼女たちは皆〝マンマレジーナの娘〟として毎夜、花を受取り、花を売り、花を咲かせている。
ローザの扱う生花はインセットのほんの一部に過ぎない。例えるなら大輪の薔薇と名も無き雑草花だろうか。しかし、名も無き花であっても〝花〟である事に変わりは無く、この花屋もマンマレジーナの配下だという事はこの街の人々にとって暗黙の了解だ。
別店とはいえローザも〝マンマレジーナの娘〟の1人に違いなく、姉妹としての挨拶も済ませてある。生きる場所が違う為そう頻繁に会うことは無いが、姉妹達はローザの咲かせた花は勿論アロマオイルや化粧品を気に入ってくれた。定期的に注文を入れてくれるご贔屓さんというか、馴染みの客を作ってくれたと言うべきかは、少々迷う所だ。
いつだって、男性は女性へのプレゼントに頭を抱えている。しかし、この花屋にくれば贈る相手が好きな花も、贈って喜ばれる品々も揃っている。姉妹達の客人がこの花屋に訪れるようになるのは、当然の流れだろう。
今日のように花束の予約も商品の受け取り予定もない日は、姉妹達に会いに行く人も少ないらしい。そんな日は
夜道を照らす灯に香りを纏わせてやる。姉妹達が好む香水や化粧品に似たバニラの香り、その奥に隠れる爽やかなシトラスの香りは刺激的な夜を思い出させ、姉妹達に会いにいこうかと思わせる為に。
キャンドルに火を付けると、ローザはランタンを両手で持ち、頭の上に掲げる。背伸びをして吊し金具にかけようとすると、後ろから手が伸びランタンをひょいと取り上げた。