乳白色のアムボレラ
花の香りがする。
嗅ぎ慣れた、甘い甘いポピーの香り。
花園に溢れかえるのは土と草と花の香りだけだったはずなのに、今は血と鉄の香りが混ざりだしていた。花や木々も、どこか怯えた様にしなだれている。
「……ローザ」
「喋らないでベルナルド。見つかっちゃう」
土袋の山に身を隠すローザは周囲を気にしながらハンカチをベルナルドの傷口に押し当てる。薄い布地はあっという間に赤く染まってしまうが、無いよりはましだ。ローザは頭に巻いていたスカーフを乱暴に取ると、包帯代わりに巻き付ける。エプロンのポケットから剪定ばさみを取り出すとエプロンを切り刻み、ベルナルドの足をきつく縛り上げた。傷に障ったのか、ベルナルドの喉奥から苦痛の声が漏れる。
いつもなら軽口を叩き文句の一つでも返しそうなものだが、ベルナルドの口からは何も出てこない。当然だ。ローザに会った時にはもう、普段のベルナルドからは想像もできないほどに薄汚れ疲弊した姿だったのだから。
ベルナルドは鼠――トーポという情報を扱うマフィアチームに所属する、見目麗しい青年だ。物腰も柔らかで人当たりもよく、街の人、特に女性からの評判が高い。
太陽に照らされるとキラキラと輝く蜂蜜色の髪は可愛らしいリボンで緩く纏められ、胸元にゆったりと降りている。細身だが背は高いせいか男性らしい体躯であり、なによりもいつも小綺麗にした装いは清潔感に溢れ、より一層彼を輝かせて見せた。
そんな男が髪と衣類を乱し、薄汚れた顔で現れれば誰だって驚く。その出会った場所が花園だったのだから、ローザは驚きに声を出すこともできなかった。
複数の足音が近づいてくるのが聞こえ、ローザはベルナルドの身体を抱き寄せる。身を寄せ少しでも小さく、二人の姿を隠そうと必死だ。
怯え、小さく震えるローザの耳に聞き慣れた、陽気な声が届く。いつもうちの花を胸元に飾っている壮年の姿を思い出す。
「いやぁ、流石は虫の――インセットの秘密の花園だ。どの花も木々もすばらしい。誰に見せるわけでもないのにとても綺麗な庭園だね。あ、みんな、わかってると思うけど間違っても花を踏みつぶしたり切ったりしないようにね。花壇の中も入っちゃだめだよ」
「はいはい。気をつけますよ、ボス」
応えた男の声に、ローザは彼の面影をも思い出す。眼鏡をかけた彼は少々乱暴な口調だけど、花を大事にする優しい人でもあった。確か、彼はラファエレだっただろうか。
続く冷え冷えとした声音にローザの腕が無意識にベルナルドを強く抱きしめる。
「ボス。この花園は〝虫〟の巣、あの花屋の娘も一応、インセットの一員です。〝鼠〟と一緒に逃げられかねません」
この声の人はベルナルドよりも、いや、恐らくこの街で一番美しいと言われているミケーレの声だ。彫刻のように美しく、声も石のように冷たい人。声と同じく立ち居振る舞いも何もかもが冷たく感じるのだが、彼もまた花は大事にしてくれる人だ。
「そうそう、そうなんだよね。トーポの男もオレ達と一緒であの花屋の常連なんだろ? 店で会ったことは無いけどさ」
「あぁ、俺もそう聞いてるぜ、ボス」
「仲良しだったら、助けちゃうかな」
「そりゃぁ、というより、今も一緒に逃げてんだから、俺らよりも仲良しなんじゃねぇの?」
「やだなー。オレあの子気に入ってるんだけど」
「あの子は良い花を育てるとインセットのボスも言っていますし、何より〝エーテル〟を扱える。ラチェレとしても失うのは惜しいです」
ボスとラファエレの軽口にミケーレの冷たい声が挟まる。
「ねー。ほんと、ウチに来たらいいのに。そういうわけでさー。諦めて出てきて欲しいんだけど、インセットのお嬢さ~ん」
「ボス」
短く名を呼ぶだけでミケーレは静かに抑圧する。
「いいじゃんいいじゃん。いくらトーポでもあの足じゃ逃げ切れないよ。インセットのお嬢さんだって別チームのごたごたに巻き込まれたいわけないって」
そう、ローザもまた虫――インセットというマフィアチームに所属している。そしてここ、花園はインセットが厳重に管理している秘密の花園だ。本来なら居ないトーポのベルナルドが姿を現したのも驚きだったが、武装した男達がベルナルドを追って来たのも、それが羊――ラチェレというマフィアチームである事を知ったローザは驚きを通り越し唖然とした。しかし、驚愕の事実はそこで止まらない。
ボスが、いた。ラチェレのボスまでが居る。名のあるマフィアチームを束ねる男がベルナルドという一人の男を追いかけ、成り行きかも知れないが、この花園に襲撃をかけている。
ローザはベルナルドの所属するチームの規模を知らないが、一つのマフィアチームである事は知っている。つまり、これは、歴とした抗争だ。〝羊〟が〝鼠〟を追いかけ、〝虫〟を巻き込んででも仕留めたい。
あり得ない事の連続はローザの心臓を止める驚きだが、どこか冷静なローザの思考は〝逃げる〟というただ一つに集中していた。ローザも多少は体力や筋力に自信を持っているが、喧嘩ができるわけじゃない。大人の男にかなうわけもないし、そもそも武器を持った相手に立ち向かおう等と思うはずもない。
ラチェレのボスが言う様に、ローザにとって花園は家であり庭であり、巣の様なもの。部屋も通路も、何処に何があるかも知り尽くしており、単純にこの場から逃げ切るだけなら造作も無い。――しかし、怪我人を抱えて大勢の、それも武器を持った男達から逃げ切る事など、どうやったらできるのだろうか。
ふと、ローザはベルナルドへと視線を落とす。
苦痛に耐える顔はどこを見ているのかわからない。ローザの腕の中で浅い呼吸を繰り返しているあたり、足以外にも傷を負っているのだろう。そこらの女性より綺麗だったベルナルドの肌もくすみ、唇は色褪せ、顔色は悪くなる一方だ。太陽の下で庭仕事をするローザの日に焼けて浅黒い肌とは大違いだったのに、今ではローザの肌の方が健康的で美しく思える。
マフィアの掟は絶対だ。ローザもインセットの一員として、自分が所属するチームの安全を一番に考えなくてはならない。だから、ラチェレのボスの言うとおりに姿を現し、ベルナルドを引き渡すのが〝インセットのローザ〟としては正しい選択である。
「さぁて、改めて問おう。インセットのローザ。トーポを差し出すかそれとも……」
ラチェレのボスの声が響く。人の命に関わる選択を迫っているというのに、その声はとても軽い。まるで子供が大人を真似て裁判のごっこ遊びをしているだけの様だ。しかし、どんな錯覚を覚えようとも、これは現実である。
ローザは選ばなくてはならない。
自分とチームの安全か、それとも、愛した男の生命か。
ローザは一度、ベルナルドを強く抱きしめる。そして、ベルナルドの身体をゆっくりと土袋にもたれさせた。
ベルナルドは弱々しく視線を上げローザを見るが、その姿は直ぐに側の花の中へと消えていく。ローザは身体を小さく丸め、身を隠したままベルナルドから距離を取ると、すっくと立ち上がった。ローザの動きに合わせ草花が大きく揺れ動く。ラチェレのボスと顔を合わせたローザはぎゅっと手を握り、大きく息を吸った。
花の香りがする。
甘い甘い、ポピーの香り。
土と〝エーテル〟と、血と鉄と火薬の香り。
「〝鼠〟を渡すわ」
血のついたポピーの花が血滴の重みにしなだれ、揺れていた。
※ ※ ※
薄暗い店内に一筋の光りが差し込んでいる。明り取りの小さな窓から伸びる光はささやかだが、身支度を整えるのに充分な明るさだ。手の届く天使の梯子に照らされたレンガの色は、そこだけ赤々と輝く。
姿見鏡の前で身形を確認していたローザは鏡に映る自分の姿をまじまじと見つめる。
「やっぱり、仕事着には勿体ないと思うのよねぇ。こればっかりはいつまでも慣れないわ」
夏の夜空を思わせる濃青色のジゴスリーブワンピースはローザの主人が用意した、いわば制服だ。しかし、この制服はローザの為だけに作られたローザだけの洋服。ローザの主人は全ての部下に一番似合う洋服を、全て、オーダーメイドで製作している。当然、布地も良い物であり、ただの制服として使うには勿体ない。花屋の店員でもあり、庭師でもあるローザは汚して破くのだからもっと安い布で良いと主人に言ったが
「それなりの物を身につけていれば仕草にも気を配り、心も気高くなるわ。女は常に美しくあるべきよ」
と、却下された。当然、デザインも流行のスタイルになる所だったのだが、仕事に差し障る様では意味が無い。ローザはせめて極力、控えめにして欲しいと頼み込み、肩もスカートの膨らみも最低限に抑えてもらった。まるでメイドか家庭教師の様だと主人は不満だったが、ローザとしてもぎりぎりの許容範囲でもある。
「そりゃぁ、肌触りも着心地も良いわよ。良い布地だもの。中流階級のお嬢様のドレスと同じ布地よ? 良いに決まってるじゃないの。身体に合わせているから窮屈さも全然無いし動きやすいし、布地も広がらなくて邪魔にならないわ」
誰も居ない店の裏手で大きく身振り手振りを交え語るローザは鏡に映る自分に話しかけているようだ。自分の行動が滑稽に思えたのか、ローザは自分自身と視線を合わせた後、溜息と共に肩を落とす。
「それだけ、この花屋を利用するお客様が上流階級の方々って事なのは理解しているわよ。マンマレジーナに恥をかかせるわけにはいかないのもわかってる。でもねぇ」
改めて鏡に映る自分を眺め、ローザは重苦しく息を吐いた。
「田舎娘のあたしには不釣り合いなのよねぇ。背伸びしているというか、着られているというか、なんというか……。これ、恥の上塗りになってないかしら……。特にこの髪」
ローザは胸元にかかる髪を摘まみ、くるくると指に絡める。指を離し、くるんと回転しながら解けていくが、髪はうねったままだ。ローザの髪は緩いウェーブのかかった赤毛だ。髪の量も多くもっふりとしている。仕事の邪魔にならないよう纏めたいが量が多すぎて纏まりきらず、いつも適当に結びスカーフで隠していた。そんな髪型をローザの主人が許すわけもなく、今は黒いスカーフをヘアバンド代わりに結び抑えている。
「これ、髪の量が多く見える気がするんだけど、邪魔にはならないのよね。まぁ、この街じゃ赤毛を忌み嫌う人がいないから気は楽だけれども。さ、お仕事しましょ」
気を取り直し、ローザは白いエプロンを着けながら水場へと向かう。向かうと言っても振り返れば直ぐそこなのだが。
店の裏手は狭く、その殆どを水場が占めている。店の裏口を開けるとここにはじめて訪れる誰もが驚く、石造りの水溜場だ。奥に細長い裏手の左壁を殆ど占める水場は、大人の女性一人が横になっても余る長さがあり、蛇口が三カ所も付けられている特注品。故郷では井戸から水を汲み上げていたローザは捻るだけで水が出てくる蛇口をはじめて見た時、大興奮した。今もたっぷりの水が張られ、今朝摘んだばかりの花々が所狭しと並んでいる。
水回りを大きく取った為、左手の奥行きはあまりない。コートかけと姿見鏡、そして奥細い棚が並ぶだけだ。棚には花束につかうリボンやレースなどの小さい備品が置かれ、下の方は空の荷箱をいくつか置ける隙間が少しあるくらい。棚の隣には店のカウンター内へ繋がる入り口がぽっかりと穴を空け、突き当たりの壁は暖炉の煙突が通っている。
ローザは一番大きなバケツに水を入れ、両手でソレを持ち上げると売り場へ向かう。水溜場のある裏手は暖炉の分店内よりも幅が狭く、カウンターの端に出る。そこから店内に入るにはカウンターを出なくてはならないのだが、店内とカウンターを仕切る仕切り板は裏手の入り口と真逆にあり、カウンター内を端から端まで通り抜けなくてはならない。水を零さないようゆっくりと歩くローザはカウンター裏まで来ると一度バケツを床に降ろし、カウンター端の仕切り板を上げカウンターと店内との道を確保してから、急ぎ足で戻りまたバケツを持ち上げる。
バケツの中に小さな波を作りながらも、ローザはゆっくりとした歩みでカウンター内を進み、店内の床にそっとバケツを置いた。
「ふー。半分くらいのを二回持ってくるのと、どっちが良いのかしら、いつも迷うわ」
腰に手を当て苦笑し言うと、ローザはまだ薄暗い店内を見渡す。
売り場には出番を待っている花たちがちらほらと並んでいた。あちこちに散らばる花たちを纏め、持ってきたバケツに移動させる。店内に並ぶ空バケツを持てるだけ持ち、水場に戻って中を簡単に洗い元に戻す。これを何度も繰り返し、全てのバケツを綺麗にしてから、花たちを入れていく。
花の中には日差しに直接当てない方が良い花がある。日差しに強く、太陽の下に置いた方が良い花は窓の側に、日差しが苦手な花は店内中央や壁に並べるのだが、花の背の高さ、大きさ、色合いにも気を使わねばならない。とはいえ、扱う花はそう変らないので、花の置く場所もだいたい決まっている。ローザは花を傷つけないよう並べ、そして、全てのバケツにたっぷりの水を入れてやる。
「うん。今日はみんな元気だし、栄養剤はいらないわね」
花を並べ終えたローザはカウンターに入ると数枚の用紙を手に取り、届けられた品物の確認を始めた。
ローザの勤める花屋は生花の他にも花に纏わる物が揃えられている。ドライフラワーやサシェ、ハーブティー、アロマオイルとそれらから作られる香水と石鹸、そして化粧品まで。個々の量は多くないが種類が豊富だ。その為、ローザはいつも一つ一つを声に出して確認するのだが今日は花以外の納品物は無かったので、その必要もない。
「お花良し、入荷品は無し、花束の予定も無し。今日はゆっくりできそうかな?」
書類を在るべき場所に仕舞い、帳簿に今日の日付を記入して開店準備は終了だ。ぱたんと帳簿を閉じたローザは顔をあげ時計に目をやる。
「看板を出すにはちょっと早いわね」
ローザは店内をゆっくりと歩きだす。
裏手とは違い、店内は広々とした造りだ。部屋の中央と側面の壁には全て花が飾られている。入り口は街のメインストリートに面しており、壁の殆どを締める大きな窓は店の中をよく見渡せた。入り口正面の壁は全てカウンターになっている為、当然、店内からもメインストリートの様子が伺える。レンガ造りの街中で太陽の光を浴びて輝く花に足を止める人は多い。花を眺めて頬笑む人の姿があると、ローザも自然と口元が緩む。時折、窓硝子越しに目が合い、どちらともなく微笑み合う。
通勤途中か、それとも、散歩だろうか。恋人とのデート、親子で買い物。人と馬車と車が絶えず行き交うメインストリートは毎日、多くの人々が擦れ違う。年齢も性別も様々な人達がメインストリートを歩く中で、偶然この店を目に留める。大きな窓の向こうに飾られた色鮮やかな花に誘われ、角にある入り口をそっと開く。
まずふわりと花の香りがするのだ。たくさんの花々の香りに優しく包まれ、それから、目の前に飾られた大きな花が視界いっぱいに広がる。高い天井に届けと言わんばかりに、段差をつけて飾られた花は貴婦人のドレスさながらだ。花に目を奪われ、視線は次々と花を追いかけ、次第に壁や足下へと飾られた花たちを追いかけていく。店内の中央に飾られた花とはまた別の、慎ましくも清楚な花、それから、ほっとするような安心感を与える見慣れた花たち。しかし、見慣れた花たちすら、この花屋で見かけるとどこかいつもと違う〝よそいき〟の姿に見える事だろう。それから、リースや花束を見て、隣の人に、家で待つ人に届けたくなる。
こつりこつりと靴を鳴らし歩くローザはふいに足を止めて花の向きを変え、時に剪定ばさみで形を整える。見栄え良く、しかし、花同士の良さが引き立つように。お客様が大事な人に、この花を贈りたいと思って貰えるように手を入れていく。
何度か店内を回り、ローザは最後に玄関前に立って全体を見渡す。
「……よし。今日もみんな綺麗で可愛い」
満足そうに言うと、まるでローザの言葉を喜んでいるかのように花々が小さく揺れた。