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君に贈るバレンタイン

作者: 無表情の狐

 今日、谷澤たにさわくんにチョコを渡す。

 二月十四日、バレンタインデー。

 昨日は緊張でなかなか寝付けなくて、ずっと明日のことだけを考えていた。

 作ったのはチョコレートケーキ。シンプルで飾りなんて何もないけれど、愛を込めて作ればなんだっておいしくなるって、どっかの偉い人も言っていたから大丈夫。多分。

 そんな感じで制服に着替えて、ふわふわした気持ちで家を出る。アスファルトの地面を踏む足が、自分でもわかるくらいにぎこちない。こういうのを浮き足立っているというのだろうか。

 なんだか妙に落ち着かなくって、バス停まで歩いている間、自然と周りをキョロキョロと見渡してしまう。チョコが入った鞄にそれとなく、何度も目がいってしまう。あきらかに不自然だと、自分でも思っているのに、やっぱり周りを気にして目が動く。

 もしかしたらそこの曲がり角で誰かとぶつかって、鞄が下敷きになって、チョコが潰れてしまうんじゃないかとか、今日に限ってひったくりに遭ってしまうんじゃないかとか、バカみたいな思考ばかりが頭の中を駆け回る。

 そんな思考のように、目玉の上を駆け回る黒目が捉えるのは、塀、電柱、まばらに積もった雪、名前もわからない鳥、アスファルトの地面、車、同じ学校の制服を着た女子、木、雲、太陽……と、太陽は出ていない。雲ばかりの空。

 そういえば、傘を忘れた。本当にチョコのことで頭がいっぱいだったんだなぁ、と軽く自分を馬鹿にする。雪ならまだいいけど、雨か雪が降ってきたらどうしよう。谷澤くんの傘に……、無理無理。自分にそんな勇気はない。

 首に巻いたマフラー(これは忘れていなかった)を口を隠すように指でつまんで引っ張って、いつの間にか止まっていた足を前へと運ぶ。

 はあ、と息を吐くと、マフラーをすり抜けて外気に触れた息が、白く染まってすぐに消えていく。

 バス停に着いて、バスを待つ。こういう時間は何をしていればいいのかわからない。普段からそうなのだが、今日は特にだ。おとなしく待っていればいいのに、落ち着かなくて、上着のポケットに手を入れたり、髪を触ったり、鞄を右手から左手に持ち替えたりと、手が忙しい。目だけじゃなくて手まで落ち着かなくなってしまった。

 少ししてからバスが来た。多分、五分くらいだったろうけど、長いこと待ったような気がする。

 鞄を肩にかけてからバスに乗って、料金を払ってから、つり革を掴んで、ふと前にある席を見ると、谷澤くんがいた。

「う、わっ、谷澤くん!?」

「いやいや、なんで驚いてるんだよ。もうちょっと静かなリアクションがあるだろ。で、おはよう瀬川」

「お、おはよう……」

 な、なにこの展開……! もしかして、今がチャンス!? いやいや、そんな心の準備できてないし、そもそも谷澤くん、普段は歩いて通ってるのに、なんで?

「……ああ、っと、多分なんでバスかって考えてるだろうけど、今日はちょっと支度に時間がかかったんだよ。……寝坊してさ」

 と、苦笑して言う。

 寝坊……、今日に限ってなんで……? よく見たら頭の後ろに寝癖がついてる。可愛いかも。

 というか、そんなこと思ってる場合じゃない。どうしよう、ここで渡しちゃえばいいのかな。いやでも、渡しちゃったら帰るまで気まずくなっちゃうし…………、ぐああ。

 静かになった車内は、バス待ちのときとはまた違う落ち着かなさがある。窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めつつ、チラチラと谷澤くんを見やる。

 つり革を掴んでいる腕が辛くなってきたところで、キュッというタイヤと道路が擦れる音がして、バスが止まった。信号に捕まったのだろう。信号待ちは嫌いだ。イライラするというより、なんだか凄く時間を無駄にしている気がしてならない。

 谷澤くんが私の鞄と腕を見て、

「座る? 腕、辛そうだけど」

 うわああ優しい気遣いキター!

 でも ちょっと考えてから、断ることにした。なんでかと言われれば、なんとなくと答えるしかないのだけど、遠慮しておこうと思った。

「う……ううん、いい。大丈夫」

「そう? でも鞄くらいは持つよ。瀬川、教科書とか学校に置いてないだろ? 重そうだし」

「う……、お、お願いします……」

 断ったら思わぬ誤解を招きそうだったので、恐る恐る鞄を渡す。これもう渡したことにならないかなぁ。ダメか。

 学校に着くまでドキドキしっぱなしだった。なぜかって、そりゃあ、チョコを渡す人に、自分で渡す前にチョコが渡ってしまったのだから……、自分で言っててわけがわからなかった。

 学校の近くのバス停にバスが止まって、谷澤くんから「はい」と言って渡された鞄を抱きしめるようにして、学校へ小走りに向かった。

 何分か走ったら息が切れてきて、そこからは歩いた。

 こんなんでチョコなんて渡せるのかな、と不安になりながらも、きっと大丈夫、と根拠のない希望を旨に、十分くらい歩いて学校に着いた。

 校内に入って、廊下を歩く途中、友達の橋本と会って、話しながら教室に入った。

 私が席に着くなり、橋本が私の机をバンと叩いて、ニヤニヤしながら言った。

「今日、バレンタインだねー」

「……何」

「いや、瀬川ちゃんは誰に渡すのかな~ってさ。あ、当然私にもちょうだいね」

 手を差し出された。

 まあ、用意はしていたので、鞄を机に置いて、中をあさる。ピンクと青のチェックが入った透明な包みを橋本の手の上に置く。

「うおおお、瀬川ちゃんの手作りだああ」

 と、包みの左はじと右はじを摘んで、蛍光灯にかざす。ビニールなので、光が反射し、いい感じに私の目に突き刺さる。それをはらうように目をしばたいて、橋本の顔を見る。そしたら、橋本もこっちを見てきた。

「で? チョコレートケーキは渡したのかい?」

「な、なんでケーキだって知ってる?」

「いや、あてずっぽうだったんだけど、図星かいな。私ってばエスパータイプだったみたいだ」

「……ムシタイプにでもやられてろ」

 言ってから、橋本が虫に襲われている図を思い浮かべる。……うわぁ、躊躇なく踏み潰してる。あ、ほのお技使った。虫が焼け落ちて、橋本が腰に手を当てて高笑い。

「今なにか失礼なことを考えてないか?」

「うわっ、エスパーだ」

 それも図星かよー、とその場で回る。

「で? 私へのチョコは?」

「……あはは。それがですねぇ。渡す男子もいないし、いいかなーと思って、そのまま忘れてました。いや、ホワイトデーにはお返しするから、安心してね♪」

「三倍ね」

「界〇拳、三倍だああー! ってか。まあそれはともかく、谷澤くんに渡したのかい?」

「なんでそれもしってる!?」

 机越しに身を乗り出して、橋本の顔を覗き込む。橋本は驚いて目を見開いてから、私の肩を手で押して座らせる。それから、柔らかく笑って、言った。

「それはエスパーだからだ、と言いたいところだけどね。残念ながら、見てればわかるよ。授業中とか、ずっと見てるじゃん」

 うぐ。

「廊下ですれ違う時もチラ見してるし」

 ぐう……。

「部活やってるところもよく見てるし」

 …………。

「それに」

「まだあるのかああ!」

 頭を両手で挟んで天井を向く。蛍光灯が眩しい。そんな私を、橋本は気にする風もなく続けた。

「友達だからね」

 頭を挟んだ手をそのままにして橋本の顔を見る。橋本はまだ柔らかな笑みを浮かべていて、お母さんみたいに思えた。

「……友達なら友チョコを忘れたりしないんじゃないですかね」

「ぐお、せっかく良いこと言ったっていうのにそれ引っ張ってくるのか。瀬川ちゃんワルだねー。あくタイプだな!?」

 無視。

 でも、友達っていうのは、実は嬉しかったりした。ただの照れ隠しだ。顔が火照っているのがいい証拠だ。橋本も多分、わかっててボケてる。

 さて。時計を見ればあと数分でチャイムが鳴るが、未だにチョコをどうするか考えてない。いや、渡さないという選択肢はもちろんない、はず。

「橋本」

「なんだいセカワル」

「…………」

「ち、沈黙が痛いっ」

 じゃあ言うな。

「……折り入って頼みがあるのですが」


 成功するというのは一見難しいようで、実はそんなに難しくはないのだと、私は思う。個人差というのは確かに存在するけれど、それでも成功できないなんてことはないと思うのだ。成功した人に聞いてみれば、「あそこをこうすればよくできる」と、ちゃんと理由があって成功できているわけで、失敗した人に聞けば、「あそこをこうすればよかった」と、失敗した理由がちゃんとわかっているわけで。方法が間違っていなければ、誰もが成功者たりえるのだ。

 しかし、成功するにしても失敗するにしても、そこに行き着くためには行動を起こす必要がある。行動を起こすためには、正しい方向を向かなければいけない。しかしその方向がわからないわけで、間違った方向を向けば、失敗どころか、全く違う結果が生まれてしまうかもしれない。左なのか、右なのか。上なのか、下なのか。どこに向かえばいいのかわからなければ、成功する失敗する以前の問題だ。

 真に難しいのは、その方向を決めることなのだ。

 そんなことを言っている私だが、早速方向がわからない。だが、道がわからないのといっしょでわからないのなら知っている人、知っていそうな人に聞けばいいのだ。

 というわけで。

「なんで私?」

 と、橋本先生が首を傾げた。

「いやあ、友達が困ってるのを見逃すわけにはいかないっしょ? むしろ手を差し伸べるっしょ? っしょっしょ?」

 そうだけど、と腕を組む。

 橋本先生は、橋本の姉だ。去年この学校に赴任してきて、今は隣のクラスで数学を教えている。橋本と顔が凄く似ている。橋本が成長したらこんなだろうなあと思ったけど、今の時点で似ているのだから、先生は童顔気味なのかもしれない。

 橋本には、先生に聞きに行くから付いてきてくれと頼んだ。今は廊下の一番奥で会議中。

「で、ですね。どうしたらいいと思います?」

「どうしたらって、そんなの渡しちゃえばいいじゃない。それなら勇気しか消費せずに済むよ?」

「勇気って消費するものでしたっけ?」

 出すだけで回復可能だった気がする。見えないけど。

「そうねぇ。じゃあテンプレで、下駄箱とか机の中とかに入れればいいんじゃないのかな。鞄の中もありだよ?」

「そうなんですけど……」

「お姉ちゃん。今回渡すのはケーキなんだよ。下駄箱は衛生面的に無理だし、机とか鞄に入れちゃったら、気づかれずにグチャッってなっちゃうかもよ? 瀬川ちゃんのケーキが! 手作りがああ!」

「うるさいよあなた。でもだったら、直接渡すしかないじゃない」

「だから、それが瀬川ちゃんには恥ずかしくてできないから、それ以外の方法を求めてお姉ちゃんのとこにきたんだよ。こんなことがなけりゃあお姉ちゃんと話す意味なんてないんだから」

 ひどい妹だ。先生大変そうだなと思った。

「あら、そんなこと言ってていいのかな? このあいだお母さんのネックレスこっそり持ち出して、あげく壊してきて、私が弁償してあげたお金、まだ帰ってきてないんだけど?」

「うっぐぅ……」

 姉も姉で、やっぱり姉妹だった。ていうか橋本はなにしてるんだ。

「……いや、チョコ渡す方法考えてくださいよ。これでも真剣に悩んでるんですから」

「うーん……、ごめん、思いつかないかな」

 困った顔で言われた。

 まあ、そんなに期待はしていなかったけど。頼んでおいてなんだけど。そもそも直接渡すのと間接的に渡す以外の方法なんて無いと思う。他にどうすればいいんだ。投げつけるとか?

 頭を抱えていたら、先生が思いついたように言った。

「あ、そうだ。いいこと思いついた」

 絶対いいことじゃない。

「まあまあ。そんなあからさまに嫌そうな顔しないで。ちょっと先生に任せてみなさい」

 そう言うと、なんか笑顔で廊下を歩いて行ってしまった。

 どうしよう、不安しかない。ああゆう人ほど信用してはいけない気がする。

「まあまあ。お姉ちゃん、ああ見えて案外頭いいから、信じてみなって」

 そもそも頭が悪かったら教師になれてないと思うけど。

 それでも、今は先生に頼るしかないので、良くないことにならないのを祈っておこう。


 それで、その先生の考えた作戦というのは、昼休みか放課後に実施するというので、まだ二限目が始まったばかりのこの時間は、自分で何か考えてみようと思った。

 なぜチョコを渡すだけでこんなにも苦労しなければいけないのか全然わからないけれど、とにかく考えよう。考えなきゃ前には進めない。

 といっても、何も思いつかない。

 黒板を見れば、いつのまにかいろいろと数式が書いてあるけれど、脳が数字や文字を受け入れないようで、半分も頭に入ってこない。

「……恋の方程式……」

 いやなにを言ってるんだ私は。

 しかし、恋の方程式というのが本当にあったのなら、みんな失恋なんてしていないんだろうな。……いや、だから方程式なのか。解く前に組まなければいけない。問題文をよく読むみたいに、相手のことをよく知らなければ、方程式は組めない。

 恋に公式なんてなくて、方程式が組めることがせめてもの救いなのだろうか。

 とりあえず、思いついたことをノートの隅に書き留めておくことにした。


 ・直接渡す(最後の手段で)

 ・机や鞄に入れる(あまり使いたくない手段)

 ・先生の作戦(危険?)


 さあ、ここからだ。

 まず最初に、友達に頼むというのを考えた。自動的に橋本に頼むということになるのだけど。あいにく、そういうのを頼める友達はほかにいない。橋本にだって、今日まで隠してたつもりだったのだから。


 ・友達に頼む


 と。でもこれは、ダメというかやっちゃいけない気がする。やっぱり自分で渡したい。

 で、手詰まりなわけだけれども。

 私にこれ以上は無理だと分かった。

 そういえば、ほかの人たちはどうやったんだろう。休み時間の間に何人かが渡しているのをていたが、みんな手渡しだった。よく渡せるものだ。私は自分で直接渡すのを想像しただけで、なんだかわからないけれど背中の辺りからカーッと熱くなってきて、自分でも顔が赤くなってるのが分かる。今がそうだ。うぅ。

 赤面が元に戻るのを顔を伏せて待っていたら、隣からツンツンと肩をつつかれた。なんだろうと顔だけ向けると、隣の女子が折りたたまれた紙を机の端に置いた。誰だっけ。えっと、戸倉さんだっけ。

 その戸倉さんからもらった紙を開いてみると、橋本の字で、

『神からの助言を授けよう』

 なんか出オチ感満載の始まり方だった。まあ助言してくれるということなので、続きを読もう。

『実行するのは放課後。私が谷澤氏をなんとかして呼び止めておくから、せかわんわんは下駄箱のところあたりで待っときなさい』

 お、けっこうよさげなやつだ。名前の呼び方がいちいちムカつくけど。

『誰もいなくなるまで谷澤氏を学校に留まらせておくから、あとは二人っきりだ。だからせかわんは下駄箱で偶然会った風を装って、谷澤氏に話しかけるのだ』

 おおお。とてもあの橋本が考えたものとは思えないしっかり感だ。

『そしておもむろに鞄からチョコを取り出して』

 おお。

『谷澤くんに差し出して』

 おおお。

『そしてこう言い放つのだ!! 「べっ、別にあんたが好きだからじゃないんだからねっ!」』

「できるかあっ!」

 紙を丸めてニヤニヤしていた橋本に投げつけた。紙は橋本の顔面に当たり、橋本は椅子の前足を浮かせて後ろ足だけでバランスを取っていたらしく、「うぇぎゃっ」と悲鳴をあげ、そのまま派手な音とともに後ろに倒れた。腰と頭を強く打ち付けたらしく、「うおおお……」とうめきながら打った箇所を抑えている。一番後ろの席だったのが幸いして、周りに被害はない。

「せ、瀬川、何してるんだ?」

 前を向けば、メガネの大人しそうな顔立ちをした男の数学教師が、こちらを困った表情で見ている。どうやって言い訳しよう。

「ああ……ええっとですね……」

 チョコを渡す方法を考えていたなんて言えない。

「ちょ、ちょっとピッチングの練習を」

「お前野球部入るのか?」

 いやそんなわけないけれど。そもそも女子野球部とかソフトボール部とかがうちの学校にはない。

 私が言い訳に四苦八苦しているさなか、橋本が腰を抑えながら立ち上がり、

「ちょっと、保健室行ってきます」

 と言って教室を出ていこうとした。

「あっ、私付き添います!」

 苦しい理由を言って、教師の呆然としている顔を置き去りにして教室を出た。

 廊下に出ると冷たい空気が体全体を包んだ。その空気に身震いして、二の腕に若干鳥肌が立つのを感じて目を細め、橋本を追いかける。

「橋本ー」

「お、来たな名投手。ナイスピッチだったよー」

「ご、ごめん……って、なんで私が謝ってるんだよ。なんだあの手紙は」

 そう言って橋本の横に並ぶ。

「いや、だから神からの助言だよ。悩んでるみたいだったから」

「なにが助言だ。あんなことしたら確実にひかれるわ」

 いいと思ったんだけどなあ、と言いながら、階段を上る。

「おい、保健室は一階だぞ」

「あははぁ、不慮の事故のせいで腰と腕打って、行きたいのはやまやまなんだけどね。どっかの誰かさんが困ってるっぽくて、見捨てるわけにはいかないんだよねぇ」

 ぐっ、そんなことを言われたら罪悪感を感じるじゃないか、なんて言わない。それを狙ってるのだろうし、罪悪感を感じているのを分かっているだろうから。悪趣味だ。

 階段を上って、屋上の入口まで来た。この学校の屋上は解放されていなく、外に通じる扉には鍵がかかっている。扉についた窓からは、少しだけ雪が積もっている屋上が覗ける。ここを出れても、こんな季節じゃ出る気にはなれない。季節に関係なく、毎日外を飛んでいる鳥を、真面目に凄いと思う。

 扉に背を預けて、腕を胸の前で組んだ橋本が言う。

「で、何か思いついたかい? お嬢ちゃん」

「何を年上ぶってるんだ。同い年でしょうが」

「私の方が誕生日早いから私が年上だ」

「ちっちゃいなぁ……」

 でも、何も思いついてない。本当にどうしよう。いよいよ直接渡すしかなくなってきた、かも。

「どーするのさ。もうすぐ二限も終わりそうだし、時間は無いかもよ?」

 分かっているけれど。勇気がいるのだ。ようはやり方じゃなくて、やる気。やる気を補うためのやり方だ。そして、そのやる気を出すのは私で、橋本でも橋本先生でもない。……まあ、先生はやる気満々って感じだったけど。

 私がその気になれれば、すぐに解決できることなのだ。でも、やっぱり恥ずかしさが勇気の上を行く。『できる』『やれる』と心では思うものの、恥ずかしいという気持ちが勇気にもやをかける。濃くて分厚い、とても通り抜けられそうにない靄。

 だから私は、こうして助けを求めている。大げさなようだけど、それぐらい、気持ちに行動がついて来ないのだ。

 なにも言えずにただ立っていると、授業終了を告げるチャイムが鳴った。長々と続くこの音が、私をさらに焦らせる。

 橋本が寄りかかっていた扉から、「よっ」と背中で扉を押して離れて、

「ま、気持ちの問題だよね。こういうときに粋な言葉をかけてあげられない自分がちょっと悔しいけど、瀬川ちんが頑張れば、全部解決、万事オッケーなんだから、ちょっと頑張ってみ。私は背中を押したり、道をつけてあげることしかできないけど、瀬川ちんには全部できるんだから」

 その言葉に、少し安心した。安堵と言った方が合っているかもしれない。橋本は、やっぱりかっこいいなと、初めて会った時から思っていたことを、改めて思った。

 同時に、それに頼っていてはいけないとも思った。

 好きな人にチョコを渡すぐらい、自分でできなくちゃと思った。自分のことなんだから、自分でしなきゃ。

 しかし、

「……せめて呼び方を統一して欲しいものですね」


 三時間目が始まって、その時間もずっと考えていたけれど、結局何も思いつかずに三時間目は終わって、四時間目。

 なんにもしていないと焦る気持ちは加速する一方で、まだ時間はあるのに不安が増していく。

 チョコも溶けているんじゃないだろうか。いや、こうなることを想定してケーキにしたんだから、形を保っててくれないと困る。

 なんにせよ、もう四時間目だ。何かに夢中になっているときは時間が経つのを早く感じるというけど、あれってただ考えてるだけでもそうなるんだなぁ。

 四時間目は国語だった。内容は、私の苦手な古文だ。漢字ばかりの文が、黒板の端から端までびっしりと書かれている。まず読み方がわからん。

 そしてあいも変わらず考えるわけだけど、全然思いつかない。本当にこれ以上は無いんじゃなかろうか?

 となると、先生の作戦を頼るわけだけど、なぜだろう、嫌な予感しかしない。さっき先生とすれ違ったら、「昼休みに屋上の入口のとこにチョコ持って行ってね」とウインク付きで言われた。どこに安心していい要素があるのだろうか。

 どうなるんだろう、と思ってから、なんとなく橋本を見れば、ペンを縦に立てて遊んでいた。消しゴムを二つ立てて、その上に定規を乗せて、さらにその上にペンを三本立てて……、満足そうだ。傍から見れば遊んでる小学生にしか見えない。

 と、見ているこちらに気付いたのか、凄く嬉しそうな顔で、親指立てて「イエーイ!」なんかムカつくな。一回殴ってやろうか。

 そんなことを思いながら見ていたら、国語教師が遊んでいる橋本に気付いて、黒板に書いた文の空欄を指しながら、

「橋本。随分と楽しそうだな。というわけで、ここ解けるか?」

「ふぇっ? ああ……あっ! オッケーです!」

 一瞬焦った顔をしたが、どうやら解ける問題だったようで、軽い足取りで黒板に向かい、軽快な音とともにチョークで白い文字を書いていく。

「ふむ、正解だ」

「イエーイ!」

「で、俺が解いて欲しいのはその解いたとこからここまでなんだが」

 そう言って国語教師は、黒板の真ん中らへんに位置する、橋本が書いたところから左はじまでを、指で示した。

「……へっ?」


「があーーー! 酷い目にあったあ! くっそう!」

 橋本が私の席に来ていきなりそう叫んだ。

 あのあと、橋本は頑張ったのだが、半分も解けずに教師に怒られた。

「くっそーー、あんにゃろーー……」

「全面的に遊んでた橋本が悪いでしょ」

「そりゃそうだけどさぁ……。ま、いっか。じゃ、昼休みになったことですし、お姉ちゃんの作戦を実行しますか」

 そう言って、私の腕を掴んで立ち上がらせる。

 作戦というか、実行場所しか教えられてないんだけど、大丈夫かな。

 ともかく、チョコを鞄から取り出して、さっきも行った屋上の入口へと向かう。

 階段を登ればすぐという場所まで来て、橋本が言う。

「じゃあ、私はここまで……。私が付き合うことができるのはここまでだ。あとは己の力で打ち勝つのだ」

「はいはい」

 適当に流したけど、内心ドッキドキだった。どんな形にせよ、谷澤くんにチョコを渡すことには変わりないのだから。そのドキドキに、小学校のとき、始業式の日に目標とかを発表したときのことを思い出していた。確か一年生か二年生のときで、緊張と視線が集まる恐怖で泣きそうになりながら発表したのを覚えている。

 階段を一段上がるごとに心拍数が上がっていくのが分かる。漫画とかでよく見る『心臓がバクバクする』のあれだ。漫画のヒロインは凄く嬉しそうに『心臓のバクバクが止まらないよぅ……』とか言ってるけど、実際に体験してみると、あまりいい気分じゃない。すっごい帰りたい。

 でもやるしかない。覚悟を決めて、いつのまにか俯いていた視線を上げると、

「お、来た」

 谷澤くんがいてええええ!? うぇええええ!?


「なあ姉よ」

「なんだい妹」

「そなたはどんな作戦を考えたのだ?」

「ふっ、簡単なことさ。人間というのは、危機的状況で真価を発揮するものなのだよ」

「つまり?」

「当たって砕けろという名のぶっつけ本番さ」

 あ、この女、やっぱり私の姉だ。


「げほっ、ごほっ、うぐ……」

「お、おい、大丈夫か?」

 咳き込んだら、谷澤くんが顔を覗き込んできて、

「うっ、おおあああ!?」

「うおおっ!?」

 ちっ、近っ! 顔近あっ! 思わず壁際まで下がってしまった! 完全にひかれたでしょこれ!?

 固まっていると、谷澤くんが言った。

「あ、ええと、なんか橋本先生にさ、ここで瀬川が待ってるって聞いたから来たんだけど、どうした?」

 ちょ、ちょっと待って。一瞬心臓が止まりかけたから。

 もしかしてこれが作戦? いや、いやいやいやいやいや……、そんな、まさか………………、ありえると思えるのがなあ……。あれの姉だからなあ……。

 扉のガラス越しに見える屋上は、一回目に来た時のままの景色を残していて、空は朝見た時と同じくもり空だった。やはり雨か雪が降るのだろうか。朝の天気予報を見るのを忘れていたからわからない。

 けっこう勢いよく下がってしまったけど、チョコの入った紙袋は無事のようだ。そして、その紙袋に谷澤くんの視線が向いてるのに気づく。やばい、のか?

「あー、えっと、それで、なんの用?」

「へっ? あ、ああ……えっと……」

 そういえば私が呼んだってことになってるんだった。どうしよう。

「あの、ええっとぉ……、きょ、今日はいい天気、ですね?」

「あ、ん? ……ああ」

 漫画かよっ!! さっきくもり空って言ったばっかだろうが!!

「あ、あのね!?」

「お、おう」

 若干声が裏返ったけど気にしない。気にしてはいけない。

「あの…………」

 あと一歩。あと一歩なのに、言えない。つっかえているんじゃなくて、言い淀んでいる。流れができているのに、その流れの中に自分で泥を入れ、濁らせているようだ。水は澄むことなく流れ続け、流れ着いた場所を汚し、いづらくさせる。

 谷澤くんの目は、こちらの紙袋と顔を交互に見ている。多分、これを渡しに来たっていうのは気づいてる。だから待っている。私をだ。

 早く言え、早く渡せと口と腕に言い聞かせるけれど、動かない。肩が震えて、爪先に力がこもる。どうしたんだ、早くしろと、私をせかすようだ。頭が熱を持って、くらくらする。

「………………なあ」

「えっ、あ、あの、…………」

 わかってる。

「…………おい」

 わかってるんだ。だからそんなにせかさないで。

「……なあって」

 だから、私を責めないで。

「――瀬川、おい、大丈夫か?」

「えっ?」

 気づいたら、谷澤くんがすぐ目の前に近づいて来ていた。

「あっ、あっ、」

「なあ、顔赤いぞ。なんか息乱れてるし、風邪じゃないか?」

「え? あ」

 谷澤くんの手が私のおでこに押し付けられる。瞬間、体がボッと熱くなり、足と腕が違う方向に動いた。

「っ……!」

「えっ? あ、ちょ」

 腕は紙袋を谷澤くんに押し付け、足は階段へ向かった。

 勢いよく階段を駆け下りる。

 下りた先に橋本がいて、

「あ、せかわん。どうだっ――」

 その言葉を最後まで聞かないうちに、続いている階段を下り続け、一階まで駆け下りた。

「はぁっ、はぁっ……」

 渡せた。

 でも……………………、でも。


 午後の授業はお腹が痛くなって頭が痛くなったので保健室で過ごした。つまりサボった。

 保健室にいつもいる先生はいなかったけど、勝手にベッドを使わせてもらった。

 ベッドに寝て、天井を見つめる。そうしたら、さっきの谷澤くんの顔を思い出してしまって、顔が熱くなり、布団で顔を隠す。しかし、布団がおでこの当たって、谷澤くんの手の感触が、なんかもう、如実にと言いますか。要するにあの感触がまだ残っている。

「――っ…………」

 耐えられなくなって、うつ伏せになって枕に顔をうずめる。

「……うう~~…………ぐああああ」

「なにうなってんの?」

「どぅわああ!?」

 声がしたのに驚き、うつ伏せの姿勢から一気に仰向けになろうとしたら、体を回した先には何もない空間しかなく、そのまま床に腰から落ちた。

「うっ……つぅ……」

「一人でなにやってんのさ」

 上を見れば、橋本の呆れ顔があった。

「うぅ……、あれ、橋本、授業は?」

「それはそっちもでしょ。私は風邪気味なの。せかわっちは?」

「……頭とお腹が痛い」

「腰も痛くなっちゃったねー。よかったじゃん、休む理由が増えて」

 そう言って橋本は意地悪そうに笑った。

「それで? 渡したことは渡したみたいだけど、なにがあったんだい?」

「そ、それは…………」

 せっかく腰の痛みで頭の片隅にまで寄せれたのに、また思い出してしまった。頭の中に谷澤くんの顔が近い近い近い。

「……まあ、なにがあったか聞きはしないけどさ、とりあえず落ち着きなよ。私にも話せないような恥ずかしくも嬉しいことがあったんだろう?」

「橋本だから言えないんだよ」

 起き上がって、ベッドに座った。橋本も隣に座ってきた。

 橋本が、咳払いしようとしたらほんとに咳き込んで、それからもういちど咳払いしたら、声のトーンを低くして言った。

「……で、何があったんだい?」

「今聞かないって言ったばっかだろ。鳥頭か」

「あっはっはー、恥ずかしい体験をした後とは思えないツッコミのキレだねぇ」

 やかましい。

 でも、こうやって普段通りに接してくれるのは、助かる。こんなでもいろいろ気遣っているんだなあと、半分呆れて思った。

「あ、また失礼なこと思っただろ」

「もっと役に立つことでエスパー発揮してくれないですかね」

 例えば、谷澤くんの心を読むとか。そんなものがあるんなら是非とも身につけたいところだけど。

 壁にかかっている時計を見ると、六時間目が始まっていた。このままここでサボっていようかと迷っていたら、

「あ、そうだ。ちょっと付き合ってよ」

 そう言うと橋本は、私の手をを掴んで立ち上がり、出口へ私を引っ張る。

「え、ちょっと」

「あ、付き合ってって言っても、恋人とかそういうんじゃないんだからねっ」

「当たり前だ」

 なんでこんなのと付き合わなければいけないんだ。だいいち、私はそういう系の毛は微塵もない。本当だ。

 保健室を出て、長い廊下を歩き、外に出た。正面玄関とは違う出入り口だ。そこにはベンチがあって、校舎の裏側にあるグラウンドを覗ける。今は雪が積もっていて、誰もいない。放課後とかになれば、暇つぶしにと雪合戦をしている生徒を見かける。谷澤くんもやっていた。

 ベンチは校舎と逆側に向けて設置してあり、少し積もった雪を払って、橋本と座った。ベンチは少し濡れていて、スカートを通して冷たさが伝わってくる。濡れるのが少し嫌だったけど、気にしないことにした。

 少しだけ、正面にある植え込みを眺めていると、橋本が口を開いた。

「私さ、初恋は失恋で終わったんだよ」

「…………ふうん」

 そんなことを話してどうするのか。ともあれ、初耳だった。そもそも、橋本が異性を好きになることがあったのが驚きだ。これは決して橋本があっち系だってことじゃない。

「ま、何年も前で、その人はどっか引っ越しちゃって、それから一度も会ってないから、顔もうろ覚えなんだけどね」

 …………それはまた、

「漫画みたいな」

「そうでもないんだよ。今のだけ聞けば、漫画みたいなシチュエーションだけど、ちょっと違うんだよ。私さ、その人が引っ越す前までは、そんなに意識してなかったんだ。好意は持ってたけど、はっきり好きってわけじゃなかった」

 橋本の顔は見ない。ずっと正面にある植え込みを見つめている。橋本もきっとそう。だから、表情は見えない。けれど、橋本の口調は普段と変わらない。

「で、引っ越すって聞いたとき、初めて、この人が好きだって思ったんだ。なんでだろうって思った。あのころはまだ心も体もちっちゃかったから、よくわかんなかったけど、今ならわかるような気がする。あのとき私は、わかれるのが寂しかったんだと思う。それまでなんとなく、いい人だなあ、もっと話をしてみたいなあ、って思ってて、唐突にわかれを告げられて、その寂しさがそれまでの気持ちを上に押し上げて、『好き』になったんだと、そう思う」

 それは、そんなものだと思う。

 人の感情っていうのは、わからなくて、どんな風に芽生えて、どんな風に枯れていくのか、検討もつかなくて。自分の感情ですら、漠然としていて。

 だから、感情というのは、意志とは別のものなんだと思う。意志は『こうしなければならない』と言っているのに、感情は『こうであったらなあ』と、はっきりした決定をしようとしない。

「引越しの当日、その人の家に行って、告白して、ごめんって言われて、……それからは、多分、恋愛感情で誰かを好きになったことは一回もない。あの初恋が、最初で最後の恋になるかもしれない。だから、今、瀬川にはがんばってほしい。今の恋が瀬川にとって何回目になるかは知らない。けど、恋っていうのは、初恋に限らず、全部大切にされるべきなんだ。だってそれは、少なくとも恋をしている側は、誰だって少なからず運命を感じているってことだから」

 感情ははっきりした決定をしない。けれど、感情と意志の方向が同じほうへと定まったとき、それは行動として、言葉として、想いとして、外へと明確に現れる。

 それが、橋本の初恋で。或いは、今の私の谷澤くんへの気持ちだ。

 だから。

「………………………………ありがと」

「はっはっは。どーってこたぁないさ」


 橋本にベンチ励ましにもにた話しを聴かされたあと、結局授業は出ずに、校内を教師に気を付けながら歩き回って、最終的に保険室のベッドへ戻った。

 布団に入ったら眠くなってきて、少し寝てしまった。さっきまで頭の中がゴチャゴチャしていて、全然落ち着かなかったのに、今は眠気さえ出てくる。橋本のおかげかな、と思った。

 その橋本はというと、話が終わったら、「じゃ、これにて失敬。徘徊している教師に見つからぬよう、用心せよ」なんて言って、私と逆の方向へと走って行った。その直後、後ろの方から「ギャアー!」とかいう橋本に似ている変な声がしたけど、多分鳥かなにかだろう。ガッコーニハイッチャッタノカナー。

 で。寝て起きたらさっきまでいなかった保険室の先生がいて、「治ったならはやく帰れー」「はーい」だった。

 勝手にベッドを使っていたのとか、なんで休んだのかとか、全然聞いてこない。けっこう適当な先生だ。保健室の先生が適当で大丈夫なのかと思ったけど、そっちのほうがサボりやすくていいのかもしれない。いや、それじゃあ尚更ダメなのかもしれない。

 それで、時計を見たら六時間目も終わっていて、よく考えなくても今は放課後だ。つまり、帰るのだけれど。

「…………はぁー。あんなんじゃ絶対ダメだよね……」

 後悔している。

 いまごろ谷澤くんは何をしているのだろうか、と教室へ戻りながら思う。

 途中、帰る同級生たちに「サボりー」「不良だあ!」とか言いながら手を振られ、苦笑いして軽くてを振り返す。

 誰もいなくなった教室で鞄を慎重に持ち上げて、そういえばチョコは渡したんだったと思い出し、なんとなく振り回してみた。ハンマー投げみたいに体ごと回す。こんなところを誰かに見られてたら恥ずかしくて全力疾走で逃げてしまいたくなる、と思う。谷澤くんに見られでもしたら、窓から飛び降りるかも。

 と、回っているとどんどん視界を流れていく教室の中で、昼よりもさらに沈んだ色となった空を、窓越しに見つけた。

 回るのをやめたら気持ち悪くなってきた。なんで回ったんだろうと自分を不思議がりながらも、フラフラの足取りで窓に近づく。暗い灰色に染まった空からは、ポツポツと雨が降り始めていた。

「…………あ、やば」

 傘を忘れたことを思い出して、急いで下駄箱に向かった。

 靴を履いて、出ようとしたら、

「あ……あっちゃあ……」

 雨は勢いよく地面を叩いていた。ここに来るまでの間に量と勢いが増していた。玄関の前から買うもんに続く整備された道は降る雨に打たれ、ところどころに水たまりを作っている。

「……どうしよ」

「まったくだなあ」

 呟いた一言に答える声が右からして、驚いてそちらを向くと、谷澤くんがいた。

「たっ、たっ、たっ、たっ……」

「なんで走ってるのさ」

 驚いて声が出ないんだよ! 一日に何度驚かせれば気が済むのさ!

 手元を見れば、昼に渡した、チョコケーキの入った紙袋を持っていた。あと、傘。

 あああ…………、ああああーーーもう、なんなんだこの漫画みたいな状況はあ!

「た、谷澤くん、まだ帰ってなかったの?」

「ん、ああ、帰ろうとしたら教室に筆入れ忘れてさ。取りに戻って、また来たらこの雨でさ。やむの待とうかなあって」

「へえ……、あれ? その傘使えばいいじゃん」

「え? いや、傘使ってもさ、せっかくお前にもらったこれ、濡れるかもしれないじゃん。そういうのは嫌だからさ」

「――っ!」

 なんつう優しさだよおお!!

 どうしよう、死にそう!

 あ、でもこれあいあい傘っていうパターンがなくなったのか? うあああなんだこれええ!

 いや、落ち着け。よくよく考えたら、よーくよーく考えたら、これ帰れないじゃん。

 雨はやみそうになく、未だに水たまりの水面を荒っぽく揺らしている。

「やー、どうしようか。このままじゃ帰れないな」

「そ、そうだね……」

 こっちとしてはその手に持っているものが気になってもうどうしようもないのですが。

 紙袋に目が引き寄せられる。谷澤くんの手の動きに合わせてかすかに揺れるそれを見ていると、確かに渡したんだな、と恥ずかしさが達成感となって、胸の内からこみ上げてくる。

 なにか反応を示して欲しいという想いと同時に、あまり触れて欲しくないという気恥ずかしさもあり、複雑な気分だ。

 しばらく無言か続いて気まずすぎて、なにか言わなきゃ、と思案していたら、谷澤くんがさきに声を出した。

「あー、その、これ、ありがとう」

「え?」

「いや、お礼言ってなかったじゃん。渡されたらすぐに瀬川が走って行っちゃって」

 うう、そこには一番触れて欲しくなかった。

 恥ずかしくなって目を逸らしたら、

「ああ、別に馬鹿にしてるとか、そういうんじゃなくてさ。そりゃあ、その、バレンタインだし、誰だって恥ずかしいだろ。その恥ずかしさを押し切って渡したっていうのは、すごいことだと思う」

「いやそれはもう渡すしかない状況だったっていうかそれ以外選択肢がなかったっていうか」

「うん?」

「ああいやっ、なんでもないです……」

 あの人、あとで相応の仕返しを……、などと考えていたら、谷澤くんがこう言った。

「俺こういうの貰ったの初めてだからさ」

「え、そうなの?」

 けっこう貰ってそうなイメージがあったけれど。

「すごく嬉しかったよ。ありがとう」

「えあ、いや、その……、どういたしまして……」

 なんにせよ、他人にとっての初めてが自分というのは、少なからず嬉しいものだ。いや変な意味じゃなくて。

 でも、こう思うのは失礼だろうか。チョコを一度も貰ったことがないというのは、男子としてはいいことではないと思う。男子じゃないからわからないけど、貰えて嬉しいのなら、やっぱり欲しいものなのだろう。それを、嬉しいと思う自分は、嫌な奴だろうか。

 空を見れば、少しだけ日がさしてきた。

 雨がやめば、谷澤くんは帰ってしまう。もちろん私も帰らなければいけない。そうしたら、この時間が終わってしまう。

 これまで数える程しか喋ったことのない相手だ。もしかしたら、これが最後の会話になるかもしれない。それは嫌だ。だって私は谷澤くんともっと話したい。谷澤くんとの時間を過ごしたい。それはつまり、恋というもので、好きという感情があるってことだ。

 バレンタインデーである今日、チョコを異性に渡したということで、私がそういう気持ちを持っているということは、谷澤くんも察しているだろう。

 だったらチャンスじゃないか。そう考えた瞬間、足の先から頭のてっぺんまでがカァーッと熱くなって、身体が熱を持って背中や腕から汗がにじみ出る。帽子をかぶったように、頭皮を熱いもやもやが包み、意志がそれを促すけれど、感情が恥ずかしいと言ってそれを拒む。

 しかし、鞄を持つ手に力を込め、感情を少しだけ前へ押す。

 そういえば、数える程しかしゃべっていないのに、名前を覚えていてくれたんだなと、そんな些細な嬉しさが、さらに感情を前へと押す。

 そして、もっと谷澤くんとともにいたいという願いを持ったとき、意志と感情が同じ方向へと向きを揃え、動き出す。

 それは谷澤くんに身体を向けるという行動となって。

 それは谷澤くんに伝えるために言葉となって。

 それは谷澤くんに届けようとする想いとなって。

「谷澤くん。……っあ、…………好き」

 動いた。

 言った。

 あとは届くだけ。

 谷澤くんは少し驚いて、それから少しだけ顔を赤らめて、目を空へと泳がせる。そして、

「…………実は、俺もなんだよ」

 橋本は、初恋に限らず、恋というのは全部大切にされるべきなんだと言った。それだけのことを私に伝えるために、失恋の経験を語ってくれた。

 だったら、私は、この恋を大切にしよう。あの優しい友達の意を汲んで、これが私にとって何回目の恋になるかなんてわからないけど、大切にしよう。

 空にはもう灰色が無く、青だけが広がっていた。

 こんなこと言うと、詩的で橋本に笑われそうだけど、もしかしたらあの雲は、私の恋を手伝ってくれたのかもしれない。がんばれと、応援してくれていたのかもしれない。

 雨という応援が過ぎ去ったあとには、太陽に照らされて光が反射する水たまりが残り、やっと実った恋を祝ってくれているようだった。

 随分と遠回りして実った恋だったけど、私にはもったいないくらいにたくさんの応援で実った恋だ。

 きっと私は今、満面の笑みを浮かべていることだろう。

バレンタインデー(もう遅い)ってことで、書きました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 橋本シスターズがいい味出してた。 下手に悲劇的にする作品が多い中で(私、失恋したぶん強くなった的な)、ハッピーエンドで終わってよかったなと思った。 [一言] 谷澤は初めてと言ってますが、き…
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