人に恋した白い狐
狐とは人を嫌がるものである。
普通は人の匂いを嗅ぎつければその場から離れるだろう。
しかし、この白い狐は人間というものが面白くて仕方なかった。
何故、二本足で歩くのだろう。
何故、手と言うもので物が作れるのだろう。
何故、笑ったり泣いたり怒ったりするのだろう。
不思議で不思議で仕方なかった。
ある時、白い狐は小さな子供に化けた。女童に化けた狐は、近くの村の子供達と一緒に遊んだ。
毎日、毎日遊んだ。
そして、楽しさ、嬉しさを知った。
ある時、自分の本当の姿を知って欲しくなって、狐の姿のまま、村に下りた。
いつも仲良く遊んでいた子供達は叫び、石を投げてきた。いくつもいくつも石を投げ、いくら鳴いても気づいてくれなかった。
白い小さな体に幾つもの傷ができ、狐は逃げ出した。
そして泣いた。
小さな子狐にとっては、腹に当たった大きな石の事よりも、自分が認められなかったことに泣いた。
そして、雪が降り始めたある野で倒れた。
ある冬の物語
(‥‥あれ?)
白い狐が再び瞼を開けた時、真っ先に目に飛び込んだのは、人の家にある『いろり』とかいうやつだった。パチパチと音をだしながら赤々と燃える炎に、思わず毛を逆立てた。『しょうじ』とかいうやつが開いて、人が入ってきた時には掛かっていた布ごと後ろに飛び退いた。腹に鋭い痛みを感じ、足元がふらつき、倒れてしまった。それでも、近づいてくる少年に対して毛を逆立て続け、唸った。
「大丈夫。なにもしないからね。薬草を傷口に塗るだけだから。」
少年が手をこちらに伸ばしてきた。
カプリッ
「‥‥っ!」
その指を力一杯噛んでやった。少年は顔をしかめたが、狐を殴ろうとも、振り放そうともしなかった。小さく笑って
「大丈夫。なにもしないから。」
と、そのまま指を噛ませていた。なんだか悪い気がしてきて、流石に口を指から離した。小さな赤い粒が点々と湧いて出た。一応、怪我をさせたのはこちらなので、止血のつもりでペロッと赤い粒を舐めた。少年はそれを見て嬉しそうに笑った。それは、白い狐にとって大好きな人の顔だった。
「傷口を見せてね。薬草を塗るから。」
腹に巻かれた布を取ると白い毛は赤い毛になっていた。いやな匂いの薬草を傷口に塗られると、しみて痛かった。
やがて手当てが終わると、少年は狐を抱き上げ、座布団の上にそっと乗せ、暖かい布を掛けてくれた。なんだか、心まで温かくなった気がして、ぐっすり眠れた。
次の日、薬草のおかげが不思議なくらいに腹の痛みはひいていて、大分楽になった。
少年は暖かい煮物をくれた。最初は熱すぎて食べられなかったが、冷めてから食べると、味のしみた鳥肉とホクホクしている芋がおいしかった。時々、遊びに行ったときに子供が餅をくれることはあったが、こんな料理を食べたのは初めてだった。人はこんなおいしいものを毎日食べているのだろうか。
昼になると少年は何かを籠に詰め、どこかへ出掛けていった。『わらじ』とかいうやつとか『かさ』とかいうやつを売りに行くらしい。やはり、人は見ていて飽きない。
夕方、少年は帰ってきた。あまり、売れなかった、と苦笑しながら居間に上がった。
夕食が済むと、少年は色々話してくれた。大和という名。両親が病でなくなったこと。好きな食べ物。好きなこと。とにかく、色々話してくれた。こちらの事も話したかったが、人に化けて嫌われるのが怖かった。
囲炉裏の近くで大和の膝の上で丸くなるのが好きになった。
やはり、人は大好きだ。笑う顔はもっと大好きだ。
春がもうすぐに訪れる頃、腹の傷が完治した。なんだか嫌な予感がした。予感は的中した。大和は、雪の降らない日に外の林に狐を放し、さよなら、と言って、行ってしまった。
狐はまた、大和の所に戻りたかった。実は、白い狐は年がら年中白かった。夏の茶色の毛が生えないのだ。そのため、親狐は他の兄弟を連れて、去ってしまった。白い狐は孤児なのだ。行く宛がない。狐はある事を思いついた。春が近いとはいえ、雪の多いこの村なら後一回くらいは雪が降るだろう。その日に、人の姿で道に迷ったと言えば、しばらくは大和といれるかもしれない。
狐は少し離れたそれなりの町に着物を買いに行った。魚を売って手に入れたお金で十五、六歳の少女が着るような着物を買った。
小さな女童が若者の着物を買うもんだから、店の人に「誰に買うんだい?」と聞かれた。とっさに、「姉さんに贈るんだ。」と嘘をついた。バレバレだったかもしれないが、着物は無事に手に入った。
問題が起きた。待ちに待った雪は吹雪だった。この中を少女の姿で歩くのはかなり大変だろう。さて、どうしたものか。
しかし、この機を逃したら、もう雪は降らないかも知れない。
白い狐は十五、六歳の少女に化け、着物を着て、林から歩き始めた。
(歩きにくい‥‥)
雪は深く積もり、足を踏み出すことすら苦労だ。そして、横殴りの風と雪は容赦なく、体を叩く。
やっとの思いで、大和の家についた。かじかんだ手で戸を叩こうとしたら、かじかんだ足がカクンッと崩れ、手ではなく、体が戸にぶつかった。
戸が開いた。
「どうなさったのですか?」
懐かしい声が雪の中座り込む少女に尋ねた。
「‥‥この吹雪で、道がわからなくなってしまったのです。一晩でも、ここに居させては貰えませんか?」
「‥‥え、ええ。もちろん。」
大和は、少女を雪の中から立たせて、囲炉裏の前に座らせた。
「あ、あの‥‥お名前は‥‥」
「‥‥小百合と申します。」
これは正真正銘、白い狐の名だ。
「お、俺は大和っていいます!」
小百合は大和の様子がおかしいことに気付いた。頬は紅潮し、何だかそわそわしている。
(‥‥あまり、歓迎されていないのかな‥‥迷惑‥‥だよね。やっぱり‥‥)
小百合は俯いた。
「‥‥」
「‥‥」
しばらく、痛い程の沈黙が続いた。
「「あ、あの‥‥」」
二人の声がかぶり、再び沈黙が辺りを支配する。
「あ、あの‥‥ど、どこにお住まいなんですか‥‥」
大和が沈黙を破った。小百合は俯いた。そして、ぼそぼそと言った。
「その‥‥両親は幼い頃に‥‥亡くなって‥‥親戚の家を‥‥転々としていたのですが‥‥父が余り良い人ではなかったので‥‥私は‥‥やっかい払いされてしまって‥‥」
もちろん、小百合の用意した嘘だ。
「そ、それなら、この家に好きなだけいて下さい!俺もこの前流行り病で両親をなくしていて家の中がやけに広く感じていたので‥‥」
「ご迷惑では‥‥ありませんか‥‥?」
小百合が呟いた。
「ほ、本当にここに居ても良いのですか?ご、ご迷惑ではありませんか?」
「ぜ、全然迷惑じゃありませんっ!好きなだけいて下さい!」
小百合の顔が春に咲く桜のようにふんわりとした笑顔を見せた。
「有り難うございます!本当に有り難うございます!」
(大和とずっといれる!)
小百合は嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
大和と小百合は春には畑を耕し、種をまき、収穫し、売りに行った。二人の仲は一気に縮まり、周りからはあの二人は絶対に夫婦になると言われる程だ。元々大和は村での中でも優しく、慕われていた。小百合も大和が選んだ娘と言う感じで、すぐに村の人達と打ち解けた。小百合にとって、とてつもなく、幸せな時間だった。
一年後、二人は村で小さな式を上げた。二人は晴れて夫婦となり、夢かと思う程の幸せな時間が流れた。
更に一年後、小百合が体調を崩し始めた。めまい、吐き気、ふらつきなどが目立つようになり、床で休みがちになった。
「小百合?大丈夫かい?」
大和が粥を食べさせる。
「ええ。‥‥明日は少しくらいは手伝うわ。」
「駄目。ちゃんと休んで。その分、俺がちゃんと働くからさ。」
大和は微笑んだが、小百合は微笑めなかった。大和の手は傷だらけで、目の下には酷い隈が。
(私のせい‥‥)
貧しさのため、薬は買えず、めまいに効くという薬草も取ってきてはみたが、全く効かなかった。
「小百合が気にすることないよ。ね?俺、一生懸命働いてくるから、帰ってきたら、飛びきりの笑顔でいてね。」
「‥‥ふふ。はい、いってらっしゃい。」
小百合は微笑み見送った。
「大和‥‥遅いわ‥‥どうしたのかしら‥‥」
ふらつきつつも立ち上がり、障子を開けて、縁側から外に出て、畑の辺りに大和の姿を探す。
「や、大和っ!」
小百合が駆けつけた場所に大和は倒れていた。血を吐いたのか、口の周りと襟元が赤く染まっている。いや、赤じゃない。もっと黒に近い、危険な色。
「や、大和っ‥‥!お願いっ!目を開けて‥‥!いやっ!大和っ!」
どうしたらいいのかわからずに慌てる小百合。一体いつから倒れていたのだろう!?今になって見つけるなんて!
死んでしまうのか?そんな疑問が胸をえぐるように突き刺さる。全身から血の気が引いていく。嫌。大和が死ぬなんて嫌。
「‥‥だ、誰か!誰か居ませんか!?お願い!薬師を!」
小さな村に小百合の声が虚しく響く。お願い!誰か気づいて!
「小百合ちゃん?どうかしたんかい?」
近くの家の三和子さんが小走りに近づいてくる。
「ひゃあっ!」
大和の姿の見て、情けない悲鳴を上げた。
「‥‥お願い!薬師を!」
小百合の声にハッとしたように走り出す。幸い、この村には薬師がいた。もとは、旅の薬師で、あちこちの薬草を調べていたそうだが、村の若い娘に一目惚れしたらしく、今は旅はしていない。ちなみに、二十年程前の話。
「小百合ちゃん!薬師のじいちゃん、連れてきたよ!」
「血を吐いたんだって!?」
「や、大和は‥‥し、死んでしまうのですか‥‥!?」
口に出したら、涙が零れてきた。
「まだ、間に合うかもしれん。しかし、それなりの値がする薬じゃなきゃ、効かん。町にならあるかもしれんが、とても、農民に買える代物じゃあないな。」
「そ、そんなっ‥‥!」
「薬湯は用意するが期待はできんぞ。」
「‥‥」
もう、目の前が真っ暗だ。私も、山に効く薬草がないのは知ってる。しかも、町で薬屋で名高いのは『内谷』の店だ。そこならあるかも知れないが、あの店は農民なんかには薬を売ってはくれない。高い客への商売を基本にしているからだ。値段は高額で、とても農民に手が出せるような代物ではない。小百合は、それでも、諦めなかった。
大和を家に運んでもらい、床に寝かせた。大和は先程よりは安らかな寝顔をしている。
「絶対に助けるから‥‥」
家族に捨てられ、人にも捨てられた私に生きる意味を与えてくれた‥‥、絶対に死なせない。
森に行き狐の姿になり、魚や鳥、珍しい花や実等を集め、町に行って売り回った。夜には、機を織り続けた。そして、それも売りに行った。昼は畑を耕し、夕方には狩りに出掛け、夜は機を織り、朝にはそれらを売りに行く。小さな村では、小百合は何時、寝ているのだろうと噂された。
「小百合‥‥少し休んだらどうだい?」
大和は小百合の手に自分の手を重ねた。粥の入ったお椀を持つ右腕は傷だらけで、痛々しい。大和は帰ってくる度、怪我をしている小百合を見るのが辛かった。
「大和は心配しないで。後、少しだから。もう少しで薬買えるから。」
小百合は疲れきった顔で微笑む。
しばらく、他愛もない話をしていると、外からトサリと小さな物音がした。
「何かしら?」
小百合が縁側から庭を覗くと一匹の狐が倒れている。
「あれは‥‥!」
「どうしたんだい?」
「えっ‥‥!?あ、狐が倒れていて‥‥」
小百合は庭に出る。近づくと、毛を逆立てる狐に小百合は静かに呟いた。
「‥‥久しぶりね。小春。私よ。小百合。」
小春はその丸い目を更に丸くする。
「あ、無理しないで、今手当てするから。」
小春は静かに小百合に抱かれ、家に入った。大和は小春を見て、弱々しいが、確かに微笑んだ。
「懐かしいな。昔、怪我をした狐を手当てしたことあるんだ。それは綺麗な毛並みでね。元気にしているかな?」
小百合は慌てて答える。
「そ、そう‥‥きっと、立派な狐になっているのでしょうね。」
小春に薬草をつけると、昔の私みたいに顔をしかめた。本当に、懐かしい。
「ゴホッゴホッ。‥‥すまない。小百合、少し横になるよ。」
「大丈夫‥‥」
「大丈夫だから、その子、ちゃんと手当てしてあげて。」
大和は優しく言った。
「はい。」
小百合は小春を隣の部屋に連れて行った。
「‥‥どうしたの?こんな傷まで‥‥」
いくら、大和が寝ているとはいえ、聞かれては困るため、小声でたずねた。
「それはこっちが言いたいわ。小百合姉さん。何故、人間なんかと?」
普通の人にはただ、狐が鳴いているようにしか見えない。しかし、小百合は狐だ。
「狐として、生きるには目立ち過ぎるから‥‥」
小百合は言葉を濁した。
「小百合姉さんの白い毛、私は大好きなのに。」
小春は言う。小百合は微笑み、小春の頭を撫でた。
「ありがとう。‥‥でも、私は大和を愛しているから‥‥今更、普通の狐には戻れないわ。」
「‥‥小百合姉さんは母さんや父さんのこと、恨んでる?」
小百合は首をふった。
「いいえ。そのおかげで生涯の伴侶に巡り会えたのよ?何を恨めというの?」
小春は顔をしかめた。
「人間が生涯の伴侶だなんて‥‥」
「小春。私は今、人間よ?」
「うっ‥‥」
小春はそれ以上、言えなかった。
「それで?何でこんな怪我をしたの?」
「‥‥犬に追いかけられたの。」
「‥‥!よく、無事だったわね。良かった。倒れた家に私が居て。」
「全くよ。神様に感謝しなくちゃ。」
二人は笑った。失ってしまった家族の時間を埋めるように‥‥
その後、小春の怪我は治り、無事に山へと帰って行った。
「‥‥大和、これから町に行ってくるわ。薬湯、置いておくわね。」
「ああ、小百合。ありがとう。」
大和は日に日に弱っている。
(急がなくては‥‥)
農民にしてはよく、稼いだと思う。だが、まだ足りない。もう少し、もう少しで薬が買える‥‥!
「そこの女ぁ。」
山道、明らかに怪しい男二人に話しかけられた。
(なんだろう?農民じゃないし、関わらない方が‥‥)
「おぉっと、なんだぁ?俺達が話しかけてやってんのに無視かよ?」
「きゃあっ!?」
突然肩を掴まれ、後ろの木に叩きつけられる。
(この人達、お酒臭い‥‥!相当、飲んでる。)
カチャンッと懐から落ちた物が音を鳴らす。
「お?なんだぁ?金じゃねぇか。なあ、嬢ちゃん。まだ持ってんだろう?ほら、出せよ。」
「か、返してっ!」
手を伸ばすが、もう一人の男により突き飛ばされた。
「‥‥っ。」
腰に走る痛みにうめく。
「仕方ねぇ‥‥おい。」
「ああ、素直に出さねぇ方がわりぃ。」
「な、なにをっ‥‥!」
一人が小百合を押さえ、一人が懐を漁り始めた。
「離してっ!返してっ!私のよ!」
必死に暴れても動けない。
「よく見りゃあ可愛い顔してんじゃんか。」
「ひいっ‥‥!」
「おっ!やるか!?」
「は、離してっ!」
帯に手がかかる。嫌だ。掴まれている手も、触られている箇所全てが気持ち悪い。
「‥‥離せ‥‥」
「「ひぃぃっ!!」」
次に悲鳴を上げたのは男達だった。
「ば、化け物だっ!」
「妖怪だっ!!」
怒りを露にした狐程、恐ろしいものはない。小百合の姿は妖怪呼ばわりされても可笑しくはない。赤く光る目。露になった狐の耳と尾。
男達は慌てて山を下っていった。
「‥‥っ、あぁっ‥‥」
小百合は声を押し殺し、泣いている。押し倒された時に切った場所が痛いからじゃない。怖かったからでもない。ああ、どうしよう!
「小百合ちゃん!?」
「み、三和子さん‥‥!」
「どうしたんだい!?あぁあ、こんなに着物着崩して。何があったの!?」
「うわあぁぁぁっ!」
「ちょっ‥‥!?小百合ちゃん!?」
三和子に抱きつき小百合は声を上げ泣いた。
あぁ、どうしよう!大和が死んでしまう!
三和子に支えられながら小百合は村に戻った。そのまま、家に帰れず、三和子の家にあがった。村長や近所の人が心配して声をかけにきたが小百合は反応を示さなかった。小百合は口を開けば、泣きながら
「どうしよう‥‥!大和が‥‥大和が死んでしまう‥‥!」
と、言うばかりだ。
「小百合ちゃん‥‥あれだけの金額、また稼ぎ直すのは大変だけど、私も手伝うから、ね?いつまでも、泣いていないで、前を向きましょう?」
と、三和子がなだめる。
「‥‥」
小百合は無言で頷いたが、目はうつろだ。
その後、三和子に付き添われ、帰宅した。大和には、山道を踏み外し、枝で足を切ってしまった、と三和子が説明した。
「ねぇ、小百合ちゃんの所に毛皮なんて無いわよねぇ。」
次の日、町に布を売りに行こうとすると、三和子に呼び止められた。
「毛皮ですか?」
「ええ。白い毛皮。」
「無いです。でも、どうしてですか?」
「何でもね、あの薬屋の当主の内谷正時さんがね、ある令嬢に結婚を申し込んだんだって。でもねぇ、ほらぁ、内谷さんってあんなんじゃない。だから、その令嬢が『美しい白い狐の毛皮を一月以内に持ってくれば、考える』って言ったらしいの。白い狐なんて、冬にならないと居ないじゃない。今はまだ、初夏過ぎた頃でしょう?だから、内谷さんは白い毛皮を血眼になって探してるらしいの。もし、あれば大和君の薬と交換とか出来るんじゃないかと思って村のみんなに聞いてたのよ。やっぱり無理かねぇ?」
小百合は微笑んだ。
「三和子さん‥‥一緒に町に行って欲しいの‥‥」
「さ、小百合ちゃん‥‥?」
「貴様のような小汚ない娘が白い狐を連れてきただと?貴様は前から薬代は後で絶対に返すから薬をくれとか土下座までしていた娘じゃないか?」
まさか、本人がお出ましとは。
「‥‥ええ。白い狐は来ました。ですが、ただでは渡せません。前からお願いしている薬と交換です。」
小百合は民衆が集まるなか、堂々と答える。内谷は分厚い手を顎におきジロジロと品定めでもするかの様に小百合を眺める。
「本当に狐がいるのか?貴様はその小汚ない手には何も無いじゃないか。」
内谷は鼻で馬鹿にしたように笑った。
「先に薬を。そうすれば白い狐を見えるようにしましょう。」
小百合の言葉に民衆は口々に囁く。「まさか、妖魔を町に?」「騙しているんじゃないのか?」と小百合の耳にも届く。
「ならば先に狐をよこせ。」
「先に薬を。」
「先に狐だ!」
「先に薬を下さらなければ狐はお渡ししません!」
小百合はいい放つ。その気迫に、内谷は情けない程に肩をビクリと震わせた。
「‥‥ちっ。おいっ。」
内谷は近くの男に顎で合図した。男はバタバタと慌ただしく店の奥に行き、薬の入った袋を片手に戻ってきた。
「四十日分だ。足りないとは言わせないぞ。さあ、早く狐を出せ。」
小百合は男から薬を受け取ると中を確認し、三和子に渡した。
「確かに。‥‥では、白い狐はあなたにお渡しいたします。」
「‥‥!」
その場にいた全員が息を飲んだ。有り得ない光景が目の前で繰り広げられている。人が獣へと変化する瞬間だ。光輝く娘の体は徐々に小さくなり、尾が現れ、耳も現れ、眩い光が消えたとき、そこにいたのは白よりも白銀に近い、素晴らしく美しい狐だった。
白く美しい狐は後ろをちらりと見る。はっとして三和子が慌てて民衆の間を通り町をあとにした。
白く美しい狐は『人』に捕らえられた。
愛する『人』を助ける為に‥‥
(本当にこれでいいの‥‥?小百合ちゃんがあの時言ったことの意味はわかったけど‥‥)
小百合は山道で三和子に「これからは何があっても驚かないこと。何があっても大和に薬を届けること。約束して。」と言っていた。
(私は‥‥私はあなたを殺す為に白い狐の話をしたわけでは無いのに‥‥!)
もし、私があの話をしなければ。もし、私が町に行くのを止めていたなら。
(私はっ‥‥!私はなんて事をっ‥‥!)
三和子は罪悪感にさいなまれていた。涙が止まらなくて溢れて零れて。少しでも狐に変わった彼女を恐ろしいと思った自分を情けなく思った。
「私はっ‥‥!私はっ‥‥!」
村に続く山道を半分以上進んだ時、三和子は泣き崩れた。
「泣いて歩みを止めるくらいなら姉さんの所に戻りなさいよ。間に合わないとわかっていても。」
「だ、誰っ!?」
近くの木陰から現れた若い娘は狐のふさふさした尾を揺らしながら三和子に近づいた。
「私は小百合姉さんの妹、小春よ。姉さんは大和って人を助けたかったの。姉さんの願いを叶えてよ。姉さんはやっと幸せになれたんだから。」
「やっと‥‥?」
「姉さんは私達、狐の中でも異質だったの。狐は夏は夏毛に、冬は冬毛になる。それは人間も知ってるでしょ?」
こくんと三和子は頷いた。
「姉さんは夏毛が生えないの。年がら年中冬毛なの。だから、親に捨てられたの。私達姉妹も離れ離れになっちゃったの。わかる?生まれて一歳の子供が親に軽蔑された目で見られて捨てられた気持ちがわかる?」
「‥‥なんて残酷な‥‥」
「でも姉さんは大和っていう伴侶に出会えた。だから姉さんは狐の短い寿命でも幸せになれた。その姉さんの最期の願いを叶えてよ!‥‥ねえ!姉さんを幸せにした人助けてよ!諦めないでよ!」
「‥‥!」
ぽろぽろと涙をこぼす小春。
「わかった‥‥!絶対に‥‥絶対に届けるからっ‥‥!」
「‥‥ありがとう‥‥でも私が家まで届けてあげるよ。」
小春は巻物を取りだし、口の中でぼそぼそと何かを唱えた。次の瞬間、三和子は大和と小百合が暮らしていた家の庭に立っていた。かたんと音がして戸が開いた。
「‥‥あれ?三和子さん‥‥?」
「や、大和君っ‥‥!あ、あのこれ、さ、小百合ちゃんから‥‥」
「‥‥薬‥‥?」
手渡された袋を見つめる目がさっと陰った。
「‥‥小百合は‥‥?」
「‥‥」
黙り込む三和子に大和は言い募る。
「三和子さん!小百合は!?小百合はどうしたんですか!?」
「‥‥ごめんなさいっ‥‥!私っ‥‥!」
「姉さんなら死んだわ。」
「こ、小春さんっ‥‥!」
小春ともう二人、同じく尾を生やした者が立っていた。
「小百合の姉、小夜と申します。」
「小百合の弟、小浪です。」
ぺこりと二人は頭を下げた。
「小百合の姉妹‥‥!?‥‥小百合が死んだってどういう‥‥?」
「小百合姉さんは狐だったの。薄々気づいてはいたんでしょう?私と小百合姉さんの会話も聞いてたみたいだし。」
「やっぱり君はあの時小百合が見つけた‥‥」
「そう。小百合姉さんは寿命が短かったの。狐だから。狐ってのはね、化ければ化けるだけ寿命が縮まるの。姉さんなんて常にだからもってあと半年くらいだったわね。」
「そんなっ‥‥!」
次に小夜が話始めた。
「その薬は小百合の最期の願いよ。飲まないで死のうなんて私達狐が許さないわ。」
小浪も頷き続けた
「姉さんは貴方が生き延びる事を望んだ。だから生きてもらわなくちゃ困る。」
言われた愛する者の死。それが自らのためと知った。胸の中は失った喪失感と何もしてやれなかった自分の無力さを悔やむ思いと全てがごちゃごちゃに混ざって涙が溢れた。
__小百合、ずっと愛している__‥‥
その、半年後。大和は狐達の看病もあり、すっかり健康になっていた。だが
「‥‥なんのために‥‥」
今だ、愛する者を犠牲にしてしまったという思いに駆られていた。
「‥‥小百合っ‥‥」
生き延びたのに、一人しかいない家は余りにも広くて寂しくて‥‥
「すみませーん!」
「あ、はい!」
慌てて縁側から立ち上がり、玄関へと急ぐ。戸をあけるとがっしりとした大男と抱えられた赤子がいた。
「大和殿のお宅でありましょうか?」
「はい。大和は俺ですが。」
そう言うと大男は懐から文を二通取り出した。
「これは先々月、内谷に嫁がれた佳代様の文にございます。もう1つ、これは小百合殿からの文にございます。」
「小百合から!?」
大和は男から半分奪うようにして文を受けとった。
本当なら小百合からの文を最初に読みたかったがお偉いさんの使者がいるのにそんな無礼は出来ない。
大和殿へ。この度は私の我が儘により大変申し訳ない事をしました。内谷に毛皮を剥ぐことを止めさせようとはしたのですが力及ばず間に合いませんでした。しかし、小百合殿から任された彼女だけは約束通り貴方に届けます。何か困ったことがあれば申し出てください。佳代の出来る限りの事はやります。これで許されるなどとは思っておりません。どうか恨んでください。本当に申し訳ありませんでした。
「‥‥彼女‥‥?」
「この子です。」
男は赤子にまかれた布を少しずらした。まだうっすらとしか生えていない頭には白い獣の耳がピクピクと動いていた。
「まさか‥‥」
男は深く頷いた。
「大和殿と小百合殿のお子様にございます。」
すっと出された赤子を大和は恐る恐る抱き上げる。ふと胸に熱いものが込み上げてきた。
「‥‥本当に申し訳ありませんでした。‥‥小百合殿をお助けする事が出来ず‥‥小百合殿は彼女を産むと同時に御亡くなりになりました‥‥」
男は深々と頭を下げた。
「頭を上げてください。確かに小百合は死んでしまったけれど‥‥彼女の生きていた証(子供)をちゃんと届けてくれた‥‥」
男は一度頭をあげ、また深々と頭を下げてから帰っていった。
大和へ。
勝手な事をしたと怒っているでしょうね。ご免なさい。私は狐だから貴方の傍にずっと居ることが出来ないの。だから貴方を守りたかった‥‥
私は今日、佳代様に頼んで貴方との子を産みます。多分半獣になると思います。我が儘を言って申し訳ないのだけれど子供の名は男の子なら小柄、女の子なら小鈴にしてください。狐の一族には『小』の字を名前につけるから。
最後に今までありがとう。親に捨てられ、人にも見放された私を愛してくれて‥‥ずっと愛しています__‥‥
「小百合‥‥小鈴はちゃんと育っているよ‥‥」
古い文から目を離し、遠くに居る少女に目を向けた。
「お父さーん!」
佳代からもらった鞠を大事そうに抱え走ってくる少女のゆれる黒髪の隙間から白い獣の耳が光りに当たり綺麗に輝いていた。