最終幕の参、夢幻の如く
二人の来訪者を迎えて騒然としていた本能寺であったが、その喧騒を余所に周囲を取り囲む一団があった、鎧兜に身を固めたその一団の中に一際立派な装束を纏った男が居る。
男の名は明智十兵衛光秀、信長の配下において近江、丹波を支配し近畿地方一帯の織田軍における総指揮権を与えられる直臣である。
信長の窮地を知り救援に来たにしては、まるでこれから地獄へと赴こうかというような悲壮な表情がその顔に浮かんでいる、それもそのはず光秀が本能寺に軍と共に現れた理由は主君信長を誅するためであった。
光秀は朝倉に仕えてきた頃からの縁で将軍足利義昭と親しかったが為に朝廷と信長との間を取り持つ役目を負ってきたが、義昭はしだいに信長と対立するようになり京を追われて備後へと落ち延びる事になった。
これを境にして信長は朝廷や幕府を蔑ろにしていると考えた光秀は、しだいに信長と意見を違えるようになり確執が生まれてゆく、その後も様々な事が積み重なり今日という日を迎える事になったのだ。
衣笠山の麓にて兵馬を返した光秀が本能寺を囲んだまま身動ぎもせずにじっと目を伏せている。
事ここに至っても光秀の頭の中では未だ葛藤が渦巻いていた、思い出されるのは信長に仕えてよりの数々に出来事だ、確かに母を見殺しにされ饗応の席にて恥をかかされた事もある。
しかし流浪の身であった自分の才を買って此処まで引き上げてくれたのは信長であり、それどころか一時は君臣を越えて共に酒と花を楽しんだ、何より信長が楽しそうに語る日の本の行く末を自分も共に見たいと願ったのは紛れもない事実である。
しかし権力を握り天下人となった信長はいつしか変わってしまったと光秀は思う、それと同様に自分もまた変わったのだとも感じる。
故に共に歩む事は出来ないのだ、己の信じる理想のために、自分を信じてくれる者達のために自らが天下を睨み正道を取り戻す、そしてなにより信長と共に見た夢の跡を継ぐためにも戦国の世に生まれた武将として引き返す道は既に無い。
光秀が伏せていた顔を上げた時には先程まで何かに脅えていたように見えた瞳には野望に燃える戦国武将に相応しい炎が灯っていた。
「心しらぬ、人は何とも言はばいへ、身をも惜まじ、名をも惜まじ」
光秀は手に持った采配を高々と振り上げると一気に下ろして下知する。
「掛かれぇっ!」
「おおうっ!!」
総大将たる光秀の号令をもって旗に描かれた桔梗の紋が翻り、本能寺を囲んだ明智の軍勢が一斉に襲い掛かる。
鬨の声が響き渡り、怒号と喧騒が支配する中で采配を振るう光秀の背後で薄く笑った者が居る事に誰も気付かなかった。
戦国の覇王、織田信長
蓬髪に茶筅髷を結った頭に面長で鋭い輪郭、太く力強い眉毛の下には鋭い眼が覗き、眉間から流れる鼻梁に蓄えた美髯を持った精悍でありながら艶を感じさせる顔をした戦国の覇王にして自らを第六天魔王と嘯く者である。
尾張の国、古渡城の城主織田信秀の嫡男として生を受けた信長は天文二十年、急逝した信秀の後を受けて家督を相続すると当時うつけと謗られていた兄信長が家督を継ぐ事を不服とした弟信行(信勝)が起こした家督争いに勝利した後、国内の敵対勢力を瞬く間に制圧して尾張を統一する。
そして永禄三年、東海一の弓取りといわれ当時天下人にもっとも近いと目された今川義元の軍勢二万五千を桶狭間の戦いにおいて僅か二千の供廻りで撃破し世に勇名を轟かせた。
この桶狭間を契機として尾張という小国の主でしかなかった信長は天下布武を唱え覇道を歩んでゆく。
周辺の敵を尽く平らげ甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信が亡くなった今、天下統一まであと僅かという所まで来ていた信長は、中国征伐に向った羽柴秀吉よりの援軍要請に応じて兵を差し向けると自らもまた備中へ向うべく出立、今夜は京における常宿である本能寺にて休息を取っていた。
夜半も過ぎた頃になって信長が本能寺の奥に設えた寝所で目を覚ますと外がなにやら騒がしいようであった。
何事かと思い起き上がると既に室である帰蝶(濃姫)が起きており、口元を裾で隠してくすりと笑っている、その表情を見た信長が尋ねる。
「どうした濃」
「ふと目が覚めてしまって、起こしてしまいましたか?」
「いや、何やら騒がしいようだな」
「恐らく喧嘩の類でございましょう、弥助を遣わしましたので程無く納まるかと」
帰蝶は楚として信長の近くによると肩に頭を預けてくる、その重みを受け止めながらも信長は神妙な顔を崩さないままだ、その様子を見た帰蝶は信長へ問いただす。
「上総介様?」
「見よ」
そう言うと信長は自らの腕を帰蝶の目の前に突き出す、その腕には鳥肌が浮かんでいた。
「これは」
「ふふ、この信長が鳥肌を立てるとは何時以来か、今宵は騒がしくなりそうだ」
これから何かが始まる、その確かな予感を胸にして信長は凶悪ともいえる笑みを浮かべる、その信長の顔を頼もしそうに見つめた帰蝶は静かに良人の胸に顔を伏せると段々と高鳴る心臓の鼓動をうっとりとして聴いていた。
一組の男女が蝋燭の明かりに照らされながら寄り添う姿は一枚の絵画のようである、その姿勢のまま幾ばくかの時が流れたころ襖の向うから小姓頭である森蘭丸の声が聞こえてきた。
「大殿、謀反にございます」
「誰か?」
謀反の知らせを告げる蘭丸に対して一拍の間を置いて問い質すと同時に寝白襦袢の肩に帰蝶の内掛け羽織って襖を開ける。
「紋は桔梗、明智光秀様と……」
「金柑だと?」
信長の問いに対して襖を開けたところに畏まる蘭丸が襲ってきたものは明智光秀であると報告する、光秀の名を聞いた信長が首を捻ると後ろに控えていた帰蝶が注意を促してきた。
「十兵衛様は賢いお方です、雑兵など幾人いようとも上総介様に傷を付けることなど叶わぬと分からぬ人ではありません、ならば隠し玉が居ると見るべきでしょう」
帰蝶の言葉に対して思い当たる事があったのか蘭丸がはっとした表情を浮かべた、その顔を見逃さなかった信長は面白そうに笑って言葉を連ねる。
「お濃、蘭には心当たりがあるようだぞ」
「まあ蘭丸、隠し事は感心しませんよ」
「は、それは……」
「俺のことのようだな」
言いよどむ蘭丸が続きを話そうと口を開きかけた時、信長の視線の先にある暗闇から鋼のような声がかかり羽織袴姿の男が一人現れた。
「貴様!」
その声に反応した蘭丸が現れた男に振り向くや胸の傷から血が噴出すのも構わずに抜刀する、相対した表情と態度から察するに蘭丸の胸の傷をつけたのはこの男であると判る。
蘭丸とて相当の腕を持っている武人である、その蘭丸が是ほどまでに緊張を顕にするならば相応の実力を持っているのは疑いが無い、事実その長髪の男からは久しく感じた事の無いような気配が漂ってきている。
信長は今にも斬りかからんとする蘭丸を手で制して前に進み出ると目の前に立つ男を見つめて笑みを浮かべ楽しそうに笑う。
「ほう、中々の剣気だ、どうだこの信長に仕えぬか?」
手を顎に当てて目の前の男に告げる、前に立つ男は信長に放たれた刺客であろうことは蘭丸の態度から十二分に察せられるがそのような事は瑣末時とでも思っているのであろう口調である。
その申し出に対して男は苦笑を浮かべると以外に神妙な様子で応じた。
「森にも同じことを聞かれたな」
「断ったのであろう、貴様はそういう男よ」
「それが分かって何故同じ問いを投げる?」
無論信長とてこの申し出に男が乗るとは思っても居ない、ただ単純にこの男の腕を惜しいと感じたが故のことである。
詰まるところ返答など何でも構わないのだ、己欲したものをただ欲しいと告げたに過ぎない、手に入れば良し、入らぬならばそれもまた良し。
後ろに控えていた帰蝶から一振りの朱鞘に白い柄の刀が挿しだされ、振り向きもせずに白刃を鞘から引き抜くと切先を左近へと向けた。
「それは信長が故よ、これが最後の機会ぞ」
「断る」
男が拒絶の言葉を発すると信長はすうと刀を持ち上げて無造作に一閃させた、その一刀を男は咄嗟に横へと跳んでかわす、振り下ろされた刃は欄間を両断し床を切り裂いて止まる。
「ふ、ふははははは! 良かろう戦国の魔王の力その身体に刻んで逝け」
「お待ち下さい!」
己が振るった刃をかわした男を見据えると哄笑を上げて再び刀を向ける信長の眼前に蘭丸が間に割って入って待ったをかける。
両手を広げて押し止める蘭丸に対して、信長は子供が楽しい遊びを邪魔されたような渋面を作るとその真意を問いただす。
「なんの真似だ?」
「外には明智の軍勢がおります、ここは私に任せて急ぎ脱出を」
落ち延びるように諭す蘭丸の胸からはとめどなく血が溢れており顔面は蒼白になっている、それでも主君の身を案じて懸命に訴えかけてくる姿に感じるものがあったのか、信長がくるりと踵を返した背中に鋭い声がかかる。
「ここを逃せば公と戦える機会は巡ってこぬだろう、ならば逃がす訳にはいかん」
「その通りだ、ここで逃げられては困る」
かかる声には応じずに歩を進めようとした信長だが、そこにもう一つの声が上がった。
新たに上がった声に突き動かされて後ろに首を巡らせれば始めに現れた男の背後、開いた襖の向うに朱に染まった着流しを着て両手に血刀を下げた蓬髪の男が立っている、その男は太刀を鞘に収めて近寄ってくる。
「拙者は松平信之助と申す、これに心当たりがおありか」
そう言いながら懐から六枚の木片を取り出して床へと放った、乾いた音を立てて散らばった木片は分割された割符のようであり、その割符に目を落とした信長は呵呵と大笑する。
「答えてもら……」
「待て」
笑う信長に対して信之助が真意を問いただそうとした所、横手にいた長髪の男が待ったをかけて袖口から二枚の割符を取り出すと先に散らばる割符の上に投げ落とした。
「八枚か良く集めたものよ、蘭」
信長の声に従って蘭丸が一枚の割符を持ち出した、これで九枚全ての割符がここに揃ったことになる。
「この符を揃えた者には何でも願いを叶えてくれると聞いている、今の日の本でそれだけの力を持つのは信長公を置いて他におりますまい」
「ならば如何する」
「知れたこと、この茶番を仕組んだ者の名を答えてもらう!」
嘲る信長に対して思うところがあったのか信之助がニ刀を引き抜いて吼える、それを見た信長は顔に笑みを浮かべたまま手に持った刀を振るった。
横薙ぎに振るわれた刀はあまりにも無造作に過ぎる、しかしその剣閃の鋭さは信之助をして覚えが無いほどに逸い。
咽を切り裂かんとした一刀を反射的に持ち上げた太刀が辛うじて留めていたが、信之助の背中には冷や汗が噴き出していた。
自らが振るった刀を受け止められた信長は刃を引くと顎を撫でながら二人の男に向き直って笑う。
「よもや我が太刀を受けられる者が一夜に二人も現れるとはな、信之助とそっちの名は何といったか?」
「そういえば名乗っていなかったな、総洲浪人、紅林左近」
「信之助に左近か、面白い貴様ら二人我が下に参れ」
先程と変わらずに淡々と告げる目には嘘偽りは何も無い、しかし一刀を片手にしてただ立っているだけの信長から放たれる尋常ならざる気配に信之助と左近は戦慄を覚える。
しかし二人ともが数々の死地を越えてきた猛者である、そうそう気後れしてばかりではない。
「先程も言ったはずだ、断ると」
「生憎だが拙者も御免こうむる」
腰を落として柄に手をかける左近と左半身に二刀を構える信之助、そして二人の前に一刀を片手にして泰然と佇む信長。
「痴れ者が!」
「お待ちなさい」
相対する三人の様子に蘭丸が痛む身体に鞭打って飛び掛ろうとしたとき静かな声が部屋に響いた、信長の横に進み出ようとするのを止めたのは帰蝶である、
「蘭丸、上総介様の邪魔はなりません、それにその傷では足手纏いになるだけです、控えなさい」
「しかし!」
「私は控えなさいと申し付けました」
静かな、しかし有無を言わさぬその声に秘められた力は流石に信長の正室というべきか、下がれと命じられた蘭丸が大人しく下がると帰蝶は信長に向って微笑んで首を垂れる。
「ご存分に」
「ふ」
信長は一声かけたのちに下がって蘭丸の傷を見始めた帰蝶を視線だけで見送ると改めて二人を睥睨する、周囲を光秀の兵に囲まれ、二人の手練と対峙する状況に追い込まれたといってよい、しかし信長もまた戦場を駆ける武人この四面楚歌の状況でさえも心が躍るのを止められぬ。
「この信長に対しそれだけの口を叩いたのだ、覚悟はあろう」
「元より!」
叫んだ左近が踏み込むと同時に必殺の一撃を送る、鞘から抜刀された刃が身体に到達しようとする寸前になっても信長の顔には笑みが浮かんだままである。
そのまま振り抜かれれば間違いなく首を切り落していたはずの一刀が止められた、しかしこれを受け止めたのは信長ではなく信之助である。
「なんの積もりだ?」
「公には尋ねた事に答えてもらわねばならん、引っ込んでいてもらおう」
「邪魔をするなら御主から倒すまで」
視線を交錯した二人の間で火花が散る、しかし睨み合いも一瞬二人の間を引き裂くように銀光が風を纏って迫るのを左近と信之助は互いに後方へと跳んで刃から身をかわす。
「相手を違えるな、うぬらの相手はこの信長ぞ」
顔に笑みを浮かべたまま全身から鬼気を迸らせる信長は構えもせずにただ突っ立っているとしか見えぬ。
しかしながら佇まいは左近と信之助の二人をして躊躇させるだけの迫力がある、如何に天下に覇を唱える人物とはいえ只気迫のみで二人を抑える事は出来ない、それすなわち信長の武は魔人、鬼人と称されるこの二人に比肩、あるいは凌駕するものである事は疑う術が無い。
構えを解かぬままの互いに牽制する二人を見た信長は開いている手を顎にあてると悪戯を思いついた童子のような笑みを浮かべて言い放つ。
「うぬらの望み、この信長に勝てたなら叶えてやろう」
「我が望みは我が手で叶える、信長公にはその礎になっていただく!」
「承知した、ならばその口から全ての真実を語ってもらおう!」
信長の言に左近と信之助が吼えると同時に刃を振るう、その三つの刃が唸りをあげて信長の身に迫る、しかしその斬撃をただ一刀、たった一振りで弾き飛ばす信長。
己の振るった刃が相手の身に届かなかった二人はすぐさま構えを取り直すと再び斬りかかる。
先手を取った信之助が信長に向って刺突を放つがその突きは虚しく空をきった、突きをかわした信長はかわすと同時に下方から一刀を撥ね上げる。
その刃を小太刀で受け止めた信之助の腕に今まで感じた事のないような衝撃が走る、ただ鋭いだけの一撃ならばこれ以上のものも記憶にあるが力や技とは違う、陳腐な言葉で言い表すならば即ち格が違うと確信させる重い一撃である。
「ぐうっ」
ずしりとした重みを感じる信之助の背後にぞっとする剣気が膨れ上がり鋭い一撃が振るわれた、諸共に両断しようと振るわれた左近の横薙ぎの一閃である。
咄嗟に床へと転がって刃を掻い潜る信之助の上を銀光が掠める、きわどい所でその切先をかわした信之助が体勢を立て直した時に目にしたのは左近が投げ飛ばされたところであった。
二人まとめて斬り捨てようと繰り出した横薙ぎの一撃はその任をまっとう出来なかった、信長の死角から斬りつけた刀は鍔にてがっちりと止められ、その事実に驚愕に目を見開いた左近が一瞬動きを止めた瞬間、伸びてきた信長の腕が左近の襟を掴むと同時に横へと振るわれてそのまま投げ飛ばされる。
受身を取って無様に転がることを凌ぐとすぐに立ち上がり、立ち上がりざまに抜いたままの刀を納刀すると再び抜刀して上段から唐竹割りに斬り下ろす。
通常の居合い斬りはその構えからどうしても横薙ぎが基本であり刃の起動も限定される、しかし左近は修練の末に居合いの構えを取りながらも納刀した鞘の角度を手の内で変化させることでその斬撃軌道を上中下段の使い分ける事が出来るように鍛錬を積んでいる。
流石に逆撃は出来ないが只でさえ神速と謳われる左近の居合いに唐竹、袈裟、薙ぎ、切り上げの変化が加われば見切りは勿論の事かわすのさえ至難の業だろう。
信長も多分に漏れず手に持った刀を自身の右側においており、左近の居合いを防ぐ心算であったが正面からの斬り下ろしで来るとは意表を突かれたのか瞳に驚きの色を浮かべる。
しかしそれでも尚余裕を持って半歩だけ後ろへと下がることで鼻先三分の距離で左近の刃をかわす信長。
しかし左近にしても一刀で勝負が決するとは思ってもいない、何時の間にか両手で構えていた刀を切り下ろした瞬間に震脚を持って一歩を踏み出し突きへと変化させた、風を巻いて突き出された刃は信長の水月から背中へ貫こうと迫る。
左近の刃が信長を完全に捉えたと見えた瞬間に鋼が打ち合う音がして意図せずに刃が跳ね上がる、信之助の太刀が横から左近の突きを弾きそのまま小太刀を左近に対して振るうが、これは軽く避けられる。
その隙を見逃すほど信長も甘くは無い、信之助が左近へかかることで生じた隙を突いて一刀を振るう。
信長の一刀は避けられた小太刀を咄嗟に逆手に変えて食い止めることで刃が喰い合う、その一瞬に左近の居合いが閃いたが、信長と信之助は互いの刃を引くと後ろへ跳んで左近の一刀を避ける。
「ふうっ」
「はあっ」
「ふっふ」
息を突く左近と信之助に対し信長は肩に刀の峰を乗せると不敵に笑う、床の間の前に座す帰蝶と蘭丸の前に信長、信長を頂点として右に左近、左に信之助が陣取る。
三人が止まると同時にこの攻防の中に刃が掠ったのだろう燭台の柄が二つになり、蝋燭の炎が障子に燃え移った。
炎の爆ぜる音と共に周囲の喧騒は大きくなっているが三人の耳目に映り聞こえるのは互いの息づかいのみ、三人の呼吸が徐々に重なり同時に吸った息を止めた瞬間、全く同じように飛び出していた。
「りゃあっ!」
「づあっ!」
「むんっ!」
踏みしめる脚、薙ぎ払われる一閃、打ち下ろされる一刀、交差する刃、突き込まれる鋼、払いのける腕、咆哮する喉、食いしばる歯牙、爛々と輝く双眸、回転する胴、飛翔する影、閃く銀、そして舞う真紅。
寸毫切り結んだ攻防は常人の目には留まらず、三人の立ち居地は左近と信之助の居た場所を逆にして止まる。
振り向いて再び対峙する三人の姿が炎の中に照らし出される、信長は肩に掛けていた着物を落としたがその顔に久方ぶりに浮かぶ表情は喜悦、対して左近の信之助の双方は浅いとはいえ幾ばくかの傷を身に刻み顔に浮かぶのは驚愕である。
「たいした者よ、この信長の着物を剥がすか」
「お褒めに与りと言いたいが、未だ本気でもあるまいに」
「強者と戦えるのは嬉しいが……これ程とは」
信長が余裕を持って語るのを左近と信之助は額に汗を浮かべながら聞いていた、この二人とて天賦の才を持ち研鑽を積んできた人間である。
その二人を持ってして尚上回る信長の天凛とは如何ほどのものであるのか、だが信長の真の恐ろしさは才に在らず、既存に捕らわれない柔軟な思考とそれを実現させる実行力そして周囲の人間を圧倒するその才を昇華させた努力にこそあろう。
幼い頃より「たわけ」「うつけ」と呼ばれた子供は、実のところその才能故に理解されなかった、その才を只一人理解していた平手政秀が腐りそうになっていた信長に対して己の死を持って忠言したからこそ努力を惜しまずに日々を過ごした結果として現在の信長が存在するのだ。
確かに信長の剣腕は傍から見れば出鱈目に見える、しかし対峙してみればその技は積み上げられた確かな技巧に裏打ちされたものであり、知性と本能という二律背反するものが渾然一体となった正に天衣無縫の極みと成っている。
三つ巴だからこそこの程度で済んでいるが一対一ならば良くて数合、悪ければ一瞬で勝敗は決するだろう。
「ふっふ、戦場はこうでなくてはな」
周囲を見渡して僅かな間に障子から燃え広がった炎が天井まで到達したのを確認した信長が何気なく放った言葉と共に一気に気勢が膨れ上がる、その気は何処までも蒼く凄烈にして相手を絡め取るかのような迫力醸し出している、その気を受けた左近と信之助の視線が互いに動き一瞬交錯した。
次の瞬間二人は当面の相手を信長と見定めて踏み出した、これは信長に対して全力を振るわねば僅かな勝機も無いと悟ったが故の行動で、けっして共闘とは呼べぬものであり生物としての恐怖に突き動かされたようなものである。
「けあっ!」
「せいっ!」
気合の声と共に振るわれる三振りの刃を迎え撃つのは只一刀、駆け抜けざまに鞘から引き抜かれる刀の柄頭を足で押し止めると共に蹴り飛ばす。
蹈鞴を踏んだ左近の背の影から現れた信之助が交差した刃を切り抜く、十文字に軌跡を描く軌道を半身で流すとだらりと下げた一刀を無造作に切り上げる。
眼前を振り抜かれた刃から身体を捻って身をかわすが振り抜かれたはずの刃が頭上から降ってくる、切り下ろされた刀を交差させた刀で受け止めるが衝撃に方膝を着く信之助。
その信之助の顔面に信長の蹴りがまともに決まり後方へと吹き飛んだ。
吹き飛んだ信之助を追いかけようとする信長の真横から炎を照り返した刃が衝き込まれた、突き込まれた刀を屈み込んでかわすと左近の胴を薙ぐ、左近は横薙ぎの斬撃を皮一枚でかわすと喉、胸、腹、両肩を狙って五連突きを放った。
左近の五連突きを見た信長は右半身に変わると刀を持った右手を肩の高さに合わせて柔らかく握ると更に倍する速度で突きを繰り出した。
鋼が打ち合う音が五度響き渡り六度目の輝きは喉へと迫る、その突きをかわせぬと悟った左近は咄嗟に身体を左半身に捻って左肩でその刃を受けた。
引き抜かれた刀が七度目の牙を向けたとき信長の後方から両腕を大きく広げた信之助が迫る、左右から僅かにずれた軌道を持って振るわれる二刀は逃げ場を奪う必殺の一撃。
しかし信長の技は必殺を覆す、その場で振り返ると迫る太刀に自らの刃を絡めて捻り自分の刀諸共に撥ね上げる、同時に小太刀を白刃取りして信之助ごと投げ飛ばす。
信之助を投げた隙を見逃さずに再び居合いを持って斬りかかる左近、刃が信長の首を飛ばそうと翻るが、共に撥ね上げた刀が落ちてくる場に移動していた信長は落下してきた刀を後ろ手に逆手に取ると切先を合わせて左近の居合いを首の僅か一寸手前で止めていた。
「惜しい」
「ちいっ!」
飛び退く左近に向かって逆手のまま下から上へと斬撃を飛ばす、これは袴の裾を切り裂くに留まった直後、信之助が左近の後ろから地擦りの一刀を振り上げる。
下段からの地擦りであったが信長は瞬時に逆手で切り上げた刀を順手に持ち替えて振り下ろし切り上げてくる太刀を打ち落とす、しかし打ち落とされるのは信之助の思考の範疇であった。
右手の太刀を払われると同時に左逆手でもって袖の影に隔していた小太刀を突きこむ、虚を衝いたはずの突きであったが信長は自らの袖を振ると小太刀に絡めて突きを防ぐや振り下ろしていた刀を引き戻して逆に信之助目掛けて突き込んだ。
「がっ!」
咄嗟に飛び退いた信之助だが避けきれずに右目を刺し貫かれた、再び始めと同じ位置に戻った三人だが、左近は左肩に裂傷を負い、信之助は右の眼を失った。
轟々と燃える炎が照らし出すなかで相対する三人、左近と信之助の二人の負った傷も戦闘不能になる程のものでは無いが、泰然と立つ信長と肩で息を吐く二人の実力の間には見た目以上の開きがあることは本人たちが一番実感している。
「さて、そろそろ戯れも終いにするか」
周囲はすでに炎に巻かれて脱出することも困難であろうが、信長の口調は本当に遊戯を終らせる程度にしか聞こえない。
もっとも常在戦場がその身に染み渡っている以上はどのような窮地であれ取り乱す事は無い、これは左近や信之助は元より蘭丸や帰蝶ですら戦場に立つ者として当然の心構えである。
だが真紅の炎が燃え盛る中で二人を見据える信長の眼は今まで以上に鋭さを増していた、その瞳に映る火は辺りを燃やし尽くそうとする炎より尚熱く、冷たい蒼い炎である。
すうと刀を持ち上げた信長はこの戦いが始まってより初めて構えをとった、攻撃に優れその一撃は鬼神ですら両断すると謳われる八双の構えである。
初めて構えを取った信長から更に倍する気迫が辺りに放散される、その気を受けた左近と信之助もこの攻防が最後と覚悟を決めた。
「奥義は基本の中に在り」
腰を低く落としやや前傾の姿勢を採ると左手を鍔にあてて鯉口をきる左近の構えには二心は無い、ただ己の最高最強の一刀を振るうのみ。
「死中に活を拾うが如く」
左足をやや前に出すと両手を左右に広げて体の中心で太刀を並行させた構えを採った信之助、こちらは普段とさして変わらぬ構えだがそれ故に気が充実した今ならば普段の己を凌駕すると信じての構えに相違ない。
「覇あっ!」
獅子もかくやという咆哮をあげて信長が八双から一刀を振り下ろす、その一撃を左の小太刀で受け流そうとした信之助だがまるで紙を切るように受けた小太刀が切り飛ばされ、胸から腹にかけて浅くない傷を刻む。
「がふっ」
傷から鮮血を噴き上げて崩れ落ちる信之助、その崩折れる後ろから左近が迫る。
震脚をもって一足を踏みしめると足のつま先から頭頂に至る全ての力を右腕に集約して自身最速の一刀を振るった。
信長は振り下ろされた刀を立て直しては左近の一刀を受けることは出来ないと判断し体を回転させて刃の軌道から身をかわす。
「ぐうっ」
振りぬいた左近の右腕はあまりの速度と力によって毛細血管が破裂して肘から先の皮が剥がれて朱に染まったところへ回転した信長の横殴りの一撃が襲う。
刃が左近の首を斬り飛ばそうとした瞬間、倒れ伏したはずの信之助が下方から太刀を真上に斬り上げた。
その一刀すら身をかわした信長は信之助を蹴り飛ばすと同時に左近へ刃を突き立てる、その一撃は床に転がることで何とか避ける左近だがかわしきれなかった刃が脇腹を傷つけていた。
二人ともに立ち上がると再び構えを採るが、双方ともに自らの血で着物を濡らしている。
「ち、今のは生涯最高の一刀だったのだがな」
「これだけ差があるといっそ気分が良い」
すでに全力を超えている二人の口から出るのも虚勢に他ならないが、すでに二人は死をも超越した何かによって突き動かされていた。
「見事」
正真正銘の最後の力をもって信長に挑み掛かろうとした瞬間、二人の血で染まった血刀を下げた信長は顔にふと笑みを浮かべると一言呟いてから踵を返すと帰蝶に顔を向けて命じる。
「濃、鼓を持て」
信長が命じると帰蝶は傍らに置いてあった鼓を肩にして打ち鳴らす、踊る炎と舞い散る火の粉が周囲を彩る中で鼓の音に併せて信長が舞い始める。
「人間五十年
下天の内をくらぶれば
夢幻のごとくなり
一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」
幸若舞は敦盛の一節を踊りきると体の正面に十文字の傷が現れて鮮血を吹き出す、流れ出た血は信長の体はもとより正面に座っていた帰蝶の全身も朱に染めあげる、左近と信之助の決死の一撃は信長の体に致命の傷を負わせていたのだ。
現在起こっていることが信じられぬ二人の眼前で当の信長は鼓を打っていた帰蝶に向かってゆっくりと倒れ伏す、その表情は背中を見つめる左近と信之助はもとより脇に控えていた蘭丸でさえ窺うことは出来なかった、ただ一人その末期の顔を見取ったのは正室の帰蝶のみである。
倒れ伏す信長を帰蝶は腕を開いて抱き留めると自らの胸の中へその顔を埋める。
「お帰りなさいませ」
腕の中で眠る良人に向けて子供を慈しむような、それとも初めて恋人を迎え入れた少女そのままのような幸せそうな笑顔は菩薩の如き見るもの全てに敬虔な思いを抱かせた。
もしかすると帰蝶は今日初めて信長という自分が愛した一人の男を抱きしめているのかもしれない。
この逢瀬を邪魔するような無粋な者は誰も居ない、そのまま誰も口を開かぬ無言の時が流れ、辺りには炎の爆ぜる音と遠く聞こえる鬨の声だけが響いていた。
「蘭丸、上総介様と私の首は余人に渡らぬように砕いて火にくべなさい」
「お方様、それは!」
「良いですね、くれぐれも違える事無きよう申し渡しましたよ」
その静寂を破ったのはやはり帰蝶であった、伏せた目を開けばそこに存在するのは戦国武将の奥である凛とした表情を見せている。
鈴が鳴るような声で蘭丸に後事を告げて言に反論しようとした蘭丸を視線だけ黙らせると残る二人に向き合って首を垂れる。
「お二方にお頼み申します、暫しの間この部屋に何者も入れないで欲しいのです」
自分の良人を殺めた者に頭を下げるなど並みの胆力で出来る芸当ではない、その真摯な願いを叶えねばこの先において武人を否、漢を名乗れまい。
「承知」
「存念無く」
左近と信之助はどちらともなく膝をついて畏まると承服の誓いを立てると炎に彩られた奥の間をあとにした。
二人が去るのを見届けた帰蝶は信長の手から刀を手に取り蘭丸へと渡す、そして自らは父斉藤道三より拝領した懐剣を抜くと刃を自らの咽喉にあて、その背後に信長の刀を構えた蘭丸が立って介錯を取る。
「上総介様」
奥の間を出た二人は信長の名を呼ぶ帰蝶の声と蘭丸の嗚咽が聞こえてくるのを耳にしながらも何も語らずにまるで忠実な門番のように部屋の前に立っていると、そこへ何人かの明智兵が集ってくる。
炎上する本能寺の中を態々彷徨っているのだから目的は明らかだ、手に刀を持った明智の雑兵は襖の前に立つ二人に対して声を荒げた。
「見つけたぞ! その首ちょ」
しかし兵が口上を陳べる間も無く首が宙に飛ぶ、鮮血が吹き上がり周りに居た者たちの鎧を朱に染めた、有象無象には動いたとも見えぬ左近の神速の居合いである。
「ひ……いっ?!」
突如として首が舞った事実に怯んだ兵が悲鳴を上げる間もなく袈裟懸けに両断されて崩おれる、こちらは信之助の手によるものだ。
崩れ落ちる兵の腰から脇差を引き抜いて二刀を構えると目の前に居る雑兵に告げる。
「ここより先に道は無い」
「三途の川を渡りたい者はかかってまいれ」
静かにしかし傲然と言い放つ二人に竦む明智兵だが、良く見れば二人共に全身に傷を負い、その身を朱に染めている。
さらに相手はいかに腕が立とうとも周りを囲んだ数の利を持って押し切れば何とでもなろうと考えた者達が一斉に襲いかかった。
だが気勢を上げてかかるものの尽くが息を吐く間も無く、たった二人の男によって撫で斬りにされて骸を晒す。
事ここに至ってようやく明智兵たちは今眼前に居るものが自分達とはかけ離れた存在だと理解すると武器を放り出して脱兎の如く逃げ出した。
全ての兵が視界より消え失せたあとも二人はそこに立ち続けていた、そして背後にある襖の中にあった最後の気配が消えたのを感じると信之助が一歩を踏み出した。
「待て、信之助と言ったな俺と仕合って行け」
歩み去ろうとする信之助に左近が声をかける、足を止めた信之助は振り返らずに聞き返す。
「理由は察する、故に断るのは無粋であろうな」
炎の爆ぜる音が続く中で兵を撃退した二人の側に梁が一本落ちた。
左近は腰を落として刀の柄に右手を伸ばす
信之助もまた両手の太刀を十字に組んで受けて立つ
「改めて名乗ろう、紅林流抜刀術、紅林左近」
「正真神刀流、松平信之助」
「いざ」
「尋常に」
「「勝負!!」」
対峙した二人が同時に床を蹴って迫る、刃が交錯した瞬間、轟音を立てて社殿が崩れ去り全てが炎の中へと消え去った。
未明まで燃え続けた本能寺跡を隈なく捜索した明智勢であったが焼け跡からは信長は元より正室帰蝶、小姓頭、森蘭丸の遺体も発見されなかった。
天正十年六月二日に起こったこの事件は後の世に「本能寺の変」と伝わる。
信長を討った明智光秀も天正六月十三日、山崎の戦いにて羽柴秀吉に敗北、坂本城へと落ちの延びる際に小栗栖の山道にて落ち武者狩りに会いその生涯を終えた。
その光秀の遺体の側には焼け焦げた九枚の木片が転がっていたが、それは誰にも顧みられることは無かった。
了
是にて本作は完結となります。
この作品は実のところ戦闘シーンをどうすれば格好良く書く事ができるかを模索するために書き始めたものです。
また戦闘描写の練習という以外にも2時間程度の映像作品として考えた場合に娯楽チャンバラ作品として中弛みせずにアクションシーンでどう繋いでいくかということも課題にしていました。
そのため物語としては最低限の動悸付けしかしておらず、それぞれのキャラクター描写が薄く読み物としては物足りなく感じる方が多かったのではないかと思います。
また歴史としては一応調べて書いておりますが、話の都合上史実とは違う設定と描写がありますがそのあたりはご勘弁願いたいなあと。
あとは終り方としては3パターンほど考えていましたが、どれも左近と信之助の決着が付かない終わり方でした。
実際最強の敵である信長のあとでは二人の戦いは蛇足にしかならないだろうと考えた為で、これは初めから決めていました。
拙い話にも係わらず読んでくださった方々に改めてお礼申し上げます。
ありがとうございました。




