第一幕の壱 紅林左近
東海道を西へ向かう街道を歩く一人の浪人がいた。
年の頃は二十を出たばかりか行っても三十までは数えまい、切れ長の涼やかな眼をした色男で赤茶色の長い髪は背中に流しており、先端を邪魔にならぬように飾り紐で結わえている。
厚手の着物に袴を穿き、腰に刺した大小の太刀は二尺三寸と一尺五寸の標準的なものである。
その立ち居振る舞いはさながら清水の如くといえばよいのか、佇む様はまるで一服の絵画を思わせる。
しかしながらそれは清流を書いたものではあるが同時に力強さを感じさせる、その怒りに触れなんとすれば全てを濁流と成って押し流す坂東太郎を思わせる佇まいだ。
悠然と歩を進める先から絹を裂くような悲鳴が聞こえると同時に、脇の林より女子が一人転げ出てきた。
懸命に走ってきたのであろう見れば着物は着崩れており、息も絶え絶えになってすぐさまにでも昏倒しそうだ。
娘は時折後ろを振り返り荒い息を吐きながらひたすらに走る、そして侍の前まで来るとすがり付いて叫んだ。
「お助け下さい、次の宿場に向かう途中に賊に襲われ命からがら逃げてまいりました!」
その言葉も終らぬうちに娘が転がり出てきた林から侍と娘の二人を挟みこむように前後に現れる野卑な姿の十数人の男達。
その中から頭目であろう他の者より頭一つ大きな男がその体躯に見合った大太刀を肩に担いで進み出てくると、侍とそれにすがる女を一瞥して居丈高に告げる。
「若いの、その女をこっちに寄越しな、痛い目みたくはねえだろう」
ドスの効いた頭目の言葉に対して何も、それこそ何一つの言葉すら返さない侍を見て怯えて竦んだかと、げひゃげひゃと下品な笑い声を上げる盗賊たち。
侍はその下品な嘲笑も柳に風と受け流し周囲をクルリと見回すと、フンとつまらなそうに鼻をならす。
そして自らの腰に縋り付く女子の手を取って立ち上がらせると、なんの躊躇も無く男の下へと放り投げた。
「きゃ」
盗賊の足元に投げ出された女子が短い悲鳴をあげるのを構わずに、そのままゆるりと歩を進める侍。
この行動に逆に面食らったのは盗賊達のほうだった、まさか素直に女を放り出すとは思ってもいなかったのだろう。
しばし呆然となる盗賊と投げ渡された女であったが、侍が三歩歩みを進めた所で正気に帰るとその行動から見掛け倒しと踏んだのか頭目が大声をあげた。
「ちょっと待ちな、女を渡したからって素直に通すわけにゃいかねえな。ついでに金目のもんを置いていきな」
「へへ、金が無いならその腰のものを置いてってもらおうかい」
頭目が言うのと合わせて下っ端の盗賊が小走りに侍に近寄り、腰の刀に手を伸ばす。
その瞬間一筋の銀光が侍の腰より光ったと見えると同時に、頭目の足下にボトリと落ちてきた物がある。
訝しげにそれに眼をやれば肘から先の右腕であった、その指がまるで斬られた事にも気がつかぬように何かを掴もうして動いた瞬間、下っ端の右肘から鮮血が噴出し地面を赤く染める。
「ぎ、ぎゃああああ!」
右肘を押さえてのた打ち回る下っ端などには目もくれずに歩みを進める侍に眼を移すと、その佇まいは先程と何も変わっていない。
女に助けを求められたとき、投げ渡したとき、そして恐らく腕を切り落としたときでさえも。
この侍は何か自分たちとは違うと頭目は根源的な何かに突き動かされて叫んでいた。
「ぶっ殺せ!」
頭目の叫びにあわせて侍の前後にいた盗賊達が次々に抜刀し襲い掛かる、いかな手練でも前後から同時に襲われては苦戦するのは免れまい。
否、並みの使い手ならば先ず間違いなく死の運命から逃れる事など出来はすまい、しかも彼は未だに腰に刺した太刀を抜いてもいない。
しかし侍のその右手が一瞬消えるたびに、チンというまるでそよ風に吹かれ音色を上げる風鈴のような鍔鳴りの高い音が空へと響いた。
その音が鳴るたびに盗賊たちの腕が、胴が、首が次々に空へ舞っていくではないか、同時に辺りには血の濃密な臭いが立ち込め、体の一部を失った胴から鮮血が吹き上がる。
その血煙の中をいっそ悠然と進む侍の体には、吹き上げる血潮は一滴たりともかかりはしない、そのように斬りそのように動いているのだ。
緩やかな歩みは止めず、只無人の野をゆくが如く侍は歩を進める。
その足が歩を踏むたびに、一人また一人と盗賊たちの命が消える。遂に恐慌をきたした何人かが踵を返して逃げ去ろうとするが、その足が一歩を踏み出したところで襲い掛かった人間と同様に体の一部が切り落とされる。
状況からみれば侍の技は居合いのそれであろう、しかし構えも無く音しかその技を知る術は無いなどどれ程の達人か、否ここまでくれば魔人と称して構うまい。
そしてその魔人に相対したのは何処にでもいるような盗賊だ、これは単に己の命を無為に散らすだけの愚かな振る舞いに過ぎない。
「う、うわあああっ!」
最後の意地か、それとも恐怖に負けたか奇矯な叫び声を上げながら最後の一人となった頭目が大上段から一撃を加えようと己の太刀を振り上げる。
その横をすうと変わらぬ歩みで通りすぎた侍の腰でチンと鍔の音が最後に鳴った。
頭目が脇を通り過ぎた侍に向き合おうと振り返るが、振り向くと同時に両腕は肩からポトリと地面に落ち、その視界が上下にずれる。
そのずれた視界の中で歩み去る、侍の背中に綺麗に正中線から二つに分かれた口から同じ言葉がずれて発せられた。
「「化け物…」」
その場に残された女は目の前で起こった事が信じられなかった、盗賊とはいえ荒事に慣れているはずの十人以上の人間が瞬きする間に躯に変わったのだ。
その光景事態が既に女の知る戦いとは異なるものだ、否これは戦いではない、歩くのに邪魔な物を切り払った、ただそれだけの行為にすぎないのだ。
それに思い至った女は戦慄に震えた、すでに腰は抜けその足元には自分も気付かぬ間に泥濘が出来ている。
それでも女にはある言葉を伝えねばならぬ使命があった、たとえ先の盗賊同様に塵芥の如く斬り捨てられてもそれをこの侍に伝えねばならぬ、女は気丈にも恐怖に震える声を懸命に張り上げた。
「お、お待ち下さい。左近殿!」
「俺の名を知っているということは、この茶番はお前が仕組んだものだな」
その声を聞いた侍の歩みが止まる、背を向けたままその声を発した女に問いかける声は氷の上を渡る寒風の如き冷たさをもって女の背を凍らせる。
下手な事を言えば先の盗賊同様に無為に命を散らすだけと悟った女は、自分の知る限りを正直に語るほか無かった。
「は、はい申し訳御座いません。私は然るお方の命を受けて当代随一の武人を捜しておりました。其の折りに左近様の名を聞き及びその腕を確かめるべくこのような仕儀と相成りました」
自分が試されたなどこの男の矜持を傷つけたか左近から無言の圧力が放たれる。それは盗賊を斬り捨てた時には欠片も出さなかった剣気であった。
その気に屈するかの如くその白い喉を震わせて声が出なくなった女に左近が先を促す。
「続けろ」
「は、はい、結果は私如きでは計れぬほどの技量と思い知りました、そこでこの割符を御受け取り頂きたいのです」
そう言って懐から一枚の割符を左近の足元へと差し出す。その割符を一瞥した左近がそのまま踵を返し立ち去ろうとするのを、残った気力を振り絞って止める。
「お待ちを、この割符は強者の証で御座います。これと同じ割符はこの一枚を含めて全部で九枚あり、それぞれが左近殿と同等とお見受けされる者に託されております」
この言葉を聞いた左近の足が止まる、再び女の方を向くと今度は心底から楽しそうに笑っていた。
その表情と様子を見て、これはいけるかと踏んだ女が息せき切って先を話す。
「その割符を全て集めたあかつきにはどの様な褒美もお約束するとの事であります。努々失くさぬようにお願い申し上げます」
「ふん、褒美などに興味は無いがこの紅林左近と同等と言ったか、良かろう俺は誰に負ける心算も無い」
ここで左近が笑っていた理由に自分が思い違いをしていることに気が付いた、左近は自分と同等の使い手が居るかもしれないということが楽しくて堪らないのだ。
「俺の目的は天下一の剣客となる事よ、俺と同等に戦えるものが居るとなればそれは全て平らげねばならん。貴様らの詰らぬ企み等知らん、だがその遊び俺の為に付き合ってやろう」
差し出された割符を受け取り再び歩き去る左近。その足取りは変わらず、しかしこれからの戦いに思いをはせたのか僅かに喜びに浮き立っていた。
紅林流抜刀術 紅林左近 参戦