最終幕の弐 炎武
織田信長の側仕えの中に弥助という者がいる、弥助は商人の奴隷として働かされていたがその姿を見た信長が大いに気に入り、商人よりその身を譲り受けると自分の小姓として側に置いた。
食を与え、着物を着せ、言葉を教えて弥助という新しい名まで与えて面倒を見た、その恩義に報いようと弥助も良く働き次の戦で手柄の一つも立てれば旗本にも取り立てようとの話がでるほどであった。
それ故に戦場での手柄を上げようと奮い立っていた弥助は此度の信長の中国征伐に同道しており、今日は本能寺の奥の間にいる信長と正室である帰蝶(濃姫)の警護の任にあたっていた、
その弥助の下に伝令が駆け込んできたのは夜も更けた亥の刻も半場を過ぎた頃であった、正門に一人の浪人が現れて同僚である森蘭丸と戦っており、しかもその剣腕凄まじく小姓衆のみならず信長配下の武将の中でも抜きん出た実力を持つ蘭丸を攻め立てているという。
それを耳にした所でこの奥の間の警護を放り出して行くわけにはいかないが同じ信長の側仕えとして仕える身、しかも蘭丸は出自の卑しい自分にも分け隔てなく接してくれた数少ない友人である、その友人の危機を見過ごすことも出来ない。
しかしながら蘭丸も名を馳せた武人である、ここで下手に助太刀に入るなど彼の矜持が許すまいがさりとて気にならぬ訳はない、どうすれば良いのかと弥助の中で葛藤が渦巻いていると奥の間から静かな声が掛かった。
「弥助、あなたの思うとおりになさい」
かかる声は奥方である帰蝶のものであった、弥助はその落ち着き払った声に突き動かされるようにして部屋を後にして蘭丸の元へ走りだす。
しかし結果として弥助は蘭丸の元へは到達することは無かった、部屋を出て正門へと向かう道で二人の足軽が走っているのを見かけたのである。
弥助の記憶が確かならその二人は裏門の番人であった、幾ら騒動が起こっているとはいえ勝手に持ち場を離れた事を咎めようと二人に向かって声を張り上げると、その声と弥助の姿に驚いた門兵二人は一目散に逃亡してしまった。
弥助はそれを見てこれはしまったと顔を覆ったが既に事はなってしまった後である、確かに蘭丸の勝負の行方は気になるが、さりとて裏門を放っておくわけにはいかない、しかたなく弥助は舌打ちをすると蘭丸の無事を祈りながら裏門へと向かう。
程無くして弥助が裏門へ到達したとき浪人姿の侍が一人、門をくぐって本能寺の中へと足を踏み入れた瞬間であった、確か蘭丸と対峙しているのも浪人であり、誰も居ない裏門から進入するもう一人の浪人、しかもその佇まいから判断すればかなりの手練であるとわかる。
つまりこの男こそが信長を狙う刺客と見て間違いあるまいと弥助は判断して自らの武器をその男に向かって投擲した。
そして天正十年六月一日子の刻、本能寺の裏門においてもう一つの戦いの幕が上がった。
本能寺に正面から乗り込んだ左近が森蘭丸と対峙している頃、表の騒ぎを尻目に本能寺に裏門へと姿を現した男があった総髪に髷を結った着流し姿の浪人である、その腰には大小の太刀が佩かれておりただ立っているだけでありながら凛とした空気をまとっている。
袂に入れられた左手に自ら集め、また託された六枚の割符を感じながら歩みを進めると門の前に立って声を上げる。
「拙者は松平信之助と申す、所用があってまかりこした、開門願いたい」
青い月明かりの中で声を上げる信之助ではあったが返答は無い、それもそのはずこの裏門には本来居るはずの門番の姿が見えないのである。
訝しげに辺りを窺うがやはり返答はなく人影も無い、確かに真夜中に訪れたのは些か礼を失する行為ではあるが此方も急いで赴いてようやくこの時間に本能寺へと到達したのだ、手ぶらで帰るというのも業腹ではある。
それでも誰も居ないのなら仕方が無いかと軽く門に手を置くと閉ざされていた門が軋みを上げながらその口を開いた。
余にも無用心なそれに寧ろ警戒感を抱いた信之助が開いた門の内側に声をかけても応える姿も声も無い、しかし折角門が開いたのだからと境内に足を踏み入れた信之助に闇の中から飛来する物がある。
咄嗟に腰の刀を抜いて打ち払い、地面に落ちたそれに視線を向ければ二尺ほどの鋭い角であった。
「誰だ!」
誰何の声を上げるが応える者はない、それでいながら明確な殺意だけが澱のように地を這って信之助に纏わりつく。
しばしの沈黙のあと闇の中から姿を現したのは縦長の巨大な顔であった、楕円を描く輪郭は三尺に及び顔の半分を占める吊り上がった目の周りは赤く彩られ、耳まで裂けた口からは鋭い牙が覗いている。
「物の怪か?!」
その顔を見た信之助が驚きで目を丸くする、その声には応えずに信之助へと向かって迫る物の怪は信じられない速度で一気に距離を詰めてくる。
信之助は己に迫る巨大な顔面に向かって構えた太刀を斬り付ける、相手の顔面を切り裂くはずの太刀はその硬い顔に一筋の傷を刻むに留まった。
しかも確かに傷を与えたにも係わらず、血の一滴すらも流さない、それどころか全く怯む様子も見せずに顔の横から鋭い角が突き出された。
「くっ!」
突き出された角と迎え撃つ太刀が咬み合い激しい火花が散る、二度三度と襲い掛かる角の攻撃を尽く退けると化け物は後ろへ跳躍して間合いを広げた。
間が開いたのを好機として油断無く右手に持った太刀を物の怪へと向けながら、左手を腰の小太刀へ伸ばして鯉口を切って次の襲撃に備える信之助に声が掛かった。
「オ主強イナ」
「ほう、人の言葉を操るか」
「HOO―RORORORORORORO!」
化け物から発せられたのはどこか歪な響きがあるが確かに人の言葉である、その言葉が終るやいなや化け物は奇怪な叫び声を上げながら信之助へと迫る。
それを真っ向から迎え撃つ信之助、繰り出される角を太刀で受けると同時に引き抜いた小太刀を巨大な顔、その見開かれた目へと渾身の力を持って突き入れる。
如何に頑丈な皮膚を持っていようとも目玉は違うのではと思っての一撃である、その突きは確かに化け物の瞳を貫いた、しかし化け物は何の痛痒も見せずに角を振るう。
「ちい!」
舌打ちとともに咄嗟に飛び退く信之助は角を避けきれずに腕を浅い傷を負った、しかし信之助の顔には笑みが浮かんでいた、構えた太刀の切先を物の怪へと突きつけて口を開く。
「正体見たり枯れ尾花とはよく言ったものだ、最早こけおどしは通用せん」
信之助は今までの手応えから相手は盾に物の怪の顔を描いてその背後に身を隠しており、振るわれる角は恐らくは牛か何かの角を加工した手槍と看破した。
夜の闇に浮かび上がる巨大な顔に誤魔化されたが判ってみれば単純な事である。
「コケオドシデハ無イ、コレガ某ノ戦イ方ダ」
相手は正体を見破られたにも係わらずに辿々しい言葉を返してきた、のみならずに盾を下げて己の姿を信之助に晒す。
「な……鬼か?」
その姿を見た信之助は呆然と呟いた、盾の陰より現れたのは七尺余の巨体で動くたびに躍動する引き締った筋肉は恐ろしい程の膂力と速さを同居させていると思わせる。
上半身は裸で赤や白、黄などの色取り取りの刺青を施し、縮れて渦を巻く髪の毛の中からは額に巻いた鉢金の角が突き出しており、月光に照らし出された黒曜石が如き漆黒の肌とその中でギラギラと白く輝く双眸、真っ赤な口腔の中に見え隠れする乱杭歯が見る者の畏怖を誘う。
その姿はまごうことなき漆黒の鬼であった。
「まさか鬼と戦う事になるとはな」
「某ノ名ハ弥助ト言ウ」
黒鬼の正体はバテレン商人に奴隷として連れて来られた黒人である、その黒人奴隷を目に止めた信長が従者として弥助という名を与えたのだ。
その弥助は左手に持った盾を掲げ、右手に持ったニ尺程の短い手槍を構えて立ちはだかり、信之助は両手に持った大小の太刀を構えて相対する。
「某ヲ鬼ト呼ブノハ構ワヌガ、大殿ニ仇ナス者ハ全テ殺ス」
「鬼か何かは知らぬが引く気は無さそうだな、ならば源頼光に肖って鬼退治といこう」
「酒呑童子ト同ジ様ニハイカヌゾ!」
弥助は声を上げると盾を翳して飛び込むと右手に持った手槍を突き出す、信之助はその突きを小太刀で払うと隙を狙って太刀を振り下ろした。
しかしその斬り下ろしは盾に受け止められてしまう、太刀を受けた盾を力任せに押し込んでくる弥助に信之助も応じるが力比べは弥助に軍配が上がる。
「ぐっ」
「HORORORORO!」
二の腕の筋肉が盛り上がり押し込まれた信之助が体勢を崩した所へ手槍が突き出されたのを小太刀で防ぎながら弾き飛ばされるように後方へと下がった新之助が蹈鞴を踏む、そこに雄叫びを上げながら追撃をかける弥助。
二度三度と連続で突き出される手槍をかわし、払いながら弥助の隙を窺う信之助は攻撃の手が緩んだ一瞬を見逃さずに反撃に移る。
手槍をかわすのに併せて体を回転させると勢いに任せて両手の刀を首と胴を弥助の右側から薙ぎにゆく。
弥助は盾とは反対方向から迫る二振りの刃を前方へと身を投げ出すことで回避すると二度三度と転がって距離をとり体勢を立て直す。
回転しながらの横薙ぎをかわされた信之助は更に半回転して振り向くと地面を転がっている弥助に向かって走ると叩きつけるような一撃を放つ。
信之助の攻撃を弥助は盾を翳して受け止めた、すぐさま反撃に手槍を突き出すがその突きは体捌きでかわされ反対に手槍を持った腕に小太刀が降ってくる。
太刀の一撃を受け止められた信之助に反撃の手槍が突き出される、その突きを体を捻る事でいなすと盾の陰から伸びている手槍を持った腕を切り落とそうとかわすことの出来ないだろう瞬間を狙って小太刀を振るった。
「もらった!」
「HOU!」
その一刀は弥助の腕を切り落とす事はなかった、弥助はかわせないと見るや否や腕をねじって槍の柄で刃を受けた。
信之助の技量ならば柄ごと腕を切り落すのも可能であるが、柄にあたり僅かに剣速が鈍った瞬間に弥助は信之助を蹴り飛ばしていた。
信之助は腕を切り飛ばしたと考えた瞬間に視界がぶれるのを自覚した、脇腹に鈍い痛みが走り己が弾き飛ばされたと知る。
地面に僅かな溝を掘りながら二間の距離を離された信之助は相手が追撃をしてこないのを見て小太刀を鞘に収めると一刀を両手で握り大上段に構えた。
柄を切り落されて短くなった手槍と浅く切られた二の腕から流れる血を見て弥助は舌を巻いていた。
嘗て相対した相手は自分の事を鬼や妖怪と呼び恐れその実力を充分に発揮出来ない者が大半であった、まれにその鬼の首を取ろうと奮闘するものも居たが部族において勇者と呼ばれた自分に匹敵するような者は存在しなかった。
しかし今対峙している相手は間違いなく自分と同等以上の勇者である、背筋に寒気にも似た感覚が上るのは故郷の原野で獅子と対峙した時以来のことである、流れる血を舐め摂ると獰猛な笑みを浮かべて渾身の力を持って手槍を投擲した。
「HO-A!」
「はああっ!」
弥助が槍を投擲した瞬間と同時に信之助も地を蹴っていた、真っ向から唸りを上げて飛来した手槍を首を傾げることでやり過ごすが僅かに掠めて頬に傷を刻む、流れた血が後方へ流れて赤い帯を作るのに構わず最後の一歩を踏みしめて大上段から切り込んだ。
投擲した槍は信之助に対して僅かな傷をつけるに留った、かわりに正面から振るわれた斬撃はそのままならば己の身を両断するだろう。
しかし弥助には今まで幾多の攻撃から弥助の身を守ってくれた盾がある、すかさず盾を翳して受け止めようとしたがその盾に一筋の銀光が刻まれた。
大上段から振り下ろされた刃が盾に切り込まれてその傷を深くしてゆく、裂帛の気合と共に振り抜かれた一刀は見事に弥助の盾を断ち切っていた。
「ちい、流石に真っ二つとはいかんか」
「コノ盾ヲ斬ルトハ、貴殿コソ化ケ物ノ類デハ無イノカ」
信之助は刀を振り下ろした姿勢のまま一呼吸吐くと弥助を視線で射抜きながらごちる。
それに対して弥助は盾に刃が食い込んだ瞬間に後ろへと飛び退いていた、そのお蔭で体には何の怪我も負っていない。
しかし今まで身を守ってくれていた自慢の盾が、その一部とはいえ切り飛ばされた事実に額に汗を浮かべながらもその表情には逆に笑みが浮かんでいた。
「某ガコレヲ使ウノハ久方ブリダ、貴殿ヲ勇者ト認メヨウ」
弥助の部族は平原を駆け抜けて獣を狩る事を生業としていた、そこへ白人たちが押しかけ物量と鉄砲という力を以てして弥助たちを狩りたてたのだ。
部族の戦士であった弥助は抵抗したが最後には全ての誇りを砕かれ白人に与するほか無かった。
だが弥助はこの日の本に来て信長に見出された事で再び戦士として立つ事ができた。
そして今自分に匹敵、もしくは凌駕する相手とめぐり合うことで部族の戦士としての己を取り戻した。
部族間の戦いでは倒した戦士の血肉を食むことでその戦士の力と魂を己に取り込むことで更なる強さを得る事が出来ると信じられている。
「勇者ヨ、ソノ力ノ源タル血肉ヲ捧ゲヨ」
一部を切り飛ばされた盾を放り捨てると両手を腰の後ろに回して二丁の手斧を引き出して唇を吊り上げて笑った。
「ふん、やはり鬼かよ、生憎だが生き胆はやらん!」
叫ぶ信之助は再び腰の小太刀を抜いて二刀を構えると先の先を取るために一足跳びで弥助へと迫り、瞬きする間に己の間合いへと飛び込むと左右の太刀を十文字に走らせる。
縦横に振るわれた太刀を地面へと這い蹲るようにして避けた弥助は下方から斧を振るう、足元から掬うようにして信之助の脇腹へと迫る斧刃は逆手に握られた小太刀によって弾かれた。
火花を散らしながら斧を弾いた信之助は太刀を突きこむがこれは逆に斧によって食い止められる。
一拍置いて先程弾いた斧が再び振るわれて襲い掛かるのを信之助も同じように小太刀で以て受け止めた。
四つに組んだ体勢になるが次の瞬間に下方より黒い丸太が信之助の顎を砕こうと迫る、視界の端に映ったそれを仰け反るようにかわして後方へと下がる。
黒い丸太と見えたのは弥助の足である、弥助は天高く突き上げた足をゆっくりと下ろすと両手を体の前にだらりと下げてゆらゆらと揺らし始めた。
「ん?」
「JYA! RARARARARARAA!!」
左半身に構えながらも訝しげに眉根を寄せた信之助にゆらゆらと揺れる腕から漆黒の鞭が振るわれた、否道鞭と見間違えるような撓りの効いた手わざである、両手をまるで鞭のようにしならせて上下左右から攻め立てる弥助と颶風を巻いて迫る斧を迎撃する信之助。
その信之助の口から自嘲ともつかない言葉が漏れる。
「ち、奴と戦っていなければ殺られていたかも知れんな!」
弥助の技は確かに脅威だ、それは定石とは無縁な自然より振るわれる自由自在な坑道に在る。
しかし信之助は先日荒唐無稽とも言える技の使い手と対峙していた、出鱈目具合から比較すれば弥助の技は一歩劣る、それ故に。
「見切ったあ!」
半歩を踏み出して右から振り下ろされる斧の柄を肩で受け止め、同時に左から横薙ぎに迫る斧刃を小太刀で絡め取る、同時に右肩で受けた斧が引かれて肩を切り裂いたが腱までは到達しない。
肩から噴出した血の飛沫が己の顔を朱に染めるのも構わず信之助は太刀を振り上げた。
「GUOOO!」
絶叫が夜の闇に木霊する、その獣の如き短い咆哮が終ると同時にドサリという音がする。
そこには二の腕から切り落された弥助の右腕が転がっていた、むろん是で終るとは双方ともに考えても居ない。
信之助は返す刀で首を薙ぎにゆき、弥助はその一刀をかわすと地面に沈み込むようにして足払いを仕掛ける。
丸太のような足が振るわれるのを跳躍して避けた信之助だが空中にて身動きが取れないところに下方から突き上げられた蹴りが胸板に突き刺さる。
空中に居たのが幸いしたか衝撃が背中へと突き抜けた事で骨にも内臓にも異常は無いが吹き飛ばされるのは止まられない、無様に背中から落下しその衝撃で息がつまり太刀を取り落としてしまう。
その好機を逃がす弥助ではない、右腕から鮮血が溢れるのも構わずに左手の斧を大きく振りかぶると地面に転がる信之助に目掛けて振り下した。
振り下ろされた斧刃は咳き込みながらも横へと転がって避けた信之助の腕を浅く斬り裂くに留まったが、地面に転がったままの信之助を目掛けて再び振り下ろされる。
眼前に迫る斧刃を小太刀の峰に手を添えて受け止めた信之助だが膂力で勝る弥助が体重をかけて押し込んでくるとじりじりと斧が迫り額に傷をつけて血が流れる。
押し込んでくる斧を堪えながら先程のお返しとばかりに上に乗る弥助を蹴り剥がそうとしたところ、その動きを察した弥助が後ろへと自ら跳んで逃れた。
その隙に立ち上がって小太刀を正眼に構える信之助と溢れる血を抑えもせずに片手で斧を構える弥助。
互いに肩で息をしながら対峙する二人であるが優劣は明らかである、片手を失った弥助とあちこちから血を流しながらも傷そのものは軽い信之助。
「コノ様デハドチラガ鬼カ分カラヌナ、ダガ刺シ違エテモ此処ハ通サヌゾ!」
「そうはいかん、是が非でも押し通るまで!」
既に己に勝機は無いと確信しながらも敬愛する主君である信長のために身を捨ててかかる弥助と、それを感じながらも己が意を通す為に進もうとする信之助。
信之助は正眼から小太刀を脇に引き絞り刺突の構えを取り、弥助は斧を大上段へと持ち上げる。
共に最後の一手を繰り出そうとしたその時、塀の外から雄叫びが上がり、開いたままの門から足軽がなだれ込んできた。
なだれ込んだ足軽たちは二人を取り囲むや否や襲い掛かってきた、しかしそこは二人共に尋常の者ではない、掛かってくる者達をたちまちのうちに何人か切り倒す。
「ちい、なんだ一体?!」
「コレハ明智ノ軍勢デハナイカ、マサカ謀反カ?!」
弥助は翻る旗印を見て先陣として備中へ向かったはずの明智勢が主君である織田信長の常宿である本能寺に攻め入ったことから光秀が謀反を起こしたと知って狼狽する。
確かにここ暫く信長と光秀の関係は良好とはいえないものになっていたのは確かだ、しかし光秀は浪人として流浪の身であったものを信長に見出されて大名にまで上り詰めたのだ、それをこの機において謀反を起こすとなれば間違いなく天下を睨んでの事に相違無い。
「オノレ光秀メ裏切ッタカ!!」
怒髪天をつくが如き怒りを顕にした弥助だが頭の中では冷静に事を考えている、確かに本能寺に常駐している者は自分も含めて手練が多いが所詮は百名余に過ぎない、対して明智の手勢は進発した者達が加担したならば一万は下るまい。
周囲を明智の軍勢に囲まれながらも弥助の本能は信之助を排除する事を優先すべきだと告げているが周囲に溢れる雑兵は信之助にも襲い掛かっているようだ。
ならば信之助の始末は任せて自分は信長の護衛に戻るか、それとも妙覚寺に居るはずの信長の嫡男である信忠の下へ救援の伝令に走るかと僅かな間考えを巡らせる。
信長の脱出を手伝うにしても片腕を失った自分では太刀働きも満足に出来まい、しかし囲みを突破すれば自分に追いつける者など存在しない、なら此処は己を殺して走るべきだ。
「口惜シイガ、ココハ援軍ヲ連レテ戻ラネバ」
弥助は己の使命をそう決めると殺した足軽からたすきを奪い取って左腕に巻き止血をすると妙覚寺へ向かう為に猛然と門外へと突進する。
本物の悪鬼羅刹も逃げ出そうかという勢いで暴れまわる弥助の姿に恐れおののく明智兵だが多勢に無勢と槍襖を作り出して弥助を土塀の際へと追い込む。
追い込まれた弥助は全身をたわませて跳び蹴りを放ち敵兵の首を圧し折ると同時に、その頭を踏み台にして跳躍すると塀の上へと軽々と着地した。
そのまま屋根伝いに走り去ろうと踵を返した背中に声が掛かる。
「忘れ物だ!」
乱戦の只中に合って不思議と通るその声に反応した弥助が声に首だけを巡らせて相手を見据えれば発する気配に圧されて散発的に掛かってゆく兵卒を軽く小太刀でいなした信之助が自らの太刀を拾い上げた所であった。
そのついでか側に落ちていた自らが斬り落とした弥助の腕を拾い上げて弥助に向かって放り投げる。
「次ハ必ズヤ貴殿ノ心臓ヲ貰イ受ケル」
投げ渡された腕を掴んだ弥助は信之助へと鋭い眼光を飛ばして見据えると信之助にそう言い残すと腕を口に咥えて手斧を構えて踵を返して隣の屋根へと飛び移る、その後ろ姿を見送った信之助は不敵な笑みを浮かべてポツリと呟いた。
「腕を持って去るか、あれは茨木童子であったかよ」
去った相手には未練を残さずに大小の太刀を油断無く構えて明智の兵へ向きなおった信之助は、立ちふさがる明智の雑兵を打ちのめして道を開き弥助とは逆に本能寺の奥深くへと走りだした。
尤も本能寺の中など知らぬ信之助は何処へ向かえば目指す者が居るのかも見当がつかない、適当に知っている者を探そうにも戦場となった今ではそれも困難どころか不可能であろう、尋ねた瞬間に斬り合いにあるのは火を見るより明らかだ。
それでもこの千載一遇の好機を逃がすわけにはいかないと走り続けていると視界の端にふと映った影がある。
それが何かは判然としないがそれを追いかけろと本能が信之助を急き立てる、その心に従い影を追うと奥の部屋から声が聞こえてきた。
「なんの真似だ?」
「外には明智の軍勢が居ります、ここは私に任せて急ぎ脱出を」
「ここを逃せば信長公と戦える機会は巡ってこぬだろう、ならば逃がす訳にはいかん」
その声に誘われるが如くに向かった信之助の視線の先には羽織袴に長髪の男と、その男と対峙する胸から血を流している美丈夫、そしてその後ろにはたおやかながらも凛とした雰囲気をもった美女と蓬髪の男の四人が居た。
四人は全員が他の人間とは一線を隔す気配を放っているが、その中でも蓬髪の男からは圧倒的な気配を感じる事が出来る。
信之助はその姿を見ただけでこの男こそが戦国に覇を唱えるもの、覇王とも魔王とも呼ばれる戦国の麒麟児、織田弾上忠信長であると確信した。
「その通りだ、ここで逃げられては困る」
突如現れて信長の背中へと鋭い声を叩きつけた信之助に対して、先にこの場所に居た全員の視線が集る。
信之助はその視線を真っ向から受け止めて両手に持った血刀を握りしめた。