最終幕の壱 本能寺
天正十年六月一日の亥の刻も半場を過ぎた頃、京の六角大宮の西、四条坊門に建っている法華宗本門流の寺社、本能寺の門前に一人の男がふらりと現れた。
長髪を後ろに撫で付けた羽織袴姿のその男は正面の門に立つと一枚の割符を取り出すと門の両側に立っている門番へと声をかける。
「此処にこれと同じ割符を持つものが居ると聞いて参った、取次ぎを願おう」
名乗りもせずに要件だけを告げる男に対して当然のように警戒感を顕にする門兵たち、それも当然の事で現在この本能寺には天下人に一番近いといわれる戦国の覇者、織田信長が逗留しているのだ。
無論この門兵たちも織田兵の一員である、「はい、そうですか」という訳にはいかない。
「お主が何者か知らんが、この本能寺には織田の大殿様が逗留しておる、用向きならば後日改めて来るがよい」
「そうもいかん、俺の用人は今この中に居るらしいのでな、邪魔するならば押し通る事になるが?」
自らの職務を果そうとする門兵に対して男は不遜な態度を崩す事もなくさっさと門を開けろと言い放つ、その言動を受けて門番は当然の如く不埒な輩を叩きのめそうと槍を構えて恫喝する。
「痴れ者め、多少は痛い目をみんと分からんようだな!」
己の身も弁えぬ男に対して叩きのめしてやろうと槍をふるう門番であったが、次の瞬間にはその槍が中ほどからぽとりと地に落ちるのを眼を丸くして見つめる破目となった。
「取り次がぬと言うなら次は腕を落とす」
淡々と言葉を続ける男に対してその言葉が真実であると確信した門番であるが己の裁量でこんな怪しい人間を通すことは出来ない、もし通してしまえば打ち首になるのは間違いなく、かといって拒めば今目の前の男が言ったように自分の腕が落とされるだろう。
門番が進退に窮しているとその態度に焦れた男が一歩を踏み出した、もはやこれまでと侍らしく切り死にを覚悟した門番たちであったが直後門内より声がかけられた。
「構わん、通せ」
その言葉と共に閉ざされた門がゆるゆるとその口を開いてゆく、途端その門の内より剣気が男に叩きつけられる、傍らにいた門番などその気に圧されて地面にへたり込んでしまうほどだ。
それほどの気を受けながら男は顔に笑みを浮かべると歩を進める、天空より冴え冴えと降り注ぐ蒼い月光の中を進むと境内には年の頃なら十八か十九の艶やかな着物を纏った、そして何よりその顔立ちの美しさは女もかくやと言わざるを得ぬ美丈夫の若武者が一人立っていた。
「某の名は森蘭丸成利、そこもとの名を聞こう」
「総州浪人、紅林左近、お前が割符の持ち主か?」
「確かに割符は某が持っている、だがこれは我が主君織田信長公より預かったもの、誰であろうと渡すわけにはいかん」
「割符そのものには用など無い、だが公が持ち主と言うなら戦わねばならん」
「理由は?」
「俺が最強足る為に」
「そうか確かに男子の本懐ではある、がしかし大殿を害そうと言うならばこの蘭丸容赦せん!」
その返答を聞いた蘭丸は端正な顔に怒気を現して背に負っていた武器を取り出すと両手で持って構えをとる。
その武器は一見すると薙刀に良く似ていたが薙刀にしては柄が短く刃が長い、およそ太刀の刃を持ち柄の長さが刃とほぼ同等にあつらえられたその独特の形状をして長巻と呼ばれる武器である。
蘭丸が構えをとるのに併せて左近の周りに一斉に兵たちが現れた、各々の手には槍や刀が握られて左近へ向けられており、じりじりと包囲の輪を縮めてゆくとその中から一人の兵が左近に向かって襲い掛かった。
「鋭っ!」
「邪魔だ」
左近は襲い掛かってくる雑兵を一瞥すると左近の腰で一度だけキンという鍔鳴りの音が響いた、その音は決して大きな音では無いが周囲に居る者たちの耳に届き、次いで襲い掛かろうとしていた足軽の動きが止まり上半身と下半身がずれ落ちる。
両断された体から夥しい血液が流れ出し白砂を赤く染めると境内に濃密な血の匂いが立ち込める、その光景を目の当たりにした兵が動揺を表すなか蘭丸から鋭い声が飛んだ。
「下がれ、これは森の戦である、そなた等は手出し無用!」
蘭丸の声を受けた兵たちはその声でもって何とか平静を取り戻すと、左近と蘭丸の二人を中心にして人垣で輪を作る、兵たちが見守る中での二人の戦いが始まった。
先程の兵が切り倒されたのを見て左近の技が居合いと見て取った蘭丸が先ず先手を取って討ちかかる、薙刀や槍に比べれば短いとはいえ普通の刀に比べれば広い間合いを持つ長巻の利を活用して左近の間合いの外から上段の一撃を振るう。
左近は蘭丸の切り下ろしの終りに併せて切り込むべく腰を落として身構えると真っ向から唐竹割りに振るわれた一撃を見切ってかわすと腰から刃を走らせる。
振り下ろした長巻がかわされた直後に自分に向かって迸る銀光を咄嗟に立てた柄で受け止めた蘭丸はその鋭い一撃を受け止めると同時に柄を捻ってその刃を折ろうと企てた。
しかし左近の居合いは神速の域に達している、捻られる前に既に鞘へと納刀しており、直後に蘭丸を切り倒すべく続けて二の太刀を抜刀した。
続けざまに振るわれた二の太刀を後ろへ跳ぶことでかわす蘭丸、続けざまの一刀をかわされても顔色一つ変えずに泰然と佇む左近。
「満更、雑魚ということもないようだな」
左近がそう嘯くと蘭丸の袴の裾が僅かに切れて裂け目を晒す、跳んでかわしたはずの一刀によって切られたものだ。
「どちらの台詞かな、それは」
油断無く長巻を構えたまま蘭丸も言い返す、すると左近の着ている羽織にも切れ目が現れた。
その切れ目は完全に見切ったと思っていた最初の唐竹割りによって付けられたものであるのは間違いが無い。
この一連の攻防は周りで見ている人間たちからすればただ蘭丸が打ちかかり後方へと飛んだとしか見えなかった、しかし互いに紡がれた言葉から判断すれば先程の攻防は互いに相手の実力を測るためだけに振るわれたものだと言外に語っている、つまり今からが真の戦いの幕開きである。
その事実に周りを囲んだ兵たちは今此処で対峙する二人がおのれ等とは違う生き物であると実感し、その肌を総毛立たせながら勝負の行方を固唾をのんで見守るしかなかった。
左近はじりと詰めよって一足の間合いに蘭丸を捕らえると同時に地を蹴った、強く踏み出した右足と腰から迸る刃に全ての力を乗せて真一文字に抜き放つ。
その抜き打ちを再び後方へと跳躍することでかわした蘭丸は本堂の縁側に作られた欄干に着地すると、そのまま欄干を蹴って宙高く飛び上がり体ごと回転しながら左近へと刃を叩きつける。
轟という音と共に叩きつけられる一撃は蘭丸の華奢な外見に見合わない剛剣である、左近といえども真正面からぶつかれば両断されてしまうだろう。
だが如何に威力があろうともこんな見え見えの攻撃が通用するはずはない、僅かに横へと移動し攻撃の隙を縫って首や腕の一本も斬り落とせば勝敗は決する。
しかし蘭丸の一撃は左近をしてその威力を見誤らせた、刃自体はかわすに支障は無かったのだがかわした刃が地面を叩くとその威力によって土砂が巻き上がったのだ。
まるで火薬を爆発させたような衝撃音が鳴り響き、巻き上がった土砂が礫となって左近の全身に降り注ぐ。
その礫そのものでは怪我をするほどの威力は無いが剣先を鈍らせることにはなった、その証拠に左近が繰り出した一刀は蘭丸の身体に触れることができなかったのである。
蘭丸は長巻を地面に叩きつけ巻き上げた土砂を目眩しにするとすぐさま後ろへ飛び退いて左近の刀をかわしていたのだ。
「ち」
左近は一つ小さく舌打ちをすると刀を腰溜めに構えたまま追撃へと移る、一足飛びに蘭丸へと迫ると気合の声とともに再び跳んでは逃がさぬと斬り上げの一刀を抜き放つ。
その居合いの一刀を蘭丸は右へと、左近からみれば左へと素早く移動することで左の腰から刀を抜くという居合いの攻撃範囲から身をかわし、かわしざまに広い間合いを生かした突きを撃ちはなつ。
左近は眼前に迫る長巻の切先を返す刀で弾くとそのまま鞘へと納刀し再び剣を振る、正し今回は直接胴や首を薙ぎにはゆかずに蘭丸の体の中で一番左近に近い場所すなわち右小手を切り落しにかかった、相対した相手の殆どを一刀の下に降してきた左近からすれば蘭丸を己と対等に戦う事のできる武士と認めての一閃である。
そして蘭丸もその評価に答える、己の腕を切り落さんと迫る刃に対し咄嗟に長巻を放して腕を捻ることで薄皮一枚を裂くに留めた、さらに放した長巻が地に落ちる寸前足にて蹴り上げると左手で掴み取り片手で横へ一閃させる。
ギンという鋼が打ち合う音をもって左近と蘭丸の動きが止まり鍔迫り合いになる。
「ふ、色小姓かと思えば中々どうして一端の武士であったか」
「そこもとこそ浪人にしておくのは惜しい腕よ、大殿に仕えるというなら目こぼししてやるが」
「要らぬ世話よ、俺は誰の下にも就かん」
「ならば死ね」
渾身の力を込めて左近を押し退けると同時に一歩下がった蘭丸は柄を左近へと向けた下段右脇構えから左切り上げに長巻を振るう、長巻の刃が地面を切り裂き敷き詰められた白砂を巻き上げてその刃の軌道を覆い隠す地擦りの一撃。
蘭丸はその華奢な外見に反した強力と見かけ通りの俊敏さを持っている、この一撃はその両方を合わせた自身必殺の得意技であった。
「甘い!」
しかしその一撃を左近は捕らえていた、無論目でそれを見ていた訳ではないだが今日まで幾人もの相手と死合ってきた経験から蘭丸の構えをしてその攻撃を読み取らせていた。
土煙の中から飛び出した長巻の刃を掻い潜ると再び居合いの一閃が月光を反射して三日月を描く。
その銀光が再び左近の腰へ納まったとき蘭丸の腕に一筋の傷が刻まれていた。
「くっ」
蘭丸は歯噛みして傷から流れる血を舐め取ると左半身の構えを取りながら左近に対峙するが左近は無情に告げる。
「既に技前は見切った、お前では俺には勝てん、が言って引く男でもあるまいな、潔く死ね」
左近はつまらぬハッタリを言うような男ではない、ならばその口から出る言葉は疑いない真実であろう。
それは剣を合わせた蘭丸自身が分かっている、恐らくは左近を十とすれば自分の力量は七か八といった所であろう。
試合であれば五本に一本は取れるかも知れぬがこの場においてはこの力の差は致命的であろう、しかし蘭丸には焦りの色は無い。
「侮るなよ、これよりが森の戦いの真髄よ」
蘭丸は左近の周囲を円を描くように回り始めると速度が乗った所で飛び上がり縁側の欄干に飛び移ると欄干を再び蹴って宙へ舞う。
「同じ手が!」
先程と同様の斬撃が来るかと待ち構える左近だが蘭丸はその頭上を飛び越えて背後に回ると横殴りの一撃を繰り出す。
だがその攻撃を左近は危なげなくかわすと蘭丸に向かって切り込もうとする、しかし蘭丸は自分の一刀がかわされるのは承知の上であったのか、長巻が空をきると同時に蜻蛉をきって空中へと逃げ延びていた。
この身の軽さが蘭丸のいう真髄であるならば落胆したものであろう、確かに驚くほどの身のこなしではあるが是だけでは奇をてらっただけの大道芸と大差は無い。
「跳ねるだけなら蛙と変わらぬ!」
蘭丸は着地を狙って斬り付ける左近の一刀を長巻で受けるとその威力をもって大きく飛び退き人垣の陰へと消えた、その後を追って地を蹴って走る左近の横から襲いかかってくる影が在った、その影へ振り向きざまに一刀を打つ左近だが、襲撃してきた者の顔をみて驚きの表情を浮かべる。
「なに?」
その顔は確かに今対峙している森蘭丸のものであった、しかし今目の前の人垣に消えた蘭丸が左近の横から襲いかかるには時が足りない、確かに身の軽さはかなりものであったが消えたと同時に横から斬りかかってくるのは幾らなんでも速すぎる。
「小癪な!」
自らの一刀をかわされ逆に襲い掛かってくる蘭丸の長巻から身をかわすと再び腰に納めた刀を抜き放つ。
蘭丸はその美しい顔に笑みを浮かべるとまたも大きく跳躍し人垣の影へとその身を隠した、今度は逃がさぬと先程に倍する勢いで走る左近だが、今度は背後から強襲された。
その鋭い一撃に横っ飛びに地を転がってよけると方膝をついて体勢を立て直すと襲い掛かってきた相手が何者かと視線を飛ばせば、その顔は森蘭丸であった。
蘭丸は一つ笑うと再び人垣へとその姿を消し、消したと思えばその影を追う左近の横や背後からすぐさま蘭丸が姿を現し一撃だけを切りつけて再び身を隠す。
同じ攻防が三度繰り返されて左近は蘭丸を黙って見送ると左右へと鋭い眼差しを飛ばす。
「つまらん小細工だ」
全身を張り詰めて蘭丸の出現に備える左近を中心に空気が張り詰めていき初夏というのに回りにいる兵たちの肌が粟立つ。
誰も言葉を発せず身動ぎもしないその僅かな間をもって風が吹いて雲が月光を覆い隠した瞬間、左近の左側から蘭丸が飛び出した。
「お覚悟!」
裂帛の気合をもって切りかかる蘭丸に対して左近は後ろへ一歩跳躍してかわすと、右側へと剣を走らせる。
甲高い刃鉄と刃鉄が咬み合う音が周囲に木霊する、そして再び月明かりが境内を照らし出したとき左近の一刀を受ける男とその男の背後に居るもう一人の男が浮かび上がった、その目の前に並ぶ二つの顔は同じ森蘭丸の顔であった。
「兄弟か」
左近は蘭丸が姿を消してから初めに襲い掛かって来た男に対して僅かな違和感を覚えたのだ、それが確信となったのは襲い掛かってくる蘭丸の腕に左近がつけた傷がある者とない者が居たのを見て取ったからだ。
もっとも普通の人間であればその差異を見極める間も無く、否この二人目が手を下すまでもなく蘭丸に倒されるだろう。
「気付かれたか、存外早かったな」
「だが、まさか卑怯卑劣とは言うまい?」
「無論だ、俺の邪魔をするなら立ち塞がる者は全て平らげるのみよ、なんなら周りの連中にも助力を請うか?」
蘭丸ともう一人の若武者を前にして傲岸不遜に言い募る左近、その左近に対して蘭丸は涼やかな笑みを浮かべて返答を返す。
「某も武士、これは森の戦と言ったからには我等以外に手は出させん」
そう言うと蘭丸と新たに現れた男は鏡に映したような左右対称の構えを取って左近に対峙する。
「参る!」
「けああっ!」
雄叫びを上げて正面から迫る二人に対して左近は横薙ぎに刀を振るった、その残撃の軌道は右回りに弧を描き周囲を一回転する、その銀光から飛び退いた三つの人影がある。
その影を再び睥睨し左近が口を開いた。
「やはり三人か……」
左近は次々と襲い掛かってきた蘭丸たちの攻撃、その鋭さを比べれば僅かながらに感じ取れる剣筋の僅かな差異から三人目の存在をうっすらと感じていた。
もっとも左近にして三人目の存在に確信はなかった、あくまでももう一人居る可能性があると思っていただけだ、しかし二人が態々正面からかかって来た時にその疑念は確信へと変わっていた、故に背後から襲い掛かる最後の一人の存在に対する事ができたのだ。
三人はゆっくりと歩み、左近の前に並んで立つ、対する左近はその手練三人を前にしてなおその態度に些かの変わりも無く、対する三人もそれを不思議とも思わない。
互いにそれだけの実力の持ち主と認めているのだ。
「改めて名乗ろう、森可成が三男、蘭丸成利」
「同じく四男、坊丸長隆」
「五男、力丸長氏」
蘭丸、坊丸、力丸、三人の顔は流石に兄弟だけあって良く似ている、こうして並んで立てば僅かな差異が分かるが、入れ替わり立ち代わりに動かれては余程慣れ親しんだ者でなければ誰が誰やら判断がつくまい。
寧ろこの三人はそれすら考えに入れて手も持つ武器も同じ拵えの長巻であり、着ている着物の柄も揃え、男子であるにも係わらずその顔に化粧を施して同じ顔へと変えているようだ、その徹底ぶりは感嘆に値しよう。
「我等森三兄弟があるかぎり、何人たりとも信長様へ害を零させはせぬ」
言うが早いか蘭丸、坊丸、力丸の三人が縦に並んで左近へと迫る、正面から迫る蘭丸へ左近の居合いが振るわれ、その一刀を抑えた長巻が咬み合った。
その瞬間に蘭丸の陰から坊丸と力丸が左右へと現れて左近の両側から突きを見舞う、咄嗟に後方へと跳んで突きをかわすが再び一人の陰に他の二人が消えて左近へと迫る。
先頭に立つ力丸が左近の眼前で跳躍し上空からその刃を振り下ろす、その一撃にあわせて中にいた蘭丸が左近の居合いを封じるべく小手を狙って切りかかり、その隙を縫うように後ろに居た坊丸が胸に向かって必殺の突きを繰り出す。
力丸の一撃は横へかわし、小手を狙った蘭丸の長巻はそれより早い居合いにて迎撃、胸に突きこまれた坊丸の一刀も返す刀で打ち払う。
その立ち位置を千変万化させて攻め立てる森兄弟に防戦一方に追い込まれる左近、それでも一撃を受けずにかわしきるのに、攻める森兄弟も驚愕を禁じえないが、数度の攻防を経て遂に蘭丸の放った一刀が左近の頬を切り裂いた。
「ここまで森の技を受けて立っていたのは貴様が始めてよ、だがそれも是まで次で必ず倒す」
「そうだな、是までとしよう」
蘭丸の口からこれが最後と発した言葉を聞いて、左近は頬を流れる血を拭い取ると三人を見ながらその言葉に応じた。
互いに是までと言葉を紡いだ以上、三人は一気に勝負をつけるべく左近へと走り、左近は先程までよりも前傾姿勢になると再び居合いの構えを取って迎え撃つ。
正面から迫る三人は左近の眼前で蘭丸と坊丸が挟み込むように別れ、その背後にいた力丸が兄の肩を足場にして跳躍し頭上から襲い掛かった。
左近は腰溜めに構えたまま身動ぎ一つしない、三人の長巻が左右と上の三方から迫り、その軌跡が重なる。
同時に振るわれる三振りの刃が左近を牢獄に閉じ込めるが如き軌跡を描いて迫る、その森兄弟から振るわれた三条の刃の間に一筋の銀光が閃いた。
すれ違い様に左近の左腕と右脇腹から血飛沫が飛び、力丸の片足が膝下から切り飛ばされた。
片足を失った力丸が着地に失敗し倒れ伏す、その足からは鮮血が溢れ出し白砂を真赤に染めた。
「うああっ!」
「力丸?!」
苦鳴を上げる末弟に蘭丸と坊丸の声が一つに重なってかけられる、そのほんの僅かに動きを止めた瞬間を見逃さずに振り向き、再び抜刀し横一文字に斬りつける左近。
「くっ」
「あがっ!」
振り向きざまの一刀を飛び退く事でかわす蘭丸と坊丸であったが、左近が一拍置いて太刀を納め鍔鳴りの音を響かせる、その残響が消えると同時に坊丸の右腕が二の腕からぽとりと地に落ちる。
刀を納めると同時に低い姿勢で走った左近は蘭丸へと迫ると居合いを放つ、その斬り上げの一刀は跳んでかわすが返す刀で真っ向から斬り下ろした刃に胸を切り裂かれた。
四者四様に手傷を負ったが、左近の傷は浅くは無いが動くのに支障は無い、それに比べれば森兄弟の傷は深い、対等以上の腕を持つ左近が相手となっては最早是までであろう。
「我等の技を見切ったというか?!」
「大した技だが見せすぎたな、もっとも完全には見切れなんだ、お蔭で無傷で勝つのは諦めざるを得なかったぞ」
左腕と右脇腹から溢れ出る血も抑えずに淡々と告げる左近の口調には敬意とも取れる響きが乗せられている。
片足を失った力丸は動けず、片腕を落とされた坊丸では敵足り得ない、唯一四肢が無事な蘭丸といえども胸を裂かれて傷から血潮が溢れるのを止められない。
それでも力丸は膝を引きずりながらも獲物を弓に持ち替え、坊丸も長巻を捨てて太刀を抜き、蘭丸も長巻を正眼に構えて立ち向かう。
「二人とも引け、その傷では何もならん」
「兄者の盾にはなれる、俺が斬られるうちに彼奴を討てればよい」
「そうです、動けずとも援護くらいはできます、兄上は奴を討つことのみに専心下さい」
弟二人に下がるように言う蘭丸であったが、坊丸も力丸も引き下がる心算は無いと訴えかけてくる、その表情を見た蘭丸は語るだけ無駄と得心して再び左近へと向き直った。
「今生の別れは済んだか」
「お情けかたじけない、しかし死出の旅にはそこもとにも付き合ってもらう」
兄弟とのやり取りを黙って見ていた左近の行動を情けと知る蘭丸は、礼を述べると最後の決着をつけるべく決死の一撃の為に気息を整える、その蘭丸の前に立つのは片腕を失いながらも太刀を握り兄の為に盾となろうとする坊丸、さらに後ろには矢をつがえた力丸がせめてもの牽制にと狙いをつけている。
周囲を囲む者たちも遂にこの死闘も最後と固唾を飲んで見守るなか、一切の音が消えて是までに無いほど圧力が高まる。
左近の腰が沈み蘭丸と坊丸が地を蹴って走った、双方がぶつかる瞬間三筋の刃の軌跡が虚空に閃き、一矢が空を貫いた。
「何者か!」
勝負を邪魔された蘭丸の怒声が木霊する中、三人が振るった刃は飛来した矢を切り払い、力丸が放った矢は土塀を越えて進入しようとしていた人間の眉間を捉えていた。
途端に湧き上がる喊声と門を打ち付ける槌の音、そして土壁の上部からは篝火の明かりに照らされた中ではためく旗指物が覗いている。
「敵襲、敵襲ー!」
「うろたえるな、女は裏から逃がせ、われ等は賊を迎え撃つ!」
「二条の奇妙様へ急ぎ走れ!」
「門を押さえよ、一歩たりとも中へ入れるな!」
「あの紋は…… 明智の軍勢か?!」
「無粋な……」
左近と森兄弟が決闘を繰り広げていた本能寺の境内は一瞬にして合戦の場と相成った、翻る旗指物に刻まれた桔梗の紋は明智光秀のものに相違ない、しかし明智といえば織田の家臣でも重臣で通っていたはず、それが主家へと反旗を翻したとなれば戦乱の中で下克上と立身出世を体現していた信長にしては皮肉であるやも知れぬ。
各所で怒声と悲鳴が入り混じり遂に門を打ち破った明智の雑兵がなだれ込んでくる、その乱戦の中で手傷を負っている坊丸と力丸の二人に雑兵が襲い掛かった。
「その首貰った!」
「手柄首じゃあ!」
意気込んで剣を振り上げたその雑兵は一太刀を振り下ろすこと無くその首と胴を分かたれた、首から吹き上がる鮮血が夜空を染めて倒れ伏す雑兵の背後から姿を現したのは蘭丸であった。
以下に深手を負っても雑兵如きに遅れを取るような蘭丸ではない、その蘭丸より弟二人に言葉がかけられる。
「兄上」
「二人とも聞け、某は大殿の下へと参り落ち延びるように話してまいる」
「分かりました、我等二人はここで斬り死にいたします」
「……頼むぞ」
弟は兄に全てを語らせず、兄もまた弟に告げる言葉もない、視線だけで意志を交わすと三人は二手に別れた。
失った片足を欄干に乗せて矢継ぎ早に矢を射掛けて次々と雑兵を射抜き撃ち倒す力丸、その力丸の前に陣取って矢玉の隙から迫るものを片手に持った太刀で斬り倒す坊丸。
自らの流す血と返り血とで全身を朱に染めながらも尚、猛威を振るう二人の姿に味方は鼓舞され敵は恐れおののく中で二人は声を張り上げる。
「我は森可成が四男、森坊丸長隆なり、我こそと思わん者はかかってまいれ!」
「同じく森可成が末弟、森力丸長氏! この首獲って誉れとせよ」
後事を弟二人に託した蘭丸は主君である織田信長の下へ駆け出した、外の喧騒も届かぬ奥の間にたどり着くとここに居るべき男の姿が無いのを訝しむが、すでに迎撃に向かったか、それとも奥にいて主君の警護に当たっているのかと思い、襖の前に畏まって中へ声をかけた。
「大殿、謀反にございます」
「誰か?」
謀反の知らせを告げる蘭丸に対して一拍の間があってから中から声が発せられると同時に襖が開かれ、寝巻きである白襦袢に女物の内掛けを肩にかけた男が現れた。
蓬髪に茶筅髷を結った頭に面長で鋭い輪郭、太く力強い眉毛、大きく鋭い眼、鼻筋の通った高い鼻、引き締まった口に男らしくたくわえられた美髯を蓄えた精悍で勇壮な面の男こそ戦国の覇王にして自らを第六天魔王と嘯くもの、織田弾上忠信長である。
その身は四十九と既に老いが始まる年齢にも係わらず、なお凛とした覇気に満ちており肌艶からすれば三十半ばで通用しよう。
その後ろには三国一の美女と謳われた、信長の正室である帰蝶が付き従っている。
「紋は桔梗、明智光秀様と……」
「金柑頭だと?」
「十兵衛様は賢いお方です、雑兵など幾人いようとも上総介様に傷を付けることなど叶わぬと分からぬ人ではありません、ならば隠し玉が居ると見るべきでしょう」
その帰蝶の言葉に蘭丸がはっとした表情を浮かべた、信長はその顔を見逃さずに面白そうに笑うと茶化すように言葉を連ねる。
「お濃、蘭には心当たりがあるようだぞ」
「まあ蘭丸、隠し事は感心しませんよ」
「は、それは……」
「俺のことのようだな」
「貴様!」
自らの宿舎を敵に囲まれても泰然自若とした態度を崩さぬ信長と帰蝶、そして主を逃すべく馳せ参じた蘭丸の前に左近が現れる。
左近の姿を認めた蘭丸は主君を守ろうと立ちふさがるが、信長は蘭丸を手で制すると前に進み出て目の前に現れた左近を見つめて目を細めると顎に手を当ててうっすらと笑みを浮かべた。
「ほう、中々の剣気だ、どうだこの信長に仕えぬか?」
「森にも同じことを聞かれたな」
「断ったのであろう、貴様はそういう男よ」
「それが分かって何故同じ問いを投げる?」
「それは信長が故よ、これが最後の機会ぞ」
何時の間にか帰蝶の手には一振りの朱鞘に白い柄の刀が持たれており、にこやかな笑みを浮かべながら信長へと差し出す。
差し出された柄を握り、ゆっくりと刀を抜くとその切先を左近へと向ける、その青白く輝く刀身からは信長が発する覇気に呼応したのかゆらゆらとした靄のようなものを発しているのが感じ取れる。
「断る」
左近が言葉を発した瞬間、信長はすうと刀を持ち上げて無造作に振るった、その一刀は欄間を両断し床を切り裂く。
咄嗟に横へ跳んでその一刀をかわした左近だが、無造作に見えたその踏み込みと剣閃の一撃のなんと鋭いことか、来ると分かっていなければかわしきれなかったかも知れないと額に汗を掻く。
しかしここで引く事は己の矜持が許さない、腰を落とすと居合いに構える。
「ふ、ふははははは! 良かろう戦国の魔王の力その身体に刻んで逝け」
「お待ち下さい!」
笑う信長が左近との戦いに身を投じようとした時、蘭丸がその間に割ってはいる。
「なんの真似だ?」
「外には明智の軍勢が居ります、ここは私に任せて急ぎ脱出を」
懸命に訴えかける蘭丸だが胸の傷から流れる血は止まる事を知らず、すでにその顔は蒼白である。
しかしその瞳に宿る鬼気は蝋燭が燃え尽きようとする瞬間一際輝くように、是までに無いほど凄まじい。
既に自らの死を覚悟した漢の願いを無碍にするようでは主君たる資格はない、信長はその場で踵を返すと奥の部屋へと歩を進め、帰蝶がそれに付き従う。
「ここを逃せば公と戦える機会は巡ってこぬだろう、ならば逃がす訳にはいかん」
「その通りだ、ここで逃げられては困る」
信長の背中へ左近が声をかけ、同時に左近の後ろからもう一人の声が響いた、その声の主は血に染まった着流しを着て両手に血刀を下げた浪人風の男であった。
すでに月は中天を超え、日付は六月二日へと移り変わっていた。