第二幕 第碌闘
京へ至る道を歩く着流しに大小の太刀を佩いた若い侍がいた、その男の鼻に良く知った鉄錆の臭い、即ち人間の血の臭いが纏わりつく。
夜盗か山賊にでも襲われたか、それとも獣の餌食にでも成り果てたかこの戦国の世の中ではそれほど珍しい臭いでもないが昼日中からというのは稀ではある。
しかし見回した限りでは辺りに臭いの本に成る様な骸は見当たらず悲鳴の一つも聞こえない、ならば既に事は終った後と見るのがだとうだが、それでも今この時に襲われている最中かも知れぬ。
尤も誰が襲われていようとも男にとっては関係の無い話ではある、しかしそれを黙って見過ごせるほどこの男は薄情ではなかった。
一縷の望みを賭けて漂ってくる血の匂いを追って足早に道を駆けてゆくと、前方に若い女の影が見えた、その影に急いで近寄ると十五、六の少女に二十も半ばと見える女が背負われていた、それだけでは無くその女二人は共に着物を朱に染めている、男はその姿を認めると声を張り上げて駆け寄って声をかける。
「大丈夫か御主たち、怪我の具合は如何ほどか?」
突然現れた得体の知れない男に声をかけられた少女は、声をかけてきた男の姿を認めると背中の女を気にしながらも懐から短刀を引き抜いて男に対して身構える、男を睨みつけるその顔には涙の後がくっきりと刻まれていたが、その表情は大切な人を守り抜こうとする意志に溢れていた。
「待て、妖しい者ではない、拙者は松平信之助という素浪人だ、見れば連れは怪我をしている様子何か出来る事があるか」
信之助は此方を警戒している少女に向かって自分が無害であり何か力になれる事は無いかと話し掛ける、すると背負われている女が少女の耳元に擦れた声で何事かを呟いた。
それを聞いて驚いた表情を浮かべた少女だが、背中の女を丁寧に下ろすと信之助に向かって声を張り上げて口上を陳べる。
「私は梢と申します、これにあるは我が姐桔梗にございます、お侍様にあって姐からお頼みがあるとの由、何卒お聞き届け下さいますよう」
その口上を聞いた信之助は横になった女に近寄って様子を伺うと遠間からは判らなかったが近寄ってみれば胸に刀を突き刺されたような傷があり背中まで抜けていた、医者ならぬ身の信之助は勿論として本職の医師でさえ彼女を救う事は不可能と断じるであろう。
いま生きていることさえ奇跡といえるかもしれない、そんな女が薄っすらと瞳を開き信之助をみると震える手を差し出して語り始めた。
「私は葉桜組の代貸で桔梗と申します、信之助様は見たところ武芸者で在られます様で、ならば不躾ながら一つお願いが御座います、この先の川縁にて我が姐秋葉太夫が狂賊と相対しております、それにどうぞ御助勢を」
「承知した、此処で妹御と待っておられよ、傷も程無く塞がろう」
信之助は己の命が消えようとしている瞬間に己が身の助けを請うではなく、姐の身を一心に案じて血を吐きながらも切々と訴えてくる女の願いを無碍に出来るような男ではない。
震える手を握り締めて承諾の意を述べると指し示された場へと駆け出していった。
桔梗は梢に背負われている時に不意に前に現れた男に強い気配を覚えた、その気配を言い表すならば虎か獅子かという感覚だ、何故そう感じたのかは桔梗自身にも判らない、しかし何故かこの男に頼んでみようと思った。
それは死を目の前にした女の勘としか言い表せないものであったろう、だからこそその勘を頼りにして頼みを口にした。
その頼みに対しての何と小気味良い返事を返すのか、理由も何も問わずに直ぐに救援へと走り出す、しかも最早助からぬと一目で気がついたろうに自分に対しても気休めとはいえどもあんな台詞を残して行くなんて良い男じゃないかと感じる。
「生きてりゃ、線香代は私が払っても良いんだけどね」
走り出した男の背中を見送りながら、死の床に突きながらも艶を忘れぬ桔梗の呟きが風に溶けて消えた、最後に残された力強い言葉に桔梗は安堵の息を漏らして笑顔を浮かべると涅槃へ旅立った。
「姐さん、桔梗姐さん」
声をかけれども返事は返って来ない、それを確認すると梢は桔梗の顔に付いた汚れを拭い取るその顔は何故か菩薩のように穏やかな笑顔だった、桔梗は今走り去った男に全てを託していったのだと気が付いて梢また少し悲しくなったが涙を零す事はなかった、ただ桔梗は秋葉太夫の無事を桔梗の亡骸を抱いて共に祈ることにした。
信之助が走り抜けたそこで見たのは幽鬼のようざんばら髪の男が傷だらけのそれでも凛とした美しさを損なわない美女に短刀を突き立てようとした瞬間であった。
このままでは合わないとみた信之助は走りながら男に向かって小太刀を抜いて投げつける、唸りをあげて飛翔する小太刀を察知したざんばら髪の男、朧丸は組み敷いた女に突き立てようとしていた短刀を持って飛来する小太刀を弾き飛ばした。
「邪魔を!」
朧丸の意識がほんの一瞬新たに表れた信之助に向いた隙を逃すような秋葉太夫ではない、鉄杭で縫い付けられた右掌を強引に引き抜くと脇に落ちていた鉄扇を拾って朧丸の首を刈り取るべく振るが、その時には朧丸はすでに後方に跳び下がっており、その一撃は虚しく空を切っただけであった。
しかし自分の上から朧丸を引き剥がす事が出来た秋葉太夫は左腕と両足の甲に突き立てられた鉄杭を引き抜いて、震える足に活を入れて何とか立ち上がり再び鉄扇を構えようとする、そんな秋葉太夫の前に立ち塞がる背中があった。
前に立つ背中は今しがた自分の窮地を救ってくれた若侍のものである、助けられた事に若干の屈辱を感じるが感謝もする、しかし朧丸との戦いを邪魔される事は秋葉太夫にとっては余計な世話である、その微妙な思いがつい口を突いて出た。
「助けて貰ったのに感謝はするが、わっちの邪魔をおしじゃないよ」
「そうは往かん、お前さんが秋葉太夫で間違いないならお主の妹の今際の際の願いを無下にはできん」
「そうかい桔梗が逝ったかい……」
その言葉を聞いた秋葉太夫の顔に僅かばかりの悔恨が浮かぶ、殺した朧丸に対する怒りと桔梗を守れなかった自分への不甲斐無さ故にだ。
勿論あの傷では助かる見込みなど無いに等しいと覚悟はしていたが、それでも他人の口からはっきりと桔梗が死んだと聞いたからには余計に引き下がる訳にはいかない、それに今の言い分から察するに桔梗が自分を助けてくれるように願ったらしいが、こうなっては桔梗の仇ともなった男を自らの手で殺さねば収まりがつかない。
「それを聞かされちゃ益々退けないね、門外漢は引っ込んどきな、さもなきゃあんたも打ちのめすよ!」
自分の流した血でぬかるんだ地面に落ちていた扇を拾い上げると気丈にも信之助に向かって退けと言い放つ秋葉太夫、その姿は痛々しさと同時に怒りと悲しみを内包する夜叉を想起させる。
だが信之助とて此処までの日々において戦を枕にしながら生きてきた生粋の武人だ、多少凄まれた所で己の意を曲げる事は無い。
「その身体では無駄死にするだけだ、御主こそ下がっておれ」
「何時まで下らん話を続ける」
視線を朧丸から僅かに外して秋葉太夫を諭そうとした信之助の耳に不意に聞こえて来た声と共に閃く銀光が迫っていた。
左袈裟に振るわれた短刀の一閃を見て信之助は左足を後ろへ滑らす事でかろうじて避けると、居合いの要領で太刀を抜刀し同時に一刀を見舞う。
閃く刀の軌跡が陽光を反射して銀影を表すその一撃を、朧丸は後ろへ軽く跳躍することで回避し着地と同時に再び襲い掛かる。
それに併せて太刀を振るって朧丸に切り込ませない信之助は先程同じように後方へと跳躍した朧丸を追って駆け横薙ぎに太刀を振るう。
着地を狙われた朧丸は横薙ぎの一閃を短刀で受けるとその勢いのままに横へと飛んだ、これで信之助と秋葉太夫に対して二等辺三角形の頂点に位置する場所へと動く事に成功した。
着地した場所で軽く跳ぶと大型の肉食獣が獲物を狙うように全身を撓ませて一気に迫る、信之助を目掛けて一歩を踏み出し、二歩で加速し、三歩を踏み出した所で方向を変える。
朧丸の標的は突如現れた侍、信之助と見せかけて実は怪我のおかげで既に満足に動く事もきついはずの秋葉太夫である。
その動きを油断無く見ていた秋葉太夫は向かってくる朧丸に対して、構えていた鉄扇を振るおうとするが、四肢に負った傷の所為で速度も威力もまるで出ていない、思わず舌打ちをするが、この身を贄にして朧丸を倒せるならばそれも本望と現在の自分の身体で出来る最高の一撃を持って迎え撃つ。
「カカ、遅いわ」
しかし命を賭した秋葉太夫の一撃は朧丸の身を捉える事は叶わずに虚しく空をきる、秋葉太夫の一撃をかわした朧丸が手にした短刀を閃かせる。
「く、畜生!」
自分の首を刈り取ろうと迫る青白い刃を瞳に写した秋葉太夫は己の一撃が届かなかったことに歯噛みし、次の瞬間に訪れるであろう感触に覚悟を決めたその時、横合いから振るわれた銀光が秋葉太夫の首に食い込むはずの刃を弾き飛ばした。
「ち、どうあっても邪魔をするか」
「やらせんと言ったはずだ」
再び自分を守るように前に立つ男の背中を見た秋葉太夫は、今ここでは動けぬ自分こそが邪魔者であると知る、この男の力量は未だ測りかねるが二度において朧丸から自分の身を守ったことから見てそれなりの腕はあるだろう。
それに態々桔梗が今際の際に寄越したのならば、せめて自分が満足に動けるくらいになるまでは、信じてみるのも一興と考えを改める。
「は、わっちが傷の手当てを終えるまで持たしてくりゃよい、いいな」
「それは約束できんな、遅ければ俺が片付ける」
「勝手にせい」
自分の虚勢を見透かしたような言動に腹が立つが、今の自分の様を見れば致し方ないとして足を引きずりながらも闘いの場から踵を返して背を向けると離れた場所に胡坐をかいて座り込みもろ肌を脱いで上半身を日の中に晒すと傷の手当てを始める。
全身に青痣を作り、彼方此方から血を流すその姿すら痛ましさより扇情を醸し出すのはその類稀な美しさ故か、そして扇情よりも苛烈な炎をその身に幻視させるのは内に秘めたる秋葉太夫の気性の激しさか。
無防備に肌を晒して傷の治療を行なうのはこの男の力を信じての事だ、事実秋葉太夫が離れるまで、朧丸と対峙して牽制をかけていた、それが有るからこそ秋葉太夫こうして居られる。
「そういや、わっちが閨以外で男に背中を晒すなんざ初めてかの?」
傷を千切った着物で作った布で巻きながら、我知らずに口を突いて出たのはそんな呟きであった。
秋葉太夫が離れてゆくのを朧丸は黙って見逃した訳ではない、その背中に向けて攻撃を加えようと虎視眈々と狙っていた。
しかし目の前の男がそれをさせなかった、鉄杭を放とうとしても男を放って秋葉太夫に向かおうとしても絶えずこの男はその邪魔が出来る場所、そして朧丸に一撃を加えられる場所へとその身を置いていた。
つまり秋葉太夫を殺したいならこの男を殺してからではなくてはならないという事である、その事実は実のところ朧丸には如何でもいい、邪魔をするなら殺すだけというのがこの男の思考である。
既に秋葉太夫の力量は測り終えた、五体満足なら己が敗北に一部の可能性があるかも知れぬが傷の手当てをした所で今の状態なら左程の脅威にはならないと判断を下す、そして朧丸の頭は自分の邪魔をした信之助を如何にして殺すかという思考に占められてゆく。
信之助は朧丸を油断無く見ながら、つと目線を自らが投げた小太刀へと向かわせる、対峙するこの男の力は未だに測りかねている、出来るなら二刀を持って迎え撃ちたいが小太刀は最初に投げた時に弾かれて当の朧丸の後方に突き立っていた。
この僅かな睨み合いの間に信之助は駆けつけて上がった息を整え、朧丸は四肢を軽く振って体の状態を確認すれば多少の疲れはあるがこの程度なら問題には成らない、また何時の間にか失った左耳から流れていた血も止まっていた。
信之助が一刀を正眼に構えれば、朧丸は逆手に持った小太刀を自身の背に隠した構えをみせて対峙する、刺すような空気の中で不意に朧丸が信之助に向かって声を掛ける。
「カ、カカカ、良かろうお前の四肢を落として動けぬようにしてからその女を殺す、自分の力の無さを噛み締めて逝け」
「出来るものならやってみろ」
向き合った二人は言葉が終ると同時に動いていた。
朧丸の右手がしなり横合いからの信之助に向かって短刀が抜かれる、それに併せて朧丸の腕を斬り落とそうと振るわれた信之助の一刀であったが、この一撃は何時の間にか持ち替えられていた短刀の鞘に依るものでその鞘を切るに留まる。
切り落とされた鞘が地面に落ちる前に反対側から伸びる左手に握られた短刀が閃き、信之助の顔面を襲う、目の前に迫る刃を見て上半身を無理矢理に捻ることで辛うじてかわすが頬に一筋の傷を刻まれた。
信之助は頬に熱い感触を味わいながらも鞘を切った刀の刃を返すと、今度は此方の番と左切り上げに刀を振るう、しかしその攻撃は短刀を振るった直後に飛び退いていた朧丸を捉える事は出来なかった。
さらに朧丸が信之助の一撃をかわして跳んだ先には、先程の闘いで秋葉太夫の操る流星錘と咬み合って捨てた白布が落ちていた、一刀をかわす動作を己の武器を回収する為の動きを交えて跳んでいたのである、空中で短刀を腰に納めながら着地と同時に足元に蟠って落ちている白布を拾い上げようと屈みこんだ。
信之助は朧丸が跳んだ先に何かが落ちているのは当然目に入っていた、なら攻撃をかわす動作に併せて態と其方に跳んだならば恐らくは何がしかの道具である事は予想するまでも無いが、ならばそれを使われる前に倒せば済む事と白布を拾おうと朧丸が身を屈めたときには地を蹴って朧丸へと迫っていた、太刀を肩の高さに引いて踏み込みと同時に胸の中央へと突きを見舞う。
「はあっ!」
瞬という空気を切り裂く音と共に朧丸の身体を貫くはずの一刀であったが、その刀身に巻き付いた白布に由って僅かに切先が胸を抉った所で食い止められる。
自らが放った突きが止められた信之助はそのまま半歩を踏み出して間合いを詰めてピンと張った布に僅かな弛みを作りだすと刀を引いて三段突きを繰り出した、狙うは咽、鳩尾、臍の三点である。
朧丸が握る布の長さ分である一尺程度しか勢いを付けられないが急所狙いなら二寸も突き込めば充分に人を殺せる、それが判っているからのこの近い間合いでの連突きである。
咽を狙った一突き目を首を振ってかわすと同時に白布を広げて再び後方へと脱する朧丸、その体があった場所に二の突き三の突きが振るわれ、その二つの突きによって刀身に巻かれていた布が切り散らされてハラハラと地に落ちた。
三連突きはあわよくば相手を倒す事を、最低でも絡め取られた太刀の自由を取り戻すという策であった。
「ちいっ!」
後方へと跳んだ朧丸は空中で舌打ちすると同時に鉄杭を投げ放ち着地と同時に左右の腕から白布を伸ばして信之助を絡め取ろうとする。
信之助は飛来する鉄杭を避けられるものは避け避けきれないものは打ち払い左右から襲い来る白布は右から迫る一方を切って道を作りだし其方へ身体を逃がしてなんとか凌ぐ。
朧丸は左手に握られた白布が切られたのを見て其処へ信之助が逃げてくると看破した、左手の白布は切られて短くなったと同時に放り捨てて矢のように駆けるとその鋼で覆われた手刀を繰り出した。
絡め取ろうとする白布から何とか脱した信之助の眼前に迫る朧丸が繰り出す鋼の腕に一刀を合わせる。
鋼と鋼が打ち合う音が響き双方の牙が咬み合ってその動きを止めるが、この密着した間合いならば朧丸の方が優位。
下から突き上げるように膝を飛ばして信之助の腹を狙う、その気配を察したのか信之助は柄から咄嗟に左腕を離すと鳩尾を庇った、庇った左腕の上から構うことなく膝が突き刺さる。
鈍い音が響き左腕に激痛が走る、顔を顰める信之助に対して攻め手を休めずに更なる攻撃を加えようと腰の後ろから引き抜いた短刀を脇腹へと刺し込もうとする。
閃く銀の光が刃と知った信之助は痛む左手をそのまま朧丸の腕に併せて振り、着物の袖をもって短刀の刃を絡め取ると同時に額を朧丸の額に打ちつける。
侍然とした信之助からまさか頭突きが来るとは思わなかった朧丸はこの攻撃を受け損ねて蹈鞴を踏んで一歩後退する。
信之助はこの好機を逃すわけにはいかないと右手に持った太刀を上段から振り下ろす、元々が二刀使いの信之助である、片手であっても威力が足りないという事は無い。
しかし唐竹割に振り下ろされた一刀はさらに一歩を下がった朧丸の額と胸から腹の皮を一枚斬るに留まった。
「くっ逃がしたか」
「カカカ、早々簡単には行かんな」
互いに一足離れて相手を睨みつける、この僅かな睨みあいの間が息を整え次の一手を思案する時間である。
先に動いたのは朧丸であった、対峙しているのは川縁である長い風雨と流れる川で磨かれた砂利を蹴飛ばして飛礫として使うと同時に、白布を回収した時に一緒に手に入れていた流星錘を投擲する。
蹴り上げられた礫には然程の威力は無く一種の眼晦ましに過ぎないと見てとった信之助は、身体に当たる砂利を無視してその後方から迫ってくるはずの攻撃に備えた、その陰に隠れて放たれた流星錘が巻き上げられた砂利を蹴散らせて信之助に迫る。
眉間に向かって飛来する流星錘の軌道を見切って太刀を振る、狙い違わずに先端の錘部分を弾き、返す刀で組紐を切ろうと太刀を振るう。
その瞬間組紐が波をうち螺旋を描くと太刀を持つ右腕に絡みついた、そのまま腕を引かれた信之助と朧丸が綱引き状態に陥る。
「クカカカ、殺ったぞ」
朧丸の真の狙いは信之助が右手に持つ太刀の動きを止める事であったのだ、朧丸が叫び白布を天高く振り上げると大上段から振り下ろした、すると空中で布が解けて無数の糸へと姿を変える。
この白布はその縦横の糸の半分程が鍛えられた鋼糸で織り込まれていた、無論鋼とはいえその一本一本は恐ろしく細い、故に只の布よりは余程頑丈だが刀剣の類で切れぬ程ではない。
しかし細いとはいえども鋼は鋼、人間の肉を切り刻むのに何の不都合があろうか、空中で広がった鋼の糸に因って作られた投網は大きく広がり既に体捌きでは逃げられぬ大きさになっている、また網を切って窮地を脱しようにも右の太刀は流星錘によって捕らわれて満足に振るえない。
頭上から襲い掛かる死の網に捕らわれたが最後、後はその身を千々に刻まれるのを待つしか信之助に残されてはいないのか。
「ぬうっ?!」
勝利を確信した朧丸であったが次の瞬間驚愕に眼を開いた、信之助の左手が閃き今まさにその五体を引き裂こうしていた死の網を切り裂いたのだ。
鋼の網を切り裂いて頭上に掲げられた左腕には先程の攻防で朧丸が信之助によって絡め取られた短刀が輝いていた。
信之助は返す刀で己の右腕を絡め取っている流星錘の組紐も切断すると、朧丸に対して右半身になると奪い取った短刀を左脇携えに、右の太刀を正眼に構えて言い放つ。
「そう簡単には殺られん」
朧丸は武器である白布を失う事で使用できる必殺の技を破られながらも表情を変えずに先がほどけた布を横に打ち振るう、幾条もの鋼と絹の糸に分かれた刃が日の光に煌き、一種幻想的ともいえる光の帯を作り出す。
信之助へ迫る光刃の束であったが、右手に持った太刀が閃くや刃の奔流は風に吹き散らされる只の糸屑へと成り果てた。
「二刀使いか」
二刀流はその習得の困難から世に広まってはいない、精々が幾つかの流派でしかも一刀流の修行の過程で納める程度だ、だが信之助の構えを見た朧丸はその洗練された構えから二刀は虚仮脅しではないと直感した。
その直感を信じて腕試しを兼ねた鉄杭を無造作に撃ち出してみれば両腕が華麗に閃き、その場を一歩たりとも動かずに全てを叩き落された。
尤もこれは思慮の内であり朧丸は鉄杭を投げると同時に、手に残った二尺ほどの役に立たない糸の塊に成り下がった布の切れ端を放り捨てると、残った流星錘の紐をあらぬ方向へと振った。
紐が振られた場所に在ったのは初めに信之助が投じた小太刀である、ほうられた紐は地面に突き立った小太刀に絡みつきその刀身を朧丸の手中へと誘う。
「させん!」
飛来する鉄杭を両手に持った二刀をもって尽く叩き落した信之助は朧丸のほうった紐が地面に突き立ったままの小太刀に伸びるを見て駆け出したが、初めに撃ち出された鉄杭の迎撃に使った分だけ飛び出すのが遅れてしまった、一瞬遅く目の前の小太刀は引き寄せられてそのまま朧丸の手に納まった。
ならばとばかりに飛び出した勢いのままに斬り込んだはいいが、太刀は逆手に構えられた小太刀によって受け止められ、受けられたと同時に突き出した短刀は鋼の手甲でもって受け流されてその表面に浅い傷を付けるに留まる。
太刀を押さえ、短刀を受け流した朧丸は足を撥ね上げて顎を狙った蹴りを放つ、視界の下から飛び込んできたその蹴りを飛び退いてかわす信之助、二人は今一度距離を置いて睨みあった。
傷の手当てをしながら二人の戦いを見ていた秋葉太夫は舌を巻いていた、自分が殺されそうになったあの化け物を向うに回して引けを取らないその技量に対しては瞠目に値する。
しかし今の動きの中で左腕の動きに僅かな違和感が見て取れた、そしてそれが負傷に因る物であるのは明らかだ。
恐らくは鳩尾を庇った時に受けた膝で傷め、鋼刃の投網を切った事で更に悪化させたのだろう。
それはあの化け物に対しては致命的な弱みとなる、何故ならあの化け物はその身に受けた傷の治りが著しく早いが信之助はそうはいかないからだ、腕は互角でも蓄積してゆく損傷に置いて時が立つほど差が出てくるという事になる。
ならその差が出る前に片を付けなければならないだろうが、自分の手で朧丸を葬りたいのはやまやまだが応急手当を終えたものの巻いた布の下にある手足の傷は手当てを終えたとはいえ巻いた布が血で赤く染まっている。
手足に宿る力は僅かであり、今の状態で二人の戦いに介入しても信之助の足を引っ張るだけなのは火を見るよりも明らかである。
「なら今のわっちに出来るのは……」
それでも己が何事を成すために戦い続ける二人の動きを欠片も見逃さないようにと睨みつける秋葉太夫の瞳は剣呑な光を湛えていた。
そして秋葉太夫は一世一代の賭けに出る。
朧丸は今互いに交わした攻防を冷静に分析していた、自分が投げた鉄杭を弾きすぐさま斬り込んできたが、左腕で振るわれた一刀には力が乗っていなかった。
朧丸の膝には信之助の腕を折った感触は残っていたが鋼の網を切り殺到する鉄杭を叩き落とす時にも縦横に振るっていた様を見ていた為に一応万が一を考えて警戒をしてはいた、
しかし今の攻防では化勁を使って受け流したが最悪手甲は断ち切られ肉を削ぐ事まで視野には入れていた、もっとも己の肉を削がれれば代わりに骨を砕く心算でいた左の突きには警戒していた程の威力は無かったのである。
どうやら左腕を圧し折った感触は間違いではなかったようだ、それにも拘らずに態々傷めた左腕を殊更に使って見せたのは、使えない事を悟らせぬための虚栄であろう。
勿論油断などする心算は全く無いが、これで一つ様子を見ながら追い詰めてやろうと心の底で哂うと左へと走り出した。
信之助は自分から見て右方向へと回り込む朧丸の姿を見て歯をぎしりと鳴らせた、それは今の自分の状態、左腕では満足な攻撃を出来ないという状態をほぼ正確に見られたということだろう。
二刀流は一刀流と違い両腕で二刀を操るものである、正面から打ちかかられれば左右どちらの腕でも自在に操るが、脇から掛かってこられれば左右の腕一本で対処する事になる。
そして自分の右側に回るということは左腕の損傷を確信してのことだろう、即ち受けに右腕を使うなら返しの攻撃は左腕にならざるを得ない、しかしその左腕に自身を害するだけの力が無いのならそれは猫が鼠を甚振るような一方的なものになるだろう。
だからといって右からの攻撃を態々左手で受けては腕が交差する分、攻防に遅れが出るのは否めず、それでは朧丸の動きを捉えきれないのは今迄の闘いで思い知っている。
だからこそ信之助としては左腕の負傷をそれと悟られぬように、響く痛みを無視して飛来する鉄杭を打ち落として見せた訳だが今となっては意味が無い、その証拠に朧丸は嬉々として信之助に打ちかかってきたではないか。
だが左腕を動かしてみての判断は骨が折れているようだがずれてはいない、痛みを我慢すれば充分に動くと判った、元より命を懸けて相対している以上は痛みがあるから使わない等という馬鹿な話はありえない。
残った問題は相手を倒すために充分な威力を持った一撃を繰り出させるかどうかであったが、それも一度か二度なら何とか出来そうである、ならばそれで倒せば良いのだ。
縦横に振るわれ襲い掛かってくる小太刀は右腕の太刀で払い、合間に繰り出される打撃は体捌きでかわし、かわせぬものは打点をずらして受ける、時たま投げてくる鉄杭は怪我をおして左腕で弾くのを繰り返しながら、それでも何かの拍子に転がり込んでくるかも知れない僅かな勝機に賭けて今はこの猛攻を凌ぐことに専念する。
否凌ぐだけでは何時か此方が敗北する、攻め手を欠いては勝利など覚束ないのは当然だ。
故に此方からも攻撃と防御の合間、防御と攻撃の隙間に攻め手を混ぜて立ち回る。
お互いに決め手には欠けるが頬が切れ腕を裂き足に傷がはしり血が噴出す、それでも止まぬ朧丸の猛攻に信之助の額から汗が伝った、何故ならこの攻防で傷めた左腕が益々悪くなって行くのが実感できていたからだ。
今はまだ充分に動かせるがこのままでは、いずれ動きが悪くなり朧丸の攻撃を捌ききれなくなるだろう事は想像に難くない。
ならば左腕が動くうちに起死回生の一撃を敵に見舞わねばなるまい、意を決すると信之助は朧丸の蹴りをわざと受けてその威力をもって距離を取ると両腕を上段に構える。
「はああっ!」
気合の声と共に全ての体重を乗せた上での大上段から振るわれた太刀の一撃は流石の朧丸も両手を持って受けるしかない、太刀と小太刀が咬み合って双方の動きが一瞬止まる。
その瞬間を狙い済ました信之助の左手に握られた短刀が朧丸の胸に吸い込まれてゆく、この一刀が入ればそれでこの死闘に決着が着いたであろう。
「甘いわ!」
「ぐあっ!」
しかし既に限界に近かった左腕はその切先を朧丸の胸に突き立てる前に下方より伸びた膝の一撃を受けてあらぬ場所から折れ曲がり、短刀を取り落としてしまった。
「クカカカカカカカ」
朧丸は片腕が殆んど役に立たんというのに自分の攻撃を捌くのみならず反撃を加えてくる信之助の技量と力に瞠目した、おかげで双方共に体の彼方此方に傷が増えてゆき、その度に少しずつ動きが鈍くなる。
しかし自分の傷は治りが早いのに加えて信之助の左腕は折れている事から己の勝利は疑わなかった、相手に残されたのは余力がある内に此方を殺せるだけの攻撃を繰り出すことだろう。
ならば逆にそれを誘い出すのも一興、来ると判れば如何に強力な攻撃であろうと受けきってみせる、そしてその時にこの男は一体どんな表情を浮かべるか楽しみで仕方が無い。
その様子を眺めるのが朧丸の楽しみであった、闘いを続けながらも自分の力が及ばぬと理解した相手の絶望と落胆、そして死の恐怖の感情を貼り付けた顔こそ尤も美しい。
そして思惑通りに起死回生に出た信之助の一撃を受けとめて左腕を完全に潰した、これで最早己の勝利は揺るがないと確信した朧丸はさらに速度を増した攻撃を繰り出す。
左右から小太刀を切りつけ、払われれば体を回転させて蹴りを放ち、受けられれば手刀を突き込む、息を吐く暇さえない連続攻撃の嵐を前にして遂に信之助の防御が崩れ右手の太刀が手から零れ落ち決定的な隙を晒す。
その隙を逃す朧丸では無い、左胸の一点にできた隙目掛けて小太刀を突き出した、肉を裂く感触が朧丸の腕に伝わる。
「ぐうあっ!」
信之助の命の灯を消すはず朧丸から振るわれた一刀をかわすのは不可能、しかし既に役に立たぬ左の腕を犠牲にすれば受け止める事は出きると折れた左腕に小太刀に晒す信之助。
朧丸はそのまま信之助の左腕に深々と突き刺さってそれ以上は動かなくなった小太刀をそのままにして、すかさず左の手刀を信之助の腹へ抉り込み四指が脇腹の肉を引き裂こうとするのを辛うじて信之助の右腕が止める。
「クカカカ、中々楽しめたが後が残っているからなそろそろ死ね」
更に抉り込もうとする左腕と深々と突き立った小太刀から伝わる痛みに悲鳴が上がりそうになったが、なんとか歯を食いしばって耐えながらも信之助は朧丸の左手を離さない、それどころかその顔には凄みのある笑みを浮かべていた。
その表情に何かを感じた朧丸は一旦距離を置こうとした、しかしその動きは信之助の腹を抉ろうとした左手を掴んだままの信之助の右手によって阻まれた、その邪魔な腕を小太刀で切り離そうとするがそれも折れたままの左腕を捻ることによって阻まれる。
次の瞬間信之助が声高に叫んでいた。
「お前がなあっ!」
「はあっ!」
信之助の声と時を同じくして裂帛の気合が響いた、その声に驚愕して後ろを振り返ろうとした朧丸の首が宙に舞う、朧丸の首を刈り取った一撃を放ったのは誰あろう秋葉太夫であった。
押され始めた信之助の姿を見た秋葉太夫は朧丸に気取られぬようにすうと音も無く立ち上がった、寝ている客を起こす事無く自然に部屋を後にするのも遊女としての嗜みである。
それを応用すれば如何に気配に敏感な朧丸といえども信之助という強敵を前にして些か集中している今の状況ならば気付かれる事無く行動を起こす事は可能だ。
もっとも僅かなりと殺気を滲ませれば直ぐに気がつかれるだろう、ならば自分の復讐心を一時の間完全に忘れ去る事にする、女は嘘を吐く生き物だ、特に秋葉太夫はどれほど嫌な男でも肌を重ねる事もある遊女である、その程度には自分を律してみせよう。
一世一代の穏形をもってするすると忍び寄った秋葉太夫は一足の間合いをもって動きを止めた、二人の闘いの凄まじさゆえに手も足も挟めずにいた訳ではない。
二人の戦いからこの後に訪れる絶好の機会を決して逃がさぬために力を溜めていたのだ。
しかしてその瞬間が訪れる、決定的な隙を晒した信之助が自分の息の根を止めようと振るわれた刃を前に己の身を投げ出して作り出した機会を逃さずに渾身の力を持って振るった鉄扇の一閃が怨敵である男の首を綺麗に刈り取った。
朧丸と信之助の二人は秋葉太夫の気配が消えたのには気がついていた、二人の間に差があったとすれば朧丸は秋葉太夫に背を向けていたという事だけだ。
自分対してあれほどまでの憎しみと殺気をぶつけていた女の気配が消えればそれは死んだか逃げたかと判断してしまった。
今まで、そうして逃げ出した者は幾らでも存在したし、向かってくる者には必ず気配があった、気配が希薄な者は忍びならば何人かは存在したがそれでも朧丸の鋭敏な感覚は必ずその僅かな気配を感じ取る事が出来たのである。
尤もこれが信之助ほどの手練を相手にしていなければ、微かな気配を察知する事も可能であったろうし、そもそも秋葉太夫をそのまま生かしておくなどという事も無かったはずだ。
この場所に朧丸、秋葉太夫、信之助という三人の類まれなる武芸者が揃ったそう偶然と必然が作用したが故に気配を消した秋葉太夫が背後に幽霊の如く立ったのを朧丸は気が付かず、その姿を見た信之助は彼女が何を行なおうとしているのか察する事が出来たのだ。
そして秋葉太夫には一度勝利しているという油断が、気配を感じ取れなくなった秋葉太夫の姿を確認せずに信之助を殺す事に集中してしまうという、己の力に対する自信、否強者を前にして勝利に酔った過信が朧丸という魔物の只一つの弱点となったのだ。
宙に舞った朧丸の首は自分が己の身体を見下ろしていることに気が付いた、そしてなんとも言いようが無い、あえて例えるのなら何処までも落ちてゆく、若しくは凍てついてゆく始めて味わう感覚に対して心の底から笑いが込み上げる。
「ク、クカカカカカカカカカカカカカははっはっはははははははははははぁ」
そしてその衝動のままに朧丸は始めて笑った。
どっと地に落ちた首が僅かの間けたたましい笑い声を上げるのを呆然とした表情で見つめる信之助と秋葉太夫の二人。
有り体に言えば今の二人にはこれ以上戦う事は無理だろう、信之助は左腕が使い物にならず、体の彼方此方には裂傷と打撲が多数存在する、もっとも酷い右脇腹の傷からは絶え間なく血が溢れ刻一刻と命の灯火を削ってゆく。
秋葉太夫は一応の怪我の手当ては終えているものの、流した血の量から顔面は蒼白でありまた朧丸の背後に回るために極度に意識を集中し、尚且つ最後の一撃を決める為に残っていた力の全てを振り絞ったような状況であった。
「冗談はよしとくれ、まさか本当に魔物の類だとでも言うんじゃ……」
秋葉太夫の口から弱音と取れる言葉が紡がれたとき、首の哄笑が止みその首を失った体がどうと倒れた。
しばし構えを解かずに見つめる二つの視線の先に在る首と体がピクリとも動かないのを確認すると漸く二人の体から力が抜ける。
「どうやら死んだらしいねえ、全くわっちもあんたも其れなりに腕に自信があるだろうに本当にこいつは化け物だね」
ほうと一息吐いて傍らにいる信之助に対して話しかけるが返答は返ってこなかった、訝しげに視線を向けるとそこには立ったまま気絶している一人の男。
それでも自分より一歩朧丸に近い場所に立っているのに感心するやら呆れるやらである。
「やれやれ……」
そうごちるとふらつきながらも秋葉太夫は信之助に近づいていった。
信之助が眼を覚ましたのは己の知らない場所であった、思わず飛び起きようとして全身に走った痛みに我知らず苦鳴が上がった、ただし己の身体を見てみれば左腕には添え木がなされ、右の脇腹は縫ってあり体の傷と言う傷には薬が塗られ包帯が巻かれている。
どうやら誰かが助けてくれたらしい、誰かというよりはあの場所にいたもう一人だろうことは想像に難くない、ふとんから上半身だけをゆるゆると起こして辺りを見回す。
「知らん部屋だな」
どうやら療養所ではないよう窓の外からは威勢の良い声と喧騒が聞こえてくる、となるなら旅籠の一室なのかも知れない。
そんな事をぼんやりと考えていると障子がすっと開いた、咄嗟に刀を探るがこの部屋にはない、しまったという思いが頭によぎったとき廊下から声がかけられた。
「ようやくお目覚めかい、全く良い女を待たせるなんて良い男とは言えんよ、特にわっちみたいな美女を待たせるなんざ無粋の極みでありんす」
廊下に正座で座っていたのは誰あろう秋葉太夫であった、信之助に対して嫌味たらしく言葉を投げかけるが、言葉の字面ほどには棘は無く、ころころと笑っているのが口調から理解る。。
すっと立ち上がった秋葉太夫とその後ろではやり正座でかしこまって座っていた梢が部屋の中へ入って障子をしめると途端に真面目な表情を作り三つ指を突いて頭を下げた。
「まずは御礼を申し上げる、名乗りが遅れて申し訳ありんせん。 わっちは遊郭桜花楼の太夫で秋葉と申します、後ろに控えるのはわっちの義妹で梢でありんす」
「梢で御座います、此度は亡き義姉桔梗の願いである秋葉への御助勢をお聞き届け下さり、真に有り難う御座います、桔梗に成り代わり御礼申し上げます」
「いや某は義によってした事ゆえ礼など無用に願いたい、それに結果をみれば拙者が秋葉殿に助けられたのだ」
「そうは申されても、わっちが助かったのも……、そういえばまだ名前も伺っとらんねえ」
「ん、そうだったか? 拙者は松平信之助という浪人だ、故あって在る目的のために旅をしておる」
口調を砕けたものに戻した秋葉太夫の眼がある目的と聞いて妖しく光る、そして楚々とした動作で懐から二枚の割符を取り出し信之助の前に差し出した、それは信之助が元々持っていた割符である。
「悪いとは思ったが怪我の手当ての時に預からせて貰っとった、信之助様…… 信さんの目的ってのはこいつに関係あるのかい?」
「ああ」
「そうかい、それならほら」
信之助の返答を聞くと更に四枚の割符を懐から取り出して前に並べる秋葉太夫、行き成り取り出された割符に信之助が眼を丸くして驚いていると鈴の音がなるようなころころという笑い声が耳に入ってきた。
「そのうち二枚はわっちが持っとった、後の二枚はあいつの骸から転がり出てきたものじゃ」
「御主もこれを集めていたという事か、ならどうする俺と戦うか」
「冗談でも言って良い事と悪い事があるよ、わっちは遊女だが任侠葉桜組の七代目、羅刹女の秋葉太夫でもある、義理を欠いた事はしやせん」
「ならどうする?」
「あげるよ、どうせもう必要ないしねえ」
いやにさばさばとした調子で告げる顔をまじまじと見つめる信之助とその視線を真っ向から受け止めて艶然と微笑み返す秋葉太夫。
それでもこの割符を求めたからには何か望みがあるのではないのかと聞いてくる信之助に対して微笑を崩さないままに
「わっちの目的はのうなったからな、無用の長物になっただけさね」
ほんの短い間二人の間で視線が交錯する、それはともすれば視線での戦いであったかも知れぬ、先に眼を逸らしたのは信之助であった、満足に動かぬ身体を折って頭を下げる。
「謹んで頂戴いたす」
「あいよ」
その後十日ほどを経て信之助と秋葉太夫の二人の傷が完治に近い状態にまで戻った所で秋葉太夫と梢は桜花楼に戻るために、信之助は旅を続ける為に宿を発つこととあいなった。
「信さん、近くまで来たら店に寄っとくれ歓迎するよ」
「止めておく、俺の懐では酒の一合で吹っ飛びそうだ」
「おやまあ、けち臭いことをお言いでないよ」
「そうですよ、男振りが下がります」
互いに軽口を叩くとそのまま背中合わせに歩き出す、双方ともに振り返ることは無い、縁があればまた会える、無ければそれまでという事だ。
洋々と歩を進める三人の胸中に去来するものは各々違うだろう、秋葉太夫と大きな喪失感と共に何か憑き物が落ちたような感覚を、梢もまた悲しみと共に自分の目指すべき漠然とした何かを、そして信之助はこの先にあるはずの過酷な闘いに思いを馳せていた。
朧丸 対 秋葉太夫 松平信之助
勝者 立川流扇闘術 秋葉太夫
秋葉太夫 対 松平信之助
不戦勝 天真神刀流 松平信之助




