第二幕 第四闘
「そこへ直れぇ!」
町の飯屋で一人もそもそとメザシを食んでいた若い男の耳に行き成り怒声が飛び込んできた。
何事かと飯屋の戸口まで出て顔を覗かせると、道の真ん中で男が二人刀を抜いており、白髪混じりの頭に村の庄屋のような格好をした四十を過ぎたと見える男と睨みあっている。
尤も睨まれているその男は決して庄屋などでは無かろう、なぜなら背に槍を背負っておりその眼光は見るものを射竦めるほどの強い光を放っている。
刀を抜いた男二人もその迫力に及び腰になっているようで仕掛ける様子は見受けられない。
何故こんな状況になっているのかと首を傾げて周りに居る野次馬から途切れ途切れに聞こえてくる会話に耳をすませば、どうやら男二人がなんらかの口論になり双方共に引けなくなった所で槍を背負った男が仲裁に入ったのだが、頭に血が上った男二人が邪魔立てするなと仲裁に男に向かって刀を抜いたと言う事らしい。
その話の通りに年配の男が若い二人に向かって声を掛けた。
「まあ待て、話は聞かせてもらったがそんなくだらん事で腰の物を抜くなど家名の恥になるぞ、此処は双方一旦引いてだな」
「五月蝿い! 邪魔だてするなら貴様から成敗してやろうか糞爺」
「そうだ、これは我等二人の面子の問題だ、関係無い爺が口を挟むな!」
折角仲裁に入ったというのに双方から爺呼ばわりされて渋い顔になった男が尚も諌めようとして口を開きかけたが、その泰然自若とした態度がよほど癇に障ったのだろう揉めていた男の一人が刀を振り上げて斬りかかる。
斬りかかられた男はその一撃を軽く避けると擦れ違いざまに背負った槍を素早く動かすとその柄尻を相手の足に掻けて転ばせる。
槍を背中からおろしもしないで見事に掛かっていった男を転ばせた技量に周囲から歓声が上がるが、それを見たもう一人の若侍は馬鹿にされたと先の転ばされた男よりも更に激昂して槍を背負った初老の男の後ろから斬りかかろうと刀を振り上げる。
その光景を飯屋の入り口からのほほんと見ていた男であったが流石に往来での刃傷沙汰など御免こうむりたい所だ、もっとも今のやり取りを見たところでは年配の男と二人の若侍の間には月と鼈ほどの実力の違いはあるだろう。
そうとはいうものの流石にこれは見て見ぬ振りも出来まいと考えた若い男は、刀を振り上げた若侍の後ろに音も無く忍び寄り自分の腰の刀の柄を背中に当てて語りかけた。
「お前らじゃ相手にならんぞ、悪い事は言わんから此処は大人しく引いておけ。 恥の上塗りはしたくなかろう?」
若い男はそう告げるとそのまま相手の背中を軽く小突いて、先に倒れていた若侍の上に転ばせた。
折り重なって倒れた男達はいがみ合っていたのも忘れて、共に闖入者である初老と若い男の二人を振り返って睨みつける。
「くそっ!」
「貴様ら!」
地面に座る自分達を睥睨するかのように両脇に立つ年配の男と自分達と変わらぬ歳の男を見て矜持が傷つけられたのか悪態を吐きながら起き上がろうとした、しかし肩膝着いた所に若い男が腰から抜いた刀を突きつけてられてその動きがぴたりと止まる。
「往来での刃傷沙汰は迷惑だ、やるなら何処か別の場所でやれ、それなら誰も文句は言わん」
咽元に刀を突きつけられた若侍二人が冷や汗を流しながらコクコクと頷くのを見ると刀を鞘に収めてさっさと行けと顎で指し示すと周りで見ていた野次馬からやんやと喝采が上った、流石に若侍二人も居た堪れなくなったようで捨て台詞も残さずに脱兎の如く走り去って行く。
走り去る男達をやれやれといった風情で見送ってから刀を納めた男に、此方も槍を背負い直した年配の男から声が掛けられた。
「お見事! 若いのにたいした腕だ」
「いえ、余計なお世話を致しました」
「そんな事は無い、それに先程の堂々たる態度、拙者感服つかまつった、名乗りが遅れて申し訳ない某の名は加納清十郎と申す」
「いや此方こそ目上の方に先に名乗らせた不調法をご容赦願いたい、拙者松平信之助と申します」
強者は引き合うのか加納清十郎と松平信之助はこうして互いに割符を持つ身と知らずに出会うことになった。
飯屋に戻ろうとした信之助の後をついて清十郎も店に入る、助勢の礼と一献差し出す清十郎に何もしていないのに興じる訳にはいかないと固辞するが、それなら目上の者の施しを受けられないのかと言い返す。
そうした遣り取りを経た上で共に酒を酌み交わす事となって、基本的に善人の部類に入る二人は夕闇が迫る頃にはすっかり意気投合していた。
「そうですか、主家復興の為に旅をなされておいでとは清十郎殿こそ忠義の鏡でござる」
「なんの信之助こそ友の仇討ちとは、この義無き世になんと立派な志よ」
酒のつまみにと各々が旅の理由を語りそれに其々が感嘆している。親子ほども歳の離れた二人だが互いが互いを認め合っていた。
夜も更けた頃になって看板となった飯屋を追い出された二人は、今夜の宿を決めようと街路を連れ立って歩いていた。
「おい、居たぞ!」
そこへ大声が上がると二人の周囲を囲むように現れた一団があった、その集団の中から出てきたのは昼間に二人が追い立てた二人であった。
「昼はよくも恥を掻かせてくれたな、お礼参りに来てやったぞ」
情けない事を言い切った男たちは一斉に獲物を抜くと二人に向かって襲い掛かる、それを見ていた二人は申し合わせた訳でもないのに同時に前後に動いていた。
清十郎の槍が翻り石突が男達を次々と打擲して行く、信之助は相手の刀を一本奪い取ると刃を返して峰打ちで倒してゆく、多少の酒が入った所で二人にとって徒党を組まねば自分達に掛かって来られない様な輩は敵にも値しない。
僅かな時間で昼間の二人以外の人間を打ち倒すと、其々面と向かって掛かって来いと挑発する。
その挑発に乗った二人が掛かってくるのを他の連中を倒したのと同様に一蹴する清十郎と信之助だが、その際信之助の懐から転げ出た物があった。
「信之助、何か落としたぞ」
信之助の懐から落ちた物を拾い上げて渡そうとした清十郎の動きがピタリと止まる、それを訝しげに見た信之助に清十郎から途轍もない剣気が叩きつけられた。
その剣気に反応し手にしていた刀の刃を返して正眼に構える信之助とその信之助を見ながら手に持った割符を握り締める清十郎。
「信之助、御主どうしてこの割符を持っておる?」
「清十郎殿? 何を……」
「答えよ、何故この割符を持っておる!」
「その割符こそ我が友の仇に通じる唯一の手掛かりですゆえ、彼方こそ何故その割符を気にするのです?」
「そうか、ならばこの割符の意味も知っておるな?」
此処まで聞いて信之助は清十郎が言おうとしている事に気が付いた、割符を受け取った際に聞いた、九枚全ての割符を集めればどんな願いも叶えようという使者の言葉を思い出す。
「清十郎殿もその割符を持っているという事ですか」
逆に問われた清十郎も己の懐に手を入れて同じ割符を取り出すと並べてみせた、それは確かに一枚の意匠を九つに割った割符の一枚であった。
清十郎は悲願である主家の再興をこの割符に託し、信之助は友の仇に繋がる手掛かりとしてこの割符を欲していた。
互いに譲れぬ思いの元この修羅の道に足を踏み入れた以上は己の意思を貫き通さねばならない。
その意思が二人の間に無言の静寂を生み出した、二人の間にある空気が凍るような静けさの中でその後ろからそっと迫る影があった。
今しがた叩きのめされた男二人が睨みあいを始めた清十郎と信之助を討とうと襲い掛かったのである。
「死ねえ!」
異口同音に叫ぶ二人の男であったが次の瞬間一人は心臓を一突きにされ、いま一人は腹から上下に両断された。
それをやってのけた二人の視線は死んだ人間に向けられる事は無く互いの一挙一動に油断無く注がれており、相対した二人の体から何か得体の知れ無い圧力が周囲に放射されていた。
僅かな刻が流れて清十郎の体から剣気が抜ける、ほうと息を吐くと信之助が持っていた方の割符を投げ返して静かに口を開く、その口から漏れた声音は冬の雪原を渡る風のように鋭く冷たいものであった。
「明日の夕刻、河原の刑場で待つ」
「どうあっても引けませんか?」
「引けん! お主が引かぬならばこれより先は問答無用、儂が生き残るかお主が生き残るかの勝負と心得よ!」
「承知申した、某にも引けぬ理由がある以上はこれも天命と存ずる」
互いに引けぬ武士の意地と願いがあるのなら、そしてその願いの前に立てるが唯一人ならば武人として雌雄を決する以外に道は無い、その覚悟を決めた上は何を置いても全力を持って勝利する気概をもって相対するのみ、死合を申し合わせて歩み去る二人の背中が遠ざかり闇へと消える。
そして目の前であっさりと人が死ぬ光景を見た上に二人から発せられる殺気に金縛りになっていた他の男達は、二人の姿が消えると同時に悲鳴を上げながらほうほうの体で逃げ出した。
後に残ったのは月光に照らされた二つの骸と濃厚な血の臭い、そして硬質に冷えた空気だけであった。
あくる日の夕刻、町の側を流れる河原に据えられた刑場に二つの影があった、片や鎧兜に身を固め手には朱塗りの豪槍を握り締めた加納清十郎。
今一方は普段どおりの着流しに今回ばかりは伽半を履いて腰に大小の愛刀を挿した松平信之助。
二人は刑場に設えられていた獄門台に自分の持っていた割符を乗せると五間の間をとって対峙した。
清十郎は朱槍を中段左半身前構えにとり、信之助は右手に太刀、左手に小太刀を抜いて両手を自然に下げた両下段構えに構える。
「大膳流槍術、加納清十郎、参る!」
「天真神刀流、松平信之助、望むところ!」
相手に敬意を払っても遠慮は無用、互いを対等の敵と認め合った上で己の勝利に邁進すると心を定めて立ち会うのみ。
名乗り上げた瞬間先に動いたのは清十郎であった、声を上げると同時に一足を踏み出し家伝の朱槍を突き出す、風を捲いて襲い来る槍の穂先は狙い違わず信之助の心臓を刺し貫くべく一直線に刺し出された。
その穂先が体に吸い込まれようとした直前、信之助の左手に握られた小太刀が翻り軌道を逸らされる、狙いを逸れた槍は信之助の左肩の着物を僅かに裂くに留まった、清十郎の一撃を迎え撃った信之助は此方の番とばかりに右の太刀を逆袈裟の軌道で槍を持つ腕を狙って斬り上げる。
小指の一本、腱の一筋も断ち切れれば如何に得意の武器とてその扱いは途端に難しくなるだろう、互いの腕前が拮抗しているなら優位を築くには有効な一手だろう。
空気を断ち切りながら繰り出されたその一刀は、しかして篭手の表面を浅く傷つけるに留まった、瞬時に狙いを看破した清十郎が腕を捻って切っ先を篭手で受け流したのである。
双方共に地を蹴って再び間合いを取って睨みあう、清十郎の構えは変わらずだが新之助は左半身になり左正眼、右脇構えに構えをとった。
信之助のこの構えは踏み込みに併せて左の小太刀で清十郎の槍を裁き右の太刀で斬り込む事を目的とした自ら攻め込む為の構えである、正しこれでも間合いの違いから先に攻撃を仕掛けられるのは清十郎である事は疑いない、いわば相手に攻撃を仕掛けさせる為の構えといえよう。
清十郎は背中に冷や汗を掻いていた、二刀流事態が珍しい事もあるが本来刀は二腕一刀をもって振るうものである、それを一腕一刀で自在に操るには常人に倍する腕力とそれ以上の技量を持っていなくてはならない。
そして目の前の敵は双方を間違い無く備えている兵である、その驚嘆すべき剣技の一旦は今一瞬の攻防において身を持って知った、己の全力を以ってなお勝利を危ぶむのは実に久方振りの感覚であった。
一方の信之助もまた驚愕に心を震わせていた、対峙した時より否昨日の遣り取りから清十郎の技量を推し量ってはいたものの実際に打ち合ってみた実力は己の推測を遙に凌駕する、清十郎が必殺の攻手を繰り出した瞬間の僅かな隙を狙って後の先を取ったはずの一撃が、無論のこと初手で決着が付くなど考えても居なかったが、それでも手傷の一つは負わせられると踏んでいた一撃が僅かに篭手を傷つけただけで易々とかわされたのはつまりそういう事だ。
こうして再び対峙すれば相手の姿が一回り大きくなったように感じる、双方共に同じ感覚を持ち同様に額から一筋の汗を零した。
二人共に対峙した状態からすり足で僅かに間合いを詰める、当然槍と刀では槍のほうが間合いは広い、武術とは突き詰めればこの間合いの取り合いといっても過言ではないだろう、如何に自分の得意な間合いで有利に立ち会うかを競うといっても良い。
そして二人の眼には互いの間合いがまるで球体のように見えていた、その端と端がほんの僅かに重なった瞬間まるで弾かれた様に双方共に地を蹴った。
「いえええいっ!」
清十郎の攻撃は刹那の間に眉間、咽、鳩尾、両肩を狙った五連突き、突いて引く動作を繰り返しながらその穂先はほぼ同時に突き込まれたと見える速さとその一撃一撃に十二分な威力が乗っている。
初手の眉間突きは首を振ってかわし、次手の咽突きを体ごと捻ってかわす、三手の鳩尾突きに左の小太刀を合わせて軌道を逸らし、四手の左肩は更に一歩を踏み込むことで狙いを外し、五手の右肩は右の太刀を持って受ける。
五連突きを受けきった信之助は左の小太刀を閃かせて清十郎の鎧の隙間を狙って突きを繰り出した。
必殺の意志を込めて放った五連突きを受けきられた清十郎ではあったが既に驚愕は無い、なぜなら先程の攻防から信之助の技量を推し量ったならば、五手全てをかわしきるのも驚くに値せず、こうして反撃の一手を放ってくるのも寧ろ当然と考えていた。
故に自分もこの反撃の一手は見切っている、槍を突いた姿勢から手首を返してその手を中心に槍の軌道が円を描くように操り、自分に迫る小太刀を半回転させた槍の柄で打ち払うとそのまま石突を下方に突きいれる。
槍といえば穂先に注意が行きがちだが実体は棍と同じ長柄武器だ、両端を含めた全体が一つの槍という武器なのだ。
突き込んだ小太刀が払われた瞬間に信之助の背中に怖気が走った、目の前の槍は自分の小太刀を払ったお蔭で立てられている。次の一手は振り下ろしか横薙ぎと見ていたが石突を足の甲へと突き下ろしてきた。
踏み込んだばかりの足は到底その一撃をかわせない、そして石突とはいえど足の甲を突き破り骨を砕く威力がある。
そうなれば新之助の敗北は確定である、動けぬとは云わないが動きに支障が出るのは間違いない。
互いに互角と思えばこそ相手に対して少しでも有利になるようにと信之助が清十郎の指を狙ったように、清十郎は信之助の足を狙ったのだ。
「ちいっ!」
清十郎が足を狙うなら信之助は腕だ。
これはかわせぬと悟った信之助は足を持っていかれる代わりとばかりに、小太刀が弾かれた勢いを利用して右手に持っていた太刀を強引に清十郎の左腕を切り落とそうと叩きつける。
この反撃は二刀使いだからこそ出来た攻め手であろう、一刀を弾かれたならばその弾かれた一刀を持って次の攻め手にしなければならないが二刀流ならば弾かれた隙を反対の一刀で補える。
足の甲と腕一本では釣り合わぬと見て取った清十郎は突き入れる速度は変わらず、それでいて自分の左側から迫る太刀を受ける為に突き下ろす槍の軌道を僅かに逸らせた、刀の鍔元を抑えて攻撃を封じながらも突き込んできた石突が信之助の足に捲いた伽半を千切り脛の皮を抉り取って血を噴出させる。
信之助の一撃は清十郎の左腕を斬ることは敵わずに槍に受け止められた、それでも確かに届いた刃は着こんでいた鎧の袖を断ち割り腕に浅い傷を負わすことには成功する。
じわりと滲み出る血が着物を濡らすがこの程度の痛みなど何の支障も無いとばかりに槍を回転させて信之助の足元を掬う、流石にこれをかわす事は出来ずに足を掬われて回転する信之助、そのまま地面に落下した身体に槍の穂先を突き立てようとするが信之助はそのままごろごろと地面を転がりその一刺しから辛うじて逃げ延びる。
すぐさま追撃を繰り出すがこれもギリギリで当たらず身体を掠めたに過ぎない、回転の勢いを利用して立ち上がった信之助ではあったが全身は土で汚れ、致命傷になるような傷ではないが流石にあの態勢で攻撃をかわしきるのは不可能で脇腹や胸の脇あたりの着物が裂けて血が流れている。
間合いを取り直して再び対峙する二人であったがそれも一瞬のこと、全身を撓ませた清十郎が一足飛びで突き込んできた。
身体そのものを一本の矢とかしたが如き鋭い突きであったが、この突きは易々と見切られてかわされた、しかし突きの態勢から槍が弧を描き石突が横薙ぎに信之助を襲う。
この薙ぎを受けた信之助が反撃に移ろうとするが、そこに頭上から穂先が斬り下ろされる。
咄嗟に刀を交差して切り下ろしを受けることに成功するが、次の瞬間には石突が足元から振り上げられて股間を狙っていた、それも交差したままの両刀を持って受け止める。
そして受け止めた槍を払おうとするが、その瞬間には穂先が横から迫っていた。
清十郎は自分の身体の中心に支点をおいて槍の両端を自在に変化させての左右からの薙ぎ、上からの斬り下ろしと下からの斬り上げ、これに斜めの動きも加わえた八方からの乱撃を繰り出した、しかも一撃一撃が必殺の威力を持った攻撃が次々に信之助を襲う。
「くっ!」
息も吐かせぬ連続攻撃を両腕に構えた二刀を持ってして尽く捌くが防御するだけで手一杯になってしまい反撃に繋げる事が出来ない、手数ならば二腕を以って振るう信之助の方が優位のはずがそれを覆すだけの鋭さと速さ、それに伴う弧円を描く槍捌きの凄まじさよ。
「かああっつ!」
共に気合の声を上げながら打ち込む清十郎と受ける信之助。
一方的に攻め続けていると見える清十郎であったが驚嘆の念を禁じえない、この技は戦場を行く清十郎が多対一を覆す為に編み出した奥の手といってよい技であった、その技を相手に既に数十合を斬り結び乱撃を凌ぐ信之助の技量もまた尋常ではない。
互いに譲らぬ攻防を続ける二人だが、千日手となるかも知れぬと仕切り直しを頭の片隅に思い浮かべた清十郎が微かな違和感を覚えた。
先程まで清十郎の攻撃は二刀を持って受け、捌いていた信之助が何時の間に一刀で捌き始めていたのだ。
まだまだ攻勢に出られる程の余裕は無いが、それでもこの短時間で順応し対処し始めている、つまりこの戦いの最中に措いて力を増しているという事だ。
このことが清十郎の焦りを生んだ、時が過ぎればすでに老境に差しかかった自分よりも二十は若い信之助の方が体力的には優位、更に此処に来て此方の攻撃に対応を始めている以上はこのまま打ち合えば何れ自分を凌駕するのは間違い無い、ならば今此処でこのまま決着を付けねばならぬと最後の技を繰り出した。
「いぇ鋭っ!!」
最後の技は突きである、今迄の乱撃は須らく周囲から襲い掛かる円弧を描く線の攻撃である、これに慣らせておいて点の攻撃である突きを繰り出す。
無論、突きの構えなど取らずに横薙ぎを払われたその軌道を利用して腰の後ろで水平に持ち替えた槍を身体を捻ると同時に背中越し突き出す、正に乱撃の線の中での一点である隠し技のこの突きに対応出来る人間は居ない、突き出された槍は狙い違わず信之助の腹に突き刺さった。
「がああっ!」
否突き刺さるはずだった、腹に深々と突き刺さるはずの穂先は三分を突き込んだ所で斬り飛ばされたのだ。
それは正に一瞬の閃きであった、清十郎が最後の一撃である突きを見舞おうとした考えた時に放たれた横薙ぎを受けた瞬間に信之助の中に微かな違和感が走った、それはその一撃が今迄の攻撃よりも僅かに、そうほんの僅かに軽かった事だった。
この乱撃の中一撃の威力は増しこそすれども弱まる事は無かったのがこの一撃だけが違う、ならば次に来るのは今までに無い一撃と本能が告げた、それに従って無意識のうちに身体が反応する、八方から迫る攻撃以外の攻撃それ即ち中心を貫く一点の突きと山を張りその軌道に小太刀を振り下ろした、これは正しく己の感を信じた一か八かの賭けであった。
迅雷の如く突き込まれた槍の穂先はその速さゆえに信之助の腹に傷を刻んだ、しかしその切先が腸に到達する寸前で振るわれた小太刀に柄の部分を切り落とされて威力を減じてしまう。
信之助は賭けに勝ったことを知る、これをまともに受ければ腹を貫かれて終わっていたはずが僅かな傷で済んだ上に反撃の好機を齎せてくれた。
当然その好機を逃すわけにはいかない、槍の柄を切り飛ばすと同時に横に振るわれた太刀が清十郎の胴鎧を斬り裂き胸部に一文字の傷を刻んだ、そして穂先を失った槍はそのまま突き出されて信之助の胸を打って弾き飛ばした。
再び両者の間合いが広がる、信之助の腹に刺さった穂先は飛ばされた時の衝撃で抜け落ち赤い血が流れ出しており、打ち付けられた胸はズキズキと痛む、恐らくは肋骨に皹が入ったのだろうが動く事には支障無い。
片や清十郎は断ち切られた胴鎧は最早無用の長物として脱ぎ捨てると穂先を失った槍を構えた。
「まさか勝負あったなどとは言うまい?」
「無論」
双方共に戦える以上武器や鎧の有無などなんの意味も無い、しかし次の攻防が最後になるであろう事も二人は悟っていた。
清十郎は上段に、信之助は両手を前にした両正眼に構えた、双方共に攻める為の構えである。
力を込めて信之助が地を蹴って迫る、迫る勢いに合わせて清十郎の槍が上段から突き出されたのを右の太刀で叩き落し更に一歩を踏み込み左の小太刀を振るう。
清十郎は叩かれた槍を回して小太刀を防ぐと、再び弧円の陣を繰り出したが今度は初めから一撃を一刀で凌がれる、これを見た清十郎は信之助が確かに腕を上げているとの考えを強めた。
だが腕を上げたというのは正確ではない、正しくは対応が可能になったという事でこれは信之助の基本戦闘が二刀流であることが理由に挙げられる、二刀流は両腕に持った二刀をそれぞれ攻防において縦横に使いこなす柔軟な姿勢と思考が必要である、故に信之助の即応能力は並の強者と比べても高かったのだ。
つまり清十郎の動きに慣れてきたといっていい、これに加えてもう一つの理由として此処に来て年齢による体力の差が現れた、傷を負っているのは信之助だが年齢による衰えからくるものは誤魔化せない。
並の相手ならばそのような衰えを感じる間も無く叩き伏せる事が出来る、しかし自分と互角に戦える人間を相手にした時の身体と心の疲れは凄まじいものがある。
無論信之助も同様に己をすり減らしてはいる、しかしさっきの攻防で勝負を決める積もりだった清十郎は一気に気を吐いた事で自分でも気付かぬうちに己の身を削っていたのだ、それ故に僅かではあるが槍を振るうその腕から鋭さと覇気が減少していた。
この二つの要因が重なったことで出来た微かな勝機を信之助は見逃さなかった、数合を切り結んだ所で振るわれた槍の一撃を信之介は更に一歩を踏み出して間合いを潰すことで力の乗る先端ではなく根元近くを態と受け止めることで威力を殺すと共に反撃に出た、槍の動きが一瞬止まった、その瞬間に信之助は清十郎の咽と腹を狙って双突きを見舞う。
これを見て取った清十郎は飛び退こうとするが、槍を持ったままではその槍が退く動きの邪魔になり刃から逃れられぬと判断して咄嗟に槍を捨てて飛び退く、それと同時に追撃を警戒して腰の脇差を抜いて構えた。
この瞬間に勝敗が決した。
勿論、清十郎とて脇差の扱いは心得ている、雑兵の十人や二十人なら脇差一本あれば問題無く倒せる技量はあるだろう。
しかし目の前に立つのは当代一流の二刀使いである、好機を逃すまいと風を捲いて迫った信之助の小太刀が清十郎の右肩を貫き血飛沫が舞い散らせる。
腕の一本は安いものとばかりに同時に清十郎が振るった脇差であったが、その攻撃が信之助の身体に到達すると見えた寸前に翻った太刀が左肩を切り裂いて付け根から腕を落とす。
切り落とされた腕に握られた脇差は信之助の脇腹を抉ったが、それは致命の一撃とはならなかった。
信之助は返す刀で清十郎の腹を十字に斬り分けて二刀を腰の鞘に収める。
キンという鍔鳴りの音が響くと同時に清十郎はそのまま両足を折った。
己の腹から流れる血と臓物をその目にしながらも清十郎は毅然とした声を上げて信之助に告げる。
「見事、この身は既に鬼籍に逝くのみだが介錯を願いたい」
「承知、何かありますか」」
小太刀を収め清十郎の後ろに立った信之助は太刀を上段に構えると末期の言葉を問いかける、それに対する返答は何とも潔いものであった。
「無い、敗者は全てを失うは世の理よ」
「然らば……御免!」
言葉と共に振り下ろされた刃が首に刃を立てた瞬間、清十郎の脳裏に焼け落ちる城を落ち延びた日から今日までの記憶がまざまざと蘇った。
幼い若君を守り育てそして御家再興を夢見てこの戦いに参加した、しかしそれは実の所滅びた主家の為などではない、ただ愛しい我が子の為に命を賭けただけの行いではないか、己の命が終わる刻に漸くその事に気がついた清十郎は最後にポツリと呟いた。
「若、爺はこれまでですがどうぞお幸せに……」
落とされた首は最後に何かを呟いたようだが、その声は茜色の空へと吸い込まれて誰の耳にも届くことはなかった。
武士の子弟が十五の歳を数えることにより元服して一人前の成人として扱われる、今日のこの日に一人の男子が元服式を執り行った。
尤も元服式は言うものの武士でありながら烏帽子親も居らぬ寂しい式ではあった、しかしその若者は気にも留めない。
自分が生涯の目標とするのは自分を此処まで育ててくれた養い親と義姉である、故に己の為に精一杯に用意してくれた式に不満など有ろう筈が無い。
ならばこそ自分が名乗る名には実の親と養父の名から一文字を貰って自ら決めた。
「義母上、義姉上、私は今日より名を加納清愁と改めまする」
旅に出た養父に成り代わり加納の家紋と家族を守るのが己の務めと定め、その姓を継ぐ事を決めた男の新たな門出であった。
加納清十郎 対 松平信之助
勝者 天真神刀流 松平信之助