表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

Long Time No See

部屋は青い。重なりあう家々の上で無関心な月が見つめている。だからつい見てしまう。彼女はふとんから浅黒い背中を出して丸くなっている。背骨が三つ浮き出ている。茶色と黒の混ざる乱れた髪の下で、彼女の身体はゆっくりと波打っている。


きのうの夜、セックスの後、彼女は僕をからかった。


考えすぎなのよ、いつもいつも考えすぎなのよ。そう言っている今も考え事をしているんでしょ。


呆れながら笑ってそう言った。


彼女が僕の下で喘いでいた時、窓から外を見て、急にこれまで読んだ本のリストが頭に浮かんだ。誰だったかが書いた小説のあらすじが浮かんで憂鬱になった。


思索に夢中になるあまり、いつしか現実と妄想の境目がつかなくなり、気がつくと精神病院のベッドに運ばれていたという男の話だ。確かボルヘスだったと思う。


冷気が窓から煙っている。


もう少しで夜が明ける。窓から見える外の景色は濃い青に浸っている。部屋のドアがわずかに開いているのに気づいた。外の風でいつの間にか開いてしまったのだろう。数冊の本が床に落ちている。ホメロスとニーチェとtropic of cancerと老子とノート。汚い字で書かれたメモが数枚。きっと誰にも読めないだろう、僕にさえ。


ここから見えるわずかに開いたドアの隙間に、空のペットボトルが並んでいる。小さな水滴がつき、底に生命の跡のような黒い汁が残っている。


耳を澄ませるとごうごうと聞こえる。風だか何かだかがドアの向こうを通りすぎていく。薄暗い背景の中を陽炎のような影が通るような気がした。


両手で作った溝に頭を乗せて、彼女は深く眠っている。小さな寝息を立てながら骨ばった肩を上下させている。枕元に置いた彼女のコンタクトレンズが乾いてしぼんでいる。


彼女の匂いがする。シャンプーの人工的な匂いと、彼女の家の古びた匂いと、それから女が持つ性的な体臭。


階段をこっそりと上がる音が聞こえる。慎重に足を乗せる抑えられた床の軋む音が聞こえる。


彼女は大きく息を吸うとため息をついた。後ろから覆いかぶさるように密着するととても熱い。彼女はますます熱を帯びながら小さく丸まっていく。


何かがドアの隙間からこちらを覗いている。暗闇という点描の中で、形を帯びては消える不思議な姿だった。一瞬一瞬に違う何かへと揺らめいて見えた。


それがなにであるかが思い出せない。わかるのは、僕がそれを待っていたということだ。なのにそれを拒まなくてはならないのだという想いが浮かんだ。麻薬中毒者の麻薬に対する想いに似ている。


風があるらしい。外で風が鳴る音に、壁に掛けたラグが揺れる。ほつれた先端をひらひらと二度はためかせた。ドアがもう少し開く。


立っているこの姿はなんだろう。思い出せない。単なる点描の集合に過ぎないのかも知れない。葉々の重なりに人の顔を見出すのと同じかも知れない。しかしそうではないと僕は感じている。


カーテンを開けたままの窓ガラスの向こうで、強い風が吹いている。訴えかけるような哀れな音が窓ガラスの隙間で鳴っている。外の壁に絡みついた蔦が揺れるたびに、ガラスに姿を見せる。昼間には艷めいて見えた葉々が薄黒く沈んで見える。その奥に暗闇が広がっている。なだらかな小さな草原に暗闇が溜まり、家々の影がそれを取り囲んでいる。遠くに見える一本の木のすぐ背後に、古い木造の家が一軒見えた。段々状の明るい雲が遠くまで続いている。動きは速い。例えば――と僕は思う。例えば、結局あらゆるこの世のものごとがある程度の決められた法則によって動くなら、月の光りを求めて競いあっているように見える雲々も、飛んで行きそうな蔦も、次第に小さくなりつつある熱を帯びた彼女も、青い月も、ドアの隙間のそれも、それから僕も、結局同じじゃないだろうか。陽だまりに猫が寄り集まり、砂糖に蟻が群がり、月の周りを雲が過ぎ、女は熱を帯びて眠り、点描が集まり何かに見せ、世界が進行する。


ドアの隙間に集まった点描を僕は次第に思い出しつつある。多分これから長く付き合っていくことになるだろうということも。快楽と死と絶望が同じだと知っている彼が耳元で誘うのだ。自殺の欲望と知的好奇心と性的な欲望を一つに溶け混ぜては地面にとろ流す。僕は哀れに地面を這いずるだろう。その哀れさの中にさえ快楽を見出すということを知っているからだ。こうして世界が進行する。


熱を帯びた彼女はこめかみを汗で湿らせている。柔らかな吸いつきの良い背中も汗で濡れている。彼女はまるで熱に向かっていくかのようだ。熱の中心へと、小さくなりながら丸まっていく。


ドアはすっかり開き、点描はすっかり形を帯びている。


小さくなり続けた彼女は、布団から消えて、今はいない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ