心
この世に生を受けて早三十年。一度も誰かを好きだと思ったことがない。誰とも付き合ったことがないし、結婚したいと思ったことも、子供が欲しいと思ったこともない。ただの一度も。
珍しく雨が降っている。二月の冷たい雨の音を聞きながら、薄暗い部屋でパソコンのキーボードを打つ。二階の窓から見える湿地では、ヨシやガマの穂、オノエヤナギの枝などが雨に打たれて微かに揺れ、遠くの山には霧がかかっている。
暖かい烏龍茶を淹れながら、この家に来てもうすぐニ年になるのかと考えた。同棲中のNは、まだ布団の中で眠っている。時計に目をやると、まだ七時前だった。
Nとは幼なじみだった。最初に想いを告げられたのは高校生の頃だっただろうか。拙い言葉を何とか紡いでお断りしたが、別に嫌いというわけではなかったので、友人としての付き合いは続いた。残酷なようにも思えたが、どうしても恋愛的な「好き」という感情を抱けなかった。「Nだから」というわけではなく、誰に対してもそうだったのだ。Nは顔色一つ変えず、ただ「わかった」とだけ言った。
それから時は流れ、私とNは地元の田舎町を出て別々の大学へ行き、時々東京の街中で落ち合っては何をするわけでもなく散歩をしたり、繁盛していない店をわざわざ見つけて飲みに行ったりした。その間にもう一度さらりと想いを告げられたが、その時も断ってしまった。「そういう意味」で人を好きになれないのに、頷いてしまうわけにもいかなかったからだ。Nは私のおかしな言い訳に静かに耳を傾け、「そうなんだ」とだけ言って、それ以上詮索しなかった。
しかしさすがに二度もフッておいてその後も何事もなかったかのように関係を続けるわけにもいかず、ここで一度縁が切れた。
大学を卒業し、私はそのまま東京に残って小さな出版社で働いたが、Nは地元に戻って配達の仕事に就いた。代り映えのない退屈な日々が数年間続いた。誰もいない部屋で起きて、電車に乗って会社に行き、特別仲良くもない人たちと一緒に働いて、時には「不愛想」だの「そっけない」だの陰口を言われ、また電車に乗って誰もいない部屋に帰る。箱から箱への移動をしているだけのように思えた。
異性から好意を抱かれることもあったが、やっぱり「そういう意味での好き」を抱けず、どうしたってフッてしまう。だから余計に周囲からの心象は悪くなる。
大学時代の友人たちは次々に結婚して子供ができ、疎遠になっていった。すると、自分は何かおかしいのではないか。駄目なのではないかという考えを無視できなくなってきた。こんな歳になって尚、誰一人愛することができないのはどうしてなのか。心に問題があるのではないか。子供じみた大人なのではないか。
そんな時、ふとNのことが脳裏に過って、無性に謝りたくなるのだが、それが何に対しての謝罪であるのかはよくわからなかった。
東京での生活にも疲れてきて、地元の風景を何度も夢に見た。小川のせせらぎや雨に濡れた木々の匂いまで忠実に再現されるほどだった。
――帰りたい。
そうはっきりと思った翌日には退職の旨を上司に話していた。それから実家へ帰り、フリーライターとして働く傍ら、小説を執筆するようになった。Nと再会したのはそんな暮らしを始めてすぐのことだった。死ぬほど懐かしくて、なんだか安心したのを覚えている。Nは相変わらずどっしりと落ち着いていて、何も変わっていないのだなと思った。ある一点をのぞいて……
Nは左足を悪くしていた。配達の仕事中にバスに衝突され、足に大怪我を負ったのだった。バスの運転手は運転中に意識を失ったらしく、そのまま亡くなった。三年前のことだった。
自分の知らないところでそんなことが起きていたことに衝撃を受けたが、本人は「べつに歩けなくなったわけじゃないし」とどこか飄々としていた。そしてその衝撃に追い打ちをかけるように、Nは私にまだあの時の気持ちは変わらないのかと尋ねた。よく言えば一途で、悪く言えば執着の強い人間なのだが、とにかく落ち着き張っていて、さらりと自分の想いを口にするので不思議と不快感は抱かなかった。
私は長いこと考え込んでしまった。Nは急かすわけでも無言の圧をかけるわけでもなく、ただ静かに返事を待っていた。
私が出した答えは、恋愛感情はないがNと付き合ってみるというものだった。私のような空っぽな人間にこんなにもしつこく熱心になれる人はそうそういない。それにもう三十歳だ。世間の目も気になっていた。
不純な動機でNとの同棲が始まった。Nは人気の少ない街外れの一軒家に一人で住んでいた。家の前は湿地になっていて、その向こうには田畑があり、そのまた向こうには山が見える。何故こんなところに……と思ったが、Nらしい選択のように思えた。家の中は古めかしいわりには綺麗に掃除されていて清潔感があり、パキラやガジュマル、サボテンやよくわからない多肉植物などの観葉植物がたくさん置かれていた。Nは車の運転と植物が好きだった。本当は車も数台欲しいのだそうだが、お金の関係でそれは叶わない。
私たちは趣味がそこまで合うわけでもなく、性格もそこまで似ていない。食べ物の好みにいたっては真逆だった。それでも共通点はいくつかあった。静かな環境を好むこと。陰口や噂話が大嫌いなこと。散歩が好きなこと。それらの共通点が私たちを繋ぎとめていた。
Nは、私が思っている以上に気を使ってくれているように思えた。私と常に一定の距離を取りながらも、愛情表現は欠かさず、許可もなくむやみに触れてくることもなかった。抱きしめられることはあってもそれ以上のことはない。
暫くはその優しさに甘えていた。何かと都合が良かったのだ。しかし次第に申し訳なくなってきた。そして私は本当にNのことを大事に思っているのかもわからなくなり、ひとり罪悪感を抱えていた。自分はNの貴重な人生を奪っているのではないか。私に心はあるのか。
長いこと考え事をしていたら、いつの間にか烏龍茶がぬるくなっていた。外の雨はいくらか小降りになり、さっきより空も明るい気がする。八時には止むという予報は当たりそうだなとぼんやり考えていると、Nが起きてきて私の仕事部屋に顔を出した。まだ少し寝ぼけているのか、目線がどこにも定まっていない。
「おはよう」
私が言うと、Nも「おはよう」と返す。そして少し考えるような顔をして「あとでちょっと、コンビニ行ってくる」と言った。
「そう」
「なんか、買ってくるものある?」
「特には」
「わかった」
Nは返事をすると1階の洗面所に消えた。私はいったいこの人の何なのか。この人にとって私は何なのか。そんな疑問がふと頭に浮かんだ。
数分後に雨は止み、Nは出かけて行った。ひとり残された私は再びパソコンに向き合い、小説の執筆に専念した。
集中して文章を書いていると、時間の流れを忘れてしまう。気が付くと、二時間が経過していた。
私は立ち上がって背筋を伸ばし、窓の外に目をやった。雲間から太陽が顔を出している。ベランダに洗濯物でも干すかと思い、一階に降りていく。Nの姿はない。もうとっくに帰ってきているものかと思っていた。こんな田舎だがコンビニは徒歩十五分程度のところにあり、いつもなら一時間もしないうちに帰ってくる。二階の寝室も見たがやはりNはいない。
まあ帰ってくるだろうとその時は思ったが、三時間が経過しても帰ってこない。いくら足の悪いNでも遅すぎる。スマホに電話をかけてみるが、呼び出し音が延々と鳴るだけだった。酷く嫌な予感がした。何かが起きている。
いてもたってもいられず、私は家を飛び出してコンビニまで向かった。走っているわけでもないのにやけに鼓動が早い。
コンビニにもNの姿はなかった。店員にNは来ていないか尋ねてみると、確かにNは来ていたようだった。
コンビニから出て、どうしたら良いかわからず近辺をうろうろしていると、道路のわきに人だかりを見つけた。近寄ってみると、そこには車のものと思われるガラスの破片が散らばっていて、よく見てみればアスファルトの上には赤い液体がこびりついていた。事故が起きたのだと一目でわかった。
「すみません。何があったかご存知でしょうか?」
私は一番近くにいた中年の女性に声をかけた。女性は眉間に精一杯の皺を寄せてこう答えた。
「道路を渡ってた人がね、車に撥ねられたのよ。さっき救急車で運ばれていった。でも駄目かもしれない。まだ若そうだったのに……」
私の頭の中で車に撥ねら人とNの姿がイコールになった。それはほとんど確信だった。足の悪いNは走るのが苦手だ。見たところ車はかなりのスピードで突っ込んだようだし、きっと避けることもできなかったのだ。
私は何も返事ができず、すぐに家に帰るべく駆け出した。慌てて出てきたためにスマホを家に置いてきていた。もしかしたら病院から電話が入っているかもしれない。そう思ったのだ。走っている間、何度もアスファルトの赤い血がフラッシュバックした。あんなに血が出ているなんて……
家のドアの鍵を開けようとするが、手が震えて鍵穴に刺さらない。まるで肝心なところでどんくさいパニック映画の主人公のようだった。おまけに視界まで滲んできて、ますます鍵が開けられない。
ひとりドアの前でガチャガチャやっていると、家の中から音がして、スッとドアが開いた。鍵はかかっていなかったのだ。いや、そんなことより――
当たり前のようにNが立っていた。少し驚いたような顔で、「どうした?」と尋ねられた時、私はどんな顔をしていたのだろうか。どうしたもこうしたもない。あんたのせいだ。――とは言えなかったが、私の心には怒りとも悲しみとも安堵とも言い難いごちゃ混ぜの感情が激しく渦巻いていた。今までに感じたことのない感情をどう嚙み砕いたらいいのかわからず、そのまま丸ごとNに叩きつけてしまった。自分でも何を言ったのかよくわからない。わかっているのは、これはすべて私ひとりの勘違いで片が付くことくらいだ。だが言葉の洪水は止まらず、自分でも驚いてしまった。
落ち着いてからNの話を聞いてみれば、スマホは寝室のベッドの上に置いて行ったらしく、コンビニまで行って帰ろうとしたところで近所のおしゃべりなご婦人方に捕まってしまったのだという。なかなか開放してもらえず、連絡手段もないので心配されると思いはしたが、まさかここまでとは思わなかったらしく、いつも落ち着いているNにしてはかなり動揺しているようだった。
私はかなり取り乱したのに、得体のしれない感情を剝き出しにしてしまったのに、Nは不思議と嬉しそうにしていた。どうしてそんな風に微笑むのか問おうとしたが、やめておいた。それはきっと私が自分で考えるべきことなのだろう。
開け放たれたドアから冬の日差しが差し込んで、Nの顔を柔らかく照らしていた。私はその静謐な光景をずっと見ていたいと密かに思った。
私はこのひとりの人間のことを、そして何より自分自身のことを、まだ何も知らないのかもしれない。




