第79話 声が出なかった夜
その夜は、静かだった。
風も弱く、
魔力循環の数値も、安定している。
暫定判断共有枠は、設置されてから三日目。
使われた回数は、二度。
どちらも小さな調整で終わっている。
「今日は、何もなさそうですね」
夜勤の作業員が、そう言った。
若い魔導師は、頷いた。
「そうだといい」
だが、異変は、記録に残らない形で起きた。
巡回中の作業員が、足を止める。
感覚的な違和感。
数値には出ない。
「……気のせいか?」
彼は、端末を見下ろす。
基準内。
問題なし。
頭をよぎるのは、枠の存在。
――判断が必要だと感じた者が、表明できる場。
だが、ためらう。
今は、忙しくない。
緊急でもない。
「判断が必要」と言うほどか?
結局、彼は何も言わなかった。
深夜、別区画で、軽微なトラブルが起きる。
連鎖はしない。
だが、朝になって分かる。
巡回時の違和感と、繋がっていたことが。
被害は、小さい。
それでも、残る。
朝、報告が上がる。
「昨夜、気づいてた人がいた」
若い魔導師は、胸が痛んだ。
「なぜ、枠を使わなかった?」
問いは、責めじゃない。
作業員は、目を伏せる。
「……使っていいのか、迷いました」
「判断ってほどじゃなかった」
「声を上げるのは、大げさな気がして」
枠は、ある。
でも、勇気までは、配れない。
リーナが、静かに言う。
「制度は、許可を出した」
「でも、人は、自分に許可を出せなかった」
連絡官は、遠くから見ていた。
口は出さない。
この失敗は、
制度の限界を示している。
昼、若い魔導師は、文書を開く。
枠の説明文。
そこには、書いていない言葉がある。
迷ったら、使え。
夜、彼は、短い追記を書いた。
――判断の正確性は、問わない。
――迷いを感じた時点で、表明してよい。
これも、制度ではない。
だが、言葉は、少し背中を押す。
枠は、完成していない。
完成させないまま、使いながら育てる。
それが、この街のやり方だ。
若い魔導師は、そう思った。




