第58話 小さな実験
翌朝、街はいつも通りに動いていた。
水路は詰まらず、倉庫の扉も定刻に開く。
昨日の会話など、なかったかのように。
「何も変わってないわね」
リーナが窓から通りを見下ろしながら言った。
「だからこそだ」
俺は外套を羽織る。
「変えるって言葉は、ここでは一番警戒される」
約束はしていない。
だが、無視もしない――そういう形で動くつもりだった。
向かったのは、街の東側。
水路から少し外れた、古い倉庫群の一角だ。
昨日の若い魔導師――名を名乗った彼は、既に待っていた。
顔色は良くないが、逃げる気もない。
「ここなら……目立ちません」
「理由は?」
「管理が後回しにされている場所です。問題が起きても、“たまたま”で処理される」
便利な言い訳だ。
だからこそ、実験には向いている。
「何をするつもり?」
リーナの問いに、彼は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……本来なら、王都に申請して、許可を待って、却下される内容です」
「具体的には」
「水流制御の一部を、現場判断に戻します」
小さい。
だが、この街では異端だった。
俺は周囲を見渡した。
人通りは少ない。監視用の魔導具も、最低限。
「条件がある」
彼は頷く。
「失敗したら、君が止める。俺たちは介入しない」
「……はい」
「成功しても、成果は君のものだ。俺の名前は出すな」
彼は目を見開き、そして深く息を吸った。
「分かりました」
魔法陣が、地面に展開される。
簡素で、装飾のない実務用。
水路の流れが、わずかに変わった。
劇的な変化はない。
音も、光も、異臭もない。
「……今のところは、安定しています」
彼の声は震えていた。
「“今のところ”で十分だ」
俺はそう言った。
この街に必要なのは、革命じゃない。
自分で判断しても、世界が壊れないという実感だ。
倉庫を出るころ、彼は何度も振り返っていた。
何かが起きるのを、恐れながら。
同時に、少しだけ期待しながら。
「ねえ」
リーナが小さく笑う。
「これ、進路の街より危ないんじゃない?」
「かもな」
進路の街は、最初から選ぶ気があった。
ここは――選び方を、忘れている。
だから、時間がかかる。
そして、失敗もするだろう。
それでも。
何も起きない街より、
小さく揺れる街の方が、まだ生きている。
グレイザの朝は、今日も変わらず始まった。
その内側で、ほんのわずかに――歯車が回っただけだ。




