第57話 内部からの違和感
グレイザを発つ準備を進めていた夕方、宿の部屋を控えめに叩く音がした。
扉の外に立っていたのは、昼間の会合で発言せず、ただ記録を取っていた若い魔導師だった。
「……少し、お時間をいただけますか」
立場の低さを自覚した、遠慮のある声。
だが、逃げ腰ではない。
部屋に通すと、彼は椅子に腰を下ろしたまま、しばらく言葉を選んでいた。
考えてきたことを、どう切り出すか迷っている沈黙だ。
「進路の街の件ですが……正直に言います」
彼は顔を上げた。
「羨ましいと思いました」
その一言に、リーナがわずかに目を細める。
「同時に、怖くもなったんです」
彼は自分の所属を名乗った。
水路管理局付き補助魔導師。日々の調整と数値管理を任され、決定権は持たない。
「この街は、正しいんです。王都式に沿っていて、事故もなく、効率もいい。数字も手順も、全部揃っている」
そこで、言葉が一瞬止まる。
「……だから、間違えようがない」
それは賞賛の形をしていたが、続く声は低かった。
「失敗しない。責任も、上が取る。現場は指示通りに動くだけでいい」
「楽でしょう?」
リーナがそう聞くと、彼は小さく笑った。
「ええ。とても楽です」
そして、少しだけ表情が崩れた。
「でも、自分がここにいる意味が分からなくなる」
進路の街の報告書を読んだ、と彼は言った。
特別な魔法も、画期的な理論もない。ただ、人が集まり、迷い、衝突し、揺り戻しながら決めていく過程が、淡々と記されていた。
「グレイザでは、あれはできません」
「理由は?」
俺が問うと、彼は迷わず答えた。
「決める前に、止められるからです」
上司が。
規定が。
基準が。
すべて善意で、合理的に、先回りしてくる。
「だから、あなたが導入を断った判断は、正しいと思いました」
それは意外な評価だった。
「でも……このまま何もしなければ、この街は何も起きないまま終わります」
彼は拳を握る。
「誰も困らない。誰も傷つかない。だけど、何も選ばない街になる」
その言葉は、進路の街が辿った過去と、重なっていた。
「お願いがあります」
彼は深く頭を下げた。
「街全体じゃなくていい。制度も変えなくていい。ただ――一つだけ、選ばせてください」
小さな範囲でいい。
小さな責任でいい。
失敗しても、街全体が揺らがない場所で。
俺は、すぐに答えなかった。
これは正式な依頼じゃない。
王都を通さない、街の決定でもない。
ただの、内部の声だ。
「……名前を聞いてもいいか」
彼は少し驚いた顔で名乗った。
その名を、俺は地図の端に、まだ線を引かずに書き留める。
「分かった。ただし、約束はしない」
「それで構いません」
「選ぶのは、君だ。俺じゃない」
彼は、何度も頷いた。
扉が閉じたあと、リーナが静かに言う。
「進路の街とは、違う始まり方ね」
「ええ」
連鎖は、成功だけで広がるわけじゃない。
違和感を覚えた一人から、静かに始まることもある。
グレイザは、まだ変わらない。
だが――内側では、確かに歯車が噛み合い始めていた。




