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潮騒の果てで君を待つ  作者: 橋本和樹


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潮騒の果てと潮砂の記憶

潮騒の音には、記憶を呼び覚ます力がある―― そう語り継がれてきた島がある。 海霧に包まれた冬の神津ヶ島。 そこでは、潮が満ち引きするたびに、亡くした人の声が聞こえるという。

 本作『潮騒の果てと潮砂の記憶』は、 これまで描かれてきた「潮騒シリーズ」の集大成として、 “記憶”をめぐる謎と、 失われた時間を取り戻す静かな旅路を描く物語である。

 ミステリーは密やかに潜み、 ホラーは影のように寄り添い、 そして最後には、潮風のように優しい真実が姿を現す。

 登場人物たちは皆、 過去に縛られたままでは前に進めない。 それでも海は、彼らの足跡を洗い流し、 もう一度歩き出すための“余白”を与えてくれる。

 もしあなたが、 過去から抜け出せずにいるとき。 もしくは思い出のどこかに取り残されているとき。 この物語が、潮騒の向こうから そっと手を差し伸べる一冊になればと願っている。

 ――すべては、潮の満ち引きのように。 やがて失われ、やがて取り戻される。 そんな時間の流れの中に、 本作の物語はそっと佇んでいる。

第一話 霧に消えた足跡

 冬の神津ヶ島は、昼でも薄闇が降りているようだった。 海に立ちこめる濃霧が、島全体をぼんやりと包み込み、音も匂いも奪っていく。

 篠宮悠斗は崖の上に立ち、白く煙る海を見下ろした。 足元から潮の匂いが立ち上り、冷たい風が頬を切る。

 ――また、始まるのか。

 霧の向こうに、淡く揺れる白い影がひとつ。 人影のようだが、輪郭が曖昧で、風とともにかすれては形を変える。

 「……涼子?」

 呼んだ瞬間、影がわずかに揺れ、こちらを見たように思えた。 田嶋涼子。 あの夜、密室事件が解かれ、潮砂に隠された遺産の噂が消え、島に平穏が戻ったはずだった。 だが彼女だけは、最後まで悠斗の前に姿を現さなかった。

 ――いや、違う。 現れなかったのではない。 “この形でしか現れられない” のだ。

 霧が風に裂け、はっきりと人の輪郭が浮かぶ。 白いワンピース。長い髪。薄い笑み。

 涼子は、一歩、崖の方へ近づいた。

 「待ってくれ!」

 思わず手を伸ばした瞬間、彼女の姿がふっとかき消え、霧だけが残った。 潮騒だけが、遠くでざわめくように響く。

 その音に混じって、囁き声のようなものが聞こえた。

 ――ゆうと。

 はっとして振り返る。 しかし、霧の中には誰もいない。

 「……呼んだのか?」

 答える者はいない。 ただ、足元の砂だけが、奇妙な足跡を刻んでいた。

 人のものだが、片方だけ――右足の跡しかない。 左足の形は一切見当たらず、砂に溶けたように消えている。

 「(また……だ)」 この異様な足跡は、十年前の未解決事件で見つかったものとまったく同じだった。

 涼子の影が消えると同時に、謎の足跡が残る――。

 まるで彼女が導くように。

 悠斗はゆっくりと足跡をたどり始めた。 霧は深く、島の空気は冷たい。 足跡は、まっすぐ山側へ続いている。

 「涼子……何を伝えたいんだ?」

 風が強まり、木々がざわめいた。 その向こうから、ひとつの音が聞こえた。

 ――石が落ちるような音。 ――何かが崩れる音。

 悠斗は走り出した。

 足跡の先、霧の裂け目に――

 古い祠が、崩れかけた姿で立っていた。

 潮神を祀る祠。 あの一連の事件の中心にあった場所。

 祠の前には、誰かが倒れていた。

 「……誰だ!」

 駆け寄ると、それは島の警官・新見俊郎だった。 彼は微動だにせず、右手に白い砂を握りしめたまま倒れている。

 悠斗は慌てて脈を確かめた――

 脈はある。 だが意識はない。

 (潮砂……? なぜ新見さんが……?)

 祠の奥、闇の中で何かが光った。 白砂のような輝き。

 ぞくりと背筋に冷たいものが走る。

 涼子が消えた霧の向こうに、 十年前の事件の真相と、未だ解けぬ密室の続きが眠っている――。

 悠斗は祠の闇へ、静かに足を踏み入れた。



第二話 潮砂の封印

 祠の内部は、思った以上に広かった。 外観からは想像もできないほど奥へと通路が伸び、湿った岩肌がぬめりを帯びて光っている。

 悠斗はスマートフォンのライトを点け、慎重に足を進めた。 背後には、倒れたままの新見俊郎。 彼が手に握っていた白砂が、ゆっくりと指の隙間からこぼれていく。

 ――まるで誰かが「封印」を破った証のように。

 通路の先から、ほの白い光が漏れていた。 潮砂特有の、蛍光のような淡い輝き。

 「涼子……ここにいるのか?」

 声が自分の喉に吸い込まれていく。 祠は音を飲み込む――昔からそう言われている。

 光のある場所へ進むと、そこは広い空洞になっていた。 中央に古い石碑が立ち、その周囲には白い砂が円形に盛られている。

 ――“潮砂の封印陣”。

 十年前、島を騒がせた儀式が行われた場所だ。 ここに涼子の兄・田嶋誠が倒れていたという。

 悠斗が近づくと、石碑に刻まれた文字が見えた。

 〈罪 潮 還〉

 十年前に確認された文字と同じ。だが―― 下に、見覚えのない一行が追加されていた。

 〈印、破の者 足跡を残す〉

 その瞬間、背筋が冷たくなった。

 (……まさか、さっきの足跡? 右足だけの足跡……“封印を破った者” の印?)

 ごくり、と喉が鳴る。

 目を凝らしたその時、背後で砂が落ちる微かな音がした。 振り返ると、そこに――

 涼子が立っていた。

 いや、立っている……ように見えた。 足元が霧のように揺らぎ、輪郭も微かに透けている。

 「……ゆうと」

 涼子の声が、確かに聞こえた。

 「ここから先は、行っちゃだめ……」

 言葉はかすれ、今にも消えてしまいそうだった。

 「涼子! どうして……どうして姿を見せないんだ。 何があった? 十年前に、何が――」

 涼子は悲しげに首を振った。

 「わたしは……印を、つけられたの。 “封印を破った者”として…… 本当は、ここに来る資格なんて、ない」

 「そんなはずないだろ!」

 思わず叫んだ。 声が祠に木霊し、天井の岩が淡く光を返す。

 「十年前に誠さんが亡くなった事件…… あれは事故じゃなかった。 密室を作ったのも、遺産を隠したのも、全部……」

 ――風が震えるような気配が走った。

 涼子が、言葉を続けられないように口をつぐむ。 その時だった。

 石碑から白い光が吹き上がった。

 「――!」

 光は砂を巻き上げ、円形の陣がゆっくりと回転し始める。 潮砂がふわりと宙に舞い、幻のような光景が広がる。

 (何だ……? 儀式が“逆再生”されている……?)

 次の瞬間、悠斗には見えてしまった。

 ――十年前の祠の光景が、鮮明な幻として現れる。

 潮砂を持つ誠。 祠の前で泣く涼子。 そして、背後から近づく“誰か”。

 暗い影―― だが、涼子ではない。

 その影が誠を突き飛ばし、 倒れた誠の手から潮砂があふれ、密室が形成された。

 「これが……真相なのか?」

 幻影は答えない。

 涼子は小さく震えながら、ただひと言つぶやいた。

 「ゆうと……お願い。 “封印”を元に戻して…… このままだと、また誰かが……」

 その瞬間、祠全体が大きく揺れた。 石碑の光がさらに強まり、祠の奥へ続く暗闇が裂ける。

 ――奥には、まだ何かがある。

 涼子の影が淡く薄れ、指先が霧のように崩れていく。

 「……涼子!」

 伸ばした手は、もう彼女に触れない。 だが涼子は最後に微笑んだ。

 「ずっと……見てるから」

 次の瞬間、彼女の姿は完全に消えた。

 悠斗は拳を握りしめ、震える祠の奥へ目を向ける。

 (行くしかない…… 涼子のためにも、十年前の真実を終わらせるためにも)

 そして、彼は足を踏み出した。 潮砂の封印が、ゆっくりと崩れ落ちていく音を聞きながら――。



第三話 罪を潮に還す

 祠の奥は、空気が一変していた。 冷気は鋭さを失い、どこか湿った生温かさが混じっている。 まるで“生き物の体内”に足を踏み入れたような感覚だった。

 (ここは……本当に、祠の内部なのか?)

 壁には古代のような文様が刻まれ、青白い光が時折走る。 その光が潮砂の粒と共鳴するように、ふわりと揺れた。

 通路を進むと、広い空間に出た。

 中央は池のように丸くくぼみ、そこに白い砂が深く積もっている。 天井に刻まれた裂け目から光が差し込み、砂がまばゆく輝いていた。

 (これが……“潮砂の源”)

 十年前の事件も、最近起きた密室事件も、 御厨家の遺産騒動でさえも―― 全部、この場所に関わっていた。

 その中心に、人影がひとつ。

 丸く盛られた砂の中央に、座り込むように倒れている。

 「新見……さん?」

 いや違う。 もっと年配の男だ。 髪は白く、顔はやつれきっているが、見覚えがある。

 島の古老、御厨仁三郎。 遺産の相続で名前が挙がっていた人物だ。

 彼はゆっくりと目を開いた。 砂を握る手が震えている。

 「……来た、のか。 封印を……完全に、解いてしまったのだな」

 「どういうことなんですか? 十年前の事故――いや、“事件”ですよね。 誠さんを殺したのは、あなたなんですか?」

 御厨仁三郎は首を振った。

 「否……儂ではない。 誠を殺したのは――“潮砂そのもの”だ」

 「潮砂が……殺した?」

 耳を疑う言葉だった。

 だが老人は続ける。

 「潮砂は、人の罪と願いを吸い込む。 強すぎる願いや、深すぎる罪に触れると…… まるで生き物のように暴走するのだ」

 涼子の兄・田嶋誠。 彼は十年前、潮砂の封印を自ら試そうとしていた。

 ――祟りを止めるために。 ――“ある罪”を清算するために。

 その途中で、潮砂は暴走し誠を呑み込んだ。 密室のような現象は、その副産物だった。

 「では……涼子は? 彼女に起きたことは?」

 老人は目を閉じ、苦しげに答えた。

 「涼子は、誠の“願い”を受けすぎたのだ。 兄が守ろうとした想いが、涼子の影に宿ってしまった。 だから彼女は…… “半ばこちら側の存在”になってしまった」

 (だから、涼子は普通の形では現れない…… そして足跡も残らない…… 封印の印を持つ者のように)

 悠斗の心が大きく揺れた。

 「儂は……誠の死の責任を負って、ここに残っていた。 潮砂の暴走を抑えるため、儀式を続けていた。 だが――限界だ」

 老人の身体が砂に沈み始める。

 「止められるのは……“証人”だけ。 事実を見届けた者…… そして、罪を潮に還す覚悟を持った者だ」

 老人は悠斗の胸に、ひと握りの潮砂を押し当てた。

 白い砂が光り、悠斗の視界が一瞬真っ白になる。

 「――!」

 次の瞬間、悠斗は見ていた。

 十年前の祠、誠の絶叫。 暴走する潮砂の嵐。涼子が泣き叫ぶ姿。 そして、誠が最後に呟いた言葉。

 「罪を……潮に……還す……」

 老人の声が響く。

 「潮砂の儀式を終わらせろ、篠宮悠斗。 お前だけが……見届けられる」

 光が収束し、砂の泉が静かに揺れた。

 悠斗は震える手で潮砂を掬い、目を閉じる。

 (涼子…… 俺は……行くよ)

 潮砂を泉にそっと放つと、白い光が舞い上がり、祠全体を包んだ。

 罪と記憶のすべてが、潮へと還っていくように。

 その光の中で、涼子の声が確かに聞こえた。

 ――ありがとう、ゆうと。

 光が静かに消え、祠には深い静寂だけが残った。



第四話 密室の解体

 祠から外に出ると、霧はうそのように晴れていた。 潮騒の音が静かに広がり、空には薄い冬日が差している。

 悠斗は崩れた祠を振り返った。 まるで役目を終えたかのように、その姿は儀式の余韻を残している。

 (……終わったのか? いや、まだだ。十年前の“密室”を解体しなければ)

 潮砂の暴走が起こす奇妙な現象―― それは、いくつもの事件を“人為的な殺人”に見せかけ、 あるいは逆に“不可解な密室”として覆い隠してきた。

 だが今、儀式の残響が消え、潮砂は静かに力を弱めている。

 今なら―― すべての密室の仕組みを、完全に解き明かせる。


◆一つ目の密室

「新見孝三転落事件」

 十年前、崖上の小屋で起きた密室転落死事件。 当時、外側から鍵がかかっていたため、殺人が疑われた。

 だが真相は――

 **潮砂による“自動施錠現象”**だった。

 小屋の床にこぼれた潮砂が、風の流れで一か所に集まり、 金属鍵の下側に付着して動きを阻害する。

 やがて鍵が重みで戻り、 室内から施錠されたように見える状態が完成する。

 (だからあの時、鍵穴の中に細かな砂が残っていたんだ……)

 事件は事故だった。 だが潮砂の特性を知らない人々にとって、密室にしか見えなかった。


◆二つ目の密室

「御厨家の遺産消失事件」

 遺産が隠され、部屋が荒らされた状態で見つかった事件。 外側から鍵がかかり、内側の窓も閉ざされた“完全密室”。

 だがこれも――

 **潮砂の光による“幻影現象”**だった。

 遺産は消えたのではなく、 潮砂の層の下に沈んでいた。 光の屈折によって床と同化し、誰の目にも見えなくなっていたのだ。

 動くたびに砂が形を変え、 部屋が荒れたように見せる効果もあった。

 (……新見俊郎さんが見つけた遺産の影。それも潮砂の仕業だったんだ)


◆三つ目の密室

「田嶋誠“密室死”事件」

 最も残酷で、最も多くの謎を残した事件。

 祠の前で誠が倒れ、 周囲には足跡が“右足分しか”残っていなかった。

 密室のように閉ざされた祠。 誰も入れなかったはずの空間。 そしてあの不可解な足跡。

 だが真相は――

 暴走した潮砂による“部分消失”現象だった。

 誠が暴走する潮砂を必死に制御しようとした際、 左足側の砂が強く反応し、足跡を“吸収”した。

 その結果―― 右足だけの足跡が残り、誰かが故意に隠したように見えた。

 密室化の仕組みも、潮砂が周囲の気流を止め、 祠の扉を“押し返す力”を生み出していたためだ。

 (決して誰かの犯罪ではなかった。 誠さんは……潮砂を守り、涼子さんを守ろうとして死んだんだ)


◆密室の“解体”が意味するもの

 潮砂は、罪や願いに敏感に反応する。 人の悲しみや嘘や憎しみに触れるほど暴走し、 結果として“密室”を作り上げてしまう。

 だが今――封印は解かれ、 潮砂は静かに本来の眠りへと戻っていく。

 だからこそ、密室現象はすべて正しく解釈される。 “人の手”ではなく、“島の力”によるものとして。

 「……これでいいんだ、涼子」

 つぶやいた瞬間、潮風が静かに吹いた。 その風に、淡い声が混じっていた気がした。

 ――ゆうと。

 胸の奥が熱くなる。

 (あとひとつ…… 最後の祈りの儀式を終えれば、このシリーズのすべてが終わる)

 悠斗は懐中時計を握りしめ、海へと向かった。 針は「11時51分」で止まったまま。

 その時刻こそ――誠が亡くなった時間。 涼子の“影”が生まれた瞬間。

 そして、潮砂の物語が終わるべき刻でもあった。



第五話 潮の祈り

 海は、まるで眠っているように静かだった。 冬の午後の薄陽が、淡い金色となって水面に落ちている。

 悠斗は、崩れかけた祠から歩いて浜辺に降りた。 潮砂の儀式を終え、密室の真相も解き明かし、 残るは――“潮への祈り”。

 そのために、彼は懐中時計を握りしめている。 針は「11時51分」で止まったまま、 誠の最期の記録として凍りついたように。

 (この時間を進めることが、祈りの証なんだ)

 かつて、潮砂の儀式は「罪と願いを海に返す」ために行われた。 祈りは必ず海辺で行われる。 海がすべてを呑み込み、静かに融かしていくからだ。

 浜辺に立つと、涼しい風が吹いた。 薄い霧がまだ残っていて、光と混ざり、どこか幻想的な風景を作っている。

 「涼子……聞こえるか?」

 返事はない。 だが、耳の奥を潮騒が優しく刺激する。 その音が、まるで返事にも感じられた。

 悠斗は懐中時計を静かに開いた。 秒針は止まり、過去だけを示している。

 「誠さん…… あなたの願いも、罪も、苦しみも…… 潮に返します」

 両手で時計を包み込む。 その周囲に、かすかに白い光が漂い始める。

 ――潮砂の残響。

 朽ちかけた祠から持ち帰った砂が、悠斗の手に残っていたのだ。

 光が強まり、 止まっていた秒針が――

 カチリ、と音を立てた。

 動いた。

 止まっていた時間が、わずかに前へ進んだのだ。

 その瞬間、風が海面を走り、波が一度だけ高く揺れた。 白い砂がふわりと舞い、海へ流れていく。

 それはまるで、罪と願いが潮に還っていく光景だった。

 悠斗は、目を閉じて祈りを捧げた。

 (涼子…… 君が背負っていた“影”も、一緒に還れ)

 波が再び戻り、足元を優しく洗った。

 その瞬間、 背後でそっと衣擦れの音がした。

 振り返ると――

 涼子が立っていた。

 霧の中に、はっきりと。 いつもの薄い笑みを浮かべて。

 「……ありがとう、ゆうと」

 その声は、もうかすれていなかった。 確かな温度を持った声だった。

 「兄の願いも、私の願いも……あなたのおかげで還ることができた」

 「涼子……もう大丈夫なのか?」

 涼子は微笑み、頷いた。

 「うん……わたし、やっと“ここ”に戻れたの。 潮砂の影じゃなくて――ちゃんと“私”として」

 風が彼女の髪を揺らす。 もう、透けていない。 もう、影でも幻でもない。

 涼子は静かに手を伸ばし、 悠斗の胸に触れた。

 「ゆうと……ありがとう。 あなたがいてくれたから、私は戻ってこられた」

 その温かさに、悠斗の胸がじん、と熱くなる。

 しかし涼子は、その手をゆっくり下ろすと――

 「でも…… 最後の祈りは、あなた一人でやらなきゃいけない」

 少し寂しそうに微笑んだ。

 「わたしは、“還る”側だから」

 そして、涼子の身体が、そっと光の粒となり始めた。

 「涼子――!」

 手を伸ばす。 だが涼子は首を振った。

 「大丈夫。 これは、わたしが望んだことだから」

 光の粒は風に散っていく。 潮の匂いと共に、海へ溶けていくように。

 「ゆうと。 どうか……あなたは前を向いて生きて」

 最後に、柔らかい笑顔が浮かんだ。

 「わたしは、潮騒の向こうで……見守ってるから」

 そして―― 涼子は完全に消えた。

 潮騒だけが、優しく響いていた。



第六話 潮騒の果てで

 夕刻。 浜辺は紫色に染まり、空には一番星が浮かび始めていた。

 悠斗は波打ち際に座り、しばらく海を眺めていた。

 懐中時計は、もう止まってはいない。 静かに、当たり前のように時間を刻んでいる。

 (終わったんだ…… 涼子も、誠さんも。 潮砂の封印も、密室の謎も)

 ふと、潮風が優しく吹いた。 袖を軽く引っ張られたような感覚がした。

 ――ゆうと。

 どこか遠くから聞こえるような声。 振り向いても、そこには誰もいない。

 だが、悠斗は静かに微笑んだ。

 「……ああ。 ちゃんと聞こえてるよ」

 潮騒が応えるように、波が足元に寄せては返す。

 (俺は、前に進む。 涼子、お前が見守ってくれるなら―― どこへだって行ける)

 悠斗は立ち上がり、懐中時計をポケットにしまった。

 その瞬間、海が夕日にきらりと光った。

 潮騒。 風。 白砂。 すべてが柔らかく混ざり合い、 ひとつの言葉を形作っているようだった。

 ――おかえり。

 悠斗は空を見上げ、深く息を吸った。

 「ただいま」

 神津ヶ島の夜が、静かに幕を開けた。 もう祟りも密室も、未解決事件もない―― ただ潮騒が優しく響く、穏やかな夜。

 こうして、 潮騒シリーズは静かに幕を閉じた。

本書を最後まで読み進めてくださった読者の皆さまへ――心より感謝を申し上げたい。

 『潮騒の果てと潮砂の記憶』は、 これまで紡いできた潮騒シリーズの結びとして、 “記憶”という静かなテーマに焦点を当てた作品である。

 人は、残したい記憶ほど手を離し、 忘れたい記憶ほど胸に刻まれてしまう。 その矛盾こそが、 生きることの複雑さであり、美しさでもある。

 主人公たちは、 潮風が削る岩のように少しずつ変わりながら、 それでも確かに前へ進んでいく。 嵐の日も、凪の日も、すべて潮が運んでくれるのだ。

 本作が、読み終えたあとに 静かな余韻のようなものを残し、 あなたの中にある“大切な記憶”へ そっと寄り添う存在になれれば幸いである。

 最後に。 この物語の向こう側で、 潮騒は今日も変わらず鳴り続けている。

 どうか、また会える日まで―― 潮風とともに、健やかな日々を。

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