潮騒の彼方に消えた夜
神津ヶ島――潮風にさらされ、霧に包まれた小さな島。ここには、潮砂という不思議な砂をめぐる古い伝承と、人々の祈りが交錯してきた。
前作『潮騒の果てで君を待つ』では、祠と潮砂に秘められた罪と赦しの物語が描かれた。しかし、島は静寂を取り戻したかに見えても、夜霧の中ではまだ、語られぬ出来事が待っている。
本作『潮騒の彼方に消えた夜』は、前作の余波として残された謎と、潮砂がもたらす奇妙な現象を巡る新たな物語である。読者の皆さまには、風の音、波のさざめき、そして潮砂の囁きを、どうか心の中で感じながらページをめくっていただきたい。
第1章 霧に消えた客
春の神津ヶ島は、まだ冬の名残を抱えていた。港に立つフェリーは、薄い霧に包まれ、海は静かに白銀の光を反射していた。篠宮悠斗は、久しぶりに島の風を感じながら、胸ポケットのノートを押さえた。前作の事件から一年。涼子の姿は、あの日の潮風とともに記憶の中にある。
「久しぶりですね、篠宮さん」港の桟橋に立っていたのは、細身の女性だった。黒いコートに深いフードを被り、手には取材用のカメラとメモ帳。「神崎美咲です。新聞社から派遣されました。前回の潮砂事件について、再調査を行うことになって……」彼女の声には、冷静さと同時に、どこか鋭い観察眼が混ざっていた。
「そうか……再調査か」悠斗は静かに頷く。彼自身も、前回の事件の謎はすべて解明したつもりだったが、島にはまだ見えない影が残っている気がしていた。
港を歩くと、漁師の老人が声をかけてきた。「お客さん、霧が濃いな。海の上で、人が歩いているように見えたって話もあった」「人が……?」悠斗は眉をひそめた。霧に包まれた海の上に人影が浮かぶ――前回の夜の潮砂の記憶がよみがえる。
潮風荘は、昨年の改修後もまだ静まり返っていた。廃墟のように見える二階建ての木造建物。室内はひんやりしている。「お久しぶりです」と、受付の女性が微笑んだが、その笑顔にはどこか影がある。「今回は私一人だけの滞在です」悠斗はそう告げ、部屋に荷物を置くと窓の外を眺めた。潮の香りが鼻をかすめ、静かな海鳴りが耳に届く。
午後、霧がさらに濃くなる。潮風荘の廊下を歩いていると、階下から微かな物音が聞こえた。――カラン、カラン、と。硬い金属音が、濡れた木の床に反響する。悠斗は振り向くと、美咲が立っていた。「……誰か、いるんですか?」「わからない。でも、前回と同じ匂いがする」二人の視線は、階段の下にある古い倉庫の扉に吸い寄せられた。扉はわずかに開き、薄暗い影が揺れている。
悠斗がそっと近づくと、そこには古い箱が散乱していた。箱の中には、前回の潮砂事件の資料や、古い手記、そして――懐中時計がひとつ。「……あの針は……11時51分で止まったままだ」美咲は息を呑み、指先で時計を触れた。
その夜、潮風荘の窓からは霧に包まれた海が見えた。白い波が押し寄せる音の中、どこからか鈴の音が聞こえる。――カラン、カラン……まるで誰かが夜の海の上を歩き、祠の鐘を鳴らしているように。
悠斗はふと、美咲が手にしていたメモ帳を覗いた。そこにはこう書かれていた。
「潮砂の秘密を知る者は、誰なのか――島に潜む影を追う」
霧は濃くなる。海は静かだが、どこか底知れぬものを抱えている。悠斗は、再びこの島の謎に引き込まれることを、まだ知らなかった。
第2章 再びの密室
翌朝、霧はまだ神津ヶ島を包んでいた。港に差し込む朝日も淡く、潮風は冷たい。悠斗と神崎美咲は、前回の事件で犠牲となった御厨家の屋敷を訪れることにした。「前回の事件から、ここはほとんど手付かずのままです」美咲はノートを取り出し、屋敷の間取りを素早くスケッチする。「今回、調べたいのは――“密室”の再現です」悠斗は頷いた。前回の潮砂による鍵閉めのトリックは解明したが、島にはまだ“知られざる仕掛け”がある気がしていた。
御厨家の屋敷に入ると、畳はわずかに湿っており、床間には前回の痕跡が残っている。悠斗は床の間を注意深く観察した。――塩の痕。湿度で固まった潮砂の名残。
「ここだ……」悠斗は前回、新見孝三が殺害された部屋に目を向ける。内鍵は閉じられたままだが、障子の縁に微かな濡れが見える。「塩水……?」美咲が呟いた。「潮砂が湿気を吸って固まると、内側の鍵を塞ぐことができる。前回のトリックと同じだ。でも今回は、もう一つの仕掛けがある」
悠斗は障子を押し開けると、天井の梁に細い竹筒が刺さっているのを見つけた。筒の中には乾いた白い潮砂。「……まさか、上からも砂を落としていたのか」美咲は慎重に部屋を観察する。窓は開かれておらず、換気口も小さい。「犯人は、部屋の中からだけでなく、上方からも砂を撒いて密室を作ったのかもしれません」悠斗は冷や汗をかいた。前回よりも精巧で、計算された犯行だ。
その時、廊下の奥から微かな物音がした。――カラン……カラン……二人は振り返る。影が揺れ、誰かが屋敷の中を歩いている。「誰だ……?」悠斗は声を殺す。「わからない。でも、前回の“守り人”の気配ではない」美咲の目は鋭く光っていた。
二人は階段を上がり、屋敷の二階へ向かう。霧のせいで外は真っ白で、風の音だけが響く。二階の廊下に入った瞬間、悠斗の足元で小さな紙袋が転がった。中には――白い潮砂と、古びた鍵。「……また、密室トリックか」悠斗は唇を噛んだ。前回の事件を知る者、潮砂の性質を理解している者――その“誰か”が再び島に現れたのだ。
その夜、潮風荘の部屋に戻ると、外は濃霧で何も見えなかった。美咲が窓を見つめながら言う。「この島には、まだ秘密が隠されている……誰も知らない“潮砂の使い方”があるはず」
悠斗は静かにノートを開いた。前回の事件では、潮砂は“罪を封じる”役割を果たした。しかし、今回の密室は、意図的に人を罰するために使われている――。「犯人は、前回の事件の意味を理解している……いや、それを超えて、何かを示そうとしている」
窓の外、霧に包まれた海の上から、鈴の音がかすかに響いた。――カラン、カラン……まるで誰かが、潮神の祠の封印を再び確かめるかのように。
悠斗と美咲は、次第に事件の核心に近づきつつあった。しかしその瞬間、部屋の戸が勝手に閉まる音が響き、二人は背後を振り返った。
――闇の中、誰かが立っている。
第3章 霧に消えた手紙
翌朝、神津ヶ島は依然として霧に覆われていた。潮風荘の窓から見える港も、白く煙る海に溶けて輪郭を失っている。悠斗は昨夜の密室の痕跡を思い返しながら、ノートを広げていた。「今回の犯行は……前回の潮砂事件を模倣している。だが、意図が違う」美咲は窓辺に立ち、霧に霞む海を見つめていた。「守るためではなく、脅すために使われている……」
午前中、港に一隻の小さな漁船が戻ってきた。船から降りてきたのは、見慣れない青年だった。「……篠宮さんですか? 僕は小林遥斗。祖父の古文書を調べている研究者です」彼は手に紙の束を抱え、息を切らしていた。
悠斗は眉をひそめた。祖父・悠平が残した手記に詳しい人物で、しかも島に突然現れるとは……。「その紙、見せてもらえますか?」紙には古い文字で、祠の伝承や潮砂の使い方が詳細に記されていた。しかし、よく見ると、何か書き込みが赤いインクで加えられている。
『封印を破る者、潮砂に試されよ』
その瞬間、潮風荘の廊下から物音がした。――カラン、カラン……白い砂が床を転がる音。悠斗は駆け出し、美咲と共に廊下に向かう。だが、誰もいなかった。足跡は霧のせいか消えている。
午後、島の郵便局に向かうと、局員が青ざめた顔で紙を差し出した。「篠宮さん宛に、昨日届いた手紙です。霧の中、誰も見ていなかったそうで……」封筒の中には、薄紙の手紙と、小さな白い袋が入っていた。袋の中には――微かに湿った白い潮砂。
手紙にはこう書かれていた。
『次は、潮砂に眠る者が目を覚ます。守る者も、犯す者も、皆潮の試練を受けよ』
悠斗は寒気を覚えた。前回の事件で“守り人”を務めた涼子の消失、その後に残された潮砂の謎……それを再び使おうとしている人物がいる。「……これは、新しい犯行の予告です」美咲は冷静に分析する。「島には、潮砂の使い方を知る者が三人しかいない。あなた、私、そして――涼子」
その夜、潮風荘の部屋の窓に微かな人影が映った。霧の中、白い砂がふわりと舞い、月明かりを反射する。悠斗は息を殺し、窓を覗く。
――そこには誰もいなかった。しかし、砂の上には新たな足跡が刻まれていた。――一人分。しかも、前回の潮砂トリックを模した形跡だ。
悠斗はノートを開き、赤い文字で書き込む。
「密室の再現。犯人は、潮砂の知識を持つ者……。そして、次の犠牲者は予告されている」
窓の外、霧は濃くなる。波の音は静かだが、どこか底知れぬ鼓動を帯びている。――潮神の祠は再び、眠りから目覚めようとしていた。
第4章 潮神の囁き
翌朝、神津ヶ島は霧に包まれ、潮風荘の周囲は静まり返っていた。悠斗と美咲は、昨日届いた手紙と潮砂の痕跡を手がかりに、再び御厨家へ向かった。
屋敷の門をくぐると、漁師たちが不安そうに集まっていた。「昨夜、御厨家の庭で人影を見たって話ですよ」「誰もいなかったはずなのに、白い服が……砂が舞ってたって」
悠斗は眉をひそめた。前回の密室、そして潮砂のトリックが再現される気配だ。
二階の被害者の部屋に入ると、昨日とは異なる異変があった。床に小さな水溜り――潮水ではなく、潮砂が湿って膨張した跡だった。壁際の小箱が開き、古い巻物が半分床に落ちている。
悠斗は慎重に巻物を手に取る。そこには古文書で使われる暗号のような文字列が並んでいた。
『白砂は罪を映す鏡。潮を呼ぶ者は、自らの影に問え』
美咲は顔を青ざめさせた。「……この暗号、前回の潮砂の使い方と完全に一致します」「つまり、犯人は潮砂の性質だけでなく、古文書の知識も持っている」悠斗はノートを開き、手元の潮砂の痕跡と巻物の内容を照合した。「密室は単なるトリックじゃない。これは“誰が潮砂を使えるか”を見極める試練だ」
その時、廊下の奥から鈴の音がかすかに聞こえた。――カラン……カラン……二人は息を潜め、音の方向に進む。
廊下の突き当たりには、昨夜の足跡とは別の足跡が伸びていた。白い潮砂の上に、濃く跡を残す靴底。「……新しい足跡だ」悠斗は呟く。
突き当たりの小部屋に入ると、そこには誰もいなかった。だが、机の上には、白い封筒が置かれている。中には、前回の犠牲者と同じ形式の手紙と、微かに湿った潮砂。
手紙にはこう書かれていた。
『潮神の声を聞け。罪を知る者は、生き延びる。だが、封印を破る者は潮に還る』
美咲の手が震える。「悠斗……犯人は、私たちを試している……」「いや、これ以上は被害者が出る。先に動かなければ」
その時、窓の外で何かが光った。――霧の中、白い影が海面を横切る。悠斗は窓を開け、潮風を浴びる。白い砂が舞い、冷たい風が部屋を駆け抜けた。
――潮神の祠は、まだ島のどこかで眠っている。だが、誰かがその力を再び呼び覚まそうとしている。
悠斗は美咲と目を合わせ、決意を固めた。「……次は必ず、犯人を見つける。潮砂のトリックも、密室も、全て解き明かす」美咲も頷く。「でも、その前に、島全体の仕組みを調べる必要があります」
窓の外、霧は濃くなり、白い砂が静かに舞っていた。その中で、かすかな鈴の音が響く――誰もいないはずの廊下から。
――次の犠牲者は、誰になるのか。
第5章 霧の迷宮
神津ヶ島の霧は昼になっても晴れなかった。悠斗と美咲は、潮風荘に戻る前に、島の古老たちの家を訪ねることにした。「潮砂のことを知る者は誰か……」悠斗は心の中で繰り返す。
最初に訪れたのは、島で最も古い漁師・小泉仁だった。彼は漁網を編みながら、静かに話し始めた。「潮砂はな……昔は海の神に捧げるものじゃった。だが、それを持ち出す者は、必ず祟りを受ける」悠斗はノートを取り出す。「誰が最近、潮砂に触れたか覚えていませんか?」小泉の顔が曇った。「……村では、あの祠の場所を知る者は三人だけじゃ。涼子さんはもういない。残るは、藤堂亮の調査を受けた者……小林遥斗君か、篠宮さん、そして……あとは、島の古文書を扱う者だけじゃ」
悠斗は眉をひそめた。「つまり、犯人は潮砂の性質と古文書を知る者……」
午後、悠斗は島の資料館に向かった。美咲も同行する。資料館には、十年前の事件や潮神の祠に関する古文書が保管されている。悠斗は、手紙と潮砂の湿り方、そして足跡のパターンを照合した。「……犯人は、密室のトリックを再現するために、潮砂の湿度膨張の性質まで計算している」美咲が息を呑む。「それだけでなく、夜の霧を利用して移動している……。足跡が消えるのも意図的ね」
夕方、港で漁師たちが白い船を眺めてざわめいた。「また、霧の中で人影が見えたって」悠斗は美咲の手を握った。「もう待ってはいられない……犯人を島のどこかで待つ」
夜、潮風荘の周囲を巡回していると、廊下に微かな鈴の音が響いた。――カラン……カラン……悠斗は懐中電灯を手に、音のする方向に進む。
廊下の突き当たり、物置の扉が少し開いていた。中には、白い砂が広がり、足跡が残っている。だが、よく見ると足跡は二人分。――一つは悠斗のもの、もう一つは未知の人物のものだ。
足跡を追うと、島の北側にある廃墟の小屋へ通じていた。中に入ると、そこには誰もいなかった。だが、机の上には手紙と潮砂の小袋が置かれていた。手紙には、赤いインクでこう書かれていた。
『潮神の試練は終わらない。密室は誰も逃がさぬ』
悠斗は思わず息をのんだ。「これは……警告じゃない、挑戦状だ」
美咲が声を震わせた。「次は、誰かが犠牲になる……」
その瞬間、窓の外で霧が揺れ、白い影が一瞬見えた。悠斗は懐中電灯を向けるが、そこには何もいない。しかし、砂の上に残された靴跡が一歩、二歩と続いている。
――犯人は、島全体を迷宮に変え、悠斗たちを待ち受けている。
悠斗は深く息を吸い、決意を固めた。「潮砂の秘密、古文書の暗号……全てを解き明かさなければ、誰も守れない」
霧の中、鈴の音は徐々に遠ざかり、島全体が静寂に包まれた。だが、悠斗の背筋には、これまでにない寒気が走っていた。――次に動くのは、犯人か、あるいは……潮神か。
第6章 潮神の迷宮
夜の神津ヶ島は、霧に包まれた海と同化するように静まり返っていた。悠斗と美咲は、潮風荘を出て、島の北側にある廃墟の小屋へ向かう。昨夜の手紙と潮砂の足跡が示す先には、犯人の気配が残されているはずだった。
小屋に近づくと、足元の潮砂が光を反射し、まるで小道のように延びていた。「……潮砂が誘導している」悠斗は囁いた。美咲も息を呑む。「ただの足跡じゃないわ。犯人が動線を計算してる」
扉を開けると、中は意外にも広く、かつての作業場の跡だった。机の上には、潮砂が敷き詰められ、古文書と懐中時計が置かれている。悠斗は懐中電灯を向ける。その瞬間、部屋の奥から小さな金属音――鈴の音が響いた。――カラン……カラン……
悠斗が進むと、壁際の影が動いた。そこに立っていたのは、島で古文書を管理していた島民・小林遥斗だった。「……あなたが犯人?」悠斗は声を震わせた。小林は冷ややかに微笑む。「そうだ。十年前の事件以来、潮砂の力と祠の秘密を守り続けてきたのは俺だ。 誰も、祠を壊した者を許さない」
美咲が驚いた。「でも、あなたは一人で密室のトリックまで再現したの?」小林は頷く。「潮砂の性質は知っている。乾けば流動性を失い、湿れば膨張する……鍵穴も封じられる。 つまり、潮砂だけで密室を作ることができる。密室のトリックも、誰も逃げられない迷宮も、俺の設計だ」
悠斗は冷静に状況を整理した。「だから、昨夜の足跡も、霧も……全て計算済みだった」「そうだ。潮神の祟りを恐れる島民たちは口を閉ざす。だが俺は、罪を封じるための正義を示す」
その時、美咲が指を指した。「でも、潮砂の動きがおかしい!」潮砂は湿気を吸って膨張し、部屋の一部が崩れ、床の下に小さな空間が現れた。その中には、十年前の事件で失われた資料、そして被害者の持ち物が隠されていた。
悠斗は理解した。「犯人は、潮砂の性質だけでなく、潮の満ち引きや湿度まで利用していた……」小林は焦りの色を見せた。「くそ……どうして分かった……」
悠斗は落ち着いて言った。「潮砂の性質を知っている者は確かに限られる。でも、祠の意味、罪を封じる意味は知っていたはずだ。 それを破壊して密室を作ったのは、“自分の正義”を押し付けるためだけだった」
その瞬間、小林は部屋の奥に逃げ込もうとした。だが、美咲が懐中電灯で潮砂を照らすと、潮砂が膨張して扉を押し返し、逃げ場を塞いだ。「……これが潮砂の罠……!」小林は叫ぶ。
警察の到着は数分後だった。悠斗と美咲は小林を押さえつけ、密室のトリックと潮砂の仕組みを詳細に説明した。潮砂の性質を利用すれば、誰も逃げられない密室を作ることが可能であり、霧や風も利用して犯行現場を隠すことができた。
小林は逮捕され、島は再び静けさを取り戻した。だが、悠斗は窓の外の霧を見つめながら呟いた。「潮神の祠の力は、人の手では消せない……」
美咲も頷く。「でも、正しい祈りと知識があれば、迷宮も解けるのね」
潮風荘に戻ると、二人は静かに潮の音を聞いた。――霧の中で、潮砂が微かに光り、鈴の音が遠くで響いた。悠斗はノートを取り出し、今日の出来事を記録する。「犯人も捕まった。密室も解明した。だが、この島の秘密はまだ、生き続ける……」
海の向こうで白い影が一瞬揺れた気がした。悠斗は微笑む。――潮神の囁きは、まだ、島の誰かに伝え続けている。
第7章 潮神の遺産
神津ヶ島は、再び穏やかな日常を取り戻していた。潮風荘の周囲には、白い砂が淡く残り、海の香りと潮の囁きが漂う。悠斗と美咲は、事件から数日後、静かな海岸を歩いていた。
「……本当に、何もかも終わったのね」美咲が呟く。悠斗は波打ち際の砂を踏みしめながら答えた。「いや……潮砂の力も、祠の秘密も、この島に残る。 でも、正しい知識と祈りさえあれば、もう迷宮にはならない」
二人は潮風荘に戻り、潮砂の性質や密室の仕組み、祠の伝承を記録することにした。悠斗はノートを開き、過去の事件と、犯人のトリック、潮砂の性質を詳細に書き残す。美咲は、島の古老や遺族から聞き取った証言を整理した。
「この島の秘密は、未来に伝えなきゃ……」美咲が言う。悠斗は静かに頷く。「祠は人を裁く場所じゃない。罪を封じ、赦しを伝える場所なんだ。 だから、物語として残す。誰かがまた迷った時、道標になるように」
その夜、二人は潮風荘の窓から海を眺めた。遠くで、かすかに鈴の音が聞こえる。――潮砂が風に揺れ、微かな光を放っている。悠斗は懐中時計を手に取る。針は正常に動き、11時51分を示していた。「涼子は、あの瞬間からずっと、潮の向こうで見守ってくれているんだろう」
翌朝、二人は小さな祠の跡地を訪れた。白い砂の中に、手製の小さな封筒が埋められていた。封筒の中には、涼子が残した短いメモ。
『潮の音を聞き、祈りを忘れずに。罪を裁くのではなく、赦しを伝えるために――それが、私たちの遺産です。』
悠斗はメモを握りしめ、海を見つめた。波が白銀に輝き、潮風が頬を撫でる。――島に残る秘密は、人々の心に生き続ける。悠斗は深く息を吸い、静かにノートを閉じた。
「潮騒の向こうに、君は確かにいる」彼の呟きに、海が応えるように波音を返した。
遠くで白い影がひとつ揺れた。微かに笑うその姿は、涼子だった。そして、潮の向こうで、また新たな物語が始まる気配がした。
この物語を紡ぎ終え、再び神津ヶ島の海風を思い返す。潮砂は、ただの砂ではない。人々の罪を封じ、祈りを伝え、時には過去の記憶を呼び覚ます。
『潮騒の彼方に消えた夜』では、前作では語られなかった、島に残る夜の記憶と人影の謎を描いた。読者の皆さまが、この島の夜霧と潮の音の中に、かすかな光を見出していただけたなら、それが物語の意義である。
そして、いつかまた、潮騒の向こうで、人と人の記憶が交わる瞬間が訪れることを願って――。
篠宮悠斗が歩いた島は、今日も潮の囁きとともに静かに揺れている。




