潮騒の果てで君を待つ
潮の匂いには、記憶を呼び覚ます力があるという。
それは海風に運ばれてくる懐かしさであり、ときには胸の奥底をざわつかせる、説明のつかない不安でもある。
――なぜ、人は海に惹かれ、そして恐れるのか。
この物語の舞台となる神津ヶ島は、地図の片隅に忘れられたように佇む小さな孤島だ。
人々は昔からそこに祠を建て、潮に祈りを捧げてきた。
祠は守られるべき境界であり、島の生活と死者の記憶を繋ぐ場所でもあった。
だが時代が移り、祠が持っていた本来の意味を知る者は少なくなった。
容易に触れてはならないものに、人はいつしか無邪気に手を伸ばす。
その結果、海は静かに怒りを溜めていったのかもしれない。
この物語は、ある作家がその島を訪れたことから始まる。
忘れられた伝承を取材するために――
けれどそこで彼が目にしたのは、伝承ではなく“生きている罪”だった。
潮騒の中には、確かに声がある。
それは誰かの祈りか、悔恨か、あるいは赦しを求める響きか。
あなたは読み進めるうちに、きっとその声の正体を知るだろう。
潮は引き、また満ちる。
罪もまた、流れ、戻り、巡り続ける。
――潮鳴りの果てで、あなたは誰の声を聞くだろうか。
― 第1章 孤島への渡航 ―
フェリーの甲板に立つと、潮風が頬を刺した。 空は鉛色に曇り、海は冬の重たさを湛えていた。 篠宮悠斗は、胸ポケットのノートを押さえながら、遠くに浮かぶ小さな島を見つめた。
――神津ヶ島。 地図の上では点のようにしか見えない孤島。人口は三十人ほど。 十年前までは観光地としてそこそこ知られていたが、嵐による土砂崩れで港が閉鎖され、今では定期便も週に二本しかない。
悠斗は三十を過ぎたばかりの小説家だった。 デビュー作こそ新人賞を受けたが、その後は鳴かず飛ばず。担当編集の勧めで「島の伝承を題材にした新作」を書くため、この神津ヶ島に取材に来たのだ。
「お客さん、あの島ですよ」 声をかけてきたのは船員の初老の男だった。 灰色のニット帽に潮で白くなった髭。 「これから冬のあいだは、ほとんど人が来やしません。取材とは、物好きですねえ」 悠斗は苦笑した。 「静かな場所で、少し書きたくて」 「静かすぎて、寂しくなりますよ」 男の言葉には、どこか警告めいた響きがあった。
船が島の桟橋に着いたのは正午過ぎだった。 港には一人の女性が立っていた。 長い黒髪を束ね、厚手のマフラーを首に巻いている。 「篠宮さんですね? 民宿“潮風荘”の者です。田嶋涼子と申します」 彼女は控えめに会釈した。 声は少し低めで落ち着いていた。
潮風荘は島の中心にある古い木造二階建てで、かつては観光客で賑わっていたらしい。 しかし今は、客室の大半が閉鎖され、暖房の効く部屋が数部屋だけ残っている。
「お客さんは今、あなただけです」 涼子が湯呑を置きながら言った。 部屋の中には石油ストーブの匂いと、どこか懐かしい味噌汁の香りが漂っていた。 「ほかの宿もみんな閉めちゃってるんです。冬は嵐が多いですから」 「この島には、昔“神隠し”の伝説があるそうですね」 悠斗が尋ねると、涼子の表情がわずかに曇った。 「ええ……“潮の祠”の話ですか」 彼女は言葉を選ぶように続けた。 「海の底に“潮神さま”がいて、怒らせると嵐を呼び、人を連れて行く……昔から、そんな話が伝わってるんです」
その夜、悠斗は取材ノートを広げ、涼子から聞いた話をまとめていた。 古びた窓の外では風が唸り、海鳴りが低く響いている。 ふと、階下で何かが落ちる音がした。 ――コン、と硬いものが床に転がるような音。
階段を降りると、廊下の突き当たりの倉庫の扉が少し開いていた。 中を覗くと、暗がりの奥に人影が立っていた。 「……どなたですか?」 声をかけると、老人がゆっくりと振り向いた。 白髪に海風で焼けた肌。 「すまん、驚かせたかの」 「こちらの方は?」 背後から涼子が現れた。 「父です。田嶋庄吾。潮風荘の元の主人です」 庄吾は静かに頷いた。 「外の祠を見に行こうと思ってな。風が強くて……」 「祠?」 「そう、あの崖の上にな……潮神さまが眠っておられる」
庄吾はそれだけ言うと、ふらりと去っていった。 その背中には、妙な影がつきまとうような気配があった。
翌朝、島にもう一人の客が来た。 「やあ、作家先生。偶然ですね」 穏やかな笑みを浮かべた男は、悠斗の大学時代の知り合い、新聞記者の藤堂亮だった。 「お前もここに?」 「ちょっと取材でね。十年前の“あの事件”の続報を追ってる」 「事件?」 藤堂は意味ありげに笑った。 「島の旧家“御厨家”の当主が殺された。犯人はいまだに捕まっていない。君が書こうとしてる伝説の祠も、少し関係してるらしい」
その日の午後、藤堂の案内で御厨家を訪れた。 重厚な石垣と黒い瓦屋根。 中では、一人の老女が静かに座っていた。 「御厨桐子です。亡き夫のことを、まだ記事にされるのですか?」 その声には怒りよりも、疲れた哀しみが滲んでいた。
藤堂が話を切り出そうとした瞬間、屋敷の奥から悲鳴が上がった。 走っていくと、廊下の先の部屋の扉が閉ざされていた。 中から鍵がかかっている。 窓も内側から締まっている。 藤堂が肩で扉を押し開けた。 中には一人の男が倒れていた。 胸には刃物が突き立ち、血が畳に滲んでいた。
部屋の中央には―― 昨夜、庄吾が言っていた“潮神の祠”の小さな木像が置かれていた。
悠斗は息を呑んだ。 そしてその瞬間、風が屋敷を揺らし、海の方向から低い唸り声が響いた。
まるで、何かが目を覚ましたかのように――。
― 第2章 密室の祠 ―
警察の到着は翌朝だった。 とはいえ、神津ヶ島には常駐の警官はいない。 本土から派出所の刑事が小さな連絡船で来るまで、半日以上かかった。 その間、御厨家の屋敷は島の者たちによって封鎖された。 悠斗と藤堂は、居間の隅で黙って座っていた。 殺されたのは、御厨家の使用人――新見孝三という男だった。 五十を少し過ぎ、島で唯一、都会での経験がある人物。 几帳面で無口、そして桐子に深く仕えていたという。
現場は奇妙だった。 鍵は内側から。窓も格子付きで、内側の錠が閉まっている。 床には血の跡が広がっていたが、犯人が通った形跡はない。 唯一異様だったのは、被害者の右手に握られていた小さな布袋―― 中には白い砂が入っていた。
「……砂?」 悠斗が呟くと、藤堂がうなずいた。 「潮神の祠の前に撒かれてる“潮砂”だ。祠の結界の印さ」 「つまり、犯人は――祠と関係している?」 「それがこの島の闇なんだ」
島民たちは怯えていた。 誰もが祠の名を出すことを避け、夜は家に灯を落とす。 涼子の父、庄吾もまた無言だった。 夕食の席で悠斗が話を向けても、ただ湯呑を握りしめたまま視線を落とした。 「庄吾さん……昨日の夜、祠に行こうとしていたそうですね?」 「……行ってはならんかった」 かすれた声が返ってきた。 「潮神さまは怒っておられる。あれは人の手で壊してはならんものだ」 「壊す?」 「御厨の連中が、祠の土地を削った。海沿いの道を造るためにな。 それからだ……“潮鳴り”が変わったのは」
その言葉に、涼子が顔を上げた。 「お父さん、その話はもう――」 「言わんと、また誰かが死ぬ」 庄吾はそう言い切った。 その瞳には、かつて何かを失った者の恐怖が宿っていた。
その夜、悠斗は眠れなかった。 窓の外で、風が波を叩く音がする。 遠くで犬の鳴き声がして、やがて海のほうから鈴のような音が聞こえた。 ――カラン……カラン…… まるで誰かが祠で鐘を鳴らしているような音だった。
翌朝、悠斗は藤堂と共に祠を訪れた。 崖の上に立つ小さな石の祠。 潮風に晒され、表面は苔に覆われている。 周囲の地面には、昨日の雪がまだ残っていた。 「見ろ、足跡がある」 藤堂が指差した先、祠の前に二人分の足跡。 一方は藤堂のもの、もう一方は――。 「この形……昨夜降った雪のあとについたものだ。つまり、誰かが夜にここへ来た」 悠斗は祠の扉を開けた。 中には、木製の人形が祀られていた。 潮神を象ったとされるそれは、奇妙に人の顔に似ていた。 そして、足元に血のような赤い染みが点々と残っている。
「血……?」 藤堂が息を呑む。 「まさか、被害者をここで……?」 「いや、それにしては量が少なすぎる」
そのとき、背後で声がした。 「――触らないほうがいい」 振り返ると、そこに桐子が立っていた。 黒い喪服に身を包み、手には数珠。 「潮神さまは怒っておられます。あの男が封印を破ったから」 「封印?」 「ええ……昔からこの島では、潮が逆流する日、“潮返し”の日に祠を封じるのです。 けれど、今年は誰もそれをしなかった。あの男が……潮砂を売りに出したから」
桐子の視線は、祠の奥を見つめたままだった。 「潮砂は、ただの砂ではない。死者の骨を砕いて混ぜてあるのです」
空気が凍りついた。 悠斗は、藤堂の横顔を見る。 彼もまた顔を強張らせていた。 「死者の……骨?」 「潮神を鎮めるために、昔は“捧げもの”をした。海に沈められた者の骨を、砂に混ぜたのです」 桐子は微笑んだ。 「だから、あの砂に触れた者は……連れて行かれる」
その夜、潮風荘の電話が鳴った。 受話器を取った涼子の顔が青ざめた。 「藤堂さんが……崖の下で見つかったそうです」
悠斗は一瞬、息を呑んだ。 「まさか……」 「遺体は……祠の下の岩場に打ち上げられて……」 涼子の声は震えていた。 「手の中に、あの“潮砂”が握られていたって……」
窓の外では、風がまた鳴いていた。 まるで、海の底から誰かが呼んでいるように――。
― 第3章 潮砂に眠る記憶 ―
翌朝、海は鉛色の霧に包まれていた。 風は止み、波も凪いでいる。 けれどその静けさは、まるで世界そのものが息を潜めているようだった。
藤堂亮の遺体は、崖下の岩場に横たえられていた。 首の角度は不自然で、頭部には強い衝撃の痕がある。 だが、転落の跡が見当たらなかった。 足場も崩れていない。 そして――手の中には、あの白い潮砂。
現場検証に来た刑事は、眉をひそめて言った。 「これは……偶然じゃないな」 悠斗は唇を噛んだ。 「昨夜、彼は誰かに会うと言って宿を出ました」 「誰に?」 「それは……」 悠斗は言葉を詰まらせた。 藤堂は、最後に言っていたのだ。 ――“潮砂の出所を突き止めた。これで全部つながるかもしれない”と。
潮風荘に戻ると、涼子が台所で小さく震えていた。 「……あの人、優しかったのに」 「藤堂さんのことを?」 「はい。取材だって言ってましたけど、本当は……十年前の事件の真相を知りたがってたみたいです」 「十年前……御厨家の当主が殺された事件?」 涼子はゆっくりと頷いた。
彼女は棚から古びた新聞の切り抜きを取り出した。 日付は十年前、冬。 見出しには、 「神津ヶ島・旧家当主刺殺事件 犯人不明のまま迷宮入り」 とあった。 「当時、島に滞在していたのは、うちの父と、御厨家の人たち、それに……」 涼子は少し言いにくそうに続けた。 「……私の母です」
「お母さん?」 「はい。母はその夜、屋敷の掃除を頼まれていて……事件の翌日、海に流されて亡くなりました」 「事故として処理された?」「ええ。でも、私は信じていません。あれは“呼ばれた”んです。潮神さまに」
涼子の瞳は遠い記憶を見ていた。 「母は、祠の前で白い砂を撒いていたって……島の人が言ってました。潮砂を使うのは、死者を鎮める儀式なんです。あの夜、母は誰かを庇っていたのかもしれません」
悠斗はしばらく沈黙した。 ――藤堂が調べていたのは、その事件だった。 彼が掴んだ“潮砂の出所”とは、つまり――涼子の母。
その晩、悠斗は自室で藤堂の遺品を整理していた。 ポケットから小さな録音機が出てきた。 再生ボタンを押すと、雑音のあとに低い声が流れた。
《……御厨桐子が、潮砂を集めていた。理由は、“封印を保つため”だと。 でも違う。あれは、罪を隠すための儀式だった。》
ノイズが混じる。 《祠の下には……“誰かが埋められている”。》
音声はそこで途切れた。 悠斗は背筋に冷たいものが走るのを感じた。 祠の下――そこに“何か”がある?
深夜、彼は外套を羽織って外に出た。 潮風荘の裏手から崖道を登り、祠の前に立つ。 海は黒く、波の音だけが聞こえる。 足元の砂が微かに光っていた。 月明かりではない。砂そのものが淡く白く光っているのだ。 ――潮砂。 まるで、死者の魂が光っているかのように。
悠斗は手を伸ばし、祠の下の地面を掘った。 硬い石に触れた。 その下から、木の板のようなものが現れる。 板には古い文字が刻まれていた。 「潮ヲ鎮メヨ 罪ヲ封ゼヨ」
板をどけた瞬間、湿った風が吹き上がった。 まるで地下から何かが息を吐いたようだった。 その直後、背後から声がした。
「――何をしているの?」
涼子だった。 彼女は白いコートを羽織り、手に提灯を持っていた。 「危ないですよ。ここは夜に来てはいけないって……」 「藤堂さんの録音にあったんだ。祠の下に何かが埋まっていると」 「それでも、掘っちゃだめです!」 涼子は涙声だった。 「母は……母は、ここで死んだんです!」
風が一気に強まった。 提灯の火が消え、闇が二人を包む。 海鳴りが轟き、波しぶきが崖に叩きつける。
そのとき、祠の奥から、何かが落ちる音がした。 ――カラン、と金属の音。 悠斗が覗くと、そこには古びた懐中時計が転がっていた。 文字盤にはひびが入り、針は「午後11時50分」で止まっている。
「これ……!」 涼子が息を呑んだ。 「母が持っていた時計です。あの夜、海に落ちる前まで……」
波の音が一層強くなる。 崖下の闇の中で、白い光がちらりと揺れた。 まるで、誰かがそこに立っているように。
「……お母さん?」 涼子が震える声で呟いた。 次の瞬間、足元の砂が沈み、悠斗と涼子は一緒に崩れ落ちた。
土の下から現れたのは、 ――白い骨だった。
それは、長い年月を経てなお、海風に晒されたように乾いていた。 骨の傍には、錆びた小刀と布袋があった。 袋の中には、乾いた白い砂。 そして一枚の古びた紙。
紙には震える文字で、こう書かれていた。
「罪ヲ封ズ。ワガ愛ス者ヲ潮ニカエス」
涼子はその場に崩れ落ちた。 「……母が、自分で……?」 悠斗は紙を握りしめたまま、空を仰いだ。 風の音が、嗚咽のように響いた。
その夜、島の灯りはすべて消えた。 そして翌朝―― 潮風荘の裏手に立つ祠が、跡形もなく崩れ落ちていた。
― 第4章 罪と潮の記憶 ―
夜が明けると、島は不思議な静けさに包まれていた。 祠が崩れ落ちた場所には、白い砂が広がり、まるで雪のように地面を覆っていた。 海は凪ぎ、空には雲ひとつない。 しかしその穏やかさは、どこか不気味だった。
警察が再び島に来るまで、二日かかった。 崖下の骨は、鑑識によって「女性のもの」と判明した。 年齢は三十代前後。十年前に行方不明になった――田嶋沙代、涼子の母親の特徴と一致していた。
涼子は警察の前では泣かなかった。 ただ、帰り道、潮風荘の前で立ち止まり、空を見上げて言った。 「お母さん、ようやく帰ってこれたね……」
その声は、かすかに笑っているようにも、泣いているようにも聞こえた。
悠斗は彼女の隣に立ち、静かに言った。 「……祠に残っていた紙。あれを書いたのは、あなたのお母さんだと思う」 「“罪を封ず、我が愛す者を潮に還す”……」 涼子はその言葉を噛みしめるように呟いた。 「誰を、封じたのか……」 「それを知るには、もう一度“御厨家”に行くしかない」
その日の午後、二人は御厨家を訪ねた。 老女・桐子は、以前よりもやつれた顔で出迎えた。 「また、祠のことを調べに?」 「ええ。祠の下から、女性の骨が見つかりました」 桐子の表情がわずかに動いた。 「……そう。ついに見つかったのね」
「あなたは知っていたんですね?」 悠斗が問うと、桐子はゆっくりと頷いた。 「あの人を殺したのは、私の夫――御厨信継です」 「十年前の事件……」 「そう。でも、正確に言えば“殺してしまった”のです」
桐子は静かに語り始めた。
――十年前、島では観光再開のために海沿いの道路工事が進められていた。 御厨家はその土地を持ち、潮神の祠を「撤去」しようとしていた。 だが、島の古老たちは猛反対した。 その中に、潮風荘の女将・田嶋沙代がいた。 彼女は祠を守るため、御厨家に直談判に行った。 夜遅く、嵐の中で――。
「夫は、怒りに任せて彼女を突き飛ばしたのです。 石段から落ち、頭を打って……」 桐子の目が遠くを見た。 「夫は怯えて祠に彼女を運び、潮砂で遺体を隠しました。 “潮神に贖罪を”と……。 けれどその夜、嵐で祠が裂け、夫も同じ場所で胸を刺されて死んだ」
「じゃあ、殺したのは――」 「……沙代さんではない。誰かが、夫を“罰した”のです。 それが誰かは、いまだに分からない」
涼子は静かに涙を流していた。 「お母さんは、誰かを庇って祠を封じた……」 「ええ。きっと、あなたを守るために」
その夜、悠斗は一人で日記を開いた。 この島に来てからの出来事を、時系列で並べる。 ――十年前の事件 ――祠の封印 ――潮砂に混ぜられた骨 ――藤堂の死
だが、どうしても一本の線に繋がらなかった。 唯一の鍵は、“密室”の殺人。 新見孝三が殺された部屋には、内鍵がかかっていた。 だが彼の手には潮砂。 祠から取ってこなければ、手に入らないもの。 ――犯人は、部屋の外から砂を撒き、鍵を閉めた?
悠斗は立ち上がった。 もう一度、あの部屋を確かめなければ。
御厨家の屋敷に戻ると、夜の闇が廊下を覆っていた。 懐中電灯を照らす。 畳の部屋、襖、そして――床の間。 悠斗は気づいた。 襖の縁が、わずかに濡れている。 指で触ると、塩の味がした。
「……潮水?」
そして天井に目を向けた瞬間、ぞくりとした。 梁の上に、細い竹筒のようなものが刺さっている。 竹筒の中には、白い砂。 それが床の隙間を通って、まるで“潮が部屋に流れ込むように”撒かれていたのだ。 そして、その砂が血を吸って、密室の“儀式”を完成させていた――。
まるで、祠を模した小さな封印。 殺人そのものが、祈りの形だったのだ。
その瞬間、背後で音がした。 ふと振り返ると、障子の向こうに影が立っていた。
「……見つけたのね」
声の主は――涼子だった。 薄明かりの中で、彼女の頬を涙が伝っていた。 「母は、祠を守った。でも、島の人たちは“祟りを恐れて”父を責めた。 母は、その罪を自分の中に封じて、潮に還ったの。 ――でも、あの男は許せなかった」 「あの男?」 「新見孝三。祠を壊したのは、彼だった。お母さんを……封印したのも」
涼子の肩が震えた。 「だから、私が殺したの。潮砂で鍵を閉じて、祠と同じように封じた」
その声は、静かで、悲しかった。 「祠は、人を喰う場所なんかじゃない。罪を閉じ込める場所なの。 でも、閉じ込めたままじゃ、潮も心も腐っていく。 ――だから、私が終わらせたの」
悠斗は何も言えなかった。 風が障子を揺らし、白い砂が部屋に舞い込む。 その砂は月明かりを反射して、まるで無数の魂のように煌めいた。
涼子は微笑んだ。 「ありがとう。あなたが来てくれたから、全部、言えた」 「涼子……」 「ねぇ、もしこの島を出たら、海の見える場所で暮らしたい。 潮風の音を聞きながら……」
言葉の途中で、外の風が一層強く吹いた。 障子が開き、白い砂が部屋を満たす。 その瞬間、涼子の姿が霞のように消えた。
悠斗が叫んだ。 「涼子!」
だがそこに残っていたのは、白い砂の跡と、懐中時計だけだった。 針は――再び、「午後11時50分」で止まっていた。
― 第5章 潮鳴りの果て ―
翌朝、島は再び霧に包まれていた。 波の音は遠く、海は白く溶けている。 潮風荘の部屋には、涼子の姿はなかった。 枕元には、昨夜のまま懐中時計が置かれている。 針は動かないまま、11時50分を指していた。
悠斗は外へ出た。 祠の跡は跡形もなく崩れ、白い砂だけが風に流されている。 足跡はなかった。 まるで最初から誰もいなかったかのように。
港に行くと、島の漁師たちが集まっていた。 皆、青ざめた顔をして海を見ている。 「今朝方、海の上に人影が見えたんだ」 「まるで、誰かが歩いてるみたいに……」 「でも、波が来て――消えた」
悠斗は息を呑んだ。 涼子は……。
そのとき、桐子が静かに近づいてきた。 黒い喪服に身を包み、手には白い布袋。 「――潮神は、ようやく静まったようですね」 「どういう意味です?」 「涼子さんは、母親と同じ“守り人”だったのです。 祠を封じ、罪を潮に流す者。 でも、彼女は一度その掟を破った。だから、潮が呼んだのです」
桐子の目は悲しげだった。 「けれど、あなたがこの島に来たのも、“呼ばれた”からなのかもしれません」 「呼ばれた?」 「ええ。祠を壊したあの日、潮砂を集めたのは島の者たち。 でも、それを封じたのは――外の世界から来た人間だったと聞いています」
「……誰です?」 「篠宮悠斗という作家が昔いたのをご存じですか?」 悠斗は眉をひそめた。 「僕と同じ名前……?」 「ええ。あなたのお祖父様です。 あの方は、昔この島に滞在して祠の伝承を記録した。 そして、“罪を封ずるための物語”を遺していかれたのです」
悠斗の胸が熱くなった。 祖父の名――篠宮悠平。 幼いころに一度だけ、彼が話していた言葉を思い出す。 “潮の音は、死者の声じゃない。赦しを願う祈りの音なんだ”
――赦し。 それが、この島に必要だったものなのか。
悠斗は潮風荘に戻り、机に向かった。 ノートを開き、これまでの出来事をすべて書き連ねる。 「御厨信継、田嶋沙代、新見孝三、そして涼子――」 四つの名が、一本の線で繋がっていく。
すべての事件は“潮砂”を中心に動いていた。 潮砂は、骨の粉と塩を混ぜたもの。 乾くと膨張し、湿気を含むと固まる。 つまり――部屋に撒けば、湿度によって鍵穴を塞ぐことができる。 それが“密室”のトリックだった。
そして、もうひとつ。 涼子が消えた夜、障子を開けた瞬間に吹き込んだ風。 ――あれは“風”ではなく、潮砂の反応。 祠を封じていた砂が湿気を吸い、熱を発して崩れたのだ。 祠の崩壊も、偶然ではなかった。
悠斗は悟った。 涼子は、自分の罪を封じるため、最後の封印を解いたのだ。 母と同じように、“潮に還る”ことで。
夜になった。 海岸に立つと、潮が満ちていく音がする。 波の中から、微かに声が聞こえた。
――ありがとう。
涼子の声だった。 海の彼方で、白い影が揺れている。 それは、まるで風に溶けるように消えていった。
悠斗は懐中時計を取り出した。 針は止まったままだ。 けれど、海風に当てると、カチリと音を立てて動き出した。 11時50分を過ぎ、11時51分へ。
その瞬間、夜空に光が走った。 海を照らす月が雲間から現れ、潮面が白銀に輝く。 潮風が頬を撫でた。 そこには、あの笑顔が確かにあった気がした。
悠斗はノートを閉じ、静かに呟いた。 「――物語は、ここで終わる」
だがその筆跡の最後には、彼女の名が記されていた。
“潮風荘の娘・田嶋涼子。 この物語を、君に捧ぐ。”
― 第6章 潮の祈り ―
島を離れたのは、事件の一週間後だった。 港を出るフェリーの甲板に立ち、悠斗は振り返った。 朝の霧がまだ島を覆っている。 その奥に、潮風荘の屋根がかすかに見えた気がした。
あの場所にはもう、誰もいない。 けれど確かに、潮の香りとともに“彼女の気配”は残っていた。
東京に戻ると、出版社の編集者が待っていた。 「無事で何よりです。ニュースで見ましたよ。あの島のこと」 悠斗はただ笑って頷いた。 「……あれは、ただの古い伝承ですよ」 「でも、あなたの新作。タイトルは決まりましたか?」 「ええ」 悠斗は静かに答えた。 「――『潮騒の果てで君を待つ』」
その夜、アパートの机に祖父の古い箱を取り出した。 桐子が島を去る前に渡してくれたものだ。 中には一冊の古びた手記と、懐中時計。 手記の表紙には、かすれた文字でこう書かれていた。
> 『罪を封ずるものは、いつか潮に還る。 > だが、祈りは消えない。 > 祠とは、罪を裁く場所ではなく――赦しを思い出す場所である。』
ページをめくると、祖父・篠宮悠平が島に滞在していた頃の記録が綴られていた。 祠の伝承、潮砂の作り方、そして島の“守り人”について。
――“守り人は、潮の音を聞く。 それは死者の声ではなく、赦しを求める者のささやき。 彼らはその声を聞き、罪を潮に流す。 そうして島は、生き続ける。”
手記の最後に、見覚えのある筆跡があった。 “追記”として挟まれていたその文字は、祖父のものではなかった。 涼子の字だった。
> 『あなたが読む頃、私はもう潮の向こうでしょう。 > でも、ありがとう。あなたが来てくれたから、 > 罪は言葉になり、祈りは物語になった。 > それが、母が望んだ“赦し”の形だったの。 > どうか書いてください。潮の音のように、 > 誰かを責めるのではなく、誰かを思い出す物語を。 > > いつかまた、海の見える場所で。』
文字はところどころににじんでいた。 涙の跡のように。
悠斗は懐中時計を手に取った。 針は今も、11時51分を指している。 彼女が消えた、その一分後の時間。 ――祠の封印が解かれた瞬間だ。
潮の音が聞こえる気がした。 東京の真夜中の部屋なのに、窓の外から波が寄せては返すような響きがした。 悠斗は窓を開けた。 夜風が頬を撫でる。 遠くの海の光が、微かに瞬いていた。
その中に、白い影がひとつ、ふわりと浮かんでいるように見えた。 柔らかな笑顔。 涼子だった。
「……また、会えたね」 声に出すと、潮の音が一度だけ強く鳴った。 まるで彼女が「ええ」と答えたように。
懐中時計の針が、静かに動き出す。 カチ、カチ、カチ――。
悠斗はノートを開き、最後の一行を書いた。
> “罪は海に溶け、祈りは波に還る。 > そして潮の果てで、人は再び出会う。”
インクが乾く前に、外の風がページをめくった。 そこには、彼女の名が再び現れていた。
――田嶋涼子。
悠斗は微笑んだ。 潮の音が静かに遠のいていく。
物語は、ようやく終わりを迎えた。
【終章】 潮騒の果てに
翌年の春、『潮騒の果てで君を待つ』は刊行された。 小説は静かに広まり、読者の多くが「涙が止まらなかった」と感想を寄せた。 だが、誰も知らない。 この物語が本当に“実話”であることを。
悠斗はその年、再び島を訪れた。 祠の跡地は、今は花が咲く小さな丘になっていた。 海は穏やかで、潮風が優しく吹いていた。 丘の上に一本の木が立ち、枝に小さな貝殻が吊るされている。
彼はその下に懐中時計を埋めた。 「これで、もう二度と時は止まらない」
潮風が彼の髪を揺らした。 海の向こうで、白い影がふっと揺れた。
――潮騒の果てで、君を待つ。
その言葉を胸に、悠斗は目を閉じた。 海の音が、優しく響いていた。
完
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この物語は、海辺の祠を題材にしたある地方の伝承を知ったときに生まれました。
潮の満ち引きのように、失われたものが戻ってきたり、忘れたはずの痛みがふと胸を刺したりする――
そんな人間の心の動きを、島という閉ざされた空間に落とし込んでみたいと考えたのです。
人は、ときに自分の罪に名前すらつけられません。
忘れようとすることもあれば、抱え続けることを選ぶこともある。
けれどそのどちらにしても、海のようにどこかで静かに揺れ続け、波となって押し寄せる瞬間が必ず訪れます。
物語に登場した祠は、ただの舞台装置ではありません。
それは「人が自分自身と向き合うための場所」、
あるいは「隠し続けた思いをそっと置いていく場所」として存在しています。
そこへ足を向けるとき、人は初めて自分の影と向き合い、
同時に、赦しの一端にも触れられる――そんな願いを込めました。
海を眺めていると、過去の出来事が波の形を変えながら蘇ってくることがあります。
思い出は祟りにもなれば、祈りにもなる。
その境目の曖昧さこそ、物語として描きたかったものです。
本作が、あなた自身の心のどこかに寄り添い、
静かな潮騒のように、読み終えたあともしばらく残る物語であれば幸いです。
再びいつか、どこかの海辺でお会いできることを願って。




