リオという名の女性
10月にはいり暑さもやわらぎ過ごしやすくなった頃、エレンは築地の居留地に住むアメリカ人宅で家庭教師として週1日働くようになった。
エレンが初等学校の教師であることは居留地であっという間に知れわたり、家庭教師をさがしている人がいるとすぐに話がきた。
「お前が家でじっとしてるタイプでないのは知ってるが、それにしてもこんなに早く仕事を見つけてくるとは」兄が感心していた。
家庭教師だけでなく居留地にある女学校での教職の話もあった。
アメリカで盛り上がっている女子教育熱は日本にも届いており、居留地で日本女子のための学校が開学されている。
日本で「独身最高!」を広めたい思っていたので学校で働く話は魅力的だったが、兄の状態が悪くなった時にすぐに動けるよう身軽でいたいので断った。
兄の調子は悪くはなさそうだが時々とても疲れた顔をしている。ストレスをためているのではと心配だ。
エレンが働くことになった家には5歳の女の子と4歳の男の子の2人がいる。
姉だけを教えるはずが、弟が自分も姉と同じことをしたいと一緒に勉強することになった。小さな子がたどたどしく話したり、作業する姿は教師心をくすぐる。
居留地に通うようになりエレンは銀座近辺にくわしくなった。
築地から銀座、有楽町、新橋にかけて日本で一番西洋化が進んでいるといわれ洋館やアーク灯、鉄道馬車など西洋のものがあふれている。
「道の舗装が進んでほしいなあ」
ぬかるみを避けながらこぼす。
道の舗装はまだ限られた場所だけなので道は埃っぽく、雨がふるとぬかるみ歩くのが大変だ。日本人が下駄をはくのはそのせいかと納得する。
銀座へむかう横道を歩いていると道を走っていた小さな女の子がエレンの目の前でころんだ。
「だいじょうぶ?」
助け起こそうとしゃがんだところで、女の子を追っていた男の子がいきおいよく転んだ女の子をすくいあげた。
「あっちへいけ、けとう!」
小さな男の子から外国人への差別語、毛唐がとびだしエレンは固まった。
現代アメリカ人、Tは黒人で、差別的な扱いは何かとされたが、面と向かって差別語をいわれたのは数えるほどしかなく、小さな子供からいわれたことはなかった。
ポリコレという言葉などまったく存在しない、日常生活に差別語が当たり前のように飛び交う時代なので何をいわれても仕方ないとはいえ、小さな子供から差別語を聞くのはこたえる。
「助けようとしていた人に何てひどいことを。あやまりなさい!」
突然女性の声がしたかと思うと、男の子が「うるさい!」と言い返しながら女の子と走り去った。
「ごめんなさい。お気を悪くしたでしょう?」
女性が英語でエレンに話しかけた。
小柄で少女のように見えるが、凜とした雰囲気があり自分と同じような年齢かもしれない。
「気にかけてくれてありがとう。ちょっとびっくりしたけど大丈夫。
英語を話せるんだね。まだ簡単な日本語しか話せないから英語を話せる人がいると助かる」
女性がほほえむと「横浜の居留地にある学校で英語を勉強したの」と答えた。
エレンは女性の名前をきいたがうまく聞き取れず困っていると、
「私の名前は西洋人には聞き取りも発音もむずかしいようなの。だからリオとよんでください。
リオは英語の男性名だけど私の名前に一番近い音なんです」といった。
「もし時間が大丈夫なら一緒にお茶でも」
エレンは英語を話す日本人男性と知り合うことはあっても、英語を話す日本人女性と知り合うことがなかったので、ここぞとばかりにリオをさそった。
「じゃあ、私がよくいく甘味処にいきませんか?」
よろこんでリオについていった甘味処は、リオが築地の居留地で教師として働いていた時によく来た所だという。
リオが自分に注文をまかせてほしいといったあと、「あんこって聞いたことある?」と問いかけた。
「甘い豆のペーストだよね? あまり好きじゃないかなあ」
エレンの答えにうなずき注文したあと、
「これまで会った西洋人であんこが好きだという人ほとんどいないのよね」と笑った。
「ヨーロッパはどうか知らないけどアメリカの豆料理って甘くないから、豆といわれて甘いと抵抗があるかも。慣れの問題なんだろうけど」
リオは納得したようにうなずいた。
お互いのことを話すなかでリオが自分よりひとつ上の28歳だと分かった。自分の歳に近いかもとは思ったが、まさか年上とは思わなかった。
リオはエレンが初等学校の教師をしていたことを知ると、どのような教材を使っていたかを熱心に質問した。
「実は英語を教える塾をつくろうとしていて教材をさがしているの」
エレンは迷うことなく手伝いたいと申し出た。独身最高を広めるだけでなく、これを機会にリオと仲良くなりたい。
「エレンの気持ちはものすごくうれしいけど、その……お給金を払えるような状況じゃないの」すまなそうにあやまった。
「お金なんていらないわよ。日本ではうちの兄が稼いでいて働かなくていいといわれてるお気楽な身なの。
アメリカの自立した独身女性の波を日本にもと思ってたから、私にできることなら何でも手伝う。リオの塾をはやらせて日本に新風をまきおこそう!」
エレンが調子よくいったあとリオを見るとうっすら目に涙をうかべていた。
エレンの視線に気付いたリオが恥じるように顔をそらすと着物のはしで涙をぬぐった。
「ごめんなさい、見苦しい姿をみせて。会ったばかりなのに助けてくれようとするエレンの気持ちがうれしくて。
本当は居留地で教師をつづけたかったんだけど父に頼まれて。
父がむかし恩をうけた人が女子教育のための英語塾を作りたいと考えていて、その人は出資だけして実際に塾を運営する女性をさがしていた時に父が私の話をしたの。
それで私が塾をやることになったんだけど、出資者の愛人なんだろうと陰口をたたかれ嫌なことを言われることが多くなって……。
周りは出資者や父に恥をかかせないようにとしか言わないし。
だからエレンのやさしさがものすごくうれしくて――」
涙をこらえるリオからこれまでの苦しみが伝わりエレンは胸が痛くなった。
リオがアメリカ人なら抱きしめるが、日本では肉親であってもハグをする習慣がないと聞いているのでぐっとこらえた。
男女が肩をならべて歩くだけで周りから非難される日本女性の生きにくさを考えるとため息がでそうだ。
西洋に留学をした日本人男性がレディーファーストをすると、男性ではなく、女性が「なぜ男性にそのようなことをさせる」と怒られると聞いた。
この時代のアメリカも女性は男性に従うものという意識がまだとても強く、男性にしか許されないものも多い。アメリカでも女性は生きにくい。
日米で程度の差はあっても女性が生きにくいことに変わりはない。
「私に出来ることならなんでもやるよ、リオ。日本の女の子に『結婚だけが女の生き方じゃない。独身最高!』を広めないとね」
リオの目から再び涙がこぼれそうになった。