いつの時代にもいる自慢したがり
エレンは日本語のクラスを受けるため人力車にのり築地の居留地にある教会へむかっていた。
出かける用意をしていると兄が体調が悪いので学校を休むといったのでエレンは家にいるつもりだったが、「風邪なんて寝て治すしかないから看病なんていらないよ。使用人もいるし」と断られた。
兄は風邪と自己申告したが、精神的に調子が悪いのをごまかしているのではとエレンはあやしんだ。しかし額にふれると熱があり本当に風邪だった。
兄の様子をずっと注意してみているがいまのところ調子の悪さは見られない。とはいえ精神的な調子の悪さは体調のように熱がでるといったはっきりした形であらわれないので心配だ。
エレンは居留地に足を踏み入れたとたん、ほっとするのを自覚する。西洋式の建物がならび、道を歩いている人のほとんどが自分と同じ白人で、目立つことなくその他大勢でいられることに安心する。
「まさか明治時代の日本でパパラッチに追いかけられる有名人の気持ちが分かるなんて」
日本に来てからというもの見た目がちがうため、有名人のように人からじろじろ見られる生活を送っている。
この時代にカメラはあるが、持ち運びが簡単で手軽に素早く写真をとることができるカメラはまだない。おかげでしつこく追われフラッシュをあびせられないだけましかもしれない。
「エレン、もうクラスはじまってるわよ」
教会につくとエレンを見るなり牧師の妻に声をかけられ、あわてて集会所にむかう。
クラスでは日常的に必要となる地名や店の看板、物の名前、買い物をする時や使用人に要望をつたえるのに必要なものを中心に教えてくれる。
クラスを教えているのは両親とミッショナリーとして来日し、日本に長く住んでいるメアリーだ。メアリーは日本人信者の男性と結婚している。
教えられた地名を練習していると、「日本語むずかしすぎる……」クラスを受けていた一人が大きくため息をついた。
建築家の夫と一緒に日本へきたアメリカ人女性だ。
「日本語を話すのはまだ何とかなるけど、読み書きがむずかしすぎて自分がものすごくお馬鹿さんになった気がする。
日本人って一体どうやって漢字を見分けてるんだろう? 泣きたくなるほど分からない。似たような漢字がいっぱあるし……」
同じ音を表すのに、なぜひらがなとカタカナの二種類の文字が必要なのかと日本語への愚痴がつづく。
大いにうなずく。日本語を勉強した現代アメリカ人、Tの記憶があってもお手上げで、なげく必要はないといってあげたい。
しかしそのようなことを言えば一直線に頭がおかしい人あつかいされる。
クラスがおわると一緒にクラスを受けていた二人からお茶に誘われ移動した。
「そういえばエレンは法学を教えているミスター・マルタンの妹よね? 先日おこなわれた鹿鳴館でのパーティーに出席されたのかしら? お見かけしなかったけれども」
面倒くさい。答えが分かっていてもわざわざ聞いてくることにうんざりする。
彼女の夫はアメリカ政府関係者で、夫の地位だけでなくいつもさまざまなことを自慢している。
関わりたくないが居留地の世間はとても狭く下手な態度はとれない。
初対面でエレンが名前をいうと「ああ、ミスター・マルタンの妹ね」と相手はすでにエレンの素性を知っていることが多い。
築地の居留地は教育関係者が多く、兄の直接の知り合いでなくても間接的に兄を知っている確率が高い。
「兄はそのようなパーティーについて何もいっていなかったので招待されていないと思いますよ」
「まあ、それは残念でしたわね。素晴らしい趣向でしたのに」
兄が招待されていないことをエレンにいわせ満足そうだ。
「鹿鳴館はヨーロッパの社交界のようだと聞いたんですが、みなさん最新のドレスをきて華やかなんでしょうね」
建築家の妻がうっとりとした顔をしている。
エレンは「なぜ彼女がよろこんで独演会するネタを投げるのよ!」と叱りそうになるのを我慢する。
自慢したがり夫人は、夫だけでなく自身もボストンの旧家出身で、高祖父がアメリカの独立にいかに貢献したかや、先祖はヨーロッパの貴族で高貴な出だといった話を好んでする。
彼女の高祖父が独立する時に活躍した話は本当かもしれないが、貴族出身というのはあやしそうだとエレンは思っている。
「パリのアトリエで作らせたドレスで参加したら、イギリスの外交官夫人にぜひドレスをつくったアトリエを紹介してほしいと頼まれてしまって」
建築家の妻が彼女の自慢話に「すごいです」「私にはまったく想像できないような世界です」と彼女の心をくすぐる絶妙な反応をかえす。
エレンは建築家の妻が本心で自慢話をすごいと思っているのか、計算ずくで無邪気なふりをしているのか、出会って間もないこともあり判断がつかない。
――通訳がいるので大丈夫といつも自慢してるんだから、日本語を勉強するふりして自慢しに来るのはやめてほしいなあ。
エレンは二人のやりとりを聞き流しながら頭の中で文句をたれる。
日本に短期間滞在する外国人は、通訳がいれば日常生活に困ることはないため日本語の勉強をしない人が多い。エレンの兄もその一人だ。
通訳がいても日本語を話せるようになりたいと勉強する人はいるが、自慢したがり夫人の場合、日本語が目的でないのは明らかだ。自慢を聞いてくれる相手をさがすためにクラスに来ている。
自慢したがり夫人の相手は建築家の妻にまかせエレンはブリオッシュをほおばった。
せっかく日本に来たのだから日本の料理を大いに楽しもうと思っているが、なじみのない料理を毎日食べるのは大変ですでに挫折気味だ。
「他国へいっても自国で食べ慣れたものしか口にしない人のことをひそかに笑ってたが、慣れ親しんだものを食べる安心感や満足感がどれほど大きいか思い知ったよ」
兄も日本に来た当初は日本の食べ物を積極的に食べていたが、いまでは日本人との社交の場のみで食べるだけだという。
「現代日本の食べ物が恋しい……」
エレンが初めて日本の料理をためした時に、現代アメリカ人、Tの記憶が「これじゃない!」と激しく反応した。
Tは日本人の友達とニューヨークに住む日本人が通う場所によく行っていた。
そのひとつが日系ベーカリーでパンだけでなく弁当も売っていた。
日本式のやわらかい食パンでつくられたサンドイッチ、コロッケや唐揚げ、とんかつにカレーライス、おにぎりなど、日本のコンビニで見かけるようなものがならんでいた。
エレンが家の料理人に日本の普通の家庭で食べられている物を食べたいと頼むと、ご飯に味噌汁、姿焼きの魚がだされた。
エレンは姿焼きの魚をみて悲鳴をあげそうになった。魚は切り身でしか食べたことがない。
料理人に現代日本のような料理はないのか聞いたところ、料理人が知っているものもあったが、自分が知らない西洋料理ですといわれた。
料理人は西洋料理を、西洋料理店として有名な精養軒で修行した人から直接ではなく間接的におそわったらしく、基本的な西洋料理しか知らないとエレンにあやまった。
Tがよく知っている現代日本の弁当の中身は西洋料理だったらしい。
「焼きそば食べたいなあ」
コーヒーを口にふくみながら一番好きだった焼きそばをなつかしんだ。