酔っ払いは川に捨てるべき
エレンは叔母と馬車に乗り叔母の元教え子の家へお見舞いにむかっていた。
叔母の教え子は街で酔っ払いにからまれ逃げようとした時に体を馬車道に大きくはみだしてしまい馬車にひかれた。さいわい命に別条はなかったが左腕を骨折した。
「どうして……」
叔母が元教え子の不運を知ってから何度もつぶやいている言葉が馬車の中を漂う。
エレンも叔母の教え子に大けがをさせた酔っ払いに怒りでいっぱいだ。それだけでなく義兄の飲酒問題のせいで亡くなった姉に何もできなかった自分の無力さを思い出し冷静でいられなかった。
母のように世の中から酒類をなくせとまでは思っていないが、酒を飲み迷惑をかける人達を積極的に憎んでいる。馬車にひかれ骨折すべきだったのは酔っ払いの方だ。
叔母を慕っていた教え子は高等学校を卒業してからも何かあると叔母に相談していた。エレンも叔母の家で会ったことがある。
裕福な家庭で育った彼女は物質的には恵まれていたが家族に恵まれなかった。優秀すぎる兄がいたため両親をはじめとした周囲の関心は兄にそそがれ、そのうえ幼少時に病弱だった姉はすっかり健康になっていても周囲は過剰に心配した。
健康で頭の良い彼女は家族の中で影の薄い存在となってしまい、両親や周囲からの関心、愛情を向けられることが少なかった。
そのため何をしても兄のように上手くできない、誰からも必要とされない、生きている必要があるのかとすべてを諦めていたという。
彼女は高等学校を卒業後、父親が決めた相手と結婚した。親に決められた結婚だったが「これまでの人生の中ではじめて幸せだと思いました」と叔母にのろけるほど夫と仲が良く幸せな結婚生活を送っていた。
しかし夫が不慮の事故で亡くなり、彼女の両親が若いうちに再婚させた方がよいだろうと再婚をせかした。その再婚相手は妻に暴力をふるう男だった。
ドメスティック・バイオレンスという言葉などなく、女性は長い間男性の所有物として扱われ、夫が妻に暴力をふるうことは容認されてきた。
ようやく夫が妻に暴力をふるうのは許されないことだと考えられるようなり、1871年にアラバマ州とマサチューセッツ州で妻への暴力が初めて禁止され、1882年にメリーランド州で犯罪とされた。
とはいえ妻に暴力をふるうことへの大きな歯止めとまではいかず小さな一歩を踏み出したばかりだった。
「あなたもこれから元教え子達の嬉しい話だけでなく悲しい話を聞くことが多くなっていくと思うけど……。思わぬ不幸や不運に見舞われて学生時代からは考えられないような状況におかれるのを知るのはつらい。自分が何も出来ないことを思い知る。
学校では美しい心を持ち信仰心を忘れず正しく生きろと教えるけど、本当は世の中は汚い物だらけで美しい気持ちや善意は踏みにじられて利用されるだけだから、したたかにずるくなれと教えるべきなんだと思う。もちろんそんなことが許されるわけはないけど」
馬車が止まり元教え子の実家に到着した。彼女の両親が大ケガをした娘に暴力をふるう夫を見て実家に連れ帰ったという。
馬車から降りるとそばを歩いていた若い男性がエレンの肩に手をおき「ハッピーにね!」と笑顔でいうと歩き去った。
「何あれ?」
あっけにとられたエレンがつぶやくと叔母が「薬でハッピーになってるんでしょうね」といった。
この時代も薬物依存がはびこっている。モルヒネやヘロインが鎮痛剤や気うつに効く薬として使われ始めたことが大きい。薬の依存性が分かる前でどちらも気軽に使われている。
それだけでなく清国からアヘンが密輸され、ニューヨークにも犯罪の温床といわれるファイブ・ポインツなどでアヘン窟ができていた。
「どの時代も薬物依存はあるのよね……。というよりもこの時代はこの手の薬物の依存性が分かってないから乱用がひどいかも」
現代アメリカ人のTの意識が反応する。現代アメリカで身近な人が違法薬物や処方薬の乱用で依存症だったり、過剰摂取で亡くしているという話はよくあった。Tの従弟も過剰摂取で死にかけた。
大学で親しくしていた友人は様子がおかしくなったかと思うと連絡が取れなくなり、あとで薬物依存におちいっていたことを知った。
難関大学では疲れ知らずに徹夜ができ勉強がはかどると高校時代から薬物に手を出している生徒はめずらしくなかった。
大学に入るには成績の良さは当たり前で、課外活動や慈善活動などで目立つ成果をあげる必要がある。
Tの通っていた高校は進学校だったので夜遅くまで勉強するのが当たり前で、課外活動やボランティア、趣味など楽しみのための時間も確保してと忙しかった。
やるべき勉強を終わらせるために薬物に手を出す。やってはいけない間違った行動だが、そこまでして勉強する生徒の気持ちはTも理解できた。良い成績をとるには勉強するしかない。
優等生ほどこれまで自分の意志でさまざまなことをやり遂げてきたという気持ちが強いので、薬物も自分の意志でコントロールできると思ってしまう。はじめは集中して勉強する必要がある時だけに使い管理できていると自信をもつ。
しかし薬物を使っていない時の心身の調子が薬物を使っている時よりも劣ることから、いつの間にかビタミン剤のように薬物を摂取するようになり自覚がないまま薬物依存になっていた。
そして医薬が進化しているように違法薬物も進化していた。より安価で依存性が高く、よりハイになれるものが作られ手を出しやすい形になっている。キャンディーやグミの形で提供されるのでパーティーで違法薬物としらずうっかり口にするのもめずらしくなかった。
「人が何かに夢中になったり、はまるのも依存だよ。はまったものがスポーツでオリンピックに出場すれば他人から賞賛される。
でもはまったものがアルコールや薬物だと、はまればはまるほどクズ扱いだ。何に夢中になるかの違いでしかないけど、はまるものによって人生が違ってくる」
パーティーで話をした心理療法士の言葉にTは思わずうなった。オリンピック選手とアルコール・薬物依存者。共通点などないと思っていたが根本的な部分で同じだといわれ、自分の弱さを指摘されたような気がした。
アルコールや薬物依存におちいる人とkawaiiにはまっている自分の違いは、何にはまったかの違いでしかなく、kawaiiものを集めるのに借金をしてまでとなれば依存といわれるだろう。
自分は依存症になるような弱い人間ではないと思っていたが、自覚がないだけでこれまで何かに依存していて、たまたま自己破滅するほどではなかっただけなのかもしれない。越えてはいけない線は自分が思うよりもあいまいで、依存で身を持ち崩す可能性は誰にでもあると初めて思った。
「顔だいじょうぶかしら?」
叔母に問いかけられた言葉の意味が分からずエレンが反応できずにいると「鼻が赤くなってない?」と叔母が言葉を足し、泣いたように見えないかを聞かれていると分かった。
「大丈夫よ。いつも通りだよ」
叔母が小さくうなずくと「スマイル!」といいながら笑顔をつくった。どのような状況でも笑顔を忘れない叔母らしい行動だ。
エレンはつらい話を聞くことになる叔母の両手を握り、そばにいるからと叔母をはげました。




