チートにならない現代知識
新学年がはじまり兄が学校へ出勤するのを見送ったあと、エレンは日本語の勉強にはげんでいた。
エレンは日本語を教えてくれる人をさがしていたが、紹介された教師に空きがなかったり、本国に帰国していたり、清国など他のアジア地域へ移動していたりと見つけられずにいた。
そのため築地にある教会で週に一度ボランティアが教えてくれる日本語クラスに通いはじめた。
教会は信者が集まるので社交の場にもなっており、教会で知り合った人達から日本で生活するために必要なことを教えてもらい助かっている。
教会に行く日ではないのでじっくり日本語を勉強しようと思っているが、日本語の勉強にエレンは大きな敗北感をあじわっていた。
「現代アメリカ人の知識、役に立たなすぎ。大学であれだけがんばって日本語を勉強したのに……」
ため息をつきながら日本語の教本を机の上に投げ、いきおいよくベッドの上に体を横たえた。
現代の日本語と明治時代の日本語は大きくちがっているため、現代日本語の知識は笑いたくなるほど役に立たない。
この時代の日本はテレビのアナウンサーが話すような標準語がない。聞いたことのない方言が話されているので、はじめは本当に日本語なのかと疑った。
東京で話されている江戸弁にはなれてきたが、他の地域からきている人の方言は聞き取れるかあやしい。
男女で話し方にちがいがあるのは現代と同じだが、それだけでなく江戸時代にあった身分による話し方のちがいもあるようで頭が痛い。
それよりも精神的なダメージを大きくしているのが書き言葉だ。書き言葉は壊滅的に分からない。
漢字が多く、ひらがなが少ない。それどころかひらがなの代わりにカタカナが使われていたりと、なにかと現代日本語とはちがっている。
漢字もやたらと画数が多く知らない漢字でいっぱいだ。壱が一だと知った時はのけぞった。
新聞や本などの印刷物はまだどのような漢字なのか判別をつけられるが、手書きの物はくねくねつながっていたりで解読不可能だ。
明治時代の日本語、手強すぎる。
アメリカでたとえるなら現代アメリカ人が中世イギリスの英語が分からないといった感じだろう。
高校でシェイクスピアを読まされるが「何これ?」と今とは違う単語や言い回しが何かと登場する。
「なんで役に立たない現代知識しかないわけ? 小説とか映画なら現代知識を使って大もうけするとか、歴史の知識で人を救うとかだよね。
というかなんで私がまったく理解できない状況におかれてるんだろう?」
自身の手の白さを目にし、自分がいったい誰なのかと考える。
エレン・マルタンとして生まれ、エレン・マルタンとして育ち、エレン・マルタンとして生きてきた。
それが突然現代アメリカ黒人女性、Tの記憶や知識がまるで自分のもののように浮かび、自分の体験として考えている。
しかし現代アメリカ人、Tの記憶はまだらだ。なぜかTの名前がまったく分からない。
名前を考えるたびに「T」という文字だけがうかぶ。Tからはじまる名前を思いつくだけ口にしてみたが、これだ! と思うものはない。Tからはじまるのは名字かと思いやってみたが同じ結果だった。
それはTにかかわるすべての人も同じで、両親や弟、夫や継娘、友人、同僚の名前がまったくうかばない。姿形や彼らと過ごした時間はしっかり記憶にあるにもかかわらずだ。
「エゴサしたら名前が――」
そのように思ったとたん、名前が分からないのでエゴサはないかと笑えた。
Tは両親と弟がいる黒人アメリカ人としてアトランタ郊外で生まれ育ちニューヨークの大学へ進学した。大学を卒業後そのままニューヨークで暮らし、白人の夫と結婚して継娘がいた。Tの記憶は40代後半までしかないようだ。
とりとめなく頭の中に浮かぶTの情報にエレンはいらだちを感じる。
「こんなよく分からない状況になるなら、現代日本で日本人になりたい。かわいい日本をよこせ!
明治の日本もクールだけど、日本といえばやっぱりかわいいなのよ。これじゃない。
タイムトラベルしたいとか思ったことないのになあ。それに過去と未来、どちらにタイムトラベルしたいと聞かれたら絶対未来よ。
それなのになんで? 理由を考えても仕方ないんだろうけど。
もしかしてなぜこうなってるかを解明すれば元に戻るとか?」
考えても答えのでないことをぐるぐると考える。
もしこれがTが作りだした仮想空間なら「どうしちゃったの、あなた」だ。
自分がまったく求めてもいない仮想空間を作りだすような精神状態だったのか? やばすぎだ。
記憶にはないがもしかしたら明治時代の日本にはまるようなことがあったのかもしれない。だとしても明治時代の日本人になるならまだ分かるが、なぜ白人アメリカ人なのかが分からない。
望ましい状況を考える。
現代日本で日本人として生まれ、日本で育ち、お気に入りのかわいいグッズに囲まれかわいいを追求する。
友達とかわいいものを語り合い、かわいいものを見せ合い、かわいいものを作る。
ついでにコンビニと100円ショップにいりびたり、ファミレスでおいしそうな写真がいっぱいのメニューを見てわくわくしながら注文する。
「そうよ、現代日本のかわいいをこの時代に生みだせば――」
現代のかわいいを再現できるほどこの時代の技術は進んでいない。それにTは現代の生活で必要な物の使い方は知っていても、それをどのように作るのかなどまったく知らない。
「私の頭の中にある現代の知識、使えなさすぎじゃない? なんで明治日本なの――!!」叫んでみるが現実は変わらない。
「ここは過去に起こったことを知ってるから大もうけよ!」
日本の歴史はよく分からないがアメリカの歴史であれば何とかなるはずだ。
「なんか役に立たないことしか思い出せない……。いまのアメリカは金ぴか時代の発展期で、もうそろそろ車とか飛行機が発明されて普及するって感じだよね。
そうだ、学校で全大統領の名前を覚えさせられた。いまはアーサー大統領で次がクリーブランド。その次って……誰?」
記憶の使えなさに手のひらで額をたたいていた。
「株大暴落、1929年! 今から45年後だわ。いまこの瞬間に役に立つようなことってないの?」
カリフォルニアのゴールドラッシュはとっくの昔に終わっている。テディベア、タイタニック号沈没、アル・カポネなど名前や商品、大きな出来事がとりとめなく頭にうかぶ。
「使えない……。あまりにも使えない……。19世紀の終わりに流行してたものって何? 映画ってまだ発明されてないよね。
ミュージカルをはやらせたらいけるかも? でも脚本ってこれまで書いたことないわ。
これから発展する土地や産業への投資や株なら何とかなりそうだけど、株取引は男性でなければといった条件があったような気がする」
どうやら手軽に大もうけとはいかないようだ。
「やっぱり今の状況って夢か頭がおかしくなっただよね。
でもこの時代的に考えると悪魔にとりつかれたか、黒魔術で降霊しちゃったと考えるべき?」
エレンは黒魔術と考えたところでこれ以上考えても仕方ないとあきらめがついた。
「おとなしく日本語の勉強でもしますか」
エレンはベッドから体をおこすと机にむかった。