もう大丈夫
エレンはニューヨーク州北部にある避暑地として知られるサラトガから戻ってきた次兄、アーネストに会うため家をたずねた。
「久しぶりだね、エレン」
兄ではなく兄の大学時代の友人と彼の弟が迎えてくれた。友人の弟は他州からニューヨークで仕事をすることになり兄の家に下宿していた。なので彼がいるのはおどろかないが、友人本人がいるのにはおどろいた。
「お久しぶりです。長い間お会いしてないので見違えましたよ」
友人がほがらかに笑い「それって太って見た目が変わったって言ってる?」というので正直にうなずいた。
「エレン、こいつに失礼な態度をとるなよ。俺に必要な人脈をつないでくれようとしてるんだから」
「アーネスト、なんだよそれ! 俺がお前の役に立たなければ失礼な態度でいいってことだよな? 長い付き合いの友達にそれはないだろう」
2人のやりとりに兄の大学時代を思い出す。性格がちがう2人だが気が合いよく一緒に過ごしていた。
「そういえばエレン、イギリスへ売られそうになったらしいね」
何の話かと思ったが、すぐに父がエレンをガバネスとしてイギリスに送ろうとしていたことだと分かった。
「契約更新を邪魔されたおかげで日本に行く前に勤めていた学校に戻れたので結果的によかったですよ。叔母の家から近くて雰囲気もよいし。
父も馬鹿じゃないので私に無理強いすると自分の評判を落とす仕返しをするのが分かってるから深追いはしないので。でも感情的になると人ってありえないことをするので私もおとなしくしてますよ」
「その辺のバランスをマルタン兄妹はうまくとってるよな。こいつも父親対策で俺のこと頼ってきたし」
兄が友人の言葉に苦笑している。友人自身が顔が広いだけでなく、彼の父は政治家やさまざまな産業のトップと面識があった。
友人兄弟は近況報告をおえると行く所があるからと出かけた。
「日焼けがすごいね、兄さん」
兄がうんざりした顔をした。
「体を動かすのは得意じゃないけどサラトガで乗馬やボートこいだり、テニスやらされたりで本当に疲れた。
社交そのものが疲れるものだし、この夏は心身共に疲れまくりだ。でも目標を達成するには仕方ない。エレンも夏の間ずっと働いて大変だったな」
「工場で働いてる教え子に比べたら大変なんていえないわよ。毎日暑い工場で10時間以上働いてるのよ彼女達。
でも初等学校で教えるのとぜんぜん違うから、そういう意味では大変だったけどいろいろ工夫して教えるの楽しかった。
これまで10代前半までの子にしか教えたことがなかったし、英語が母語でない子に教えた経験もほとんどなかったから。彼女達が覚えやすいように母国語とからめたりしたからヘブライ語とかイタリア語の勉強しちゃった」
「自信を取り戻したようで良かったよ、エレン。俺のせいで契約更新されなかったのに、エレンに問題があるかもと落ち込ませて本当に悪かった」兄があやまった。
「なんで兄さんがあやまるのよ! 教師としての能力を広げる良い機会ですごく刺激になった。前に代理を頼まれた時は彼女が用意したものを教えるだけだったけど、今回は自分で準備したし。
それに謝るのは裏で手を回したお父さんでしょう。私をイギリスに送りこもうと校長をあやつって。ふと思ったんだけどお父さんの私への評価ってものすごく高くない? 貴族をつかまえられると思うほどだよ」
兄は笑ったあと新学年から兄も教師生活にもどるので夏の間文献を読み準備をしたので楽しみだといった。
兄が教師として再び働くことや、法で労働者を守ると信念をもち活動していることがエレンはうれしかった。気うつに悩まされていたのはすっかり過去の話だ。
「そういえばジョンがこの9月からオーストラリアで働くといってたから今頃カンガルーと仲良くなってるかもな」
横浜で弁護士をしていたジョンが知人に頼まれオーストラリアで仕事をすることになったと知らせる手紙はエレンにも届いていた。
「オーストラリアって日本からだと近いけど、アメリカからは地の果てと思うほど遠いんだよね。日本でオーストラリア人に会った時に『オーストラリア人に会えるなんて信じられない』といったら笑われたわ」
話しているエレンに兄が何か言いたげにしていた。
「何? 私なんか変なこと言った?」
「――ジョンがエレンから手紙をもらったと書いてたから気持ちに整理がついたのか聞きたかったんだ」
エレンは兄にジョンに返事をだしたことを話していなかったことを思い出した。
エレンはリオの日記を受け取ってから、リオのことを考えないようにするのはリオのことを忘れるのと同じではと思うようになった。
女性が生きやすいとはいえない日本で女の子達の道を照らしていたリオを忘れてはいけないと強く思った。おかげでリオの死を思い出させると避けてきたジョンにエレンはようやく返事を書くことができた。
兄はエレンの話を聞くと小さくうなずき「よかった」と静かにいった。
「そうだ。エレンに会ったら一番に話そうと思ってたのにすっかり忘れてた。啓が文と上手くいったらしい」
「うわ――!!! 啓やったね!」
日本で兄の通訳をしていた啓は兄妹が滞在していた神田の家で働いていた文に恋をしアプローチしていたが、文は男性からひどい目にあわされたことがあり男性への警戒心が強かった。
「本当によかった! 文が次郎のことを好きかもと気付いた時は『なぜ啓じゃなくて次郎!? 絵をかくのは上手いけど性格悪いから目を覚ますのよ文!』と叫びたかったもの。
啓は西洋人と結婚するなんていってたのに文を好きになってあっさりどうでもよくなったよね。
そういば兄さんは避暑地の恋とかなかったわけ?」
兄があわてている。エレンはこれまで兄にバレンタインデーのカードを送った女性とのことを何も聞かずにいた。良い機会なので少しだけつついてみることにする。
「……そういうのは小説の中だけの話だ。それにやるべきことに集中すべき時だし恋にうつつを抜かしている場合じゃない!」
力強くいう兄に、兄も妹同様に好きな人から好かれない呪いをかけられているのだろうと同情する。
「そうだよね。やり遂げたいことがある時はそれに集中したいものね。恋をするのは楽しいけど、楽しくないこともいっぱいある。
恋愛結婚しても恋した気持ちはつづかないから必ず幸せになれるわけでもないし」
「エレンは惚れっぽいけど子供の頃から結婚に対して冷めてるよな。まあ俺も人のことはいえないけど」
「それって仕方ないでしょう。家族や親戚のごたごたを見てると結婚や家族関係は面倒くさいとしか思えなかったもの」
兄が笑ったあと
「たしかに。でも世の中『絶対にないと言うなかれ』だから、ある時点で絶対にありえないと思っていても変わったりするからな」といった。
「エレンこそニューヨークの夏の恋はなかったのか?」
「もしあったらサラトガにいる兄さんに毎日のように手紙で進展を知らせて、今日も会うなり話してるわよ」
兄が「たしかに」とうなずいた。




