約束を果たしたリオ
ニューヨークの夏は気温も湿度も高く過ごしにくい。
上流階級、とくにオールドマネーとよばれる旧家はニューヨークの州都、アルバニー近くにあるリゾート地のサラトガで夏を過ごすことが多い。
ニューマネーとよばれる富豪は成金をきらう閉鎖的なサラトガではなく、ロードアイランド州のニューポートで夏を過ごす人が多かった。
エレンの実家は母方の祖父がニューヨーク市内から近いキャッツキル・マウンテンにサマーハウスを所有していたので、夏はキャッツキルでよく過ごしていた。
祖父の後を継いだ伯父が今年も母や叔母を招待し、エレンも同行しないかと誘われたが断った。
「やっぱり暑いわ……」
エレンはソーホーにある縫製工場での仕事をおえ外に出たが、外も工場内と変わらない暑さでげんなりする。
エレンは夏の間、以前代理として教えた縫製工場で文字を教えることにした。元同僚がペンシルベニア州にある婚家へ夏の間行くことになり再び代理として教えることになった。
週2日、交代で昼休みをとる女の子達の休み時間のみの勤務なのでエレンは工場内の暑さを短時間耐えるだけだ。しかし生徒達は工場内の暑さに文句もいわず一日中働いていた。
授業をおえたエレンはメアリーとの待ち合わせ場所に向かう。
築地の居留地にある教会で日本語を教えていたメアリーは、ニューヨーク州に隣接するニュージャージー州の実家に帰っていた。日本人男性と結婚したメアリー以外の家族はアメリカに戻っている。
メアリーは父が病で死期がせまっているという知らせを受けアメリカ行きの船に飛び乗り父親の最期に間に合った。
1年ぶりに会ったメアリーは以前と同じでほっとする。メアリーは長年日本に住み、日本人の夫がいるので何かと人に頼られることが多く忙しかった。メアリーとは日本語のレッスンや奉仕活動以外で一緒に過ごす時間がなかなかとれなかったことが心残りだった。
「なんかアメリカでこうしてメアリーと会ってるのが不思議な感じ。お互いアメリカ人だけど出会ったのが日本だからメアリーのすべてが日本と結びついているというか――」
メアリーがふふっと軽やかに笑った。
「長年日本にいたせいでアメリカ人なのにアメリカにいるのがしっくりこないのよね。実家も変わっていないようで変わっているし、近所もすっかり変わってしまった。日本に行った時はまだ子供だったから大人になった友達や知り合いの姿にびっくりよ」
メアリーは日本のおだやかな環境になれすぎ、とくにアメリカ人女性の所作の荒さが目につき話し声のうるささが気になると笑った。
それはエレンも日本から帰ってきた時に感じたことだ。日本では女性が男性を差し置いて発言したり行動することがない。女性は静かにしていることが多いのでアメリカ人女性の声の大きさやしぐさの大きさが目についた。
「それと日本人は帽子をかぶらないからどこを見ても帽子をかぶってる人しかいないのが変な感じがする。
あとひげを生やさない日本の男性を見慣れたせいか、日本人男性が西洋人を見てひげがある方が貫禄があるように見えるとひげを生やす気持ちが分かった。ひげがあるとたしかに偉そうにみえる」
西洋に留学している日本人男性がひげを生やすのは、当地で年相応に見えるようにするためというのはよく聞く。それでも日本人は西洋人に比べ若く見えるが。
「エレンに渡したいものがあるの」
メアリーがふろしきに包まれたものを差しだした。包みをあけると日本の帳面が5冊入っていた。
「リオの日記をエレンに渡してほしいとリオの家族からお願いされてたの」
メアリーと会えばエレンが日本で親しくしていたリオの話が出ると覚悟はしていたが、まさかリオの日記を渡されるとは思わずうろたえた。
「リオの妹さんがリオの生徒だった文に英語で書かれた姉の帳面について相談したの。リオが使っていた英語の教材だと思うからどこかで使ってもらえるかもしれないと。それで文が私に相談しに来たの」
エレンは自分達がアメリカに帰国したあとの文の新しい仕事先を探すのにメアリーを頼ったので、メアリーと文は交流があった。
「中身を確かめるために最初のページを読んだけど居留地の学校に通っていた頃のものもあった。
西洋に行ってみたいといってたリオの希望を少しでも叶えたいとご家族がおっしゃって。とくに妹さんがエレンに持っていてもらうのが一番リオがよろこびそうだといったの」
メアリーが一番上にある帳面を開くと
「エレンと鷲神社の酉の市にいった日のことが書かれてる」とエレンに見せた。
久しぶりにみるリオの字に涙がこぼれそうになるのをエレンはこらえた。
神社で売られている縁起物の熊手についてリオと話がかみ合わなかった記憶がよみがえる。福をかきあつめる熊手。ワンダーランド日本での楽しい思い出だ。
「――私に会いにニューヨークに来るといってたのをリオは叶えたんだね」
メアリーに礼を言いふろしきを包み直していると鼻をすする音がしメアリーが泣いていた。
「父のことですっかり涙もろくなってて」
エレンはメアリーを抱きしめた。メアリーは父親を亡くしたばかりだ。これまでと同じように生活していても、ふとした瞬間に故人を思い出し悲しみにおそわれることをエレンはよく知っている。
「遠く離れた国で暮らしてたから間に合ったのは本当に奇跡だった。
夫と結婚した時に親の死に目にあえないだろうと覚悟したけど、ぜんぜん覚悟できてなかった。船の中で父のことを考えては泣いて日本人と結婚して日本に住んでることを父に詫びてた。
でも父は娘に会えてうれしいと、ただ喜んでくれて。私が日本で幸せに暮らしていてよかったといってくれたの」
エレンはメアリーの父や家族の話を聞きながらメアリーは愛する人を失った悲しみを家族と支え合いながら乗り越えていくだろうと安心できた。
エレンはメアリーと別れたあとブルックリン・ブリッジに向かった。
1883年に開通した鉄鋼ワイヤーを使ったブルックリン・ブリッジは、マンハッタンとブルックリンを結ぶこの時代の世界最長の吊り橋だ。開通式の日に大きな花火があがりニューヨーク中がお祭り騒ぎだった。
長い年月をかけ作られた橋なので、橋が少しづつ形になっていくのを多くの市民が見守った。エレンが高等学校にいる時に建設が始まったので完成した時は「ようやく」とうれしかった。
「リオ、ブルックリン・ブリッジだよ。世界一長いの。すごいでしょうアメリカ!」
橋がよく見えるようにリオの日記を抱えた。エレンは橋を歩きながら橋から見えるニューヨークの風景をリオの日記に向かって、リオと一緒に歩いているかのように説明した。
「あそこに見えるのがトリニティーチャーチ。そうそう、自由の女神がようやく完成に近付いてるの」
このような形でリオと一緒にニューヨークを歩けるとは思わなかった。
エレンがリオの日記を読むことが出来るようになるにはまだ時間がかかるだろう。でもリオの日記をリオ代わりにしてニューヨークを案内することはできそうだ。
「ニューヨークにようこそ」
エレンはリオの日記をきつく抱きしめた。




