父の記憶力はあなどれなかった
エレンは実家の前に立ち家の外観をながめていた。人を寄せ付けない雰囲気がある。
「入るぞ」
エレンの先を歩いていた次兄、アーネストがふりかえるとエレンをうながした。今日は二人そろって父から呼び出しを受けている。
校長から次兄の噂を聞いた後エレンは兄に会いに行き状況を確認した。
兄は労働問題にかかわり労働者が人間らしい生活を送ることができる法をつくろうとしていた。労働者がどのような扱いを受け、どのような待遇の改善を望んでいるかを情報収集し、他の法学者や弁護士と協力し立案した法が議会で承認されるよう動いていた。
「俺はたまに変な男がついてくるぐらいしかされてないよ。俺自身はぜんぜん大したことないけど、友人や大学の伝手で警察や司法の上層部とつながりがあるから手を出すとまずいと思ってるんだろうな。
だから俺に近い存在で弱点になるエレンをねらうとは。本当にすまない。家族を巻き込むことになるとは思わなかった。
でも労働者のリーダーや家族がいやがらせを受けていることを考えればやられて当然といえば当然だった。油断してた。ごめん」
兄がエレンに謝った。まさか自分の行動がエレンに影響するとは思わなかっただろう。
それはエレンも同じだ。本人ではなく家族をねらうのは定番なやり方とはいえ自分がターゲットになるとは思わなかった。
「兄さんが謝ることじゃない! なんかもう腹が立つよね。利益をあげるために人を使い捨てにして、それが嫌なら逆らうな、逆らったら報復するってどれだけ人を馬鹿にするんだって言いたい!
世の中が理不尽なのは知ってる。自分が恵まれてるのも知ってるけど、あらためてものすごく恵まれてきたと痛感したわ」
エレンが受けた嫌がらせは「かわいい」部類だ。それでも頭に血がのぼるほど腹が立った。日常的にひどい扱いをされ、嫌がらせをうける労働者達はどれほど怒りをためつづけているだろう。
気を引き締めようと深呼吸すると兄も同じようにした。戦闘開始だ。
家族の集まりではなく呼び出しなので書斎にいくとすでに父がいた。挨拶をしても座れともいわれない。
「なぜ呼ばれたか分かってるな、アーネスト」
我が父ながら表情や声色のうまさに感心する。父のことをよく知らない人なら父の醸しだす雰囲気に圧倒され言うことを聞いてしまいそうだ。
「私の労働問題への関与ですよね。何ひとつ間違ったことはしていませんが」
人との衝突をきらう優しい兄だが父に対する態度は冷たい。
「相変わらず世の中のことが分かってない。正しいか正しくないかなど無意味だ。やるか、やられるかだ。弱くて愚かな人間は搾取される。搾取されたくなければ強くなり搾取する側になるだけだ」
兄がこれみよがしなため息をついた。
「お父さんとは意見が合わないので、これ以上話しても意見は平行線をたどるだけですよ」
父が兄を馬鹿にするように鼻で笑うと
「1セントの金にもならないことをやって自己満足にひたり、他人から良い人と思われるのはよほど楽しいようだな」と言い放った。
「そうですよ。正しいことをする、人の役に立つことをするのは楽しいのですよ。お父さんには分からないでしょうが」
エレンは兄の冷静さに脱帽する。エレンなら怒りのあまり感情的に言い返すだろう。
父は兄のせいでどれだけ自分が不利な立場におかれ損害をうけているか、耳をふさぎたくなるほど不快な口調で話しつづけた。
それを兄は表情を変えずに聞いていたがエレンは耐えられなかった。
「お父さんの言いたいことは分かりました。立ったままで足が疲れたのでこの辺でおいとまさせてもらいます」
兄の腕を引き帰ろうとすると父がひきとめた。
「エレン、まだお前への話をしていない」
きっと新しい縁談についてだろう。兄へ言いたいことを言っている間にエレンのことは忘れてくれていることを願ったがそうはいかなかった。
「イギリスへ移住する人が娘の家庭教師を探している。イギリスで教育を受けさせるとはいえ初めのうちはアメリカ人のガバネスがいた方が心強いだろうと考えているそうだ。
アーネストのせいで契約更新ができないと聞いた。お前の経歴を話したところぜひ会ってみたいといっている。
彼はイギリス貴族との取引で上流階級と深く関わっている。うまく取り入って貴族と結婚できるようにしろ。持参金は惜しまないので心配するな」
父からの縁談話を断るのにエレンがヨーロッパの貴族をつかまえてどうのと言ったのを覚えていたらしい。
それよりもエレンはなぜ父が契約更新について知っているのかが引っかかった。叔母と兄には話したが、それ以外の人には話していない。父との折り合いが悪い兄が父に話すわけがない。叔母が母に話した可能性もない。叔母は学年末で忙しくしばらく母に会っていない。
「お父さんには娘が絶世の美女に見えるのかもしれませんが、いたって普通の容姿でイギリス上流階級が好む洗練さもないですよ。
ヨーロッパの貴族と結婚するダラー・プリンセスの一員になるのはむずかしいかと」
父が高笑いをしたかと思うと、
「お前がヨーロッパの貴族をねらうといったんだ。その機会を与えてやるからしっかりやり遂げろ。
来学年から働く場所もないのだろう。お前の働き先を見つけただけではなく貴族と出会うチャンスもある」
父がこれまで見たことがないほど晴れやかな表情をみせた。
エレンの中で疑問が大きくなる。エレンを確実にイギリスの貴族に嫁がせられるなら父が動くのも当然だ。しかしガバネスとしてエレンをイギリスに送り貴族をつかまえろという不確実なやり方は父らしくない。
「1年で契約を切られるような教師をガバネスとしてイギリスまで連れて行きたいと思う人はいないと思いますよ」
父が舌打ちした。
「無駄によく動く口を閉じろ! 黙って親の言うことを聞けばいいんだ。姉のイネスと違って本当に役に立たない」
父の口から姉の名前を聞きたくなかった。姉の死を利用した父への怒りで爆発しそうだ。
「不自由なく育ててやった。役に立つことをしろ。お前が望む貴族との結婚が寝言におわらないようにしてやった。やるべきことをやれ。
お前が私の言うことを聞かないなら言うことを聞くようにする手段はいくらでもある」
「人を追い詰めすぎると思わぬ反撃にあうのをお忘れなく。私がやられたらやり返す性格なのは知ってますよね?
イギリスには行きません。結婚もしません。お父さんが私に無理強いをするなら私にも考えがあります」
衣擦れの音と腕をふれられた感触で父と長くにらみ合っていたことに気付いた。
となりに立っている兄が帰ろうとエレンをうながした。
実家を出ると辻馬車をひろい兄の家に移動した。
「二人のにらみ合い、すごい気迫でめまいがしたよ」兄がエレンをからかう。
「それにしても娘をイギリスへ送りこもうなんてお父さんもやってくれるよね。爵位持ちなら誰でもいいんだろうなあ。お金で転びそうな貴族リストとかあったらお父さん買いそう」
兄が気持ちのよい笑い声をたてた後、
「想像つきすぎる。俺がイギリスに留学した時にビクトリア女王が未婚だったら口説いてこいっていわれただろうな」と真顔でいった。




