もしかしてブラックメール?
「ミス・マルタン、この学校での1年はどうでしたか?」
学年末が近付くと契約更新について校長との面談がある。エレンが校長と向かい合うといつもよりも改まった口調で話しかけられた。
「新しい環境に慣れるのに少し時間はかかりましたが、素晴らしい生徒に恵まれ彼女達の成長をしっかりと目にすることができ、同僚からも学ぶことが多く教師として実りの多い1年でした」
当たり障りのない答えをすると校長がかすかにうなずいた。
「私としてはミス・マルタンの働きぶりに満足していますし、同僚や生徒達からの評判もよく良い人材を得たと思っています。
私としては契約を更新したいのですが少し気になる噂がありためらっています」
「噂ですか? まったく覚えがないのですが」
エレンはこの学校に来てからのことを思い返したが、とくに何かやらかした覚えはない。ここ最近のやらかしといえば後先考えずに財力、権力のある男性と結婚すると血迷ったぐらいだろう。
「――あなた本人ではなく、あなたの兄弟に関することです」
兄弟といわれすぐに思い浮かんだのは長兄のギャスパールだ。父と同じく銀行家として貪欲に利益を求めているので、してはいけないことをひそかにしていそうだ。
「兄が法にふれるようなことやスキャンダルになるようなことをしたとは聞いていませんが」
長兄が何かやらかしたのかもしれないが、何も知らないので知らないで通すだけだ。
校長が少しためらった後、「兄弟が労働者に肩入れをして過激な行動を取っていると聞きました」静かにいった。
やらかすなら長兄だろうと思っていたが、長兄ではなく次兄、アーネストについてだった。
次兄は労働者問題に力を貸しているが暴力沙汰には加担していない。そもそも争いごとが苦手な次兄なので過激な行動をとるはずがない。兄からそのようなことをしたとも聞いていない。
「兄は法学者で助言を求められ問題解決に手を貸しているのは確かですが、決して暴力に訴えたり、法に触れるようなことをする人ではありません。兄の行動を気に入らない人が兄をおとしめることを言っているだけだと思います」
エレンが次兄をかばうと校長がすっと表情を消した。
「実際にそのような行為があったかどうかよりも、よくない噂になっていることが問題なのです。そのような身内がいる教師は教育者としてふさわしくないのではと言う人がいるのですよ」
もしかしたらこれは次兄への遠回しの圧力かもしれない。次兄の行動をよく思わない人が次兄のことを調べ、家族に嫌がらせをして手をひかせようとしているのだろう。
「私は法学者として労働環境の改善考える兄を尊敬しています。兄の動きを妨害しようと兄をおとしめる噂をながす人が正しいことをしてるとは思えませんが」
校長が苦笑すると「あなたらしい答えね」といった。
「先ほども言いましたが事実がどうであれ、問題のある人とつながっているというイメージがあなたの教師としての評価を傷つけています。
ぜひ兄弟と話し合い噂を払拭する解決策をとってもらえると学校としては助かります。あなたの教師としての能力を買っているだけに、家族のせいで学校を去るようなことになるのは惜しいと思っています」
金ぴか時代の泥棒男爵とよばれる貪欲な経営者に「公正」「正義」などという言葉はない。ありとあらゆる手段を使う。
そのような話はよく聞いていたが実際にエレンが脅しらしきものをうけたのは初めてで大きな怒りがわき上がった。
卑怯という言葉で頭の中が埋めつくされる。覚悟の上で抗議活動をする本人とはちがい家族は同じ覚悟をもっていない。だからこそ弱みになる。家族をねらわれ彼らを犠牲にしてでもと思える人は多くないだろう。
もしエレンの実家が銀行を経営してなければ、もっとあくどいやり方で露骨に嫌がらせをうけたはずだ。父はこの手のことに慣れているので嫌がらせを受けても何とも思っていないだろうが、次兄を叱責する良い機会と考えそうだ。
もし校長がエレンに不満をもっていたらすぐに首を切られただろう。でも校長はエレンに現状を変える機会を与えてくれている。与えられたチャンスはいかしたい。
言われたことは理解したと校長につたえ部屋をでるとエレンは自分の荷物をつかみ足早に外へ向かった。
大声でわめきたい気持ちをおさえ家へと歩く。気持ちが急くので歩く速度があがった。
「どいて!」
歩道をいきおいよく走っている子供が脇からあらわれ衝突一歩手前ですりぬけていった。その後ろを「待て!」と追いかける声がしたのでストリート・アラブとよばれる身寄りがなく住む場所もない路上生活をしている子供が何かをしたのだろう。
金ぴか時代は子供は親の所有物でどのように扱おうと親の勝手なので子供はいらなければ簡単に捨てられる。それか親の役に立てとばかりに酷使される。
経済的に余裕がある家庭では子を捨てることはなくても子の意思に関係なく親の都合のよいように扱うのは同じだ。子は親に無条件の愛を捧げ、親の言うことを聞き、親をよろこばせる言動をすべき存在だった。
親に逆らうことばかりをしているエレンは「人としてどうなの?」と他人から言われることは多いが気にしていない。
母方の祖母が「八つ当たりは悪」と説く人だった。自分の気持ちや意志に反することをしつづけると不満がたまり、関係のない人に八つ当たりしがちなので不満をためないようにしている。
それだけでなく自分の意志に反したことをすると途中で「やめた」となりやすいので良い結果をうむと思っていない。
「そういえば孤児を救済するための慈善団体よりも動物愛護団体の方が先に作られたんだよね。
上流階級をからかう時に孤児より馬の方が大切なのかとよく言われるけど仕方ないといえば仕方ない。上流階級のマダムが路上生活してる孤児を見かけること自体がないし、それより馬車で移動するマダムが見る機会が多いのはこき使われてる馬の方よ」
エレンは走り去った子供とむち打たれ気怠げに動く馬を見て思い付いたことをつぶやいていた。
慈善団体で活動する上流階級のマダムが住む地域と路上生活をする子供が住む貧困地域は遠く離れている。住む場所がまったくちがい、どちらも自分たちの生活圏をこえることはないので交わることがない。
とくに富豪が多く住む地域は自前の自警団をつくり不審者が近付かないようにしている。上流階級のマダムは孤児の多さや路上生活するストリート・アラブの話は聞いていても、貧困地区を視察しない限り実際に目にすることはない。
エレンは少年との衝突をさけるために足を止めたことで気持ちが落ち着いた。
「きっとアーネスト兄さんも被害をうけてるはず。兄さんはこれまで私に何も言わなかったけど」
校長の話を聞いたあと怒りにまかせ家に向かっていたが、次兄が無事かを確認すべきだと思い直した。
エレンはアーネストの家へ行き先を変えた。




