踏まれたままでいられない
エレンは次兄、アーネストを誘いセントラルパークを散歩していた。色とりどりの花や新緑がまぶしい5月の寒くもなく暑くもない心地よい季節をたのしむ。
「なんかこうして散歩してると労働問題なんてないような錯覚におちいるよ。美しくて平和で」
5月初めにシカゴで労働者が1日8時間労働を訴える大規模集会を行い警察と衝突し死者がでている。5月1日のメーデーがつくられるきっかけとなったヘイマーケット事件がおこった。
そのニュースが伝えられたニューヨークでも活動が活発になっている。1日の労働時間が10時間以上なのが普通の金ぴか時代のアメリカではひんぱんに労働ストライキが起こるようになっていた。
兄のつぶやきにエレンは自分がいかに恵まれた環境にいるのかを痛感する。
ニューヨークでも労働者問題の衝突は何度もおこっている。兄は法の整備を手伝っているのでデモに参加するといった危険な場に身を置くことはない。
とはいえ一緒に活動をしている労働者がデモで負傷したり、雇用主から不当解雇され、本人だけでなく家族や親戚に圧力をかけ活動をやめさせようとするのを身近で知るだけに落ち込むことが多いという。
「労働問題といっても単純に雇用主と従業員の話でないところが問題を複雑にさせていて頭が痛いよ。
ヨーロッパからの移民が仕事を得られるならどんな低賃金でもいいとやるからアメリカ人労働者も低賃金でないと仕事をえられなくなってる。
アメリカ人と移民で賃金や待遇がちがうとか、男女で賃金がちがうのも当たり前だから調整するのが大変だ。
ニューヨークの場合ヨーロッパからの移民は白人だから人種問題じゃなくて出身国による差別になってるけど、他の地域では黒人差別や清国からの移民への差別がひどくなっていて人種問題にもなってるしな」兄が疲れたようにいった。
1882年には清国からの移民を制限する排華移民法が可決されている。
清国からの移民が多い西海岸では自分たちとは見た目も生活様式もちがう清国人に対する嫌悪と、低賃金で仕事を請け負う彼らのせいで仕事をうばわれたことへの恨みで清国人が多く住む地域を白人が襲うことが増えていた。
つねにヨーロッパからの移民が流入しているニューヨークでは19世紀半ばに多くのアイルランド人、ドイツ人やユダヤ人が流入し差別をうけた。
1880年代になりポーランドやイタリアからの移民が増え新旧の移民間で衝突がおこるようになった。それだけでなく低賃金で働く移民労働者が大量に増えたことで労働問題が深刻になっている。
「人権もポリティカルコレクトネスもないこの時代なら格差があっても仕方ないと思えるけど、21世紀に、それも注目をあびるスポーツ選手の賃金格差がひどかったのって本当にありえなかったよね」
現代アメリカ人Tがアメリカ女子サッカーチームの男女給与格差について思い出し女子選手にあらためて同情した。
アメリカの女子サッカーは世界レベルの強豪で、アメリカサッカー協会の稼ぎ頭は男子ではなく女子だった。それにもかかわらず男女で給与や待遇に差があった。
アメリカではサッカーの人気は低い。その状態は変わりつつあるが野球やアメリカンフットボール、バスケットボールなど人気のスポーツとのへだたりは大きい。
アメリカの男子サッカーチームは弱くはないが女子に比べると世界レベルで飛び抜けているとはいえず、サッカー人気は女子が支えていた。
それにもかかわらず女子は飛行機での移動はエコノミークラス、泊まるホテルのランクも女子の方が低く、給与も女子の方が低かった。
女子選手はサッカー協会と交渉をつづけたが改善されず裁判にもちこんだ。裁判をへて是正されたのは2022年だ。
奴隷のように働かされる金ぴか時代と比べれば現代の状況は大きく改善されている。とはいえ性別、人種、年齢で差別されない社会をという理想からはほど遠い。
どれほど法律をつくっても、ポリティカルコレクトネスという言葉がうまれても差別も格差もなくならないのが現実だ。
エレンは「そういえば――」と頭に思い浮かんだことを聞こうとしたがあわてて口を閉じた。
兄と一緒にいると結婚したいといっていた女性のことをどうしても聞きたくなる。
しかし兄の様子をみるかぎり何の進展もないか、何もなく終わってしまったような気がする。
エレンは気になる人がいると話さずにいられない性格だが兄は何も言わない派だ。
その兄がエレンに結婚したい女性について話したので全力で応援したい。しかし状況的に考えると兄が片思いを暴走させているだけでなく、アプローチらしいアプローチもしないまま、ただの片思いで終わっていそうだ。
エレンとしては兄の恋についてくわしく聞きたいが、兄の性格を考えると相手との関係を上手く発展させられていないなら、なおさら妹には話さないだろう。
「なに?」
兄に急かされエレンはとっさに夏の予定について聞こうとしたところで、兄が秋から大学に戻り教師をつづけることを恩師に話すといっていたことを思い出した。
「そういえば恩師との話し合いはどうなったの?」
「無事に復帰できることになった。俺の代わりに教えていた人が地元に帰ることになったからちょうどよかったらしい。
それと立法方面に進むなら大学に所属している方が何かと有利だと恩師もいってくれた。恩師も労働問題に対してだけでなく市の司法部門にいろいろと思うところがあるから協力を惜しまないといってくれてる」
一度は法とは関係のない道をと考えた兄だが、労働問題に関わるうちに現状をよくする方向へ法整備ができるようにしたいと思う気持ちが強くなったという。
「これから大学で教えるだけじゃなく市の立法部門に食い込んでいかないといけないから忙しくなる」
日本で教師をやめる、法を学んだのは間違いだったといっていた時の兄とはちがい目に力がこもっている。エレンは兄が教師に戻ると言った時に心配したが、いまの兄は成し遂げたいことがあると信念をもっていてたのもしい。
「兄さんが立法にかかわるなら男女の給料格差をぜったいどうにかしてよね。同じ仕事をしても女だから給料が低いってどういうことよ! と声を大にして言いたい!
そうだ、女性教師も労働組合つくってストライキすべきだわ。自分の待遇改善は自分の手でもぎとるべき。品行方正とかいってる場合じゃない!」
こぶし付きでいきおいよく言うと兄が笑った。
「エレンの調子良さって政治家向きかも。なんかその気にさせられるよ」
「じゃあ女性初の市議会議員を目指しちゃおうかなあ。でもどうせなら州知事とか、やっぱり大統領よね。私が大統領になったらものすごく兄さんの役に立ちそうじゃない?」
「それを言うなら父さんが一番よろこびそうだ。エレンが拒んでもワシントンD.C.まで一緒についてきて大統領の父として利権をむさぼるはず」
「それ、ものすごく嫌なんだけど」
父が偉そうにしている姿が目に浮かびエレンは女性初の大統領になる野望をあっさり捨てた。




