兄は調子が悪い
「おはよう、眠り姫。今日は起きるの早かったな」
エレンが朝なのか昼なのか分からないまま自室からリビングルームへいくと、浴衣姿の兄、アーネストが笑いながら声をかけた。
夏に洋服をきるなど拷問だと、兄は家にいる時は浴衣をきている。
エレン用の浴衣も用意してくれていたのできてみた。洋服をきているよりも涼しいがすぐにはだけてしまい、あられもない姿になってしまうのが難点だった。
浴衣をきて一晩寝て起きた時など寝ている間に腰紐がほどけ、ほぼ裸状態だった。
神田にある兄の滞在先に落ち着いてからは気がつくと居眠りをしていて、夜も子供のように早々に眠くなり起きている時間が短かい。
「船旅をすると何かと疲れるし、やっぱり揺れない場所だと安心して眠れるから到着してしばらくは眠り姫や眠り王子になる人は多いようだ。
なんか俺もエレンにつられてやたらと眠いからちょっと寝るわ。啓によろしくいっといてくれ」
兄はすでに朝食を食べおえ新聞や本を読んでとやるべきことを終えていた。どうやらまだ朝といえる時間らしい。
学校で兄の通訳をしている啓こと山本啓三郎は、エレンが到着した翌日からエレンの世話係として顔をだしてくれている。
啓はきれいなイギリス英語を話す。裕福な商家出身で兄弟たちと一緒にイギリス人から英語のレッスンをうけ、ロンドンに半年ほど滞在したこともあるという。
「僕にもコーヒーを」
啓が来たことをエレンに知らせにきた使用人と一緒に啓があらわれ、さっさと自分の分のコーヒーを頼んだ。
「啓ってコーヒー飲むんだ。イギリス派だし紅茶しか飲まないかと思ってた」
エレンの言葉に啓が何をいわれているのか分からないという表情をした。
「ごめん、何のことやらだよね。アメリカがイギリスと独立戦争をしてた時にコーヒーを飲むことで愛国心をあらわしたの。
独立戦争のきっかけになったのがイギリスから茶葉へ重税をかけられたことだったから」
啓が納得した表情をみせたあと、「僕は日本人ですし、おいしければ何でもいいという感じですね」おどけるようにいった。
啓に兄のことを聞かれたのでこたえると、
「アーネストさんはまだ調子が悪いんでしょうか? エレンさんが来ることが決まってからは大丈夫そうだったんですが」
エレンは啓の言葉にはっとした。兄が思っていたよりも平気そうだったので安心していたが、エレンに日本に来てほしいというほど精神状態が悪かったのだ。
「兄はホームシックがひどく弱ってるとしかいってなかったけど、もしかして日常生活に差し障りがあるほどひどかった?」
「生徒の前では空元気をだして普段通りにしてたので表面的には問題ないように見えてたと思います。
でも私と二人きりの時に弱音をはいてましたね。一度ソファーの上でうつ伏せになって『もういやだ!』と言いつづけてました。ものすごく無理してたんでしょうね」
エレンは兄の状態が自分が思っていた以上に悪かったことにショックを受けた。
兄が眠り王子になっているのは精神的に調子が悪いからだといまさらながら気付いた。
「抗うつ薬があれば……」
思わずつぶやいた言葉に啓が「何といいました? 抗――なんとかって」と反応した。
現代アメリカであれば、うつうつするならさっさと抗うつ薬をのめだがこの時代に抗うつ薬はない。
エレンはにっこりほほえみ「独り言なので気にしないで」とごまかした。
「そういえばアーネストさんが築地の居留地で医師にみてもらった時に、コカインという新しい薬が気うつに良いようだから取り寄せて試すとかいってました」
コカイン? 聞きまちがえたかと思い啓に薬の名前をたしかめるとやはりコカインだった。
なぜ違法薬物のコカインがと思ったところで、コカ・コーラができた時は飲み物ではなくコカの葉を使った薬だったことが頭にうかんだ。
エレン自身は気うつに縁のない生活をしていたので聞き流していたが、たしかに気うつによくきく薬ができたという話は聞いたことがある。それがコカインだったようだ。
コカインが危険なものと分かり禁止されたのがいつか分からないがしばらく「新薬最高!」となるはずだ。
「その薬を兄はのんでるの?」あわてて啓にたしかめた。
「多分まだなはずです。医師に診てもらったのが夏期休暇にはいってからなので薬はまだ届いてないと思いますよ」
あぶなかった。
兄があやうくジャンキーになるところだった。絶対にコカインをのませないよう完全に阻止しなくては。
兄が医師からコカインをわたされる前に何とかしなくてはと考えていると、現代アメリカで抗うつ薬を使うことに抵抗がある人は気うつにきくハーブのサプリメントを使うことを思い出した。
アメリカであればそのハーブを手に入れられるだろうが日本に輸入されている可能性は低そうだ。
アメリカから取り寄せるとなると時間がかかる。医師がすでに兄のために注文しているコカインが来る方が先だろう。
「そういえば日本だとこういう時どうするの?」
「気うつですか? 漢方薬、英語だとチャイニーズハーブかな? チャイニーズハーブをのむか、それかお灸ですね」
「お――きい?」
「英語を話す人には聞き取るのも発音するのも難しい音のようですね」
啓はエレンが聞き取れないことをさらりとながしお灸が何かを説明した。
お灸。あまりにもワンダーランドすぎて理解できない。
火のついたハーブを体の上におく。日本にやけどという言葉は存在しないのかと心配になる。
どのように考えても罰としか思えない。
「うちの父や祖父母が体の調子が悪い時にかならずお灸をします。母は好きじゃないのでしませんが。僕は体が頑丈なので子供のころに一回か二回したぐらいかなあ」
「……きっと効果があるんだろうけど、まずはアメリカで使われてるハーブから試したいかなあ」
啓がそうでしょうねといった表情をみせたあと、
「では明日、横浜の居留地に行きますか。異人さんは本来なら居留地に住まないといけないんですよ。政府が決めた場所にのみ住めることになってます。
でも築地の居留地はちょっと特殊で理由があれば許可をもらって居留地外でも住めます。エレンさん達が神田に住んでいるのも政府から許可をもらってるからなんですよ。
居留地は異人さんしか住めなくて一歩足を踏み入れればそこは西洋です。西洋式の建物がならんでいて西洋のものが売られてます。
西洋とまったく同じとまではいかないでしょうが、かなり近い形で生活できるようですよ。
なので西洋人がホームシックになると西洋らしさを求めてよく行ってます。アーネストさんも調子が悪い時は毎日のように行ってました」
兄がアメリカが恋しくなると行くといっていたのは築地の居留地だろう。
西洋の物を買うなら築地よりも横浜の居留地の方がよいと啓にいわれ、エレンは啓と横浜に行く予定をたてた。