救世主、日本へむかう
1884年 8月
アメリカ西海岸、サンフランシスコを出発し横浜に向かう船は、太平洋の荒波にもまれながら着実に日本へと近付いていた。
ニューヨークで初等学校の教師をしていたエレン・マルタンは、1年前に東京の学校で法学を教えることになった次兄、アーネストのために日本へ向かっていた。
アーネストはニューヨークの大学で法学を教えていたが、恩師から日本での仕事を打診され「こんな機会でもなければ日本に行くことないしおもしろそうだ」と軽やかに日本へ旅立った。
国を閉じていた日本が開国し、国を発展させるために必要な知識や技術を得ようとヨーロッパやアメリカから技術者や教師をまねいていた。
兄は日本に到着してからというものアメリカとはまったく違う日本での生活をたのしんでいたが、半年をすぎた頃からホームシックで苦しむようになった。
兄は2年契約で日本に行っていた。あと1年このまま一人でがんばれそうにないとエレンに日本に来てほしいと頼んだ。
「兄よ、妹はあなたの救世主として日本へ行くわ!」
4人兄弟のなかで一番歳が近く、気が合う仲の良い兄の頼みだ。エレンは兄からリクエストされたアメリカの物をたっぷり荷物につめこみ日本行きの船にのった。
「しっかり稼いでるから安心して日本に来てくれ。エレンが日本で働く必要なんてまったくないから。好きに遊んでくれればいい。とにかく残りの1年を無事に乗り切るため一緒に暮らしてくれ」
兄はそのようにいったがエレンは日本で働く気まんまんだ。
エレンは働く自立した独身女性という流行の生き方をしてきた。日本でも働くのは当然だ。
「女が結婚しないと生きていけない時代は終わった。日本にもその流行を!」
エレンはひそかに日本で自立した独身女性の流れをつくりたいと意気込んでいた。
アメリカも一昔前までは女性は父親や夫の所有物あつかいで、女性は契約を結ぶこともできなければ、相続もできなかった。
しかし時代は女性にも男性と同じ権利をとなり女性も契約や相続が可能となった。
そして1861年にアメリカ国内を二分する南北戦争がおこり多くの男性が戦場へかりだされたことから、その穴うめをするため女性が働くようになり状況が大きく変わった。
それまで女性は結婚し子を生み家庭を守ることのみを求められたので、女の子に教育を受けさせる必要はないとされてきた。
しかし人手不足で女性が男性と同じように働く必要があり、女性にも男性と同じ教育を受けさせ仕事ができるようにしなければとなった。
そのおかげで女子教育が一気に広がり、女子を教育するために女性教師の需要が高まった。
「女子教育が熱い! 日本にもこの熱さを」
女が不幸な結婚にしばられる必要はない。長い間女には結婚以外の道がなかったが時代は変わってきている。
カトリックの国とちがいプロテスタントの国、アメリカでは離婚はできる。
とはいえ実際に離婚するのはむずかしく、暴力や不貞といった条件を満たさなければ離婚は認められない。
それだけでなく離婚は不名誉なことで、女性は離婚後に親兄弟を頼らなければ生活できなかったこともあり、結婚生活にどれほど問題があっても離婚せず耐えた。
女は持参金が少なければそれだけで出来損ないあつかい。横暴な夫に文句もいわず夫の世話をし、そのうえ夫の機嫌もとらないといけないなど、「私、何の罰をうけてるの?」というような結婚生活は幸せといえない。
しかし女も働き自立した生活をすることができるようになった。時代の波は「独身最高!」だ。
日本は開国し大きく変わろうとしている。日本の女性にも独身最高の波にのってもらいたい。
ふいに船室のドアをノックする音がした。
「エレンさん、もうすぐヨコハマにつきますよ。マウント・フジが見えてきました!」
船内で親しくなったアメリカの大学に留学していた日本人男性がおしえにきてくれた。
はじめて会った時は10代半ばの男の子かと思ったが、大学を卒業した23歳の男性と知りおどろいた。
「兄が日本人は若く見えるといってたけど本当だったんだ」
思わずエレンがそのようにもらすと、「アメリカでいやというほど同じ反応されましたよ」と彼が笑った。
彼からすればアメリカ人の年齢の方が分からず、たいてい自分が思っている年齢より実年齢が若くおどろくという。
「私、27歳なんだけど、いったい何歳に見えてるの?」
彼は笑って具体的な数字はいわなかったが、30代後半と思っていたのかもしれない。
3週間の船旅で最初の1週間は船酔いで死にそうになっていたが、残りの2週間は彼から日本語や日本について教えてもらえたのはラッキーだった。
彼といっしょに甲板へむかっていると、「ヨコハマが近付いてきた!」興奮した声がさまざまな場所から聞こえてくる。
甲板にでると大きな山が見えた。
「富士山を見ると帰ってきたと実感する」
近くにいる誰かがつぶやいた日本語が聞こえた。
「フジサン」という音を耳がひろい、エレンの胸の鼓動がうるさいほど高鳴る。
「日本人にとって富士山、マウント・フジは特別です。ヨコハマはすぐそこですよ」
留学生の男性が英語でエレンにそのように言ったとたん、「富士山」「横浜」という漢字が頭の中にうかんだ。
彼から日本語を教えてもらったが、横浜や富士山という漢字を教えてもらったおぼえはない。
ヨコハマという土地名は兄が日本に行くことになった時から何度も耳にしているが漢字を見たことはないはず。マウント・フジも漢字は見ていないはずだ。
なぜ自分が「フジサン」という音に反応するのか、「富士山」という漢字を認識できるのかを考えていると、これまで見たことがない奇妙な服をきた中年黒人女性の姿がまぶたに浮かんだ。
封印されていた記憶が一気に頭の中になだれこむかのように、その黒人女性の記憶と思われるものが浮かんでは消えていく。
下着のような格好のまま生活をしている人達。天に届きそうなほどそびえたつ箱のような形をした建物にかこまれた空間。
何に使うのかまったく分からない物であふれ、馬がひいていないのに勝手に動く箱だけでなく、空を飛ぶ巨大な物体まである。
彼女の家族と思われる褐色の肌をした人達。器用に髪の毛をねじり太い紐のようにする不思議な髪型。
学校で男女が同じ教室にいるだけでなく、白人と黒人が同じ教室で勉強をしている。
エレンは小さく悲鳴をあげた。
横浜に近付いていることに興奮する人達で甲板がさわがしく、となりにいる留学生の男性はエレンの悲鳴に気付いていない。
エレンは頭をおさえ、そっと甲板をはなれると自分の船室へとむかった。