068 「艦砲射撃」
竜歴二九〇四年四月二十三日
前線で大規模な戦闘に向けた動きが静かに進んでいる頃、楽観視されていた海で事件が起きていた。
「位置の算定は間違いないな?」
「はい。久寿里の街の灯火で間違いありません」
「宜しい。では砲撃開始」
「はい。砲撃開始します。撃て!」
夜の闇が降りた海の上。とある戦闘艦の上で、艦長と副長のやりとりをしている。
そして命令が下されると、艦に装備された威力のある大砲複数が一斉に火蓋を切った。
その艦の艦尾の旗柱にはタルタリア帝国海軍の旗ががたなびいている。以前の船なら帆を張っていた帆柱に当たる主柱には、タルタリア帝国旗も上がっている。
間違いなくタルタリア帝国の戦闘艦であり、その名を防護巡洋艦アリョール号といった。
アリョールは、基準排水量4200トン。排水量はやや大きいが、この時代の標準的な防護巡洋艦だ。
防護巡洋艦とは、主力艦とされる戦艦や装甲巡洋艦が艦の主要部の全てを装甲で覆うのに対して、主機関、つまり主な動力源の上にだけ一定の装甲板を張って防護した巡洋艦の事を指す。
そして巡洋艦とは、その名の通り海を巡る為の長い航続距離と航海性能、乗組員に対する十分な居住性を備えている戦闘艦艇だ。
そして戦闘艦艇なので、各種武装が艦の各所に搭載されている。
アリョールの場合は、艦の前と後ろ、それに側面中央に15センチ砲が据えられており、これが主砲になる。
加えて12センチ副砲が側面にそれぞれ2門ずつ、合計4門。さらに素早く迫る小型艦の水雷艇や駆逐艦対策用に、5センチの速射砲を艦の側面に4門ずつ、合計8門搭載していた。
船としての性能は、全長約110メートル、最高速力は23ノット(41キロメートル時)。航続距離は10ノット(18キロメートル時)で4000海里(約7400キロメートル)。
これを350名の乗組員で操る。
タルタリア海軍が約1年前に極東の大東国の租界駐留のために送り込んだ新鋭艦で、本来ならアキツに対して「見せる」為に派遣された。
だが開戦となった今、その牙をアキツの大地につきたてようとしていた。
「いいか、あまり狙いは絞らなくて構わんぞ。艦砲射撃をしたと分かる程度で構わん。だから右舷を指向できる5門は各20発だけだ。まったく、上は何を考えているんだ」
「何を考えているのですかね」
「開戦から1週間経つのに、もぬけの殻の小さな街を一つ落としただけだから、もう少し分かりやすい戦果が欲しいのだろう」
「ロボフ海軍尚書は海の男。そんな理由で、都市砲撃の命令を承諾するのでしょうか?」
「皇帝陛下がお命じなら是非もない。だが、陛下が形だけの戦果の為に巡洋艦1隻を危険に晒させるとも思えない。どうせ、主戦派の有力貴族どもか、亜人を見下す連中が騒ぎ立てたんだろう」
「艦長。言葉が過ぎます」
少し声を抑えた副長に、艦長は歯を見せた笑みを返す。
「構うものか。極東という辺境配備を嫌って、この船にお貴族様は乗ってない。それに根拠もなく亜人を見下すのは、合理主義を尊ぶ海軍軍人にあるまじき行為だ。それにだ、少なくともアキツ海軍は優秀で強大だ。外洋でまともに艦隊を運用した事のない我が海軍と違い、波の荒い大東洋で大艦隊による複雑な演習を年中行事でしている連中だぞ。
しかも、最新鋭の我が艦と同程度の巡洋艦を何十隻も有している。単純な戦艦の保有数で我が国が優っていると喜んでいる本国の連中には、アキツ海軍をその目で見て欲しいものだ」
「自分も同意ですが、ほどほどに。それに敵地を艦砲射撃している時に話す事でもありません」
「確かにそうだな。とにかく、早々に任務を終えたら全速で外洋に逃げるぞ」
「はい。心得ております。機関長からも、缶の圧力はいつでも一杯に出来ると報告がきています」
「うん。本艦の乗組員達は優秀だな。砲撃も優秀過ぎる。かなりの損害を与えているようだが、適当で構わんぞ。無抵抗な者への攻撃は性に合わん」
「はい。ですが、あまりに適当では本艦の不名誉となります。それにアキツに、タルタリア海軍が十分な練度を持っている事を教えておくのは、我々の生存率を高める為にも必要です」
「だが評価され過ぎて、大艦隊に追跡されたら元も子もないな。とはいえ、これでアキツ海軍の面子は丸潰れだ。政府共々怒り狂うぞ」
「その前に逃げて潜んでしまえば構わないでしょう」
「ああ、そうしよう。と話しているうちに、砲撃も終いだ。副長、ずらかるぞ」
艦長の少し黄ばんだ歯を見せる笑みを浮かべた最後の言葉に副長も大いに頷き、タルタリア帝国海軍防護巡洋艦アリョールは逃走へと移った。
なお防護巡洋艦アリョールだが、通常は戦闘時の高速移動は搭載石炭の量から長時間はできない。自らの拠点から遠いのなら尚更だ。
最高速度23ノットの戦闘艦だと、戦闘速度は20ノット程度。巡航速度は14から16ノット。長い距離を無補給で進む場合は、燃料の経済性を重視して10ノットで進む。
ただし10ノットだと、一般的な商船より早いが高速商船と比べると劣る。それでも戦闘艦がいかに速く移動するのかが、この事からも分かる。
商船の例外として大型高速客船があるが、大東洋及び極東地域の場合はアキツと各地を結ぶ航路にかなりの数が就航している。
アキツ本国とアキツの有力な勢力圏を結ぶ為だ。
主な航路は、本国の竜都から極西大陸の西海岸各都市を結ぶ北大東洋航路、本国の商都から南天大陸東岸を結ぶ南天航路、それに鎮西府から黒竜地域の大竜市を結ぶ大陸航路になる。
他にも、大陸東南地域各所を結ぶ南方航路もあるし、遠く西方を結ぶ西方航路もある。それ以外にも無数に。
島国のアキツは世界中と海で繋がっていた。
防護巡洋艦アリョールが目指すガリア領の南越の沿岸は、幸いにして高速船が通る事は珍しい。
アキツは、南越も含む天羅大陸の東南地域の半分を古くから自らの勢力圏としているが、その全てが島嶼地域で、南越のような大陸側に勢力圏を持たない。
南方航路の大半はアリョールが目指す場所より東側の島々で、稀に西方を行き来する船が通る程度。
しかも自らの勢力圏は、大型客船の航路を設定する理由も価値もない地域だからだ。
ただしアキツは、西方の雄アルビオンと並ぶ世界屈指の海洋帝国。大東洋と極東の海にはアキツの商船が無数に往来していた。だから移動には細心の注意が必要になる。
故にアリョールは、船の少ない外洋への逃走を選んだ。
だが前途は多難だ。
既にガリア領の南越北部の入江に逃走したタルタリア海軍の巡洋艦2隻を監視する為、アキツ海軍は交代を含めて防護巡洋艦4隻からなる戦隊が2つ展開していた。
アキツ本国には、大陸に近い西部に海軍の主力を配備し、巡洋艦だけで40隻を数えると予測されている。
しかも本国には、戦艦と装甲巡洋艦も全て配備されており、何かあればすぐに出動できる体制を敷いていた。
そしてアリョールにとって、アキツ本国で待機する装甲巡洋艦が最大の脅威だった。
また、上手く逃げられたとしても、逃走先の南越の沖合にいると予測されるアキツの巡洋艦戦隊も十分以上に脅威だった。
そうした状況での艦砲射撃は無謀の一歩手前であり、アリョールの艦長と副長も自分たちの言葉ほど事態は楽観していなかった。
それだけ今回の命令は無茶だったからだ。
単位系は、メートル・グラムで統一しましたが、ノット、海里だけは外せませんでした。