061 「開戦」
・竜歴二九〇四年四月十五日
東北の僻地、タルタリア側の境界線の町ダウリヤ、アキツ側の境界線の町黒竜里。
この二つの町は緊張に包まれていた。
互いの町は境界線からそれぞれ1000メートルほど離れているし、検問を行う簡単な門扉も互いに30メートル離れて設置されている。
だがこの日は夜明け前から緊張を共有していた。
そして最も緊張していると周囲から見られるのが、アキツ側の検問所の道の前に立つ数人の男達だった。
揃って他種族より整った顔立ちに耳が上に向けて長く、天狗である事を伝えている。その彼らは半月前から検問所の建物に寝泊まりし、この時を待っていた。
国家の代表として、国に仕える者として、彼らにとって国から与えられた任務を果たす時が来たからだ。
彼らの眼前には、整然とした隊列を組む無数の騎兵集団の姿があり、そのはるか後ろには無数の武装した兵士の集団が続いていた。
そしてダウリヤ郊外の軍の集結地点には、数十万の兵士たちがこの春先から駐留している。
現地時間の日の出前から動き出したのは、少し後方の駐留地と野営地から続々と出発したタルタリア陸軍のサハ第一軍団に属する先頭集団のさらに先鋒となる騎兵だ。
そしてその騎兵集団の先頭が、両国の境界線を超えてアキツ側の門扉の前まで到達する。
両者の中間点が境界線になるので、既に越境している事になる。
「秋津竜皇国とタルタリア帝国の双方は、宣戦布告を実施しておりません。貴官らは国際法並びに戦争協定違反の疑いがあります。直ちにタルタリア領内に退去して下さい」
「馬上より失礼申し上げる。私はタルタリア帝国陸軍サハ騎兵師団第1旅団の旅団長ドミトリー・ブールヌイ少将。皇帝陛下より進撃の命を受けている。貴官らの申し出を受け入れる事は出来ない。ところで貴官の名は?」
言葉通り馬上から声を返すのは、堂々としていながらどこか品の良さを感じさせる騎兵。他より少し派手な軍服には確かに少将の階級章が見える。指揮官先頭というわけだ。
「失礼申し上げた。私は秋津竜皇国外務省一等書記官を任じられている隅田次郎と申します。繰り返し……」
隅田一等書記官が同じ言葉を続けようとしたら、馬上の男が右の平手を胸のあたりまでかざして彼の言葉をさえぎる。
「今は外交の時間ではない。もう戦争の時間なのだよ、隅田一等書記官どの。貴官らへの応対は、我が帝国の外務省の仕事となる。ところで一つ聞いても良いかな?」
「お答え出来る事でしたら」
有無を言わせぬ口調で自由を奪うと言っているに等しいが、アキツの外務省職員に動揺はない。全て分かっている事だからだ。
そして質問についても予想はついていた。
「貴官ら以外の者はどうされた? 他の職員が見当たらないし、何より警備している筈の兵士達は?」
「政府の決定に従い、我々がここでの業務を全て担っております。他の者達は、昨日の時点で転任や転属しました。我々3名以外に、アキツ政府に属する者はこの場におりません。
また、こちらからも一つ通達があります。貴国が戦争行為に及ぶのであれば、黒竜里は無防備都市を宣言します。正式には市長が行うでしょうが、軍人は一名もおりませんし軍用兵器もありません。貴国の国際法の遵守を求めます」
「なるほど、逃げたのではなくそういう事か。無防備都市の件も了解した。タルタリア帝国と皇帝陛下ゲオルギー2世の名誉を傷つける事は決してないと誓おう。もちろん、今すぐ後続の部隊、師団司令部にも伝令を出す。
では、貴官らの任務はここまでだ。道を開けて頂こう。そこに立たれたままでは、流石に我々も手を出さざるを得ない」
ブールヌイ少将は相手に対する敬意すらこもった丁寧な言葉と態度だが、有無を言わせぬ雰囲気を放っている。
そして多少何か抵抗を示しても、『丁重に』道をどかされるのは目に見えているので、ごく僅かでも国の威信を損なわないように動かざるを得なかった。
「うむ。かたじけない。だが、できればもう少し脇に逸れて頂けると、我が軍としては助かる。何しろ、20万の軍勢が通らねばならんからな。では先を急ぐので、これにて失礼」
最後に敬礼を決めると、馬の腹を軽く蹴る。
そして躊躇なくアキツ側の門扉を超えた。
それが、秋津竜皇国とタルタリア帝国の戦争が始まった瞬間だった。
「ううっ、さぶ」
「ちゃんと見ろ」
「見てるって。いえ、見てます。今、アキツのお役人さんが道の脇に移動。……タルタリアの騎兵が動き出しました」
約1000メートル離れた小高い場所の影から、甲斐と朧が地面にうつ伏せになりながらアキツとタルタリアの境界線へと視線を注ぐ。
周りより数メートル高くなった場所に潜み風下にもなるので、気づかれる可能性はまずない。
と言っても、詳細を見ているのは『魔眼』と二つ名をもらうほど高い視力を持つ朧。
甲斐は将校斥候で指揮官自らの敵情視察をしているが、光の反射で気取られてはいけないので、1000メートル先の細かいものを裸眼で細かく見分けるのは難しい。
彼の視力は普通よりもはるかに良いが、それでも裸眼だと人は米粒程度にしか認識できない。集団だと黒い影だ。
(「歴史を見てくる」とか言って格好つけて出てきたけど、来るんじゃなかったかなあ)
頭の片隅で一瞬そんな事を思うも、すぐに切り替える。
甲斐にも、騎兵の大集団が続々と動き出したのが分かったからだ。そして視線をまだ暗い西へと向けると、地平線そのものが動いているように見える。
「マルゴウマルハチ。タルタリア軍越境。銃声及び戦闘なし。よし、引き上げるぞ」
「え? 行列を見ていかないの?」
「最低でも3個軍団、6個師団、20万があの一本道を進むんだぞ。何時間かかると思ってる。一応聞くが、他国陸軍の1日当たりの歩兵の行軍距離って覚えているか?」
「道を進むから24キロメートル。アキツ陸軍は40キロメートルが基本、です」
「では、20万の軍隊の移動中の隊列の長さは?」
「道は馬車が使うから、道の両脇を1列縦隊ずつ1メートル間隔で歩くとして、20万人が全部歩兵としたら……100キロメートル? えっ、そんなに長くなるの?」
「まあ、左右それぞれ縦列くらいにはするだろう。それでも50キロ。丸二日続く事になるな。それにこの規模の軍団なら、馬車は諸々合わせて4000台くらいあるだろう。ざっくり、1つ当たり20メートル間隔で進むとして縦列で進んで40キロだ。
騎兵は一番前の連中以外は道を進まないだろうが、騎乗した歩兵将校は別だろうし砲兵もある。全部が歩兵でないとしても、8割は徒歩で進む。つまり40キロで、2日間も見続ける事になる。ずっと見るか? 監視任務という事で許可してやるぞ」
「いえ、結構です。了解しました。後退しましょう、大隊長!」
「素直で助かるよ。じゃあ走るぞ」
「了解。でも大隊長、友軍が障害物置いたり、穴掘ったり、泥沼作ったり、地雷埋めたり。あとは、何日かしたら爆発する札を術者が埋めてたよね。あれだけ邪魔すれば、ゆっくり帰っても良いんじゃない、ですか?」
「あの程度だと、全部で四半日を稼げたら御の字だ。爆弾は上手く爆発すれば捜索で時間とって、もう少し稼げるかもしれないがな。だが全部おまけだ。
だから夜になったら、我々は後方の隊列に軽い嫌がらせを仕掛ける。当面は無理のない程度に時間を稼げという命令だからな。確かそれも伝えたと思うんだが?」
「夜襲は聞いたけど、妨害の明確な効果は聞いてません」
「そうだったか? それは悪かった。それより走るぞ」
そうして二人が境界線から数十キロ離れた野営地へと戻ると、大隊総員が整列して待っていた。二人が帰ってくるのを見つけ、整列させたらしかった。
その中から代表して大隊副長の鞍馬は声をかける。
「ご苦労様です。如何でしたか大隊長」
「留守ご苦労だった、大隊副長。それにみんなも。お陰でタルタリア軍の越境開始の瞬間を見る事ができた。戦闘、銃撃の一切ない穏やかな始まりだ。見てたのは『魔眼』特務少佐だがな」
「近づかなかったんで?」
少し面白げなものを見る表情の磐城に、甲斐は軽く肩を竦める。
「僕もそこまで我儘はしない。1000ほど離れた場所から見物と洒落込んだだけだ。だが、我儘のおかげで歴史の瞬間を見る事ができた。地平線が動くような大軍団の景色は、写憶機にも撮ってある」
「その映像は後送しますか?」
「勿論だ。少し遠いが、我が方が得た証拠だからな」
「了解です。では今後の予定は?」
「予定通りだ。準備の方は?」
「整っております。いつでもお命じを」
話し始めと最後を鞍馬が締める。磐城、不知火、嵐、天草の各中隊長も頷く。ただし、全員の表情は少し硬い。
これで戦争が始まったのだから、緊張するのも当然だった。
だから甲斐は、一人一人に頷き返すと笑みを浮かべる。
隊長として見栄を張る時だと感じたからだ。
「うん。それでは大隊諸君、近代戦争を始めようじゃないか」
「「ハッ!」」
第一部「極東戦争開戦編」了
次回、第二部からは週3回(火、木、土)の朝の更新に変更させて頂きます。
今後とも宜しくお願い致します。
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