045 「春浜での移動(1)」
春浜の街で、甲斐たち蛭子衆第一大隊が多くの陸軍部隊と鉢合わせしたように、アキツ軍による秘密裡の軍の移動作戦は、当初の予定を前倒しつつ急ぎ進められていた。
表向きの理由は、黒竜地域での陸軍の大演習のため。そして演習用を超える物資の輸送については、黒竜地域での大規模開発の促進のため。
軍人以外の人夫など一部の人の移動についても、建設の為の労働者、もしくは会社から送り込まれた増員とされた。
少なくとも、他国にはそう見えるように偽装されていた。
もっとも、アキツ国内に外国人は非常に少ない。竜都の各国の外交官、武官以外だと一部商人と物好きと言われるような人々に限られている。
アキツを含む東方で西方の外国人が多いのは大東国の租界都市の江都で、西方諸国のアキツの情報収集の中心も、アキツ本国ではなく江都だった。
江都には租界防衛のため各国の海兵隊と巡洋艦が共同で駐留し、情報収集の為に武官や商人、そうした肩書きを持つ諜報員が数多くいた。
しかしアキツ本国や黒竜地域での活動は、アキツ側の防諜の壁に阻まれていた。特に亜人が住まない国は、種族の違いから大きく制限されていた。
もっとも、アキツはアキツで西方での諜報活動、情報収集で苦労を強いられていたので、この点は写し鏡の状態だった。
だがアキツに対する西方諸国の活動の方は、技術的な問題も影響していた。例外はアルビオンなど一部の国だけで、対立を深めているタルタリアですら例外ではない。
主な理由は、アキツ側に様々な魔法や鋭い知覚で動きを悟られる上に、1対1の腕力では敵わない為だ。
だからこそアキツは、物流、物資の移動を中心としたことに欺瞞行動を重きを置いていた。人と物の動きは、隠すのが非常に難しいからだ。
軍の移動についても、どの部隊もアキツ本国から出発していたが、少しずつ分散して移動し、さらに地方港から出るなどして注目を集めないように注意されていた。
それ以前に、各師団、部隊は各地方に駐留しており、そうした場所に外の者が入ってくる時代ではなかった。
一方で軍の活動の中心となる黒竜地域は、演習の名目で外国人の入国や移動がかなり前から制限されていた。国境検問所、各所の港、駅、主要街道の街の出入り口では、警察ばかりでなく軍の憲兵も動員して検問に当たっている。
そんな黒竜地域を移動している部隊は、大演習をするのがほぼ平時の編成の1個軍団の3個師団とその支援部隊。合わせて7万名。
それらを隠れ蓑にして移動、展開しているのが、兵士の動員と充足が行われた戦時編成という、戦争を前提とした部隊編成を取っている2個師団と支援部隊、合わせて5万名。特に砲兵が重視されていたので、移動する武器弾薬の量が非常に多かった。
加えて、各種装備と糧食、馬糧、弾薬、被服、燃料(勾玉)、馬具、各種道具その他、魔法物品を含む医薬品などの大量の物資。移動するものは大量にあった。
動いている物資の量は、演習する部隊の物資を大きく上回っている。
そして既にタルタリアとの勢力境界の辺りには2個師団以上の兵力が配備されているので、追加の2個師団と物資が到着して十分な武器弾薬と共に配備につけばタルタリア軍の当面の攻撃は防げるとアキツ軍では考えられていた。
なお、陸軍部隊の戦時と平時の違いは、ごくごく簡単に言えば補給部隊の規模の違い。さらに補給を含めた、直接戦わない後方支援部隊の充実度の違いになる。
師団だけでも、物資を運んだりする直接戦わないが戦いを支える者がいないと、兵営(平時の駐屯地)以外で軍の部隊は十分な活動は出来ない。
加えて平時編成の各部隊も、本当に戦えるようにする為、動員と充足で兵員が大幅に増やされる。
そして海外に多くの領土、勢力圏を持つアキツ軍は、補給や輸送、保管など軍隊の基礎となる兵站( ロジスティクス)と呼ばれる活動につて、数百年から否応なく学び、理解し、有事に備えていた。
だがそれでも十分ではない。何故なら、時代が進むと共に必要となる物資に加えて、直接戦わない兵士が増える傾向が強まっていたからだった。
近代科学文明が急速な勢いで発展しているこの時代、戦争を行う為に全軍の約4割が直接戦わない兵士で占められる。
10万名の将兵のうち、直接戦いに従事するのは6万名。残り4万名は6万名を支える為に活動する。
前線で戦闘部隊が戦う為に必要なものを運ぶだけで、大量の人員が必要になるからだ。
官僚組織と軍属というさらに後方で軍を支える人々も含まない数字で、戦争が複雑化している事の大きな証明とも言えた。
それ以外にも多くの人が戦争を支える為に必要で、物資の生産などさらに後方での兵站を考えると複雑さはさらに大きくなる。
その昔、武士は武器防具は自前で、あとは食べ物さえあれば戦えたとすら言われる。もっともこれは極論で、約300年前の戦国時代でも全体の3分の1近い数の戦いを支える為の兵士がいた。
そして時代が進むと運ぶ物、運ぶ事、用意する事、維持する事、そうしたものが増え続けた。
少し古い時代でも、銃を使えば銃弾、火薬、銃の交換部品、整備道具、そして整備や修理をする人員が必要となる。これが大砲になると、より多くのものが必要となる。運ぶ為の馬や馬車も必要となる。
銃以外も、武器や道具は多数ある。そして馬具や馬車などあらゆる道具は、維持する為に整備し修繕をする人も必要だ。
他にも、戦えば負傷する者が大勢出るので、衛生兵と呼ばれる負傷者を応急処置する兵士、後方で治療する医者や看護師が大勢必要となる。
そして人だけではなく、運ぶ荷物が増えれば運ばせる馬も増える。
馬は大量のや飼い葉や馬糧を食べるので、進む先に馬の数に対して十分な草原や牧草地がなければこれも用意しなければならない。
しかも単純な食事量だと、馬は人の10倍から15倍もの重さの食料が必要となる。
大きな負担だが、馬がいなければ大量の物資の運び手がいない。
それでも進軍する軍隊の人数が少なければ、そして一昔前ならば、様々な手段での現地調達で武器関連以外の諸々をある程度は賄う事が出来た。
それどころか、後ろから運んでくるのが大変なので、現地調達が大前提という場合すら見られた。
しかし時代が進んで軍隊の規模が巨大化、複雑化すると、現地調達では到底まかないきれなくなる。現地調達したくても、軍隊の規模が大きくて全く足りないからだ。
その事を、アキツの人々は300年ほど前の自分達の大規模な戦乱の時代に思い知らされた。
さらに海外に出て様々な規模の戦いを経験する事で、さらに理解を深めざるを得なかった。
赴いた場所によっては、そもそも食料生産できない不毛の土地だったりと、現地での食料調達が様々な理由で難しい場合が少なくなかったし、遠くの地では本国からの補給は非常に大変だった。
海を隔てているので船で運ぶことになるが、輸送には相応に時間がかかるので食料を腐らないようにする事だけでも難しく、その為に新たに魔術や呪具が生み出されたほどだった。
加えて輸送手段も問題で、昔のアキツでは馬や牛の背に載せるか二輪の荷車を人が押していた。これはアキツが島国であると同時に山国なので、坂道が多く道が狭いからだ。
だが海外、特に大陸に進出すると、広大な平地が多く馬と馬車が必要になる。むしろ無いと何もできなくなった。
この為、数百年の間に十分な輸送力と性能を有する馬車が軍民問わず整備、普及した。当然、馬も小型の国内産からより優れた海外馬が導入されていった。連動して、アキツ国内の道路も馬車に対応できるように大金をかけて整備された。
そして馬は陸上輸送で必要不可欠な存在となった。
一方で、軍隊が展開する場所が自国領になると、近代国家は国民から徴発するのが事実上不可能になった。
結果、水以外の必要なもの全てを運ばなければならない。砂漠や海の上だと、飲料水すら運ばなくてはならない。
そして軍隊は人の集団だから、日々生きる為に必要な食料を始めとした諸々を消費する。当然これらも戦場まで運んでいかなければならない。
しかも大抵の場合は、本国から運び出す事になる。
当然ながら、運ぶ前に生産するなどで用意しないといけない。
これを今回のアキツ軍で見ると、アキツ本国は島国で生産拠点、物資の集積拠点の大半は港湾都市でもあるので、すぐに船に積み込み大陸の玄関口となる大竜市、征西市へと船で一気に大量に、しかも少ない人員で運ぶ事ができる。
そして大竜市から、最前線の予定地点まで約1500キロメートルの陸路を鉄道で運ぶ。
竜都からだと、途中の海路を含むと4000キロメートル近くあるが、海路と陸路の輸送の手間と費用は大きく違うので、荷下ろしの手間を考えなければ負担は非常に小さく済む。
それに物資そのものも、竜都より大陸に近い場所で用意できる。そしてそうした場所の港で積み込み、アキツ国内で鉄道を使う必要もない。距離の方も、実際の距離は3000キロメートル前後となる。
対するタルタリア軍を見ると、帝都からアキツとの勢力圏の境界線まで鉄道で5500キロメートル以上。本国と言われる地域の東の果てからでも4000キロメートルある。全て陸地で、鉄道で運ぶより他に手段はない。
そして本国地域を抜けると、大陸横断鉄道1本だけで全てを運ばなければならなかった。
従来通りの馬や馬車では、途方もない時間と手間がかかるからだ。
しかも未開発、未発達な地域なので、鉄道での運搬も文明が進んだ地域より手間がかかった。
加えて、東に進めば進むほど鉄道の状態は悪くなる。
通常は利便性を考えて複線で鉄路を敷くところを、工事を急いだ関係で単線でしか線路がない区間も少なくなかった。しかも、駅、給炭、給水所の設備も十分と言えないところは、東に進むほど増えていく。
辛うじて大陸横断鉄道の開通に漕ぎ着けたところで、アキツが黒竜各所の鉄道や道路を長年使い、さらに強化している点を比べると大きく劣っていた。
しかもアキツは、この数年かけて黒竜地域での鉄道網の強化に努め、特に平原地帯においては開発促進の為もあって別の線の敷設も精力的に進めていた。
人口の多い南部で顕著で、北部でも急ぎ敷設が進められていた。そして一部では、北部でも最初に敷いた路線以外での運行が開始されつつあった。
北の中心都市春浜市も、既に複数の鉄道路線が乗り入れており、辺境となるさらに北部に向かう路線が敷かれつつあった。
そうした状況からもアキツ側は、タルタリアとの戦争を楽観視する者が少なくなかった。しかもタルタリアの大陸横断鉄道は、竜歴2904年に入ってもまだ開通していないと考えられていた。
だがアキツの軍を預かる者、政府中枢は、2904年2月には単線区間が多いながらもタルタリアの大陸横断鉄道が開通したと考えていた。
何しろ、2月中旬頃からタルタリア本国地域から東に向かう鉄道運行数が異常なほど増えた事が、おぼろげながら分かったからだ。
アキツ領と境界線を接する場所でも、それまでいなかった軍隊の姿を見たという情報が、間諜や買収した現地住民の証言で得られていた。
だからアキツも、黒竜地域の辺境での大規模な戦争準備を急いでいた。
そして春浜に溢れる兵士達は、その影響を受けた者達と言えた。




