029 「地政の講習」
・竜歴二九〇四年一月某日
竜歴2904年に入ると、秋津竜皇国とタルタリア帝国の双方で戦争に向けた動きが強まったという噂が、世界の専門家、政治家、軍人、貿易商人など一部の間で飛び交うようになった。
しかしタルタリアは、アキツの勢力圏に近い場所での活動について、広大な国内での大陸縦断鉄道の敷設工事の拡大とその警備だと言った。
実際、冬が非常に厳しい地域、しかも真冬だというのに、鉄道敷設工事は急がれていた。そして鉄道敷設自体は、経済行動、国土の開発と言える。
また、タルタリアは世界最大の天羅大陸で最大の版図、領土を有する、土地面積の上では超大国。
しかし、強引に版図の拡大を続けてきた為、比較的最近に領土にした地域、国境に近い地域では半獣や被征服民族、周辺国家との軋轢、対立が絶えなかった。
それに境界山脈を越えた東側の辺境地域でのタルタリア本国人の人口が非常に少なく、この事が領土内での軍事上の不安になっていた。
国の方針に従う民がいない場所では民は戦うどころか歯向かう可能性すらあり、軍隊を置かざるを得ないからだ。
この為、常備軍も列強最大規模であり、軍備増強と言っても辺境対策、国境対策程度にしか他の国も考えなかった。
軍隊が国内で積極的に動いていても、いつもの行動とすら言えた。
つまり、いつもの事を世界が過剰に反応しただけだと言った。
一方のアキツは、タルタリアと隣接する黒竜地域で以前から続いている大規模な開発の為の物資の流れを勘違いしているだけだと各国に改めて伝えた。
また、我が国が望まない限り他国との戦争はないと常日頃から言っているし、概ね事実だった。
約半世紀前にあった『変革』以後、アキツの側から他国に争いを仕掛けた事は殆どなかった。僅かな事例も、他国への力添えばかり。仕掛けられた事もあったが、勢力圏の防衛の為の小競り合い程度でしかない。
この事は、力を持って相手を従える帝国主義と言われる時代において、稀有と言える事例だった。
加えてアキツは、一見すると世界の東の果て、西方世界から見て『極東』と呼ばれる地域の果てにある小さな島国を本国としている。
それどころか、近代科学文明の中心とされる西方世界の一般大衆からは、意識や認識すらされていない事が殆どだった。
多少知っていても、魔物の住む極東の小さな島国だ。
魔石の主な輸出国なのだが、それも近隣にある大陸の大国、半ば崩壊している大東国が魔石の産地と思われがちだった。
だが、世界情勢を正しく知る一部の者達からは、アキツは広大な海外領土を有する領土大国にして、魔石により莫大な利益を得ている経済大国と認識されている。
そして世界最大の広さを持つ大東洋に面する地域の七割以上が、アキツの実質的な勢力圏だった。
世界最大の天羅大陸の北東部一帯を占める北氷州、天羅大陸の極東の玄関口でもある東南地域の島嶼部の大半、南半球の南天大陸、南天洋とも呼ばれる大東洋の南半球側の約半分、そしてさらに極西大陸の西側約半分。
加えて、40年ほど前に実質的に手に入れた黒竜地域。
これらすべてが、この三百年ほどの間にアキツが進出した地域であり、アキツの勢力圏だった。
領土面積だけでもタルタリアに匹敵すると言われる。実際はそれ以上で、この時代には誰も正確には把握出来ていなかったが、世界の陸地の約2割がアキツの勢力圏になる。
しかしアキツは、海外の勢力圏、領土をあからさまに宣伝しなかった。亜人の国として、西方世界から不用意に脅威と見られたり、侵略される面倒を少しでも避ける為だ。
勿論、勢力圏の領有はしっかりしたし、植民、開発、経営にも熱心で、軍隊も配備した。場合によっては、ちょっかいを出してきた国とも戦った。
その最大のものが、40年ほど前に行われた極西大陸の東側で行われた『分裂戦争』だった。
当時、極西市民連邦と呼ばれるかつてアルビオン領だった国があったが、主義主張と主な居住種族の違いから南部が一斉に分離。亜人を中心とする精霊連合を建国して、国を二つに割った戦争となった。
そして、大陸中央を流れる大河の西に広大なアキツの領域が広がっていた。
この戦争に際してアキツは、自らの領域である諸部族連合への戦争波及阻止を理由に、現地の自治政府が精霊連合側で参戦。
しかしアキツ本国は、本国近辺での列強の干渉、アキツ本国からの距離の遠さ、希薄な人口、未発達な交通網、何より極西大陸の広大な大地という障害もあり、十分な派兵と戦争は出来なかった。
それでも、最終的に二つの国に分裂する戦争で大きな役割を果たした。遠路派遣されたアキツ艦隊などは、市民連邦の海上封鎖を破るべく堂々とした艦隊戦で勝利すらしていた。
この為、西方世界がアキツを明確に警戒する大きな要因となったが、アキツとしては十分に利益のある事件だった。
南北対立により、市民連邦は西への進出、大東洋を目指す動きが事実上不可能となった。
それどころか、分裂により南部地域を失い、さらに国境を大きく東に後退させていた。
対するアキツは、亜人が治める南部の精霊連合という友邦を得ることすらできた。
それ以外だと、本国が極東という西方世界から地理的に最も遠い場所にある事、アキツが十分な国力、技術力、軍事力、そして他国を圧倒する『魔の力』を有する為、正面切って戦いを挑んでくる国はなかった。
アキツも、勢力を広げるのは当面は限界に達していると考え、さらに自分たちの国と勢力圏の運営と積極的な入植、開発に力を入れる段階と捉えて、敢えて他国と事を構えようとはしなかった。
アキツがそう考えるのは、本国以外の支配領域のかなりの地域には亜人が以前から住んでいるという要素が大きかった。
只人も住んでいたが、支配領域には大きな勢力も高い文明もないので、自分達が西方列強から庇護しているという考えが大きかった。
実際は、現地住民に対して西方列強より多少マシな程度の統治と態度でしかなかった場合が多い。特に、現地の只人に対する統治は褒められたものではない。
また、アキツの民が数多く移民し、地理的条件の良い場所を占有する事例も多かった。支配民族としても幅を利かせてもいる。
そして環大東洋域と呼ばれる広大な地域は、数百年かけて徐々にアキツの勢力圏となった。
しかしアキツ本国から見れば、環大東洋域の勢力圏の大半は植民地か入植地。もしくは、自治領や保護国。
早い場所だと、竜歴2700年代にはアキツ本土からの入植が始まっているが、本国と同程度に発展している地域は少ない。
全てを合わせると人口は本国の3分の2に達するが、人口に似合うだけの国力は持っていない。
多少の軍事力を編成できても、それぞれの地域の治安維持や防衛に使うのが精一杯。防衛には、本国からの軍隊すら必要な地域もあった。
この為アキツは、支配領域の多くを市場や資源供給地として見ており、兵力、軍事力の供給地とは見ていなかった。
それでもアキツが、環大東洋域の広大な地域を実質的に支配しているのは間違いなく、その支配領域はタルタリアに匹敵するか凌駕した。
そして広大な版図を有するアキツは、植民地も領土として考えるこの時代の感覚では超大国の一つだった。
また全ての領域が大東洋沿岸にある為、世界最大の海洋である大東洋を『竜の浴槽』と呼ぶ事がある。
実際、アキツの支配領域では、西方や各地で姿を見なくなった竜が空を飛ぶ姿を見る事が出来た。
だが時代は下り、竜歴2890年代くらいから西方列強との対立と勢力争いが見られるようになる。
理由の一つは、近代科学文明の発展により工業生産力が飛躍的に向上し始め、さらに蒸気機関という革新的な移動手段が開発、普及したからだ。
そうした影響もあり、西方世界がこの少し前から世界を分割する植民地獲得競争を激化させ、彼らが安易に手を出せる場所に手を出し尽くす。
西方世界の南にある暗黒大陸は、西方列強の手によって幾何学的な直線で区切り、分割されていた。
そしてアキツの勢力圏までも狙うようになる。
またアキツを狙う様になった別の理由は、近代科学文明の急速な発展により、もはや『魔の力』は恐れるに足りないという考えからだ。
その証拠に、西方列強が支配した地域にいた亜人は、小銃と大砲を装備した近代的な軍隊の前に蹂躙され、支配されるだけの存在だった。
さらに世界中が植民地や勢力圏に組み込まれていった。
だからアキツも似たようなものだと、安易に考える者が後を絶たなくなる。
しかしアキツは違っていた。
主に西方の亜人も住む国との友好関係を結び、魔石を輸出し取引材料とする事で、金と共に自分達には足りない様々な技術と知識を手に入れた。儲けた金を使い、味方を増やす活動にも余念がなかった。
そして西方列強の貪欲な者達が気づいた頃には、魔法と近代科学の両方を手にした強大な存在として彼らの前に立ちふさがっていた。
だが彼らは諦めてはいなかった。
アキツの亜人が生み出す膨大な量の魔石も、彼らが手にして当然の宝だからだ。亜人が好き勝手に持っているのは間違っているからだった。
特にこの考えは、人至上主義とでも呼ぶべき考えの国や地域で強かった。
この一方的な考えもあり、ガリア、ゲルマン、タルタリアといった西方列強とアキツとの関係は常に悪く、常に緊張状態と言えた。
そしてアキツと勢力圏同士が直接接触する列強の一つが、国内の亜人に圧政を敷くタルタリア帝国だった。
「でもさ、アキツとタルタリアが戦争したら、他の列強が喜ぶだけだよね」
隊内での勉強会の甲斐の概況説明に、朧が退屈そうに感想を口にする。
それを一緒に聞いていた同僚達が苦笑いしていた。話していた当の甲斐ですら内心苦笑する。
「その通りだが、それじゃあ一番喜ぶのはどこだ?」
「アルビオンでしょ。あ、でも、アキツの極西での防衛力が下がるだろうから、市民連邦が一番なのかな。でもあそこは、列強って言えるほど強くないよね。南に只人を奴隷にしている天敵もいるし」
意外に的確な言葉が返ってきたので、甲斐を始め全員がそれぞれ意外そうな表情や仕草を見せる。
もっとも、当の朧は退屈そうなままだ。
だから甲斐は気を取り直す。
「朧、アルビオンはアキツの友好国だぞ。列強で殆ど唯一のな」
「でもさ、大陸のセリカに一番手を出しているのはアルビオンだし、タルタリアと世界各地で対立しているのもアルビオン。だからアキツと握手してるだけでしょ。違った?」
「その通り。よく勉強しているな。まあ、朧の言う通りだからこそ、アキツとアルビオンは手を組んでタルタリアと向き合っている。では、タルタリア側は? そうだな、磐城」
緑の大鬼の磐城は、指名されるとギョロ目を顔ごと甲斐に向ける。愛嬌のある表情だが、当人は至って真面目だ。
「ハッ。それはガリアとゲルマンです。先日の偵察行でも、ゲルマンの最新の機関車がありましたからな」
「そうだ。タルタリアにガリアが金を貸し、ゲルマンが工業製品を売る。それに兵器もな。ゲルマンの兵器は質が良いから厄介だ」
「でもさ、ゲルマンってあんまり植民地持ってないよね。今の説明だと、たくさん植民地や領土を持ってるのって、アキツ、タルタリア、アルビオン、それにガリアくらいでしょ」
「だからこそだよ。自分の勢力圏が少ないゲルマンは、アキツの領土を分捕りたい。と言うより、漁夫の利を得たい」
「だからいつもはタルタリアと敵対しているのに、今回は味方してるんだ。悪どいなあ。ガリアは? ガリアとゲルマンも仲良くないよね」
「今回のガリアは、タルタリアとの関係を重視したと見るべきだろうな。まあ、ゲルマン同様に漁夫の利を狙っているのも間違い無いだろう。それにガリアとアルビオンの仲がよろしくないのは、もはや様式美だ」
「そう言えばそうか。じゃあアルビオン以外に、味方と言わないまでも応援してくれる国はないの?」
「あるぞ。タルタリアは周辺を侵略ばかりしているから、周り中から酷く嫌われている。隣接する北方妖精連合なんかは、天狗や多々羅の国なのもあって、我が国とは非常に友好的な関係にある。それと永世中立国ではあるが、ヘルウェティア誓約国が金融面で我が国に便宜を図ってくれる。主に水面下だがな」
「ヘルウェティアって綺麗な山の国だよね」
「うん。それに我が国以外で大天狗が住む珍しい国でもある」
「アルビオンと北方妖精連合にも、数は少ないけど住んでいるわよ」
そう付け加えるのは、横の席で助手をしている鞍馬だ。
それに目で礼をした甲斐は、目の前の参加者達を軽く見渡す。
「あと、オストライヒにも多少の亜人が住むが、内陸国な上に我が国とは疎遠だ。大内海に面した半島国家のエトルリア王国も北の山間部に亜人が多少住むが、この国とも疎遠で正直なところ考えなくて良い」
「こないだ食べたエトルリアの料理は美味しかったのになあ」
朧の言葉で雰囲気がほぐれる。
そしてそれが、この講習と言える集まりの終了を告げるものとなった。
「まあ、美味い飯は、運が良ければ今回の後でお裾分けがもらえるそうだ。その分、今度開催されるアナスタシア様を主賓とする懇親会では気を引き締めるように。以上」
甲斐がそう場を締めたように、この勉強会は会場警備の為の予備知識を復習するための勉強会だった。