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「おはようございます。今日は賄いを作りますが、これはナイトル村店でだけで提供する料理になります。ただ、ナイトル村は麦の生産でも有名なので料理だけでなく、パンやケーキもスペシャリテとなります。が、パン等は全ホテル共通してお客様に出すモノですから、皆さんに覚えてもらう必要があります。まず、料理ですが、パイを使ったオニオンスープになります。作り方を説明しますので、メモを取って下さい」
最初、研修を受ける料理人の中にはメモを取るのを嫌がる人もいた。
でも、手順は覚える事ができても、分量を覚える事は料理の数が増えて行けば行く程難しくなる。
特殊な能力が無い限り、メモは必須なのだ。
同じ事を何回も聞かれても困るもんね。
基本のパイ生地を教え、「パイはデザートを作るのにも使えるので、この分量をきっちり覚えて下さい。覚えられない場合はメモを見て、きっちり測って下さいね」とそれぞれに作ってもらう。
生地を寝かせている間にパン種を作り、発酵させるためにこれまた寝かせる。
「次にオニオンスープの中身ですが、」
「ちょっと待って」
「はい、ニコラスさん、何でしょうか?」
彼は料理人歴が10年以上の大ベテランなのだが、計量をいい加減にするのでちょっと苦手なのだ。
でっぷりとお腹が出ていて、頭皮も寂しくなっているちょっと脂ぎったオジサンだ。
「ナイトル村以外はパンは外注でいいんじゃないか?」
「ウチは高級料理をお客様に提供します。パンは全ての食事に必ずつける料理です。すぐ近くにウチの店で出せる程品質の良いパンが、こちらの望む値段で売られているのならそれでも構いません。でも、例えそういう店があったとしても、その店が何かの理由で店を閉めたり、ある日突然味が落ちたりしたら、どっちにしても自分でパンを焼かねばなりませんよ。後、私はあなたたちの上司になります。年はあなた方の子供や孫くらいなので上司として受け入れるのは難しいでしょうが、店の中ではお客様がいなくても私には敬語で話し掛けて下さい」
ニコラスさんは小声でブツクサ言っていたが、面と向かってはまだ何も言って来ない。
計量はいい加減なのだが、ある程度のモノは作れる。
ただ、油で揚げるとか、天然酵母を使ってパンを焼くとか、今までにない調理法には消極的なのだ。
幼い私から学ぶのが嫌なのか、これまでの自分の料理に自信を持ちすぎているのか、彼の反抗の理由はよく分かっていない。
スティーブ伯父さんへの態度は幾分真面なのだが、それでも計量をちゃんとしろと言うと、ふてくされる事がある様だ。
この状態だと彼を料理長には出来ないし、他の者が料理長になった調理場で彼が働くとも思えない。
ダンテスさん経由で仮契約しているので、この研修期間中に解雇も出来るのだが、ある程度ウチの料理について学んでいるので、余所でウチの料理を出されても困るんだよね。
一応、契約書を結ぶ時、ウチで学んだ料理を他で出さないと言う条項には同意してサインを貰ってるんだけれどね、どれくらい守ってくれるかは分からない。
スティーブ伯父さんによると、研修の初めの頃は結構真面目に受けてくれていたらしい。
でも、3週間も経つと、「計量計量って煩いよ。俺は料理を作ってるんで、ポーションを作ってるんじゃない」と言い始めたらしい。
料理人の研修は既に第4グループになっていて、ニコラスさんたちの前に既に3グループが研修を終えている。
1つ1つのグループの人数が少ないので、合計の人数はそんなにはいない。
調理人の数は出来るだけ揃えたいが、ニコラスさんは解雇の方が良いかもしれない。
まだ仕事も始まっていない内から、上司の指示をちゃんと聞けないとなると、お客様の要望も聞きそうにないもんね。
その日は予定通りの賄いを作り、美味しいパンも焼き、一旦研修を終え、ウチの店の手伝いをしてもらった。
私は賄いを食べ終わったら研修中の調理師たちをスティーブおじさんに任せ、相談する為に大公館へ移動しダンテスさんを探した。
「ニコラスは指示を聞かないんですね」
「はい、聞いたとしても不承不承という態度を隠しません」
「いけませんね」
「実は解雇も考えています。解雇するのならばレシピの流出を抑えたいので、これ以上レシピが増える前に辞めさせた方が良いかなと思っていますが、ダンテスさんはどう思われますか?」
「誰を雇うのか、雇わないのかの最終的な判断はアウレリア様の手の中です。もちろん、私どもの方が長く生きている分、人を見る目などもあるでしょう。そういう事もあり相談には乗りますが、アウレリア様が信用ならないと思われる方は遠慮なく解雇しましょう。ふむ、ニコラスはウェルネット子爵家が推薦して来た料理人ですね」
ダンテスさんは人事に関する資料を見ながら顔をしかめた。
「ダンテスさん、ニコラスがウチで学んだ調理法やレシピは外に流れ出ないでしょうか?私が心配しているのはそこなんです」
「ホテルのスタッフは研修を受ける前に全員契約書にサインしてもらっています。その契約書には魔術が使われています」
「え?魔法契約って、そんなのがあるんですか?」
「はい、あります。ただ、魔法を使って契約書に縛りはかけていても、違反するのを止める様な機能はありません。違反したからといって死ぬ訳でもないので、契約に違反する事を厭わなければ違反する事自体は出来てしまいます」
「え?では契約書に魔法をかける意味ってあるんですか?」
「魔法の掛かった契約書の内容に違反すると、顔全体に蔦の様な入れ墨が即座に浮かび上がります。顔にそんな入れ墨が入っていれば、当然、まともな所では雇ってもらえなくなります。万が一、入れ墨を火傷などで上書きしようとしても顔全体に浮かび上がってきますから、火傷だと死んでしまう可能性もありますし、その他の方法で顔を二目と見れぬ様にした場合も、真面な所では働けなくなるので、普通は契約を守ります。ただ、裏社会と言って、アウレリア様には想像もつかない様な後ろ暗い者が蠢いている社会もあるのです。そういう所で働こうと思えば、顔に入れ墨があっても問題では無くなります」
「ニコラスさんが、顔に入れ墨が出てもレシピや調理法を流出させる場合は、最初から裏社会で働く事を考えているって事ですね」
「そうなりますが、この人物は子爵家が大公様へ紹介した人物です。何かあれば子爵家が責任を取らなくてはならなくなるので、万が一にもそんな事にはならないと思いますよ」
良く分からないけど、貴族家が保証をした人物って扱いになってるのかな?
なら、より多くのレシピがニコラスの手に渡る前に解雇した方が安全だよねと言うことで、ニコラスの解雇が決まった。