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「ハッシュ伯爵様、こちらがコートでございます」
パンクがフワフワの白い毛皮のコートをハッシュ伯爵に手渡した。
私は、スノーボールクッキーの売れ行きが心配で、調理場から隠れて今夜最初のお客が帰る所を覗いていた。
「ん?これは?」
ハッシュ伯爵の皮手袋をはめた手は今日の夕方クロークに据えられ、スノーボールクッキーの並ぶショーケースを指している。
「新しく私共の店で売り出したスノーボールクッキーというお菓子でございます」
パンクが恭しく説明すると、「食べれるのか?」と怪訝そうに聞き返された。
「もちろんでございます。どれも可愛い動物を模しておりますが、甘く美味しいお菓子でございます」
「ふむ。デザートのメニューの中にはこのクッキーは入っていなかった様だが?」
「はい。こちらのクッキーは当店でお食事をされた方のみご来店時にご購入が可能な商品となっております。今日初めて店頭に並んだお菓子です。お食事の〆とはなりませんので、レストランの方ではお出ししておりません」
今日の夕方母さんが書いた説明文を丸暗記したパンクが淀みなく説明をした。
ハッシュ伯爵はしばらく考えていた様だが、一緒に食事をしていたマルス男爵の奥様の方を振り向き、「君はこういうお菓子は好きかい?」と尋ねた。
この二人が不倫な関係なのは社交界では有名な話なので、この様に半ば公の場で二人で現れても誰も何とも思わないし、言わない。
ウチの店には時々、こういったカップルも来店する。
って言うか、貴族社会の中では不倫なんて当たり前で、誰憚る事なく大っぴらに浮気をしているのだ。
ハッシュ伯爵だけでなく、ハッシュ伯爵夫人にも浮気相手がいるなんて聞いても驚かないくらいには貴族社会は爛れている。
先にパンクからコートを受け取って既に着込んでいたマルス男爵夫人は嫣然と微笑んで、「パリス、もちろん好きですわ」とハッシュ伯爵の名前を呼んだ。
「じゃあ、少し包んでもらおうか」
「はい、ハッシュ伯爵様。5個と10個、どちらに致しますか?」
パンクがショーケースの後ろに戻り、すっとショーケースの後ろの戸を開ける。
「じゃあ、10個の箱を2つだな」
「まぁ、パリス。奥方にも持って帰るつもりなの?」とマルス男爵夫人は少し御冠だ。
「まぁ、いいじゃないか。いつも君と一緒にいてほったらかしにしているんだ。こういう時くらいお土産を渡しても罰はあたらないよ」
いちゃついているのか、喧嘩しているのか分からない二人のやり取りを掻い潜ってパンクが、「どの動物に致しましょうか?希望はございますか?」と聞くと、「君の分は君が選びなさい」とマルス男爵夫人の背中を優しく押してショーケースの前まで連れて行った。
「私は犬が好きですの。ポーズの違う犬を詰めて頂戴な」
そんな事もあろうかと、私は1種類の動物で10パターンのポーズを作っている。
ハリネズミは違うけどね。
ハッシュ伯爵は奥様向けには「妻は猫が好きなので、猫を詰めてくれ」と言ったものだから、またまたマルス男爵夫人の手入れが行き届いている額に眉を寄せた皺がくっきりと浮かんだ。
それに気づかぬ風を装ったパンクがクッキーを詰めたブリキの箱をうやうやしく伯爵に差し出した。
あまりふくれっ面を長くしてしまうと伯爵の気持ちが離れてしまうと危惧したのか、男爵夫人はスルっと不機嫌な表情を引っ込め、伯爵の腕に自分の腕を絡ませ可愛らしくお礼を言っている。
ほほう、これが恋愛スキルが高い淑女の立ち居振る舞いなのねと心のノートにメモをしながらも、まだまだクロークの辺りを窺う。
「この缶も素敵ね。フローリストガーデンのエンブレムが入っているのね」
マルス男爵夫人はブリキの箱の表面を撫で、嬉しそうだ。
「ほう、箱もお洒落だな」とハッシュ伯爵も感心してくれた様だ。
これならスノーボールクッキーも売れ筋商品になるかもしれない。
ハッシュ伯爵に肩を抱かれたまま、マルス男爵夫人は大事そうにクッキー缶を抱え、夜の庭園に降りて行った。
その後もクッキーを所望されるお客様は多く、ナスカは通常の業務の合間に何度もクッキーを焼く羽目になった。
私のスキルで作り出していたタイマーが大活躍だ。
今度、オーブンの温度計に設定温度から外れたらベルが鳴る様な仕組みを組み入れる事ができればナスカの仕事はもっと楽になるかもと思ったけど、私の錬金術スキルではまだまだそんな高度な事は出来ない。
もっと錬金術クラブでも頑張って色んな技術を身に付けないとねぇ。
ウチの店のお客様は殆どが貴族だが、全員がショーケースに目を止めてくれたらしい。
私もずっとクロークを盗み見ている訳にはいかないので、時々しか覗いていないんだけど、そんな中、若い女性ばかり5名にシャペロンの様な年配の女性の一団がクロークに来た時は見逃さない様にしていた。
お茶会の方は若い女性だけという事も珍しくないんだけど、夕食で女性ばかりというのは珍しく、ましてや殆どが10代くらいの若い女性ともなれば、スノーボールクッキーへのアクションがどんな感じなのか知りたかったので、サブリナにこのグループがクロークへ行く時には知らせる様にお願いしていたのだ。
「うわぁ、なんて可愛いんでしょう」
「食べられるんですの?」
「お食事のメニューにこちらのクッキーは入っていませんでしたよね?」という、他のお客様とあまり違わない反応だ。
そんな中、立ち居振る舞いが大人しい女性が、「温室の時も、あちらでクッキーを購入できますの?」と聞いて来た。
そうだ!温室!と私は頭の中で叫んだ。
今は暖かいので、もう温室は特別な予約がなければ解放はしていない。
でも、このスノーボールクッキーは冬でも作る事が出来るので、温室へ直行されるお客様にはどうするかという課題がある事に気付かされてしまった。
まぁ、まだ冬までは時間があるのでどうするかはゆっくりと考えよう。
とりあえずクッキーもクッキー缶も好評の様なので、スノーボールクッキーはこれからも販売することにしょう。