伯爵の正体
いつものように、地下室に行って子どもたちと過ごした帰りのこと。
ふいに、スペンサーから「伯爵が今夜会いたがっている」と告げられた。
「今日? なぜ、また急に?」
結婚式のときに一度会ってから(それも仮面で顔をしっかり隠していた)それ以来、一切、わたしの前には姿を見せなかった伯爵。地下室にさえ行かなければ自由にしていいと告げて、屋敷にさえ戻らなかった彼なのに、今更、どういう風の吹き回しだろう。
「……俺に言われても知らないよ。とにかく、俺は伝えたからな。今夜は部屋で待っていること。間違っても、地下室には来るんじゃないぞ」
なんだろう。嫌な予感がする。
部屋で待っていろ……って、まさか、今夜はベッドを共にしろ、とか!? いよいよお世継ぎを作りたくなった?
そりゃそうよね。伯爵さまだって、働き盛りの27歳。妻を娶ったら、次は跡継ぎが欲しくなるのは自然な流れだ。
だけど。
恥ずかしながらわたしは、この手のことが『ハジメテ』だった。そして、初めてのときは本当に愛する人としたいと、心に決めていた。いくら金で買われた花嫁でも、心まで売り渡してしまうわけにはいかない。
――よし。逃げよう。
そうと決めたら、そこからの行動は早かった。
クローゼットから、ありったけのスカーフを出してきて、それを紐のように繋げ、ひとつの長いロープにする。さらに、それをベランダの縁にくくりつけたら、あとはこの特製ロープを伝って下りるだけ。
2階から見下ろした地面は、思ったよりも高く、見るだけで足がすくみそうになるけれど、なんてことはない。きっとうまくいく。そう信じて、わたしは一歩足を踏み出した。
少しずつ下りて行って……そう、いい感じ……あともう少し……あと少しで、地面に下りられる。そうしたら、こんな陰鬱なお屋敷ともおさらばだわ!
だが。そこで少々問題が起きた。
地面まであと少し、というところで、スカーフの端が途切れてしまったのだ。なんという計算ミス! 微妙に長さが足りなかった!!
両手はスカーフの端をつかみ、両足は地面から微妙に浮いて宙ぶらりんのところをさまよっている。このまま手を離して飛び降りてもいいのだろうが、そうなると、確実に怪我をする。足をくじいてしまえば、逃走することも不可能になるし、できればそれは避けたかった。
どうしよう、どうしよう、と脚をジタバタさせていたとき、ふいに、わたしの足元に誰かがやってくる気配がした。
「何やってんだ?」
低い、ぶっきらぼうな声。この声は――。
「スペンサー!? どうしてここに?」
地下室にいたはずの彼が、なぜここにいるのか。よりによって、こんな姿を見られてしまうなんて。わたしが逃走しようとしたと知ったら、彼はどう思うだろう。
スカーフのロープがきしむ。窓にくくりつけたはずのスカーフが、わたしの重みと繰り返す衝撃に耐えきれなくなり、今にも限界を迎えようとしていた。ついでに言うと、わたしの両手も、ギリギリまで削られたその体力で、いよいよ限界に近かった。
ロープがちぎれるか、わたしの体力が疲弊するのが先か。すべては、時間の問題だった。
「あぶない!!!」
ロープが手から離れ、わたしの身体は地面を真っ直ぐに落ちていく。落ちる瞬間に、スペンサーの叫ぶ声が聞こえた。
気付いたときには、わたしはスペンサーの腕の中にいた。
「バカ野郎!! 危うく死ぬところだったんだぞ!? 俺がいなかったら、どうするつもりだったんだ!!!」
スペンサーはそう言って怒ったけれど……あれ……でも、その恰好……?
「伯爵……さま?」
豪華な装飾が張り巡らされた上等な上着。しわひとつない上等なズボン。ピカピカに磨かれた上等な靴。どれも、普段のスペンサーのボロボロの恰好からは想像もつかない姿だ。それは、まさに、結婚式の日、一度見たきりの伯爵さまの恰好にとてもよく似ていて――。
「俺はスペンサーじゃない、本当の名前はライアン・ヒルバーグだ」
ヒルバーグ。覚えている。
この結婚が正式に決まる前、目を通しておけと言われた幾枚もの書面で、何度も見てきた名前だ。
「ヒルバーグ――って、伯爵さまの?」
そう。スペンサーの主人であるはずの――そして、わたしの『夫』でもある――伯爵さまの本当の名前だった。
「アレキサンドリア伯爵はこの俺だ」
「ええっ!」
スペンサーが、伯爵? いえ、でも、スペンサーは伯爵から屋敷のこと一切を任された唯一の使用人だったはずで。そうよ、スペンサーはお医者でしょう? 伯爵に雇われて、子どもたちの面倒を見るように言われた。それに、伯爵の『表面上の妻』となったわたしのことも。
「スペンサーは仮の名前だ。本当の名前じゃない」
「ど、どういうことなの?」
未だに驚きを隠せずにいるわたしに、彼は、ゆっくりと順序立てて教えてくれた。
まず、スペンサーは仮の名前で、適当にでっち上げた名前だということ。家令の事実も、そんな人間がいることも要は嘘っぱちでしかない。
伯爵は留守だと言っていたが、実は、家令のふりをして屋敷にずっといた。家令のふりをしていたのは、若い伯爵というとナメられるのが嫌だったからだ。それに、お堅い貴族の姿でいるよりも、飾らない使用人の姿でいるほうが、彼としても気が楽だった。
結婚式の日に仮面をつけていたのだって、そうだ。素顔がバレてしまえば、こやつは世間知らずの青臭い若造だと、バカにされるのが怖かった。
「わたしはバカになんてしないわ」
少なくとも、わたしは。
お父様は……まあ、世間体をひどく気にする人だから、もしかしたら、ということはあるけれど。
「わかってる。でも、あのときの俺は、自分以外の人間をまったく信用していなかった。社交界の御偉方は俺のことをわかったように吹聴する。あの男は、若くて世間知らずで何もわかっちゃいない、自分たちが指南してやらねば、と古臭い決まりを押し付けて、それで満足した気になってるんだ」
「でも、それは……」
社交界の先人として、これから先、社会で上手く生きてゆくための心得を授けてくれているだけじゃない?
「まあ、そうだろうな。でも、俺は大人というものを根本的に信用してはいないから」
またひとつ、思い出した。伯爵さまの黒い噂。
伯爵は人嫌いで、だからこそ、人の滅多に来ない辺境に、たったひとりでお屋敷を構えて住んでいるのだと。
わたしがそんなことを思っていると、彼は、ぽつりぽつりと話し出す。
「幼いとき、両親をいっぺんに亡くした俺に、近づいてきたのは遺産目当ての大人だけだった。いま、遺産を預けてくれれば、数年後には倍にして返す、だの。面倒を見てやるから遺産は一旦こちらに預けろ、だの。嫌気が差したよ。大人というのは、こういう人間しかいないものかと」
ヒルバーグは、そうした大人たちを遠ざけ、ひとりで生きていくことを決意した。
だが、幼いヒルバーグが遺産だけで暮らしていくためには、父の代から仕えてくれていた使用人を半分に減らし、だいぶ節制して生活しなければならなかった。
それでも、彼らに財政管理や雑務仕事を教えてもらいながら大きくなっていき、16歳を迎えたときには、屋敷の管理も日々の雑用も、なんでもひとりでこなせるようになっていた。
医者を志すようになったのは、18歳のときだ。
もともと、先代に仕えていた家令の男は熱心な崇拝者で、毎週日曜になると決まって近くの教会に礼拝に出かけていた。幼いヒルバーグは軽い気持ちでついていったが、大きくなると、教会が支援している貧しい子どもたちの存在に気付いた。
世の中には、病院に行きたくても行けない貧しい子どもたちがいる。病気を治そうにもお金がなくて、苦しんだまま、死ぬのをじっと待つしかない子どもたちが。
ならば、俺が医者になってやろう、と思った。お金のない貧しい人たちを無償で診てやり、その代わり、金持ちからふんだんに金を取る。そんな医者になろうと思った。
そうして、猛勉強の末に医学校に通い、医学博士号を修得して、港の奴隷商人と知り合った頃には、様々な事情で厄介払いされた子どもたちを厚意から引き取るようになり、屋敷の地下室で面倒を見るようになった。
まあ、それも、普段の人付き合いが悪いせいで、『伯爵は屋敷の地下で子どもたちの手足を切り刻んでいる』――などという不本意な噂を立てられるようにはなったが。
そんな中、没落貴族の娘、アンジュ・フラクスンとの結婚を決めたのは、社交界を牛耳る年寄り連中が「そろそろ嫁を貰え」とうるさくするのを少し黙らせたかったからだ。
自分は今のところ、妻を娶るつもりはない……だが、形だけでも『夫婦』の形を取ってしまえば、きっと、あの爺さんたちもうるさくは言わないはずだと。
それでも、問題はあった。
伯爵位についているとはいえ、人付き合いが悪く、不本意な噂の立つ男。跡取りを望もうにも、ベッドを共にせず、会おうともしない――そんな男の妻に、誰が望んでなろうとするものか。
そこで、金銭的な余裕のない――たとえば、借金があって、結婚の持参金も用意できないような――訳ありの娘を狙おうと目論んだ。嫁の貰い手がない残り物の娘なら、喜んで結婚に承諾するだろうと踏んだからだ。
伯爵の読みは当たっていた。
フラクスンは狙い通り、娘を差し出し、借金がチャラになったと大喜びで去って行った。残された娘は伯爵のもとに囚われ、何も知らされぬまま、一生を屋敷の中で過ごすことになった。
「あんたには悪かったと思ってる。でも、こうするしかなかった」
伯爵は、申し訳なさそうに、頭を垂れた。
あのとき、わたしとの結婚を承諾しておきながら、あとは自由にしてよい、と言ったのはこういうことだったのだ。
「でも……どうして……今更、その恰好でわたしの前に現れようと思ったの? わたしがあのまま何も知らずにいれば、それで墓場まで持っていけるはずだった。逃げられる心配もなく、告げ口もされず、うちの両親とも波風を立てることなく『契約』を終えられるはずだった。そうではない?」
わたしが言うと、伯爵は、少し恥ずかしそうに視線を逸らして言った。
「温室育ちの貴族のお嬢さんなんて、どうせ、お高く留まった女に違いないと思っていた。いくら、借金持ちで行く当てのない女といっても、所詮は貴族の娘だ。きっと、想像と違う質素な暮らしに嫌気が差して、数日で逃げ出すことになるんだろうと――ま、そうなったらなったで、逃げ出そうとしているところを現行犯で取り押さえて、二度と逆らえないように、縛り付けておくだけだけどな」
いま、サラッと怖ろしいことを聞いたのは気のせいだろうか。
「でも、あんたはそうじゃなかった。真っ直ぐで飾らない性格……どうしようもないバカだが、なぜか気になる……どんなときも正直でいようとするその姿勢に、俺も気が変わった。あんたの前では『本当の自分』でいようという気になったんだ」
「本当の……」
それが、つまり、家令の『スペンサー』ではない、本当の自分、『アレキサンドリア伯爵』としての自分の姿だったというわけか。
「だから、いまは、本当の俺の姿で言いたい。スペンサーじゃなく――ライアン・ヒルバーグとして」
彼が、真っ直ぐにわたしを見る。それで、わたしも、同じように見つめ返した。
言いようのない緊張感が、ふたりのあいだに走る。
ふいに通り抜けた風が、覆い隠された伯爵の長い前髪を、ふんわりと揺らした。翡翠色の瞳が、太陽の光に煌めく。トクン、と胸が高鳴る音がした。
「俺は……疑い深いし、嫉妬深いし……正直言って、人付き合いが得意なわけじゃない。だけど、アンジュ、君のことだけは信用している――君といると、不思議と、ざわめいた心が落ち着くんだ。どうか、これからも、この先もずっと、俺のそばにいてほしい。君を愛しているんだよ」
ああ、神様、この言葉をどんなに待ちわびたことか!
「もちろんよ。わたしも、ライアン、あなたを愛しているわ」
わたしたちは、どちらからともなく抱き合い、そうして、熱いキスを交わした。
この結婚は夢物語じゃないと、そう感じていたわたしをいまは後悔している。
だって、まさか、こんな結末になるなんて、誰が想像した?
悪い噂ばかりを信じ込んで、売られたのだとばかり思っていたわたしを心から愚かだと思う。いまのわたしは、間違いなく、幸せな花嫁だ。
幼い頃から夢見てきた幸福の花嫁。愛のある結婚。それが、まさか、一挙に手に入ることになろうとは!
人生って何が起こるかわからない。でも、だからこそ、おもしろいのよね?
わたしの人生は、わたしだけのもの。
ねえ、ライアン、あなたとおばあさんになるまでこのお屋敷で暮らすことが、わたしにとって最高の幸せなのよ。




