地下室の子どもたち
それからは、お屋敷の掃除のついでに、地下室にも寄って、クロエとともに子どもたちの面倒を見るようになった。
といっても、ひとりっ子で、親戚とも縁遠いわたしのこと、子どもの世話なんてしたことがなく、初めはクロエに言われても戸惑ってばかりだったが。
「アンジュねーちゃん。見てよ、またひとりで歩けるようになったんだ!」
嬉しそうに話すのは、14歳のトリスタン。通称トリス。
奉公先での事故で大怪我を負い、義足になった彼は、新しい相棒を誇らしげに自慢する。
「アンジュさん、先日お借りした本、読ませていただきました。やはり、かの宗教家先生のご本は素晴らしいですね……! 神の与えたもうたお言葉は、なんと美しいのかと、いつも思います」
貸した本を大事そうに抱え、眼鏡を直しながら、ルカが言う。
ルカはまだ11歳だが、わたしと同じく本が好きで、勉強家でもあった。ルカとは趣味が合う。
そんなルカだけれど、奉公先で受けた虐待がきっかけで、いまは片目の視力がなかった。それでも片目だけ残っていたのは、まだ運が良かったのかもしれない。あのとき両目とも失っていれば、こうして、本を読むこともできなくなっていたかもしれないから。
「すごいわね、トリス。あなたの努力には敵わないわ。そして、ルカ、ありがとう。また、別の本が読みたくなったら、いつでも言ってね。また上に行って伯爵さまの書斎から借りてくるから。あなたと本の話ができるのは、本当に楽しいわ」
トリスにルカ、それに8歳のコーディとは特に親しくなった。
あの日、初めて声をかけてくれたコーディは、ここにいる子どもたちの中では一番小さいけれど、よく気の付く良い子だ。わたしやクロエが困っていると、近寄ってきて自分にも手伝えることはないかと聞いてくれたりもする。本当は、誰かの手伝いなんてとても手が回らないくらい、自分だって辛いはずなのに。
「お嬢さんが手伝ってくれるから、だいぶ、あたいも楽になったよ。センセのたっての頼みとはいえ、さすがに、あたいひとりじゃあ、これだけ大勢の子どもたちの面倒を見るのは手が足りないからね」
「そう言ってくれるなら、わたしも、手伝った甲斐があるわ」
誰かに尽くして、お礼を言われるなんてことは、わたしにとっても初めてのことだった。伯爵さまはもちろん、スペンサーも、いくら手伝ったところでお礼を言うことなんてなかったから。
だから、少々、長く居すぎてしまった。ここにいるのが、あまりにも心地が良くて。ずっとここにいたい、と思ってしまった。
伯爵さまのいない、スペンサーとも滅多に顔を合わせることがない、ひとりきりのお屋敷よりも、クロエや子どもたちのいる地下室にずっといたいと思うようになっていた。
忘れていたわけではない。
でも、気付いたときには、頭からすっぽりと抜け落ちていた。
「……何故ここにいる」
地下室にやってきたスペンサーから、低い声で訊ねられたとき、わたしはどう答えてよいかわからなかった。
「何故、あんたがここにいるのか、と訊いたんだ。地下室への出入りは禁じていたはずだ。なのに、何故、入った? 『約束』は守ると、そう言ったのは嘘だったのか?」
「う、嘘じゃ……」
ない――と言いかけて口ごもる。
約束を破ったつもりではないが、地下室に入ったのは事実だ。
「二度とここには来るな。そして、ここで見たことも、誰にも口外してはならない。もし、また『約束』を破ったら……」
ごくり。息をのんだ。
「お止しよ、センセ。この人は、あたいを助けようとしてくれたんだ。子どもたちのことだって、親身に見てくれている。この人がいなくなったら、今度は、子どもたちが悲しむよ!」
クロエだった。
窮地に立たされたわたしを見かねて、あいだに入ってくれたのだ。
「だが、この女は……」
「この女なんて言って。親切で面倒を見てくれているこの人に、そんな言い方をしたらバチが当たるよ!」
年下の少女相手に、あのスペンサーが言い負かされている。
ていうか、クロエ、さっき何て言った? センセ? どういうこと? スペンサーは先生なの?
「クロエ、いま、先生って……」
「お嬢さんまで何を言ってんのさ。センセはセンセじゃないか。あたいと姐さんを助けてくれた命の恩人だよ」
えっ……えええーーーっ!?
「スペンサーが医者? ど、ど、どういうことなの!?」
今度は、そのスペンサーが答える。
「いま、クロエが言ったとおりだ。俺は医師の資格を持っている。けど、病院に勤めているわけじゃない――俺が診たいのは大口の患者じゃない。彼らのような、家族からも世間からも見放されて、病院にも行けないような、本当に困っている子どもたちなんだ」
奉公先で病気にかかったコーディ。大怪我を負ったトリス。前の主人からひどい虐待を受け、片目を失ったルカ。みんな、行き場を失い、奉公先を追われて奴隷商人のもとに送り返された子たちばかりだ。
けど、こんな障害を負った身では、また引き受けてくれる奉公先もそう見つからないだろう。そんな子どもたちを、伯爵は引き取って地下で養っていた。そのために、医師であるスペンサーと、子どもたちを看病してくれるクロエまで呼び寄せて。
「わたし、あなたのこと……」
ずっと誤解していたのかもしれない。スペンサーは、馬のことにしかまるで興味のない『イヤな奴』だと。
「いいんだ。俺は、あんたに好かれようとお屋敷で働いていたわけじゃないんだから」
ちがう。ちがうのよ。そうじゃない。
「わたし、あなたの力になりたいの。わたしも、ここで働かせて。子どもたちのために、わたしにもできることがしたいのよ。何だってするわ。話し相手でも、勉強相手でも……お下のお世話だってするわ。わたしを、そこいらの『普通』のお嬢様たちと一緒にしないで」
そう言うと、スペンサーは、少し納得したようだった。
「なら、遠慮なく働いてもらう。その代わり、泣き言を言ったら、承知しないからな」
「わかっているわ。わたしは、一度決めたことは諦めたりしないのよ」
それからは、スペンサーの了承も得て、堂々、地下室に出入りするようになった。
いまは、クロエと一緒に子どもたちの面倒を見ている。子どもたちは手がかかることもあるけれど、とても可愛い。それに、コーディやルカのように、わたしにひどく懐いてくれる子もいるから。
そのルカから、話がある、と聞かされたのは、それからひと月ほどが経った頃のことだ。
「ルカおにいちゃんが、アンジュおねえちゃんに話があるんだって。ほかには聞かれたくない話だから、向こうの隔離部屋のほうで待ってるって言ってたよ」
隔離部屋は、感染力の強い風邪症状などで隔離しておきたい子どもを一時的に保護するための部屋である。ほかの子どもたちがいる大部屋とは、分厚い扉で切り離されているから、まさしく、密談にはうってつけの場所だった。幸いにも、いまは隔離された子どももおらず、部屋が空いていた。
しかし、ルカがわたしに、ほかの子たちに聞かれたくないほどの話とは一体なんだろう。
「ルカ。どうしたの」
「アンジュさん」
わたしが入っていくと、ルカは、読んでいた本を閉じてわたしに向き直った。
「実は、僕、アンジュさんに折り入って頼みたいことがあるんです」
「頼みたい……こと?」
ルカは頷く。
「アンジュさん、僕に勉強を教えてくれませんか。もちろん、本で覚えたものもたくさんあります。けど、僕はもっともっといろんなことが知りたいんです。本を読むだけじゃ覚えきれない難しい単語や、歴史のこと、世界のこと、それに数学や科学のことも」
ルカの気持ちはよくわかる。わたしもそうだったから。
うちがまだ、借金もなくて、金銭的にも余裕があった頃。わたしは専属の家庭教師のもとで、毎日、さまざまな勉強をしていた。読み書きはもちろん、世界のこと、国の歴史や文化、数学や科学に至るまで、実に幅広い分野を学んだものだ。わたしの質問に事細かく答えてくれた教師には感謝をしているし、そのために高いお月謝を払ってくれた両親にも感謝をしている。
わたしが何か、恩を返せるとしたら、今しかないだろう。
「もちろんよ。わたしで良ければ、なんでも教えてあげるわ」
それからは、ルカとふたりで、部屋に籠って勉強会を開く日々が続いた。
ルカはいい生徒だ。物覚えもいいし、向上心もある。わたしも教えていて、教え甲斐があった。
「やっぱり、ルカは頭がいいわ。そのうち、わたしなんて超えてしまうのではない?」
「それは、アンジュさんの教え方がいいからですよ。わかりやすいですし、自然と頭に入ってくるんです。自分ひとりだったら、こうはいきませんからね」
おまけに、口も上手いときてる。
でも、まあ、こうして素直に褒められるのは悪い気はしない。わたしも、無邪気に慕ってくれるルカが、いまは可愛くてしかたがなかった。
「どうか、これからも勉強会を続けてくださいね。僕は、アンジュさんとこうして一緒に勉強している瞬間が、一番幸せなんです」
まばゆいばかりの笑顔で、ルカは言う。彼のこんなに嬉しそうな姿を、わたしは初めて見た。
「わたしも、ルカとお勉強している時間はとても幸せよ」
その姿を、スペンサーが複雑な表情で見ていることなど、このときのわたしは考えもしなかった。




