スペンサー
伯爵の屋敷で暮らし始めたわたしは、言われた通り『自由』に過ごすことにした。もちろん地下室には行っていない。
キッチンを散策したり、ダイニングやリビングで過ごしたり、時には、あの広大な庭を散歩したり……。最も驚いたのは、3階で一番大きな部屋にあった、国立図書館並みの蔵書を誇る巨大な書庫だ。ここには、わたしがまだ読んだことのない本たちがたくさん、所蔵されていた。
一度、馬小屋にいるスペンサーに訊いてみたことがある。
「この本、全部伯爵さまのものなの? すごい数ね」
スペンサーは、つまらなそうに馬の毛を撫でながら、なんでもないことのように言った。
「……親父さんの代からの譲りもんなんだと。ま、本人は滅多に屋敷には戻ってこないから、あっても宝の持ち腐れだけどな」
そうなの?
だったら、わたしの『あの願い』も、ひょっとして聞き入れてもらえるかしら。
「じゃあ、わたし、あの本を読んでもいい? あの……もし、伯爵さまが読まないのだったら、だけれど」
「いいんじゃね?」
やけにあっさりと答える。
「本当にいいの? わたし、何時間でも、何日でも入り浸ってしまうかもしれないわよ? 伯爵さま、帰ってきて怒ったりしない?」
「なんでそこで怒るんだよ。あんたが書庫に入り浸ったところで、伯爵には何の影響もない。怒る必要もないだろ」
なら、好きに読んでいいのね?
嬉しい。わたしはこの世の中で、何より本が大好きなのだ。伯爵さまの立派な蔵書の数々、読めると考えただけでもうワクワクしてる。ああ、どの本を読もうかしら。
「それより……」
急に、スペンサーが声色を変えた。有無を言わさない『本気モード』の声だ。
「随分といろんなところを探りまわっているようだが、地下室には行ってないだろうな」
「い、行ってないわ!」
だって、固く口止めされているから。それをしたのはスペンサー、あなたでしょう?
「……ならいいが。少しでも立ち入ろうとしたら、そのときは、覚悟しておけよ」
スペンサーはそれでも念を押す。そこまで言われると、逆に、ちょっと気になってくるような気もする。
でも行かないわ。約束だから。
形ばかりの夫婦とはいえ、わたしのこと、簡単に約束を破るような、信用ならない相手だとは思われたくない。
「わたしは約束は守るわ。絶対よ」
力強くそう言ったけれど、彼は、つまらなそうに目をそらすだけだった。
なによ。そっちから言ってきたんじゃない。聞かれたから答えただけなのに、その態度はなんなの!
「あなたって、本当に『イヤな奴』ね。あなたほど愛想のない人間を、わたしは見たことがないわ」
だから、それは、ほんのちょっと、嫌みで言ったつもりだった。
普通の人間は、周囲の人間に嫌われまいと笑顔を取り繕ってうまくやっているふりをする。少しでも社会に溶け込むため。目まぐるしく動く社交界で、ひとり、取り残されないようにするため。
だが、スペンサーという男は、そういう普遍的な人間とはどうも違っていたらしい。
「イヤな奴で結構。別に、俺はあんたに好かれるためにお屋敷で働いているわけじゃない」
唖然とするわたしに、スペンサーは、こうも言った。
「俺は、あんたみたいな、誰にでも媚びへつらう人間のほうが嫌いだね。他人の顔色ばかり窺って、何が楽しいのかと言ってやりたくなる。それで、自分の人生、思うように生きられるのか、と。俺の人生は俺だけのものだ、誰のものでもない。誰かの視線ばかり気にして思うように生きられないくらいなら、死んだほうがマシだ」
それは、まるでわたしの心の奥底にまで語り掛けているようで。彼の言った言葉が、耳の深いところにまでこびりついて離れなかった。
わたしの人生は――思えば、そう、お父様という威厳に支配されてばかりの人生だった。
女は可愛らしくあれ、と。
いつかは嫁に行くのだから、亭主に気に入られる『いい妻』でなければいけないと。
女主人としての心得。お屋敷の管理のこと。使用人は何人雇うか、とか。社交界のパーティーに呼ばれたとき、着ていくドレスのことも。
伯爵の前では『貞淑な妻』でいなければならないと、ずっとおとなしい妻のふりをしていた。それは、このスペンサーの前とて同じだ。
だけど、本当のわたしは……。
いつも心の奥に秘めている、本当のわたし。
真実を隠して。おとなしくて従順な妻のふりをして。
本当のわたしは、そうじゃない。読書が好きで、勉強が好きで……いつかは社会に出て、何か人の役に立ちたいと考えている。寄宿学校に入り高等教育を受けて、手に職を身に着けてひとりでも暮らしていけるようになれたら。
そう言ったら、女のくせにおかしなことだと、彼に笑われるかしら?
「あなたは馬が好きなのね」
胸の内を探られたくなくて、ふと、話題を逸らした。そうよ。わたしのことよりスペンサーの話を聞こう。
スペンサーは、いつも馬小屋にいる。食事時の前後には台所にいることもあるけれど、大抵は、この馬小屋だ。そんなに馬が好きなんだろうか?
「……まぁ、馬は嘘を吐かねえからな」
彼はそう言うと、愛しそうに馬の毛を撫でた。顔が隠れていても、優しそうな顔をしていることがわかる。その姿に、ちょっとだけ羨ましいと思ってしまったのは、ここだけの話だけれど。
「名前は何て言うの?」
「ピオーネ」
耳慣れないその言葉は、遠い国の言葉で『開拓者』という意味らしい。この地域では珍しい黒毛の馬は、まさしく、新たに開拓された品種にはふさわしい名前と言えよう。
「ピオーネは男の子? 女の子?」
「オスだ」
「いくつ?」
「10歳」
聞くところによれば、馬の10歳は、人間でいうと35~38歳くらいらしいから、なかなかの年齢である。ちなみに、馬の平均寿命は25歳だそうだ。
「……なあ、こんなこと聞いてどうするんだ?」
スペンサーが、急に手を止めて、わたしのほうを見た。
「え。どうって……」
「ピオーネのこと。年齢とか性別とか、別にどうだっていいだろ。知ったところで、あんたに直接影響するわけじゃない。そもそも、あんたみたいな温室育ちのお嬢様は、馬のことなんて興味もないんじゃないか」
「そ、そんなこと……」
ない――と言いたいところだけれど、実のところ、馬のことにはそれほど詳しくはない。うちにも馬車はあったけれど、管理するのは専ら父の仕事で、わたしが馬小屋に出入りすることはほとんどなかった。
というより、苦手なのだ。馬小屋の、あの、若干鼻をつくような臭いが。
「無理すんなよ。嫌いなんだろ」
「む、無理なんて……!」
してない、とは言えない。いまだって、必死に臭いを我慢しているのだから。
「おまえ、もう帰れ。ここにいられても仕事の邪魔だ」
「ま、待ってよ、まだ話は……」
最後まで言い切る前に、わたしは、小屋を追い出されてしまった。ここには二度と来るな、と釘まで刺して。
でも、スペンサーはひとつだけ気付いてないことがある。
わたしはとても諦めが悪いのだ。
話をつけるためなら、何度断られたって会いに行く。それが馬小屋ならば、苦手な臭いでも我慢してみせよう。どちらが先に根負けするか、見せてやろうじゃないの。
「……また来たのか」
「懲りない女だな」
「馬は苦手なんじゃなかったっけ? よく嫌気も差さず来られるよな」
なんとでもおっしゃい。わたしの諦めの悪さを、これで思い知るがいいわ。
「……そろそろ、来るのやめたら? あんまり入り浸ってると、馬のニオイがあんたにもつくぞ」
スペンサーの物言いは、心配するというより、心底呆れているといった風だった。わたしは馬の臭いが苦手なはずなのに、おかしなことだと。
あら? でも不思議と、いまは嫌な感じがしない。毎日来ているうちに、わたしの身体が馬小屋の臭いに慣れてきてしまったとか? あんなに恐ろしかったはずの馬も、いまは、なぜか愛しく思えてくる。
「ピオーネ、だったわね。ちょっと触ってみてもいい?」
いまのわたしは、ピオーネに触れてみたくてウズウズしていた。
それで、答えを聞くよりも早く、わたしの右手は、ピオーネの自慢の黒毛に触れていた。
それがいけなかった。
「きゃあ!」
慣れない手で突然触られたピオーネは、驚いて、じたばたと暴れまわる。わたしも突き飛ばされ、地面に放り出された。
「おい!」
スペンサーは、わたしの勝手を怒鳴ったあと、暴れるピオーネを押さえ込んで優しく言い聞かせる。
「大丈夫、大丈夫だから……」
こんなときでも、わたしより馬なのね。まあ、しかたないっちゃあ、しかたないのだけど、ちょっと寂しくもある。
「あんた、立てるか?」
馬を懸命に宥めたあとで、土まみれの手を差し出されても、ちっとも嬉しくない。
「平気よ。自分で立てるから」
「……可愛くないヤツ」
うるさい。あなたにだけは言われたくない。
「ひょっとして、馬に乗ってみたいとか思った?」
わたしが馬に? まさか!
「思ってないわよ! ただ……毎日通ううちに、可愛いかも、とか思えるようになってきて……」
わたしが馬を可愛いと思うなんて、初めてのことだ。だから扱い方も慣れていなかったのだけれど、少し、勉強になった。
「でも、ピオーネはちょっと厳しいと思うぞ。コイツ、結構、気性が激しい奴だから」
「それは……飼い主に似て?」
厳密な飼い主は屋敷の主人である伯爵さまなのだろうけれど、その彼はほとんど屋敷に戻ることはない人だから、やはりここは、普段、ピオーネの世話をしているスペンサーに似たのだろう。そうやって、へそを曲げるところもよく似ている。
「俺のどこが気性が激しいというんだ」
「あはっ。そういうとこじゃない?」
くすくすと笑っていると、ますます機嫌悪そうにする。そんなところもおかしくてたまらない。
「うるせえ。笑うなっ!」
顔を真っ赤にするところも可愛い!!! この人、こんな一面もあるのね。
あれ? そういえば、ここに来て初めて、いま、笑ったかも? これも、スペンサーのおかげ?
「ありがとう」
「……はあ!? な、なにがだよっ」
スペンサーが慌てている。ひょっとして、お礼を言われるの、慣れていないの?
「ここに来てから、ずっと不安だった。伯爵のこともよく知らなくて。嫌われたらどうしようって、いい妻でなくちゃいけないって、ずっと言い聞かせてた。気づいたらわたし、うまく笑えなくなっていて……自然と笑えるようになったのは、あなたのおかげよ、スペンサー。あと、こちらの可愛いピオーネちゃんとね」
愛情の証に撫でようとしたら、また殴られた。わたしって、本当、学習しない。
「もう。この、乱暴者!」
「おまえが勝手に触ろうとするからだろ! ピオーネは怖がってんの! 撫でるなら、もっと優しく撫でろ!」
口ではそう言いつつも、わたしが本気でピオーネと仲良くなりたがっているとわかると、スペンサーは丁寧に教えてくれた。ピオーネのことを知って、それから、スペンサーのことも、もっと知りたいと思ってしまったのは、わがままかしら?
だけど、その想いは、わたしの中に、確実に芽生えていた。
彼のことをもっと知りたいと。そして、わたしのことも、もっと知ってほしいと。




