あるサボり魔の結末
「奥寺さぁん、悪いけどこれ、やっておいてくれる?」
橋本杏菜が甘ったるい声で後輩、奥寺与美にファイルを突き出してきた。
「いいですよ」
いかにも『おっとり』という雰囲気の与美は、にっこり笑って厚いファイルを受け取る。
「ありがとう~。ごめんねぇ、アタシ、今日は田舎から親が来るから、早く帰らないといけなくて。奥寺さん優しいから、すごく助かるぅ~」
橋本杏菜はわざとらしい笑顔を作ると、すでに用意していたブランド物のバッグを手に、そそくさと部署を出て行った。
途端、見守っていた周囲の女子社員が口々に文句を言う。
「相変わらずよね、橋本さん。親が来るって絶対嘘よ。先週もそう言って帰ったあと、イ○スタにレストランの写真を何枚も載せてたもの。今日も絶対デートよ」
「奥寺さん、毎回毎回、橋本さんの頼みを聞かなくていいのよ? あの人、自分は頼むくせに、自分が頼まれた時は絶対に引き受けないんだから」
「そうかもしれませんけど…………どうせ今日は暇だし、誰かがやらないといけない仕事ですから。残業代が出るなら、問題ないです」
ほわわんとした与美の反応に、年長の女子社員達はかるく頭を抱える。
「奥寺さんてば…………人が良すぎ」
サボり癖のある橋本杏菜を、人のいい奥寺与美が言われるままに手伝う。
すっかり常態化した、この部署の光景だった。
数日後。
「奥寺さん、悪いけどこれとこれ、代わりにお願い」
杏菜が書類の束を与美に渡す。
またこのパターンか…………と、周囲は苦々しいため息をつきかけたが。
「私でないと駄目ですか?」
与美が問い返してきた。
「私も、今夜は定時で帰りたくて。橋本さんのお仕事は、この前も手伝ったばかりですし」
(おお!?)と周囲の女子社員達がいっせいに聞き耳を立てる。
これは、珍しい与美の反抗か!? と期待が胸をよぎったのだが。
「え? 駄目? 絶対? どうしても?」
杏菜がたたみかけてくる。
「どうしよう…………今夜はどうしても、外せない用事があるのに…………っ」
あからさまにオロオロしはじめる。与美が訊いた。
「そんなに大切な用事なんですか?」
「実は今、父の具合が悪くて…………介護みたいなことをしているの。ウチは兄弟とかいないから、アタシと母でどうにかしないといけないんだけど、母も年齢だから…………」
「そこまで大変な状況なんですか?」
「そうなの。母からは仕事を辞めて戻って来てくれないか、って言われているし。アタシは仕事をつづけたいけど、だからといって父を放っておくわけには…………」
「わかりました」
涙声になりはじめた杏菜の声を、与美のきっぱりした声がさえぎる。
「じゃあ、今日は私がやっておきます。先輩は早くお父さんの所に帰ってあげてください」
「ありがとう!! 本当に助かる!! 奥寺さん、本当に優しい、いい人よね!!」
杏菜は一変して明るい声をあげ、大喜びで職場を出て行った。
聞き耳を立てていた女子社員達はそろってため息をつき、与美は何事もなかったかのように自分の席に戻ってパソコンを立ち上げる。
その夜、杏菜のものと思われるイ○スタには『カレシとデート♡』という文章と共に、高級そうなディナーの写真が何枚も載せられる。
翌週。始業前に「ちょっと聞いてくれ」と課長が呼びかけ、一人の若者が紹介された。
「喜多川勲君だ。今日から三ヶ月間、一緒に働くことになった」
課長の説明を総合すると、喜多川勲は『ウチの会社の社長令息』で『将来のため、三ヶ月間この課で仕事を覚えることとなった』というわけだった。
「三ヶ月間、よろしくお願いします」
令息は礼儀正しく頭をさげる。背が高くてイケメンな新人の挨拶は、特に女子社員達に好感と共に受け容れられた。
中でも盛りあがったのは橋本杏菜だ。
(未来の社長夫人…………!)
二十九歳の彼女は婚活に力を入れていたが、合コンではろくな相手が見つからず、最近は太いパパもつかまらなくなっている。
足もとからの意外なチャンスだった。
(ここで決める!!)
杏菜は内心でガッツポーズと共に誓う。
「それじゃあ、ひとまず喜多川君を指導するのは…………」
課長が集まった社員をぐるりと見渡す。
「はい! アタシがやります!!」
すかさず杏菜が手をあげた。
「アタシは、もう全部、仕事を覚えてますし。アタシが適任だと思います!」
目をぎらつかせて立候補した杏菜に、女子社員から冷ややかな視線が送られるが、杏菜は意に介さない。課長も特に異論はないようで、
「橋本君か。そうだな、じゃあ橋本君に…………」
と、あっさり決定しかけた、その時。
「駄目です!」
誰もが予想していなかった方向から反論があがった。
奥寺与美である。
「え? 奥寺さん?」と社員達も意表をつかれる。
「なによ、文句あるの!?」
杏菜は尖った声を与美に投げつけ、課長も不思議そうに首をかしげる。
「奥寺君。駄目、とは?」
「あ、す、すみません、大きな声を出して…………」
奥寺与美は恥じらいつつも明瞭に答えた。
「でも、橋本さんは駄目です。橋本さんは今、お父さまの介護で大変な時期なんです!」
「!!」
課長と社長令息以外の社員がそろって虚を突かれた。
「少し前から『父の具合が悪くて、母と介護をしている』って。それで、最近は早く帰らないといけない日ばかりでした。『辞職も考えている』とも言っていましたし。そんな状態で新人の指導まで引き受けたら、橋本さんが倒れてしまいます。別の人にお願いしてあげてください」
「~~~~っ!!」
杏菜は愕然と歯ぎしりする。
「本当かね、橋本君」
課長が確認してきた。
「あ、いや、ええと、それは…………」
杏菜は口ごもる。
むろん、父親の介護なんて嘘だ。早く帰るための口実にすぎない。
けれどそれを言ったら、奥寺から「私への説明は嘘だったんですか?」と問われてしまう。令息の前で嘘つき呼ばわりされて印象が悪くなることは避けたい。
さらに、悪いことというのは重なるもので。
「そういえば、そうだったわね。橋本さん、介護中だって言ってたっけ」
『お局様』と呼ばれる女子社員の一人が、思い出したように声をあげる。
「そうそう」「言ってた、言ってた」と、他の女達も次々同調していく。
「あんまり状態がよくないのよね? 仕事を辞めるかも、って言ってたわ。そりゃあ、新しい仕事なんて引き受けられないわよね」
「そうですよ。課長、橋本さんは勘弁してあげください」
女達はやんわり課長をとり囲む。
厚意をよそおいつつも、杏菜に向ける『ざまあみろ』というまなざし。
「――――っ!!」
杏菜は『違う』と怒鳴りたかった。が。
「そういうことなら、早く言ってくれてかまわないんだよ? 橋本君。こちらとしても、できる限りのことはさせてもらうから、遠慮しないで」
いかにも『善意百%』という様子で、にこにこ、課長が杏菜に勧めてくる。
「とりあえず、そういうことなら橋本君は外すとして。じゃあ、指導役は…………」
「あの…………」
おずおずと与美が手をあげた。
「一通りのことなら、私がご説明できると思います。橋本さんの仕事なら、よく頼まれていましたので」
「!!」
杏菜は絶句する。彼女の目の前で、課長がにこにこと話を進めていく。
「そういえば、たしかに奥寺さんはよく橋本さんの仕事を手伝っていたね。じゃあ、奥寺さんに頼もうか」
そう言って、課長は喜多川に与美を紹介した。
「よろしく」と令息と与美が挨拶しあうのを、杏菜はただ黙って見つめる他なかった。
それからしばらく後。
橋本杏菜は退職した。
理由は『父親の介護のため』となっているが、真相は定かではない。
社内に特に親しい相手もいなかった彼女は、退職後するとすぐに社員達の記憶から抜け落ちて、一年後の社長令息の結婚式の招待状が届くこともなかった。