おまけ そう言えば
「ねぇ、アイリス」
まどろんだ猫のように眠そうな声で、ルーベンスに呼ばれた。ようやく夫になったので、殿下も閣下もなしだ。
新婚と言ってもいいような一年目ではあるものの既に付き合いが長い。いちゃいちゃなんてと思ったけれど、俺の我慢、思い知るといいと思うよと甘やかされている。
一緒にいるときは触れていなければならない、というルールはどうかと思うけど。その結果、ルーベンスの仕事部屋はすでにプライベートルームと化している。
最初は抵抗したもののソファでのんびりとくっついてお茶を飲むくらいは慣れてしまった。
「なぁに?」
くっついたからもう膝枕と移動してしまっているルーベンスはやっぱり猫のようだ。
「前から気にはなってたんだけど、前の屋敷でのこと、ほんと良かったのか?」
「良かったのって?」
「制裁」
「ああ、家を紹介状なしで追い出された、これ、結構ひどいやつですよ。あとあの執事も追い出されたっていうし。侍女の実家も没落したって話でしたよね」
「じわじわと真綿で首を絞めるように、気がついたら地獄の底、でも、まだ底があったり」
楽し気に言うルーベンスが怖い。
この病んでる気質があるから、ざまぁしたいなどとは言えなかったりする。死屍累々になりかねない。
それに元アイリスもお姉さまの好きにしてくださって構いませんよ。と言っていたのでそこはなにもしないことにしている。私は私で好きにしているのでとあちらも楽しそうで……。あのバイタリティがあってなぜあの境遇になっていたのか、謎なのだけど。
「侯爵様が悪かったってことでいいじゃないですか。まだ、女性に追い回されてるらしいですね」
それこそが私にとってはざまぁみろ、であるのだけど。二度とアイリスは見つからない。その幻想を追いかけていればいい。
「そこが、解せない」
「はい?」
「どうして、侯爵だけが悪いってことにしたんだ?」
「えー、だって、使用人が勝手して悪かったっていうなら、俺は心入れ替えてちゃんとするからやり直させてくれとか、言いだしそうで面倒じゃないですか。
管理しなかったあなたが悪いから、別れたい、これで押し通すほうが遥かに面倒がない」
あれは素で自分は悪くないと言いだしそうな相手だ。偏見かもしれないけど悪いことをした者を処分すれば、すぐに機嫌を直して元通りとなると思い込みそうだ。
絆されてまあ、一度ならと頷いたら、ありとあらゆるもので縛ってきそうで嫌だ。
「気持ちを入れ替えるならやり直すでもよかったんじゃない?」
「なんか、こう、贈り物を山ほど用意して、要らないって言えば捨てればいいとか言いだしそうな愛され方しそうで。人の善意に付け込んで、自分を通すような? っていうんですか。そういうやり方されそうで嫌っていうか」
私は必要量を適切にもらったほうが嬉しい。
ふぅんとルーベンスが嬉しそうに呟いてるのはなぜなのか。
「経済力がそんなになくてよかったなんて思う日がくるとは」
「しようとしたんですか?」
「母と妹たちに止められた。収納も管理も手間が増えるだけだから、気に入るものを数点にしとけってさ」
なるほど。大量の贈り物は王子様の定番なのだけどしないな、この人と思ってたら。
結婚前には日常に使うような髪留めや腕輪などをいくつかと質の良い靴やちょっと良いワンピースなどをもらったことがある。それのお返しもきちんと受け取ってくれて、使ってくれたりしていたし。
お母様と妹様たちにはあとでこっそりお礼を言っておこう。話をちゃんと聞くルーベンスも偉いが、きちんと忠告してくれた彼女たちの存在は大きい。
「でも、今度、店買っていいかな」
「はい?」
「アイリスの好きなのを好きなようにつくれるようにする店。他の人に贈るものを作ってもいいし、自分のしたいことの活動資金にしてもいい。
俺の奥さんになってくれたお礼、っていうの?」
私は黙った。
口を閉じていないと今までの自分が崩壊しそうなくらいのことを口走りそうな予感がする。
うちの夫が素敵すぎるんですけどーっ! そう、世間に知らしめたい気分だ。
「嫌?」
「嬉しすぎて、語彙力が死にました。ありがとうございます」
よかったとへにゃりと笑うのが、直撃して、心臓を抑えて倒れこみたくなる。可愛い。なんなのこの可愛い生物。そとではきりっとしているのに、甘えてくるときのへにゃへにゃの感じっ!
よしよしとルーベンスの頭を撫でるとさすがに迷惑そうな顔。
「どうせならキスのほうがいいのに」
「これは気が利きませんでした」
額にしたら不満そうなので、鼻先にもちょんとしておきました。
「焦らして遊んでない?」
「休憩中なので、お休みになりそうなのは夜に」
残念ながら、やることは山積していて。それというのも結婚祝いと国王陛下、つまりは義理の父が領地をぽんとくれたせい。気前いいのは間違いないのだけど、領地運営の勉強をしてこなかった我々には荷が重く、頭が痛い問題になっていた。小さいけど金の鉱脈があるそうで、ちゃんとすれば孫まで安泰となる、らしい。
間違いなく、初心者向けではない。
これにはお母様も説教したらしい。えー、いいと思ったんだけどと本人はしょげていたそうな。ごめんね、大体ポンコツなのとお母様が代わりに謝罪してくれたのだけど。
本当にそうなのかなと思うこともしばしばで。狙ってるにしては天然すぎるけど、どうなんだろう。
「わかった」
はぁとため息をついて、顔を見合わせて、小さく笑い合う。いい雰囲気になっちゃったかもとそっと撫でられた頬にドキリとしていたら。
ばーんと扉が開いた。
「姉御っ! 喧嘩がっ」
部屋に駆け込んでくる部下と機嫌が悪化したルーベンスの相手をしながら、事情聴取を行い仲裁に向かう。
「いってきます」
「行ってらっしゃい」
心配と不満が半々の言葉に私は苦笑してしまう。やめてほしいけど、必要であることも知っていて止めない。
「姉御、早くっ! けが人が出ちまいますぜ」
「ちょっと先行ってて」
「へい」
部下を先に送り出して、甘えるように抱きつく。
「早く帰ってくるから」
「……わかった」
そう言いながら、触れるだけのキスは大変未練がましかった。私がぐいっと胸を押しておしまいと主張するまでやめる気がない。
逃げるように部屋を出るのも最近よくあるなと思い出す。
部下が呆れたような顔で待っていたりするのも。
「別居されてはいかがですかね?」
「新婚なのに!?」
「いちゃいちゃしすぎて目の毒っすよ。別の家作ってください」
「新居あるけど、ほとんど使ってないわ」
同情するような視線を向けられたのは不本意だ。
「貴方たちが揉めごと持ってこないといいのよ」
「むりっす!」
全く仕方のない人たちだ。
ため息をつきながら、現場に向かうことにした。この騒がしい日常はまだまだ続きそうだ。