おまけ 人の世には
人の世には今までに体験したことがないものが埋まっている。と言っていたのは同僚だったが……。
「素敵な紳士をご紹介いただいたわ」
そう壮年の紳士から言われるということは想像したこともなかった。
零は引きつりそうになる表情をやや笑顔で固定した。微妙に怖いと藍里にすら言われるそれが彼の限界である。
今日は藍里から紹介してもらったオーダースーツの専門店に訪れただけだった。紳士ものしか扱いがないため藍里自身も行ったことはなく、兄から聞いたということだった。
店構えが既に重厚でどうしようかと迷ったが、店内の店員に気がつかれ流れるように室内へと招かれてしまった。
そして、藍里の紹介であると告げたらそう言われたのだ。
「本日はどのようなものをお探しですか?」
「スーツ一式、それからコート。靴を扱っていないならどこか紹介してもらうと嬉しい」
「ふむ。
まずは採寸いたしましょう。それから生地を選んでいただきます。仕立て方はそのあとに。お客様なら英国風の三つ揃いがおすすめですね」
「お任せではだめかな」
「ダメです」
きっぱりと笑顔で言い切られて零はため息をつきそうになった。これは長くなりそうだった。
それから数時間後、零は珈琲店で項垂れていた。藍里と待ち合わせには少し早いが気力も体力もごっそり削られた時間だった。
店員はてきぱきと動いていたが、決めることが多すぎて疲れたのだ。
生地も無地か柄入りのものか、素材の質感の違い、ボタンの種類もである。さらにシャツも同じように選び、簡単そうに思えたベルト選びも難航した。
コートはまた今度と逃げるように店を出てきたのだ。仕立て上がりは四週間後である。
受け取りも気が重い。
「……はぁ」
気がつけば珈琲がなくなりお代わりとついでにフードも頼もうと零は席を立つ。
季節限定のスイーツはどれもおいしそうだった。お代わりの珈琲と合わせてスコーンとワッフルを頼む。
「彼女さん遅いですね」
「今日は俺が早かったから」
そういう会話も成立するくらい顔見知りになっている。
それからほどなく、藍里が困ったように眉を寄せながら店内に入ってきた。
「あ、天使様」
「なんか困りごと?」
天使様呼びに戻っていることはさておいて、零はそう尋ねた。藍里はそうなんですけどと歯切れ悪く答え、先に注文をしにいった。
「どこからどう言えばわからないんですよね」
席について藍里はそういった。いつもは頼まないサンドイッチも買っていることから長くなりそうな話らしい。
「慰謝料の件で連絡が来たんです」
「誰から誰に?」
「その、理沙さん、つまりは元カレを奪ったという人から、藍里へのです」
「どういうこと? 要求された? ってこと?」
「逆で、払いたいと。ブロックとかもしてませんでしたので普通に連絡が来ました」
「もらうのかい?」
「今はいらないですね。お子さんもいらっしゃいますし、お金も入用でしょう。
婚約者にも逃げられてますし」
「やり返したいとか思わない?」
その逃げた婚約者というのが藍里の元彼である。多少どころではなく思うところはあると零は考えるのだが、藍里は少し困ったように笑った。
「今が幸せなので思うところがないんですよね。
それに元彼とお付き合いしていたのは姉様なので記憶にないことですし。
なにかするなら姉様の意向に沿います」
「あっちはもう好きにしていいという話だったから藍里が決めていいと思うぞ」
「では、不要であると伝えておきます。連絡はいらないとブロックもしておきますね。気に病みそうですし」
藍里はその場で返信を書いて送っていた。
「さて、残ったのは元彼の件ですけど。
考えれば考えるほどにクズですね!」
「いや、まあ、そうだけど」
「責任取らずに私を追いかけるなんて。
やはり、制裁は必要ですよね」
「……なんか、温度感違くない?」
「それは天使様に暴言を吐いた罪があります。重罪です」
「あ、そう」
零はそこはつっこんではいけない気がした。そっと見ないふりをしているほうが平和である。
「ふふふ。夜道には気をつけるといいと思いますよ」
「それ、逆だよね」
「天使様は手出し無用ですよ」
「生命の危機があるならなんとかするけどさ」
それも元彼のほうのである。
その意味では彼も忘れていたほうが幸せだっただろうにと零は思う。頼もしいと言うだけで言い表していいのかも微妙だ。
「藍里が無茶をしないほうが俺はいいんだけど」
「……はい」
藍里は神妙な顔で返答するが、信用ならない。だが、いまさら言っても聞かないだろう。
「そういえば、さっきから、天使様に戻ってるんだけど」
「そ、そそうでした?」
「零って呼んでって言っているよね?」
「うっ」
「練習、またしたいんだ」
「くっ。私一人で言うのは恥ずかしいです」
「うん? じゃあ、呼び合う?」
それはそれでなんというバカップルだというはなしではある。
いまさらだが。
零は澄ました顔で提案したが、藍里は真っ赤になって、そ、そのご褒美いや、拷問いやでもご褒美と呟いている。
人の世には体験したことのないものが埋まっている。
それは間違いなさそうだ。
そして、数日後、あらぁここであったが百年目とばかりに投げ飛ばされる元彼がいたとか。




