おまけ 元に戻すことは可能ですか?
元彼の話なので、飛ばしていただいても大丈夫です。
紆余曲折あって地方に飛ばされ、藍里じゃないほうの恋人に認知と養育費と婚約破棄の慰謝料請求されます。
どうしてこうなった。
彼は時折思う。あのとき、魔が差さずに誘いなどのらずにいれば田舎に飛ばされることもなくいたのではないかと。
「楽しそうにしやがって」
そうつぶやいてみるのはSNSだ。元恋人である藍里があちこちの店の料理を載せている。淡々と味について書いてあるが、大体おいしいで終了していた。
写真も微妙で食レポとしても活用しがたい。
彼女を知らない人が見ても楽しくもないだろう。記録用として残しているものでしかなさそうに見える。
その料理のむこうにおいしいと笑う彼女を思い出す。食べる前に髪を結び、いただきますとごちそうさまをかかさなかった。思い返せば育ちの良さを感じる女だった。
そのことが堅苦しく見えた。
この先も一緒かと思えば、重苦しく思えたのは確かだ。結婚と言われれば逃げたくなり、つい、理沙の誘いに乗ってしまった。入社したてのころ少し指導したこともあり、好意を持たれていても変だとは思わなかったのだ。
それに理沙とは遊びのつもりだった。
しかし、子供ができたと迫られれば、否というわけにもいかなかった。子供に対する責任というものがある。
藍里は淡々としたもので、どうぞ、お幸せにと告げた。そのときに理沙がつまらなそうな顔をしたことに気がつくことができれば違う道が残っていたように思えた。
それでも事故が起きなければまだましであっただろう。
酔っぱらった藍里が歩道橋の階段ですっころんで記憶も忘れてしまった。
幸い仕事や日常のことは覚えていたようだが、自分にかかわった人も思い出も覚えていない。もちろん彼のことも。
知らない人を見るように見られたときの衝撃は想像以上だった。それでも、明るく日常を過ごす彼女に周囲は同情的だった。
それは彼と理沙への対応が冷淡になったと同義でもあった。
藍里と彼が付き合っていたことは隠しておらず、知っている人は知っていた。それが、後輩である理沙と結婚する話になっていればなにかあったと察するだろう。
その話を理沙が周囲に言ったのは藍里が入院している間の出来事だった。間が悪いというどころの話ではなかった。
「え、でも、先輩。ほっといても赤ちゃんは大きくなります。早く、入籍しましょう」
きょとんとした顔で見返されたが、どこか理沙は焦っているように見えた。未婚のままの出産は避けたいというだけではなさそうだった。
「前は式をしたいと言っていたじゃないか」
「生まれてからでもいいじゃないですか。私が出してきてあげます」
婚姻届けをすぐに書くように迫られて彼はさすがに不審に思った。そこで彼はようやく周囲に理沙のことを尋ねる。
周囲は戸惑っているようだったが、噂なのだけどと前置きしたのちにこう言った。
「誰でもいいから結婚して家を出たい」
と言っていたと。その言葉を裏付けるように声をかけてきたと証言する男性も現れた。
そして、藍里が退院してきたあとに急に結婚式がしたいと言いだしてきた。藍里も呼ぼうという話にぞっとした。
少しは後ろめたさを感じているものかと思えば、違った。もっとも彼もそれほど気にしていたとは言い難いが、さすがに呼ぶ気もなかった。必要最低限の関わりにしかしないことが藍里への配慮と思う程度だった。
彼が理沙との結婚自体を考え直したいと考えるには十分だった。認知はするし、養育費も用意するが今後も人生を共にするには不適格だろう。
何も覚えていない藍里とやり直すこともできるかもしれないと考えた。何事もなかったように彼女は振舞っていたのだから。
そうしている間に、理沙の恋人を名乗る男が現れ子供は自分の子であり、浮気の慰謝料の請求をすると言いだした。
騙されていたのだと彼は目が覚めた気がした。
弁護士を通して話をしようとすれば男はひるんで示談金で済ませてやると言いだした。理沙も怯えていてるようで裏もありそうだが、彼は気にしなかった。
さっさと弁護士に相談して片付けることにした。
藍里に騙されていたことを告げればやり直す気になるはずだ。今度は間違いなく手放さない。そう彼が決めていたにもかかわらず、藍里は断ってきた。
思わず手が出たがそれも問題はないはずだった。
今までも全くあたることもなかったのであてるつもりはなかったと言い換えてもいいだろう。
しかし、藍里は怯えたようにぎゅっと目を閉じてしまう。
寸止めにするような事もできず、しまったと思ったが避けないのが悪いのだと彼が思ったその時、なにかの影が現れた。
彼の手はその何かに触れ通り抜けた。
「誰だよ。おまえ」
「通りすがり。誰かに手をあげるのは感心しないな」
改めて見ればそれは大きな男だった。背が高いだけでなくがっしりとした体格をしている。それがいきなり現れるのは奇妙な感じがしたが、世の中にはバカみたいに身体能力の高いやつがいる。咄嗟に入り込むことくらいやってのけるような。
先ほど手ごたえを感じなかったのはよけられたせいだろう。
「痴話げんかに首つっこむなよ」
「俺が通報してもいいけど。なんか急に殴られたって」
彼は舌打ちをして去ることにした。分が悪いことは一目瞭然だ。警察沙汰になりたいわけでもない。
それから数日後、彼に人事異動が言い渡された。栄転といってもよい異動ではあったが、彼は特に疑問を抱くこともなかった。忙しく、藍里のことも理沙のことも全く考えることもなかった。
さらに数か月後、新たな人事異動が発表された。
役職が付くが、地方の拠点への異動。人手不足で、優秀な人材をと言われてねと改めて言われれば彼は断ることも文句を言うこともできなかった。
彼はこの機会に藍里についてくるように言うつもりだった。地方に異動してしまえば気軽に会うこともできない。彼女も寂しがるだろうと思って。
しかし、話をする機会を得ることができない。声をかける前に他の者に話しかけられたり、退社の時間を見計らってもいつ間にかいなくなっている。
家ならばと思っても遭遇することもなく、通報されそうになってしまった。
苛立ちながらもそのうち連絡があるだろうと引っ越しをした。彼の予想を裏切るように全く連絡がなかった。
連絡を入れるもブロックされているようで繋がりもしない。
そんな苛立ちの日々でも仕事は評価されていた。しかし、支店宛に内容証明が一通届いたことにより一変する。
中身は理沙からの認知と養育費を求める文書だった。弁護士に相談しようとして忘れていたなと彼は思い出す。
他の男の子だろうと言わせないためにかDNA鑑定もつけている。
争うつもりで彼は弁護士に相談しに行った。
「この内容では勝ち目も薄いですし、水谷女史と争うのはちょっと。
金額の減量ならがんばれますよ。予算はこのくらいで」
話にならないと彼はほかのものを訪ねたが概ね同じことを言われるだけだった。結局、最初の弁護士に頼むことになった。
「水谷女史が表に出てくるのって珍しいんですよ。なにやらかしたんです?」
「結婚する気だったが男遊びが激しくて破談にしたんだが」
「証拠とってあります? 一応、破談の慰謝料は減額できるかも。
ただ、逃げるのは無理だと諦めてください。執念深さは狐のごとくといわれてましてね」
「聞いたことがないな」
「化かして騙して身ぐるみ剥ぐってことの暗喩。業界用語ですかね。ま、理不尽ではありますが法はまもりますので大丈夫でしょ」
弁護士は気楽に請け負った。
最終的には支払えないこともない金額におさまった。しかし、そのころには良くない噂が社内で囁かれるようになる。
そこからは転がるようだった。小さなミスから大きな失敗をし、降格され、周囲には笑われる。
彼は元の場所に戻りたいと要望を出したが、空きはないと言われるだけだった。そして、時折藍里の仕事の評判が聞こえてくる。
どれも良い評価で、本人も前より親しみやすくなって職場の雰囲気が良くなったと。
そのどれもが彼には腹立たしかった。その評価はかつて彼が手にしていたものだ。奪われたと言ってもよいだろう。
どうしてこうなってしまったのか。
藍里が勝手にいなくなってしまったからだ。
自らが別れを切り出したことを忘れたように彼はそう考えた。手元に戻せばなにもかも戻るに違いない。
一度くらいなら許さなくもないとかつて言っていたのだ。
藍里を好きになるようなもの好きもそうそういないだろう。時間を置いて声をかければ後悔していたと言いだすに決まっている。
彼は藍里に連絡を取ることにした。
それがさらなる転落につながるとも思わずに。
「あれの人事異動、部長が推薦したんですか?」
「そうだよ。いたら邪魔だし、能はあるんだ。脳みそ詰まってなさそうだけど」
「上に言って解雇とか」
「えー、僕の監督不行き届きとかで評価落とされそう」
「……思ったより俗っぽいですよね」
「処世術だよ。うん。あと、結婚までしてたらあれだけど、付き合ってるくらいじゃあ介入はしすぎでしょうよ。犯罪まで行ったらあれだけど」
「まあ、さすがにねぇ」
「さすがにないと思うけど、こう、今の水谷君には人を狂わせるなにかがあるような感じが」
「はい?」
「強い子がふっと弱いみたいなギャップにやられるみたいな?」
「はぁ」
「変に包容力も出てきておじさん、これから心配」
「はぁ」