第78話 エピローグ その1 樹
まだ陽も登らない真冬の早朝。ピンと糸を張ったような空気の冷たさに軽く身震いをする。白い息が三つ、静まり返った道場に吐き出された。
「もう一往復だよ。樹兄さん」
「おう、わかってるよ。行くぞ!」
三人並んで、四つん這いになると、道場の端から端まで雑巾を滑らせながら走る。体は大分温まったが、汗が引くとそれがすぐに体温を下げにかかる。なまじ休憩するのは良くないと学習はしたが、広い道場を休まず五往復するのは、三人と言えど簡単ではない。
これは所謂、天堂家式の罰則だ。オレは双子を危険に晒したこと、双子は兄弟のところに盗聴器とカメラを設置したことに対するもの。一ヶ月、早朝に道場の雑巾がけを言い渡されている。元々、兄弟とお弟子さんが順番にやっていたことだ。それを三人でひと月やることになった。まあオレからすれば、厳しい罰則でもない。
「お腹すいたー! 僕たち先に行くねー」
廊下を我先にかけていく弟達の後姿を見送る。終わると風呂に入り、朝ごはんだ。この規則正しい生活は、非日常を過ごしてきたオレにとってはリハビリ代わりでちょうど良かった。
そう言えば双子の目印は飼っている柴犬だった。どうやったら犬を目印にできるか不思議だったが、実際出来てしまったのだから何も言えない。柴犬は双子がよく面倒を見ていたから、気持ちも通じるんかな。
高校はいつも通りだ。オレと瞬弥は相変わらずつるんでて、阿保な会話をしている。あいつがオレを凝視することはあまりなくなった。毎日鏡で眉間をチェックしてるからな。
そして、時々あの日々のことを思い出しては二人で懐かしむこともある。
「話し相手がいなくなって、寂しいか?」
オレが冗談ぽく瞬弥に言う。あいつは、切れ長の双眸を少し緩めるようにして笑った。
「最初は……。ぽかんと穴があいたように感じた。ずっと頭の中にあいつの意識があって、感情の起伏が俺の気持ちを揺さぶっていたからな。でも、それは異常なことだよ。一人の体には一人の意識でいっぱいいっぱいだ。ま、教わることは教わったしな」
「貴重な体験な。全く、オレはあの時感動したのに!」
「それは間違っていない。全てが貴重な体験だったから」
こいつは別れの際で、クリシュナに「貴重な体験をさせてもらった」と言った。オレも同調して感謝の気持ちを伝えたんだけど、あいつは後でこうのたまいやがった。
「特にクリシュナのプレイボーイっぷりは凄い参考になった」
と。そういうことかよ。全く命懸けだったにしては余裕な奴だよ。
「もう、会えないのだろうな。いや、それでいいんだと俺は思っている。俺達はこの時代を生きていくのだから」
瞬弥が長い睫毛を半分おろしてそう言った。その無自覚な艶っぽさにどきりとしながら、オレも「そうだな」と返した。
オレが危惧した通り、もう『時渡りの粉』は使えなくなってしまった。弟達が何度試しても、何も起こらなかった。
これはオレの予想だけど、あの不思議な粉が使えたのは、ナーラダ神仙、もしくはシヴァ神だろうか、あの人が必要と思っていた間だけじゃなかったのかって。
ある日突然、クリシュナが瞬弥の中に入って来て、それを追ってアルジュナがやってきた。オレらは巻き込まれるように、古代に飛んだけど、きっと必要な駒だったんだろうと思う。彼らの時代を正しい方向に導くために。
それが成し遂げられたら、もうむやみに時を超えることは許されない。そういうことだと思う。
ところで、オレは帰ってからスマホを起動して驚いた。あの大宴会の様子が録画されていたんだ。どうやらやり方を弟達に教えてもらったようで、撮影者はアルジュナだった。
随分と恥ずかしい会話と行動で赤面したが、最後に自撮りされたクリシュナとアルジュナの動画に不覚にも涙してしまった。
「瞬弥、樹、我らはこれからこの国で、短いが太い生を生き抜いていく。貴様らの力あってのこの命、努々疎かにはせぬが、運命もあるからな。貴様らと過ごした日々は最高の日々であった。もう会うことはないだろうが、忘れてくれるな。我らも忘れぬ。どんなことでも成せる二人を二倍にした、我らと貴様らの絆の日々を」
机に置いたスマホにはにかみながら語りかける、少し斜めになった粗雑な動画。きっとオレ達の未来を支えてくれるだろう。たとえどんな厳しいことがあったとしても。
次回、エピローグ その2 瞬弥
を以って「俺と親友の前世が英雄でイケメンだった件 ~カルテット・シンドローム!」は完結となります。
最初で最後の瞬弥が語る本人の気持ち。
お見逃しなく!