第60話 地下室の男
気が付くと、瓶の底が見え始めていた。『時渡りの粉』を入れた瓶の底だ。この瓶で使えるのはせいぜいあと二回といったところか。まだ弟達とアルジュナがそれぞれ何回分か持っているが、大盤振る舞いして使い過ぎたかな。いや、今はそれどころじゃない。とにかく急がなければ。
サティヤ妃の屋敷は境にある川を中心にして、西のアンバリー妃のちょうど相対する位置にあった。権力的にも同じような地位なのかもしれない。屋敷そのものの形や大きさもほとんど同じだ。門の前には、これまた同様に武芸大会に行きたがっている護衛兵が一人で立っていた。
「代わってやるよ。行ってきていいぞ。オレは新入りだから、賭けもできなかったからな」
そういうオレに、全く疑いもなく(多分あっても、行きたい気持ちのほうが勝ったのだろう)さっさと職場放棄してくれた。
さっきと同じように屋敷に忍び込むが、ここは思ったより人が多い。オレ達は忍者みたいに屋根に張り巡らされた梁に上り、目指すものを探した。
けれど、サティヤ妃の部屋と思われる場所にも寝室にもオレ達が求めている姿はなかった。 妃の寝室には、床に乱れた着衣があるだけで、露わな姿、(その様があまりに妖艶で、オレは弟達の目を塞ぐのに大変だった)のサティヤ妃が惰眠を貪っているだけだった。
「兄さん、あれを見て」
仕方なく一度屋根の上に上ったオレ達。航が指さす方を見ると、この屋敷のちょうど中央に位置する小さな中庭が目に映った。そこは八畳くらいの大きさで、蓮の華が咲く可愛い池の横に椅子と机が置かれている。ちょっとお茶を飲むにはいい感じの場所だ。
「あ、あれは……」
そこに、明らかに新しく作られた扉が地面に埋められていた。
――――地下室?
そして、植えられた低木の根元に、使っている最中のような建築道具が置かれていた。
「もしかして、地下室があるのか」
オレは独り言のようにそう呟く。これはまた、目当てのものではないのかもしれない。でも……。
「行くぞ!」
屋根から音もさせずに中庭に降り立つ。女官達が気怠そうに歩いているのを頭を低くしてやり過ごすと、地下室への扉を開けた。
真っ暗な地下室へと続く階段。この階段も作られたばかりの真新しい匂いがする。翔がペンサイズの懐中電灯を点けると、下にもう一つ扉があった。反射的に耳をその木の扉にくっつけ、何か聞こえてこないか神経を研ぎ澄ます。
――――毎晩、ご苦労だな。夜は妃の慰みものだが、昼間は暇だろう。私達の相手もしてもらおうか。いつまでもここにいるわけではないだろうから。
――――お願いです。ウチに帰してください……。妻も子も私の帰りを待っている。
――――帰れるさ。ま、まともな体では帰れないだろうけど。
これ以上の会話を聞く必要もないだろう。少なくとも二人以上の敵がいるようだが、そんなの関係ない。鍵がかかっていた扉を体ごとぶつけて開け放つ。想像以上に広い地下室はぼんやりとした灯りに包まれている。ぶち破った扉が大げさな音をたてて床に倒れた。
「誰だ!?」
座敷牢のような格子の中、三人の人影。二人は長い髪を一つに縛った武具姿だ。アンバリー妃の所にもいた、私兵、女性の戦闘員だろう。そしてもう一人は全裸の青年。囚われた彼は、肉体労働者のもつ美しい筋肉とそれに相反する整った顔の美青年だった。しかも瞳は金色に近いレモン色。彼が噂の『若くて美しい青年』であることは間違いなさそうだ。加えて、建築業のようだから、あの人の旦那さんかもしれない。
「兄さん、弓!」
弟達が渡してくれた弓矢は、小さいながらも機動性に富んだ得物だ。奴らが牢から飛び出したのを迎え撃つようにオレは弓を引いた。
「ありがとうございます。この御恩は……」
わずかな時間でオレ達はここを制圧した。だが、のんびりこの人のお礼を受けている暇はない。とにかくここにも望んでいたものはなかったのだ。彼はオレが思っていた通り、城下町で出会った人の旦那さんだった。『時渡りの粉』を使って、奥さんの所に帰してやった。
オレ達は随分と遠回りをしたようだった。もちろん、人助けが出来たので無駄だったとは思わないが。
大工がオレ達にもたらした情報は、まさに喉から手が出るほど欲していたものだった。が、同時に奪還の困難さを突き付けるものだった。




