第42話 瞬弥の願い
――――心配することはない。これは、瞬弥からの頼みだったのだから。
オレの消えかかる意識の中に、アルジュナの優しさを帯びた声が響いた。オレは今、どこにいるのだろう。『時渡りの粉』の作用で、時代を超えているさなかなのか。
オレは全神経を研ぎ澄ませてアルジュナの声を聞こうとした。これを聞き逃してはならない。絶対に。
――――瞬弥を殺してはいない。少しの間だけ眠ってもらっただけだ。
瞬弥、生きてる? 本当なのか? おれは必死で何かを言おうと口を動かす。だが喉に何かが貼りついて、乾いた息だけが虚しく唇を擦った。
――――あいつはな、貴様をこの世界にこれ以上、居させたくなかったのだよ。私はそのようなこと、気にする必要はないと申したのだがな。貴様が『時渡りの粉』を私から奪った時、瞬弥は思ったようだ。貴様に限界が来ているのだと。
だから、もし自分と帰ろうと言い出したら、自分を殺したことにしてくれと頼まれたのだ。こうでもしないと、貴様は帰ろうとしなかっただろうから。
なんで、そんなこと。オレは、瞬弥となら、どんな場所でもいられたのに。おまえを一人そこに残して帰るなど、出来ないと知っているだろう!?
オレは心配だったんだ。あいつが自分の事を犠牲にしてしまうことを。瞬弥が瞬弥でなくなってしまうことを。だから、つい言ってしまった。つい、なんて、愚かすぎる。言い訳にもならないけど。
――――私たちは、クリシュナの体を奪還することを諦めてはいない。そのために、瞬弥にはまだまだ協力してもらわないといけない。だから貴様はそっちの世界で待っていろ。
私は貴様に失望はしていない。もう二度と会うことはないだろうが、元気でいろ。
オレの脳裏に、三人の声が甦った。「納得とかそんなことはどうでもいいんだ。これは俺らの問題だ」。そう、瞬弥が言っていた。
夢じゃなかったんだ。あの夜の三人の会話。あの時から、決めていたのか……。
オレは、どこかに座っていた。アルジュナの声は、もう聞こえない。
慣れ親しんだ自分の部屋の匂いとベッドのクッションに気付いたのは、随分と時間が経ってからだった。
オレはずっと、声を出さずに泣いていた。うずくまり、自分を憐れむように膝を抱いて。
「樹兄さん、大丈夫?」
それからどれくらい経ったのだろう。ふいに届いた声に、オレはようやくそこに誰かがいたことを認識した。
「翔……。航もいたのか。大丈夫だ」
涙と傷でボロボロの顔と体。おまけに鼻血でそこらじゅう血だらけだ。これで大丈夫だと言われても困るだろう。でも、弟たちは、
「無事に、帰ってきてくれたんだね。良かった」
そう優しく声をかけてくれる。オレは改めて二人の顔を見た。心配そうに、でも、安堵しているような優しい笑顔でオレを見ている。形の良い二重の双眸が、少し潤んでいるように見えた。
「ごめん……。心配かけたな」
そう言うとまた、涙が溢れてどうしようもなかった。腫れあがって瞼が開かない左目は特にひどくて、全く前が見えなくなっている。
「兄さん、大丈夫だよ。僕たち、そばにいるから……」
兄としても男としても、こんな情けない姿を晒すオレを許してくれ。今ばかりはもう、オレは全てが崩れ落ちていく自分を止められない。
瞬弥……。オレは一体、どうしたらいいんだ……。おまえは、オレのこと、全然わかっていない。本当に大馬鹿野郎だ……。