第一話
天使の歌声とはまさに彼女のことをいうんだろう、と思った。
透明感のある、透きとおった高音に、伸びのあるビブラート。
彼女の声はたまに、楽器のように聞こえる。
優雅で繊細なバイオリンになったり、せつない響きのピアノになったり、楽しげなフルートになったり。
とにかく彼女はすごい。一目ぼれだった。
じめじめとして、薄暗く、外はとてもいい天気なのに、気分をどんよりとさせるような地下で彼女は歌っている。
人々は彼女の歌には振り向かず、何かにせかされるように足を急かす。
地下の端の方では、ブレイクダンスをしている少年たちがいる。
ヒップホップの音に合わせて、体をしならせ技を決める。
技が失敗するとケラケラと仲間と一緒に少年たちは笑う。
彼女の歌声と地下の音がシンクロする。
合っているのだ。
なにげない騒音にかき消される彼女の音楽がとてもせつない、と感じた。
二人組のカップルが彼女の音楽に拍手する。
「とてもよかったわ。」
そうカップルの女の方が答えた。
本当にそう思っているかどうか分からない感じだ。
男の方が彼女の手をひっぱり、カップルはそこを去った。
彼女はなにごともなかったかのように、スコアブックをめくる
。何の曲を弾こうか、そう悩んでいるようだった。
彼女の腕の中にあるギター。
かなり使いこまれている様子だ。
それを優しく、彼女は持っている。
きっととても大事なものなのだろう。
「俺と一緒にプロ目指そうぜ。」
そう俺は言った。
俺は大学生だった。
ただなんとなく勉強し、なんとなく遊び、なんとなく就職する。
そんなステレオタイプ的ともいえる大学生活を俺は送っていた。
俺の言葉は直観だ。
彼女の歌はものすごくいい、だからすごい音楽がつくれる、じゃあプロに、ただそれだけ。
直観ってのも大事だろ。やっぱり。
「興味ないわ。」
そう彼女は言った。
態度が冷たい。
まあ当り前か。
出会って一時間と経ってない。
この状態でいいわ、やりましょう、なんて言う奴のほうがどうかしてる。
「あんたの音楽はすごいよ。マジで。やろうよ、一緒に。」
そう俺は言った。
彼女は困った顔をしている。
ったく、めんどくさい奴。
まあそんな風に思っているのかな。
でも俺は決めた。
絶対に彼女と音楽をする。
「俺はあきらめないぜ。何度でも言う。」
そう俺は言った。
高校生の二人組が彼女の前に座った。
どっちも男子でかなりオシャレな格好をしていた。
肩にはギターケースが見える。
バンドでもやっているのだろうか。
彼女は再び歌った。
今度の曲は有名なバンドのカバーだ。
彼女の指がしなやかにギターの弦を奏でる。
彼女の歌は海のさざ波のようだ、と思う。
安心する、という感覚だろうか。
彼女はとてもかわいいと思う。
二重のなにかを訴えかけるかのような強いまなざしのする目。
形のいい鼻。
そしてきゅっと結ばれた口。
ボーイッシュな印象を与える顔だった。
男勝りで、意志の強そうな感じがする。
それが俺の第一印象だった。
「私の歌を聴いてくれるのはうれしい。だけどそういう勧誘は困るの。私はここで歌うのが好きなの。放っておいて。」
そう彼女は言った。
彼女が見せた怒りの感情に少しドキリとする。
彼女はギターを茶色いハードケースに入れて、その場を去った。
俺はその場所に残った。
彼女の余韻に浸る。
彼女には絶対に特別なものがある。
そう俺は思った。
俺は自分のギターケースからギターを取り出す。
メーカーはマーチンだ。
これは俺の二番目のギターだ。
このギターには思い入れがある。
俺はあまり地味なことは好きじゃない。
だからギターの練習は嫌いだった。
ちまちまとコードの練習。
初めてのエフコードは難しかった。
華やかなギタープレイばかりを想像していた俺は挫折しそうになった。
しかし、俺には憧れの人がいた。
その人はギターを一から教えてくれた高校の先輩だった。
先輩は女で軽音楽部の部長でもあった。
下手くそな俺をここまでうまくしてくれたのは先輩だ。
先輩の奏でる音は俺が一緒にプロになろうと誘った彼女の歌声によく似ていた。
ギターという楽器でここまで演奏できるのかと思った。
先輩は自分で曲を作っていた。
その曲はまるで物語のようだった。
旅立ち、出会い、悩み、成功、恋、そんな人生そのものを表現しているみたいだった。
先輩に魅せられ、俺も先輩のようにすごい音楽を表現してみたい、と思った。
しかし先輩は死んだ。
交通事故だった。
その先輩から死ぬ前にもらったギターが俺が今手にしているマーチンだ。
このギターを弾くと先輩を思い出す。
俺は先輩の意思を引き継いでいる。
そんな錯覚さえ起こすことさえある。
しかし、大学に行きなにもできていない自分がとても苛立たしかった。
俺は彼女が歌っていた場所で先輩の作った曲を弾いた。
この曲は先輩が好きな人のために作った歌だ。
柔らかな旋律から始まる。
途中から不安定な調子も混じり、最後はハッピーエンドを象徴するように気持のよいコードで終わる。
先輩は恋は魔法のようだ、と言っていた。
先輩がせつない横顔でギターを弾いているのを思い出した。
俺は先輩のことが好きだった。
だから先輩の好きだった人に対して嫉妬の気持ちを持っていた。
できれば俺のために曲を弾いて欲しかった。
しかし自分の思いは結局伝えることはできなかった。
全ては思い出だ。思いでなんだ。
俺は先輩の曲を弾き終えた。