友情
ぼくの名はヒロシ。背丈は標準だけど、痩せこけた非力な体型が弱々しさを引き立てている。おまけに冴えない顔つきが、見た目の印象を悪くしている。
「人は見た目ではない、中身だ」と言いたいが、勉強ができるのか、といえばできないし、運動は何をやっても人並以下ときたものだ。
「友達と楽しい会話ができる」と言いたいが、これまた話題に乏しく、その場の空気も読めず会話にならない。ならないというよりも友達らしい友達もいないので、会話する機会が皆無である。総合的に見て、何の取り柄もない孤独な小学六年生の男子です。
だからぼくは学校が好きになれない。行かなくてもいいのなら、行きたくないのが本音だが、それもできない。小中学校は義務教育なので、国民のぼくは教育を受けなければならない。朝めざめると気が重く、学校に足が向かない。重たい足を引きずりながら、嫌々学校に通っていたが、ある日を境に、ぼくは学校に行くのが楽しみになった。
正門を抜けて校庭に入ると、校舎に向かいながら会話する同級生のトシオとタケシの後ろ姿が見えた。タケシはそうでもないが、トシオは乱暴でおっかない奴だから苦手な相手だ。だけどこのふたりとは、ある事情があって付き合わざるを得ない。
ぼくは情報収集のため、ふたりの会話の内容を探るべく、歩く速度を上げて近づいた。そして背後から聞き耳を立てた。
「トシオ、走り込みはどうだ、大会まであと二週間だな」
二週間後の校内マラソン大会の会話をしているようだ。
「今年はマユに、負けるわけにはいかない」
マユと聞いて、ぼくの鼓動は高鳴った。学校に行くのが楽しみになったのも、このふたりと付き合わざるを得なくなった事情も、ぼくがマユに恋をしたからだ。
マユじゃない、彼女の名前はマユミなのに、トシオはマユと縮めて呼び捨てにする。
「彼女の名前はマユミだ、ちゃんと呼べ」と言いたいが、トシオには面と向かって言えない。
「彼女は凄いよな、身体能力は中学生レベルだからな。簡単には勝たせてくれないよ」
タケシが肩をすくめて、トシオの顔を見た。
「身体能力だけじゃない。マユの練習量は半端じゃないからな」
トシオはマユミの実力が、努力の積み重ねであることを認めている。
「一年生の時からマラソン大会学年優勝五連覇だからな、当然六連覇を狙ってくるのは間違いないね」
「気に入らねぇな」
負けん気の強いトシオは、マユミにマラソンで勝てないことが、どうにもこうにも気に入らないらしい。
「トシオも、やられっぱなしじゃ面目丸つぶれか」
「一年生の時から毎年おれが二位で、タケシが三位じゃおもしろくないだろう」
「本当だ、今年はトシオかぼくでリベンジしないとな」
「運動も一番、勉強も一番、かわいさも一番のマユミに、君たちは勝てないよ~だ」
ぼくはふたりの背中に向けて、心の中で叫んだ。
「マラソン大会よりも、四週間後のソフトボール大会だ。今度は宮崎ゆり子からホームランを打ってやるからな」
トシオが急に、ソフトボール大会に話題を変えた。
「宮崎ゆり子からホームランを狙うなんて、トシオらしいな。ぼくは前の対戦でヒットすら打てていない」
「一打席目は三振に抑え込まれた。二打席目はヒットになったが納得していない」
「レフトフェンス直撃の二塁打、もう少しでホームランだったな。我校唯一のヒットだったね。あれがなければ完全試合されていた」
「春は初戦で、宮崎ゆり子に無様な一安打完封負けだ。秋の大会で必ずリベンジしてやる」
どうやらトシオは、マラソンでマユミに勝つことよりも、ソフトボールで叩きのめされた、宮崎ゆり子にリベンジすることに燃えているようだ。
ソフトボールが絡むとなれば、部員のぼくにも関係してくる。ここはひとつ勇気を出して、会話に参加しようと深呼吸をする。
その前に、運動音痴のぼくが、どうしてソフトボール部に入部したのか、トシオたちがソフトボールをはじめたいきさつと合わせて少し説明しておこう。
ぼくたちが暮らす兜市では、春と秋に市内の小学校学年対抗ソフトボール大会が開催されている。だが、ぼくたちが通う兜南小学校には、ソフトボール部がなく大会には参加していなかった。
本格的ではないが草野球の経験があるタケシが、これまた少し草野球の経験があるトシオに「ソフトボールをやらないか」と誘ってみると、「やろうじゃないか」と話がまとまった。
ふたりが空き地でキャッチボールをしていると、ソフトボールに興味を持っていたマユミが仲間に加わった。三日もすれば、ぼくもわたしもと同級生八人が集まり練習するようになった。
そうなると、練習だけでは物足りなくなり試合がしたくなる。タケシが市内の小学校を駈けずり回り対戦相手を探したが、どこのチームも春の大会に備えて調整中とのことで、寄せ集めの八人しかいないチームとの練習試合を受けてくれなかった。
こうなると、トシオの闘争心に火がついて「だったらソフトボール部をつくって大会に出場して、相手を叩きのめしてやろう」ということになった。反対する者もなく、トシオの提案に乗ることになりソフトボール部を立ち上げたが、大会に出場するにはひとり足りない。そこでトシオは、あまり乗り気でない双子の妹を、なかば強引に九人目の部員とした。
春の大会までもう幾日もない。指導してくれる先生もいないまま、トシオたちは自己流だが限られた時間の中で、できる限りの練習を積み上げた。
そして挑んだ春のソフトボール大会。初戦の対戦相手は、宮崎ゆり子が所属する強豪チームの兜北小学校。それなりの自信を持っていたトシオたちだったが、即席チームでは経験豊富な強豪チームには歯が立たなかった。宮崎ゆり子の剛速球の前に、一安打の完封負けで叩きのめされた。
負けん気の強いトシオは、よほど悔しかったのか、秋の大会でリベンジすると、みんなに宣言する。タケシたちも、このまま引き下がるわけにはいかないとリベンジを誓った。翌日から兜南小学校のソフトボール部は、毎日授業が終わると練習に励んだ。当然マユミも練習に参加している。そこでぼくはひらめいた。運動は苦手だが、大好きなマユミに接近するにはソフトボール部に入るのが近道だと決断した。どうしてぼくがマユミに恋をしたのかは、この先のお楽しみ、ということにして話を続けよう。
深呼吸をして、気持ちを落ち着かせたぼくは、ふたりに声をかけた。
「秋のソフトボール大会は、一緒にがんばろうな」
いきなり背後から声をかけられて、驚いたふたりが振り向くとヒロシが立っていた。笑顔を作ろうとしているのだが、ヒロシの顔は緊張して引きつっている。
「なんだよ急に、びっくりするじゃないか」
トシオに睨みつけられて委縮したヒロシだが、もう一度深呼吸して話し出した。
「優勝できるように、がんばろうね」
トシオは部員数が足りないので仕方なく入部を認めたが、入部以来一度も練習に参加していないヒロシが気安く「優勝」と口にしたことに「カチン」ときた。
「簡単に言うな」
トシオが声を荒げて、威嚇する目つきで睨んだ。いつものヒロシならそのまま引き下がるのだが、今日は違った。そしてとんでもないことを言い出した。
「ばくピッチャーやってホームランが打ちたいんだけど、できるかな?」
タケシは呆気に取られて返答に詰まる。トシオは真面目に答える気にもなれず、見下すように言った。
「ああ、お前ならなんでもできよ」
「そうだよね、ぼくにもできるよね。よ~しがんばるぞ、投げて打って大活躍してやる」
「こいつには冗談が通じないな」
トシオは呆れて、タケシの顔を見た。
ひと呼吸おいて、諭すようにタケシがヒロシに話しかける。
「ピッチャーやってホームランを打つことは、容易なことではないよ。猛練習をやらなきゃ無理だ。ヒロシがソフトボールをやっているのをみたことないけど、体育の授業を見る限り可能性は無きに等しいよ」
タケシの言葉が、ヒロシの胸に突き刺さった。「ピッチャーやってホームランを打つ」なんて、できっこないことは自分自身が一番よくわかっていた。マユミの気を引こうとソフトボール部に入部はしたものの、ソフトボールの経験も無く練習についていく体力も自信もなかった。だから一度も練習に参加していなかった。だけどヒロシは、大好きなマユミの前で、格好よく投げて打って大活躍する自分の姿を夢に描いていた。タケシの一言で、現実の世界に引き戻される。意気消沈となりうつむいて足元に視線を落とした。
トシオが笑いをこらえて、タケシの肩を軽く叩いた。
「タケシ、それを言っちゃあおしまいよ」
「ぼくは本当のことを言っただけだよ」
うん、うんとうなずいてトシオがヒロシに聞き返す。
「お前、本気でピッチャーやって、ホームランが打てると思っているのか?」
うつむいたまま、足元を見つめるヒロシから返事は返ってこない。
「またかよ、いつものように都合が悪くなると、うつむいて黙り込む。タケシの言うとおりだよ、今のお前じゃピッチャーもできないしホームランなんて打てっこない。入部してからソフトの練習に一度も来てないじゃないか、何の努力もしないで夢みたいなこと簡単に言うな」
トシオとタケシに挟まれて、うつむいたまま黙り込んでいるヒロシの姿が、下駄箱から上履きを取り出していたマユミの目に映った。
マユミは脱いだばかりの靴を履き直し、
「トシオ、何をしているの?」
と声を荒げて駆け寄って来た。
「ややっこしいのが現れたな」と肩をすぼめてトシオが答える。
「何も」
「何もしていないのに、どうしてヒロシがうつむいて黙り込んでいるの」
「知るかよ、地面のアリさんでも見ているだろ」
「ふざけないで、真面目に答えなさい」
「気に入らないなら、本人に直接聞けば」
マユミはトシオを睨みつけた後、ヒロシに事情を聞いた。
「どうしたの?何をされたの?」
ヒロシは夢みたいなことを言って、「無理だ」と指摘されたことを、大好きなマユミに知られるのが恥ずかしくて、余計に黙り込んでしまった。
「トシオは何もしてないよ。ヒロシがソフトボール大会で、ピッチャーやってホームランが打ちたいって言うから、今のままでは無理だとぼくが言ったら、うつむいてしまったんだよ」
タケシが事情を説明したので状況がわかった。トシオは素知らぬ顔で、その場を立ち去ろうとする。
「ごめんなさい、よく事情も確かめないで疑ったりして」
マユミは素直に自分の非を認めてあやまったが、トシオは無視して校舎に向かって歩き出していた。
「ちゃんとあやまっているのに、無視するの?」
マユミがトシオの背中に向けて、強い口調で言った。トシオは立ち止まって振り向き、マユミを睨みつけた。
「あやまりゃ済むのか、どうしてはじめから、おれが何かしたと決めつける」
学校でトラブルや問題が起きれば、そのほとんどにトシオが絡んでいるのは事実であった。だから何かあったら、先生や生徒たちもトシオを疑うのも事実であった。だけどマユミは言い返さないで、
「ごめんなさい」
と言って頭を下げた。トシオもそれ以上は責めなかった。
「わかったよ、マユもヒロも同じ部員だからな、仲良くしようぜ」
「ありがとう」
トシオが仲良くしようと言ってくれたので、マユミは安心して微笑んだ。
「勘違いするなよ、おれは優勝したいから仲良くしようと言っただけだ。ヒロにピッチャーをやらせるつもりはないからな」
「わかってる」
「おれは宮崎ゆり子からホームランを打って、優勝したいだけだ」
「お互いがんばって、優勝を目指しましょう」
トシオはうなずいて、校舎へと歩き出した。タケシもトシオを追って、校舎に向かった。横に並んだタケシが、ソフトボール大会の話を続けた。
「今のメンバーでは、宮崎ゆり子の兜北に勝つのは難しいな」
「かなりね、宮崎ゆり子だけじゃない鳥崎鉄男もいるからな、最速投手と最強打者がバッテリーを組むわけだ、かなりの難敵だ」
「バッテリー以外も、レベルが高いしね」
「我チームはおれにタケシ、カツトモにマユはいいとして、トシアキ、キヨミ、リョウタ、ヒデユキだぜ、それに極めつけはヒロだ。他にいないのかソフトボールをやるやつは」
「極めつけはヒロだ」に、タケシもうなずいた。他校のチームと比較すれば戦力的に見劣りするのは確かであった。
「前向きに考えよう、練習次第では伸びる可能性があるメンバーかも知れない」
タケシが、あきらめないで最後まで全力を尽くそうと促した。
「前向きに考えても、ヒロは使いものにならないだろう。あいつがスポーツに限らず、物事に対して努力するとは思えない」
「確かに」
校舎に向かうトシオとタケシの背中を見ながら、マユミがヒロシにやさしく話しかけた。
「ピッチャーやってホームランが打ちたいって、本気で言っているの?」
大好きなマユミにも「本気で言っているの」と聞かれ、誰も本気にしてくれないと更に落ち込んだ。
「黙っていたんじゃわからないは、どうなの答えて」
「本気だよ、マユミの見ている前で、ぼくはピッチャーをやってホームランが打ちたいんだ」と心の中では叫んでいるが、声に出しては言えない。
もじもじしていると、
「どうなの?」
と聞いてくるマユミの声に、少し苛立ちが感じられた。このままでは嫌われてしまうと思い、ヒロシは「うん」と小さくつぶやいた。
「だったらもっとはっきり意思表示をしなさい。「本気だ」と大きな声で、あのふたりに言いなさい」
ヒロシの背中を叩いた。それでもちゅうちょしていると、マユミが命令口調で「言いなさい」とふたりの背中を指さした。
マユミに嫌われたくない一心で、ヒロシは覚悟を決めて、ふたりの背中に向けて大声で叫んだ。
「本気だ!ぼくはピッチャーやってホームランが打ちたい」
ヒロシの大声にふたりが振り向くと、マユミが手招きをした。トシオは無視して校舎に向かおうとしたが、タケシがマユミとヒロシのところに駆け寄ったので、仕方なく後に続いた。
タケシがヒロシと向き合い、確認するように聞いた。
「どうしたんだ、急に大きな声出して、今言ったことは本当か?」
ピッチャーやってホームランが打ちたいと叫んでみたが、ふたりを前にすると、またうつむいてしまう。
「ヒロどうした、大声出して気でも狂ったか?」
トシオが茶化すと「失礼ね」という顔で、うつむいたままのヒロシに代わってマユミが答えた。
「ヒロシは本気でピッチャーやってホームランが打ちたいんだって、みんなで何とかしてやれないかな」
「頭がおかしくなったのか?」
トシオが右手の人さし指で、自分のこめかみをつつきながらヒロシの顔をのぞき込む。
「ヒロシの想いを、まじめに聞いてあげて」
「だから勘違いするなと言っただろ。できもしない夢物語に付き合うほど暇じゃないぜ」
「できないなんて決めつけないで、みんなで協力してやれば何とかなるわ」
マユミは引き下がらなかった。
「無理だね。いくらまわりが協力したって、本人が努力して練習に取り組むとは思えない」
トシオが冷たく、ヒロシのうつむいた姿に吐き捨てるように言った。
「努力もするしがんばるわ、ねえヒロシ」
マユミはヒロシをかばうが、本人はうつむいたままだ。その態度に、トシオが追い打ちをかける。
「大声で叫んだことが本気なら、努力もするしがんばりますと自分の口で言えないのか。だから信用できないんだよ。今までスポーツに限らず物事に対して、努力したことがあるか、がんばったことがあるのか、ソフトの練習にも一度も来てないじゃないか」
「確かに」とマユミも思わずうなずいてしまった。
「それみろ、マユもそう思っているじゃないか」
マユミは「思っていない」と右手を左右に振って、慌ててヒロシに聞き返した。
「ヒロシはピッチャーやりたくないの?ホームランを打ちたくないの?自分の口から努力もするしがんばるって言ってよ」
ヒロシはうつむいたまま返事をしない。しばらく沈黙が続く。
「時間の無駄だ」
と言って、トシオは背を向けて校舎に向かった。タケシもヒロシが意思表示をしないので、駄目だと判断して校舎に向かう。さすがにマユミもあきらめて、トシオたちの後に続いて校舎に向かって歩き出した。足音が遠ざかっていく、このままでは愛想を尽かされてしまう。追い詰められたヒロシは、顔を上げて三人の背中に向けて大声で叫んだ。
「ぼくはピッチャーがやりたい。ホームランも打ちたい。だから努力する、がんばる」
「トシオ待って」
マユミがトシオを呼び止めた。
「付き合いきれないよ」と思いながらも、トシオは立ち止まり振り向いた。
「聞こえたでしょ」
「一応ね」
「ヒロシの夢を叶えてあげて」
「人に頼ってどうする。夢を叶えたいのなら自分で叶えればいいじゃないか」
トシオが手招きして、ヒロシを呼び寄せた。とぼとぼと歩いてくるヒロシに、「駆け足」と怒鳴りつけた。
ヒロシが三人の前に来ると、
「何を努力して何をがんばるんだ。エースで四番を狙うのは勝手だ。しかしな、お遊びで試合をやるんじゃない。真剣勝負だ、相手も全力で向かってくる。こっちも手を抜くわけにはいかない。あと四週間で、ピッチャーができるようになりホームランが打てるようになれるのか?お前のたわごとに、付き合っているほど暇じゃないぜ」
語義を強めてトシオが噛みつく。
「ソフトボール大会は、勝ち負けだけが目的じゃないでしょ」
そう言ってマユミは、タケシに助け舟を求めた。
「勝ち負けだけじゃないけど、中途半端な試合はできない。相手も全力で挑んでくるのだから、こちらも全力で挑まないと」
タケシがそう答えると、トシオが右手の人さし指を、マユミの鼻先に突きつけて噛みついた。
「勝負はな勝たなきゃ意味がないんだよ。そのために、誰もが努力してがんばっているんだからな」
トシオの気迫に負けそうになりながらも、マユミは言い返した。
「だからヒロシも努力するし、がんばるって言っているじゃない」
トシオが肩をすぼめてマユミを見た。
「努力する、がんばるって言うのは簡単だ。だから何を努力して、何をがんばるんだ?入部したって一度も練習にも来ない奴が」
「それは…」
マユミは返答に詰まる。ヒロシはふたりのやり取りを聞いているだけで、何も口にしない。
「何をしたらいいのか、トシオが決めて」
「どうしておれが決めるんだ、ヒロシが自分で決めればいいことだ」
「自分で決めろ」と言われても、何をしたらいいのかわからないヒロシには、答えようがない。沈黙が続き、嫌な雰囲気になってきた。このままでは、「時間の無駄だ」とトシオが言い出すのは間違いない。そうなれば、応援してくれているマユミにも失望される。ヒロシは意を決して口を開いた。
「二週間後のマラソン大会で、上位半分以内でゴールする。それにソフトの練習には必ず参加する」
マユミはヒロシの思い切った提案に大きくうなずいたが、トシオは一笑した。
「できもしないことを言うな」
ヒロシの実力からして、マラソン大会で上位半分以内に入るのは至難の業である。それにソフトボールの練習は、打倒宮崎ゆり子に燃えているトシオが先導しているので半端じゃない。
「私がヒロシを指導する。必ずできるようにしてみせる」
マユミも意を決してトシオに約束した。
「せいぜいがんばりな」
ふたりの顔を交互に見て、トシオは校舎に向かった。その背中に向けて、
「トシオの鼻を明かしてやりましょう」
マユミがヒロシの肩を軽く叩くと、「うん」と小さくうなずいた。
「明日から朝練よ、鍛え直してあげる。六時にかぶと公園に集合」
マユミの眼は燃えていた。トシオの鼻っ柱をへし折ってやると。
「うん」
ヒロシの蚊の鳴くような返事に、「喝」が入る。
「本気でやる気があるのなら、もっと大きな声で返事して!」
マユミのやさしい顔が鬼に見えた。肩をすぼめたヒロシが、
「はい、ぼくがんばる」
と返事をしたが、トシオには届かなかった。
教室に入ったトシオは、不機嫌な顔で机の上にカバンを置いて椅子に腰かけた。
「トシオ、どう思う?」
自分の席には着かず、トシオの横に立ったままタケシが問いかけた。
「何が?」
「ヒロシだよ、マラソン大会で上位半分以内に入って、練習に毎日参加するって宣言したけど、大丈夫かな」
「おれの知ったことじゃない。やれると思うのだったら、やればいいだけだ。四週間やそこらで、エースで四番になれるなら誰も苦労しないよ」
「確かに、今のヒロシの実力では、百二十パーセント不可能だ。なのにどうして、マユミは肩入れするのかな?」
「ヒロシが好きなんだろう」
「それは」一呼吸置いて、「ありえない」
午後三時四十分の終業チャイムが鳴る。学習塾や習い事へ通う生徒たちは、そそくさと帰宅していく。
トシオとタケシはジャージに着替えて、グローブとバットを抱えて運動場へ向かう。教室を出て、廊下の掲示板の前でふたりは足を止めた。
「貼り出してくれている」
「タケシが学校に頼んでくれたからな」
ソフトボールを広めようと、タケシが学校側へ大会の案内を貼り出すように申し入れたので、校内のマラソン大会の案内と並んで、兜市の小学校学年対抗ソフトボール大会の案内が貼り出されていた。
マラソン大会の案内には、学年毎のスタート時間と距離、コース図が張り出されていた。
ソフトボール大会の案内には、大会日時と会場、トーナメントの組合せ抽選日とルールが記載されていた。
兜市内にある八つの小学校が、学年毎にトーメント方式で戦うのだが、全学年すべて参加する学校は三校だけだった。AブロックとBブロックに振り分けて、各ブロックを勝ち進んだチームが決勝で戦い優勝を決める。六年生は八校すべての参加となり、優勝するには各ブリックで一回戦、二回戦と勝ち進み、決勝戦を制して三勝しなければならない。
五、六年生の試合は、一回戦と二回戦を五イニングで一時間以内、決勝戦はフリータイムで七イニングとし、延長戦はおこなわない。
「試合形式とルールは変わっていないな、初戦で宮崎ゆり子と戦いたくないね。勝ってしまうと後の試合に気合いが入らないからな、決勝で戦って優勝したい」
トシオはどうしても、決勝戦で宮崎ゆり子からホームランを打って勝ちたかった。
「そうだね、組合せ抽選会では、初戦に当たらないようにくじを引くよ」
タケシも同じことを考えていた。
ソフトボールの練習時間は、午後の四時から六時までの二時間で、六時前に日が暮れればそこで終了。
グランドに一番乗りするのは、いつも決まってトシオとタケシのふたりだ。練習が終わって、帰るのが一番遅いのもトシオとタケシのふたりだった。誰よりも先に来てグランドを整備し、みんなが帰った後にグランド整備をして帰る。他の部員は練習が終わってから塾や習い事に通うので、少しでも練習時間を長く確保するために、グランド整備の時間を練習に当てようと提案したのはトシオだった。
この練習時間は、ある事件が引き金となって定着するようになった。
春の大会で、宮崎ゆり子に叩きのめされた直後は、練習に燃えていた部員たちだったが、次第に練習時間に五分、十分と平気で遅れ、五分、十分と早く帰るようになってきた。はじめは大目に見ていたトシオだったが、繰り返される遅刻と早退に「やる気がないなら辞めてしまえ」と爆発してしまった。その日の練習はいつになく厳しく、部員たちから不満の声が漏れたが、トシオは無視した。翌日の練習時間に姿を現したのは、タケシとマユミ、妹のキヨミだけだった。
無断で練習に来なかった部員に対して、爆発寸前のトシオにマユミが申し入れた。
「自分の想い入れだけを押し付けても、誰もついてこないは、もっと楽しくのびのびとやりましょう」
「そんな呑気なことをやっていて、相手に勝てると思っているのか?春の大会の悔しさを忘れたのか?」
トシオは苛立ち、マユミに噛みついた。このままでは、ふたりが言い争いになるのは、火を見るよりも明らかであった。それに気付いたタケシが、ふたりに割って入る。
「トシオ、マユミの言うことにも一理ある」
「なんだ、お前はマユの味方か?」
「敵とか味方じゃない。ソフトは九人でやるスポーツだ。部員が集まらなきゃ練習も試合もできない」
「やる気のない奴と練習をやっても身につかないぜ、試合でみじめな負け方をするだけだ」
「じゃあどうする?このままここに居る四人で、ソフトを続けるのか?」
「昨日はやり過ぎた」トシオ自身もわかっていた。だけど自分の想い入れを抑えることができなかった。四人では大会に出場できない、拳を握りしめて唇を噛んだ。
「ぼくとマユミで、明日みんなに、なぜ無断で練習を休んだのか聞いてみる。そして練習に来るように説得してみる」
タケシの意見に、マユミも「そうすべきだ」とうなずいた。
「今日は四人で練習しよう」
タケシがグローブを構えて、キャッチボールをやろうとトシオを誘った。
トシオは「勝手にしろ」と言い捨てて、タケシ相手にキャッチボールをはじめた。
兜南小学校の六年生は四クラス、一組にはヒロシとキヨミ、二組にはトシオとタケシとマユミが、三組にはトシアキとリョウタ、四組にはヒデユキとカツトモが在籍する。
翌日の昼休みに、タケシとマユミは練習に来なかった部員たちを一組の教室に集めて、練習に来なった理由を聞いた。
「みんなどうしたの、もうソフトボールやらないの?」
マユミの問いかけにカツトモが答えた。
「最近のトシオは、自分のペースに合せようと強引すぎないかな、おとといは特にひどかったぜ、おれたちにだって色々な事情があるんだ。ソフトだけをやっているんじゃないぜ」
「大会で優勝したい気持ちはわかるけど、自分のレベルに合せようと躍起になり過ぎている。タケシやマユミはついていけても、ぼくには無理だよ。もう少し練習方法や練習時間を考えて欲しいな」
トシアキが注文をつけた。
「ヒデユキとリョウタはどうだ」
タケシがふたりに聞いた。
「トシオは乱暴な奴だけど、嫌いじゃない。だけどソフトボールをやっている時は、厳しすぎてついていけないよ」
ヒデユキの答えにリョウタも同調した。
「ルミはどう?」
「私はもう辞める。他にやりたいことがあるから」
マユミの問いかけに、ルミは辞めると答えた。
「みんなの考えは良くわかった。今日から練習方法と練習時間を変えるから、戻ってきてくれないか」
「タケシが変えると言っても、トシオが承知しないよ」
カツトモの言うことに、みんながうなずいた。
「大丈夫、変えさせる。私たちに任せてくれない」
練習方法と練習時間を変えると約束したふたりに一任することで、練習に戻ることが決まった。
トシオの待つ二組へ、タケシとマユミが向かおうとした時、部員たちの会話に聞き耳を立てていたヒロシが駆け寄り何かを話した。
昼休みに教室で閉じこもっているトシオを、他の生徒たちは不思議な眼差しで見ている。そこへ駆け足で入って来たタケシとマユミが、トシオの机の前で立ち止まり話しかけた。
「話はついたよ、今日からみんな練習に戻ってくる」
タケシが微笑みながら報告すると、
「そうか」
トシオは、わざと素っ気ない返事をした。
「ただし、条件付きでね」
と言ったマユミを、トシオが睨みつけた。
「条件付って、どういうことだ」
「練習方法と練習時間を、少し変えて欲しいと要望が出ているの」
「冗談じゃないぜ、どうして練習方法と練習時間を変えなきゃならないんだ」
機嫌を損ねたトシオに、怯むことなくマユミが話しかける。
「トシオの練習が厳しすぎるのよ、それに練習時間も自分のペースに合せようと押し付けている」
更に機嫌が悪くなったトシオの反論がはじまった。
「どこが厳しい、他の学校はもっと猛練習をしている。だからうちよりも強いんだ。練習時間も長いに決まっている」
「強くなりたい、勝ちたいと思うトシオの気持ちもわけるけど、強制したら誰もついてこない。ソフトボールは団体競技なのよ、人数が揃わなければできないのよ」
「人数が揃わなければできない」それは重々トシオもわかっているが、勝負へのこだわりが優先してしまい、相手を自分のペースに合せようとしてしまう。
「練習方法をどう変える?練習時間は?」
自分の気持ちを抑えて、ふたりに歩み寄る。
「タケシをキャプテンにする。練習メニューは、キャプテンが決めて指示を出す。練習時間は午後四時から六時までの二時間、六時前に日が暮れればそこで終了」
トシオは大きく深呼吸した。ソフトボールを続けるには、ふたりの提案を呑まざるを得ない。
「いいだろう。ただし練習時間中はみっちりとやってもらう。遅刻や早退は認めない。グランド整備は練習時間外に、おれとタケシがやる」
「いいとも、練習時間を無駄にしなくて済む」
トシオのグランド整備の提案に、タケシはふたつ返事で引き受けた。
「それからもうひとつ」
「まだあるのか?」
「ヒロシが入部したいって」
マユミの口から出た名前に、トシオは呆れた顔で即答した。
「いらない」
「事情があってルミが退部したの、ひとり足りなくなっちゃった」
「ヒロはだめだ。戦力にならない」
「背に腹は代えられないよ」
タケシが仕方ないという顔でトシオを見た。
「勝手にしろ」と言い捨てて、トシオも渋々ヒロシの入部を認めた。
トシオとタケシが入念にグランド整備をおこなっていると、ひとりまたひとりと部員たちがグランドに姿を現す。練習開始時間の午後四時まであと一分。ヒロシが姿を現さない。マユミはやきもきしながら、校舎の出入口を見つめている。
ピッチャーがやりたいと申し出たヒロシには、練習には必ず参加するという条件がついていたが、初日からこれでは先が思いやられる。
トシオが校舎の正面上部に掛けられている大時計を見た。
「マユ時間だ、ストレッチはじめろ」
マユミは必ず練習に参加すると、今朝約束したばかりなのに姿を現さないヒロシに失望した。
マユミを中心に、部員たちが輪になって囲みストレッチをはじめる。
「ごめんっ」
ありったけの声を出して、ヒロシが駆けて来た。
「約束初日から遅刻とはね、本気でやる気があるのか?」
冷めた眼で、トシオがヒロシを睨んだ。
「お腹の具合が悪くて、トイレに行っていたんだ。ごめん」
ヒロシは素直に頭を下げて謝罪した。
「言い訳はいいから、ストレッチはじめなさい」
マユミはひと安心して、胸を撫で下ろした。
ストレッチが終わるのを見計らって、
「全員集合」
とタケシが号令をかける。
「大会まであと四週間、今日から守備位置と打順を固定して練習する」
タケシがポケットからメモを取り出して読み上げる。あらかじめトシオとタケシが、マユミの意見を参考に個人の能力や性格を加味して決めた守備位置と打順である。
「それでは、一番キャッチャーカツトモ、二番サードトシアキ、三番はショートでぼく、四番センタートシオ、五番ピッチャーマユミ、六番セカンドキヨミ、七番レフトリョウタ、八番ファーストヒデユキ、九番ライトヒロシ以上」
誰からも反対意見は出なかった。エースで四番を夢見ていたヒロシは、九番ライトと告げられて現実の厳しさを思い知らされた。
「九番ライトは、草野球じゃ一番へたくそな奴の定位置じゃないか」
心の中で叫んでみたが、今の自分の実力では仕方がないとあきらめた。
「それでは練習開始、キャッチボールから、徐々に間隔を広げて」
タケシが号令をかけると、いつものようにカツトモとマユミ、ヒデユキとリョウタ、トシアキとキヨミがペアを組んでキャッチボールをはじめた。
トシオはいつもタケシとペアを組んでいたが、今日はヒロシを相手にキャッチボールをやって実力を見ることにした。
「タケシ、ヒロとやるから」
「わかった、ぼくはどこかに入るよ」
「ヒロ構えろ」
ヒロシがグローブを構える。その姿を見たトシオは、吹き出しそうになった。どうにもこうにも様になっていない。十メートル程距離を取り、胸元に目がけて軽くボールを投げた。
「バシッ」
捕球したかに見えたが、ポロリとグローブからボールがこぼれ落ちた。
「ボールがグローブに入ったら、握り締めろ」
トシオが怒鳴りつけるとヒロシはうなずいたが、指摘されたことの意味がのみ込めていない。足元に落ちたボールを拾い、トシオに投げ返した。トシオとヒロシの距離は十メートル程だが、ボールは届かず大きく左へ逸れた。
「どこ見て投げている!キャッチボールもまともにできないのか」
「ごめん、ごめん」
ヒロシは頭を下げた。しばらくキャッチボールを続けたが、ヒロシは捕球も返球もまともにできなかった。
「入部してから、一度も練習に来ないから、キャッチボールもまともにできないんだ」
ヒロシは返す言葉がない。キャッチボールを続けるが、ヒロシは捕球も返球もまともにできないことに加えて、何かが「おかしい」とトシオは感じた。
「キャッチボール終了、各自守備位置について、トシオがノックする」
タケシが号令をかけると、各自が決められた守備位置に向かった。ライトの守備位置に向かおうとしたヒロシを、トシオが呼び止めて左手の用具室の壁を指さした。
「ヒロの練習相手は用具室の壁だ」
「どうしてぼくだけ用具室の壁が練習相手なの?」
ヒロシは、みんなと同じ練習ができなきことに不満をぶつけたが、トシオは無視した。
「お前とのキャッチボールで実力がわかった。みんなと同じ練習をしたら邪魔になる」
「大丈夫だよ、みんなと同じ練習させてよ」
「まずはキャッチボールができるようになってからだ。用具室の壁から十メートル離れてボールを投げる。跳ね返ってきたボールを捕球する。それがまともにできるようになったら、次の段階に進む。以上だ。時間がもったいない、さっさと行って練習しろ」
トシオに一喝されて、とぼとぼと用具室に向かって歩き出した。
「駆け足!」
トシオが怒鳴りつけると、ヒロシは慌てて駆け出したので、足がもつれて転んでしまった。その無様な姿をみんなに見られて赤面する。
起き上がり膝についた土を払いながら、「みんなと同じ練習をさせよう」
と誰かが言ってくれるのではないかと期待してグランドを見たが、すでにトシオがノックをはじめようとしていたので、みんなは決められた守備位置でグローブを構えていた。みじめさを噛みしめて、用具室の壁に向かって走り出した。
「各守備位置にノックする。捕球したらおれが指示した塁に送球しろ。エラーしたら自分でボールを拾いに行く、いいな!」
「オーケー」、「わかった」、「ハイッ」
と元気な返事が返ってくる。
トシオがサードにノックして、「ファースト」と叫んだ。トシアキはボールをはじいたが、素早くボールを拾ってファーストに送球した。ライト側にそれたボールをヒデユキは捕れないと判断して見送った。
「何してるっ!捕れないと思っても手を伸ばせ」
トシオの叱責にヒデユキは目を丸くして、「ハイッ」と返事を返す。
「次ショート」
鋭い打球が、タケシの正面に放たれた。バウンドを合わせて捕球したタケシに、「セカンド」と指示を出す。セカンドに送球されたが、二塁ベースには誰も入っていない。
「キヨミ!お前は二塁手だろ、どうしてベースに入らない」
兄貴に怒鳴られたキヨミは、委縮して肩をすぼめた。
カツトモと投球練習をしていたマユミが、見かねてトシオに駆け寄り注意する。
「どうしたの?元に戻っている」
「大会まで、あと四週間しかないんだ」
「だからって、元に戻っちゃだめよ。誰もついてこなくなる」
「わかったよ」
とつぶやき、トシオは一呼吸置いてヒロシの方を見た。いかにも嫌々、用具室の壁にボールを投げているのが伺える。投げたボールも直接壁に届かないので、まともに跳ね返ってこないので捕球練習にもならない。
トシオが呆れた顔で、ヒロシの所へ駆け寄った。ヒロシは、みんなと一緒に練習しようと呼びに来てくれたものと思い、トシオに微笑んだ。
「壁に向かって、ボールも満足に投げられないのか」
トシオの怒声に、ヒロシは肩をすぼめてうつむいた。
「十メートルも投げられないのならピッチャーどころか、どのポジションも守れないぞ」
「一生懸命やっているけど、届かないんだ」
「おれの眼には、真剣にやっているようには見えなかったけどな。それにお前の投球フォーム、どうも変だな。ボールを握って見せてみろ」
ヒロシはボールを握って見せた。それを見たトシオは呆れた。
「ワシ掴み、ボールの握り方も知らないのか?」
ヒロシからボールを取り上げて、
「ボールはこうやって握るんだ」
親指、人さし指、中指の三本で、縫い目にかかるように握って見せた。
「なるほど」とうなずいて、ヒロシは返されたボールを握り直した。
「次、投球フォームだ」
右利きのヒロシは左足を前に出して、胸の前でグローブを構えた。
「投げてみろ」
他のみんなが練習を中断して、ヒロシの周りに集まってきた。視線が集中し少し緊張したが、ヒロシは格好いいところを見せようと、プロ野球選手をイメージしてボールを投げた。
「どうだ、格好いいだろう」という顔をしてみんなを見たら、全員が首をかしげていた。
「笑わそうとして、そんな投げ方をしたのか?」
トシオの眼は、今まで以上に怒っている。キャッチボールのときから、ヒロシの投球フォームが、何か変だなと感じていた謎が解けた。ヒロシは左足を軸にして右腕を振りかぶり、同時に右足を踏み出してボールを壁に向かって投げていた。
みんなが首をかしげて、トシオが怒っている理由がわからないヒロシは、
「え、どこがいけないの」
と聞き返した。
「ふざけて練習するんだったら、帰れ!」
トシオが校門を指さして、怒鳴りつけた。
「どうして、ぼくちゃんと投げたよ、ふざけてなんかいないよ」
ヒロシは真顔で答える。その態度にトシオは余計に腹を立てて、爆発寸前となった。
「トシオっ」
タケシが慌ててトシオを制した。
「ふざけているんじゃなくて、本当に投げ方を知らないんじゃないか」
「幼稚園児でも、ボールの投げ方ぐらい知っているぜ。右利きなら右足を軸にして、左足を前に踏み出して投げるだろう」
「本当に知らなかったんだと思う。多目に見てやって」
マユミも頭を下げた。
「今の投げ方が、正しいと思っていたのか?」
トシオが呆れた顔でヒロシに聞くと、
「うん」
と蚊の鳴くような声で答えた。
「手間のかかる奴だ。よく見ておけ、右足を軸にして左足を上げて、踏み出すようにして右腕を振って投げるんだ」
トシオは怒りを抑えて解説付きで、ボールを壁に投げて見せた。
「おれの言ったことを、頭の中でイメージして投げてみろ」
ヒロシはうなずき、頭の中でトシオの言ったとおりの投球フォームをイメージしながら投げたが、どうにもさまにならない。
「一から練習するしかないな。まさかとは思うが、バットはまともに振れるよな?」
「振れるよ、ホームランが打ちたいんだ」
トシオは苦笑した。どうひいき目に見てもヒロシの非力な体格では、外野のフェンスを越せるだけのパワーがあるスイングができるとは思えない。
「だれかバット持ってきて」
タケシが誰になく言うと、キヨミがバットを持って駆け寄り、ヒロシに手渡した。
「構えてみろ」
トシオに言われて、ヒロシはバットを持って構えた。みんなの視線が、バットを握るヒロシの姿に集中する。右利きのヒロシは、右手を下にしてバット握り、両膝を合わせてお尻を突き出して、両脇を広げて構えた。
「マユ、ボールの投げ方とこの構えを見てどう思う。ピッチャーやってホームランが打てると思うか?」
さすがのマユミも、ヒロシの構え見て頭を抱えた。
「私がついて、基本から教える」
「だめだ、マユが抜けると練習にならない」
「だけどこのままじゃ基本がわかっていないヒロシは進歩しないわ」
「だから言っただろう、こんな奴にかまっている暇はないと」
「お願い、今日だけ」
頭を下げたマユミに、トシオは苦虫を噛み潰した表情で、
「仕方ない今日だけだぞ。練習時間はあと一時間半だ、四十五分ずつ壁に向かってボール投げとバットの素振りだ」
と指示して、他の部員と練習に戻った。
マユミはヒロシにつきっきりで、ボールの投げ方とバットの振り方を教えることになった。ヒロシは個人指導を受けられると思い、天にも昇る気分で浮かれた。
「気合いを入れてやるのよ、時間がないんだから」
睨みつけるような険しい顔で、マユミが「喝」を入れたので、浮かれた気分が吹き飛んだ。
運動場では、トシオの激しいノックが続く。みんなは懸命に打球を追いかける。キヨミもノックの打球に食らいつくが、トシオのノックは強烈でうまく捕球ができない。
「何やってんだ!こんな打球も捕れないでどうする。やる気があるのか!」
トシオが怒鳴りつけると、キヨミは泣きべそをかきながらグローブを構える。その光景を見たマユミが、
「ひとりでやってて」
とヒロシに声をかけ、駆け足で抗議に来た。
「あんな強烈な打球捕れないでしょ、もう少し手加減して打ちなさい」
「試合中に対戦相手が、手加減して打ってくれるのか?」
「そうじゃなくて、いきなり強烈な打球を捕れというのは無理だわ」
「ごちゃごちゃうるさいね、手加減すりゃいいんだろ。それより」
そこまで言って、ヒロシを指さした。
「眼を放すとあれだ」
バットを杖代わりにして、ヒロシがこっちを見ている。
「キヨミ大丈夫?無理しないで」
と声をかけて、マユミはヒロシの指導に戻った。
その後もトシオは、手を緩めることなく激しい打球を打ち続けた。
練習時間が残り四十五分となり、打撃練習に切り換える。
「タケシどうする?ピッチャーがいない」
「今日は素振りと、トスバッティングでいこう」
「せっかく運動場が自由に使えるのに、フリーバッティングができないのは惜しいけど、仕方がないな」
トシオがバットを頭の上で回して、「素振りに切り替えろ」とマユミに指示した。
「わかった」とうなずいて、マユミはヒロシにバットの握り方から教える。
タケシがみんなを集めて、十分間素振りをするように指示した。
「いいか、闇雲にバットを振っても仕方ないぞ。基本は勉強しているはずだ、人の振り見て我振り直せ、だ」
ことわざをもじらせて、タケシが発破をかける。
気合いの入った素振りをすれば、数分で額から汗が流れた。十分後、トスバッティングに切り替える。
キヨミ、カツトモ、リョウタはトシオ組に、トシアキとヒデユキはタケシ組に分かれてトスバッティングをはじめる。
「確実にバットの芯でボールをとらえるんだ」
二時間の練習時間は「あっ」という間に過ぎた。最終下校時間の六時を告げるチャイムが校内に鳴り響く。
「全員集合」
タケシが号令をかける。
「おつかれさま、みんな良くがんばった。後片付けをしたら解散」
みんなが帰った後、トシオとタケシがグラウンド整備をしていたら、マユミが浮かない顔でやって来た。トシオはその顔を見て、すぐに「ピン」ときた。
「使い物にならないんだろう」
「かなり厳しいと思うけど、本人の努力次第で何とかなるかも」
「本人の努力次第ね」
トシオはタケシに、「無理だな」という顔をした。
翌日の早朝六時にマユミは、かぶと公園でヒロシが来るのを待っていた。腕時計のデジタル表示は、六時十分を表示している。
「どうして来ないの?」
マユミは拳を握りしめて、ヒロシの家の方角に向かって叫んだ。六時十五分まで待ったが、ヒロシは来なかった。マユミはあきらめて、ひとりでランニングをはじめた。
「昨日の練習はきつかったかな?」
「あんなもんだろう」
タケシの問いかけに、トシオが苦笑いで答えた。
「運動場が自由に使えるときには、思い切りやらないと上達しない」
「そうだな、トシオにはノックを担当してもらっているので、自分の守備練習ができないが我慢してくれ」
「おれのことより、他の連中を鍛えないと優勝できない」
トシオとタケシがソフトボール談議をしていると、いつもは明るく笑顔を振りまくマユミが、浮かない顔で教室に入って来た。
「笑顔がないね」
気になったトシオが声をかけると、ふたりのそばへ寄って来た。
「ヒロシはだめかも」
浮かないのは顔だけではなく、声まで沈んでいた。
「だめかもって、どういうことだ?」
「マラソンの朝練に来なかったの」
トシオは「ブッ」と吹き出した。
「せめて三日は続くと思っていたが、初日から来ないとはね。それじゃ三日坊主でなく丸坊主じゃないか、なあタケシ」
トシオは笑いを堪えてタケシを見たが、タケシは答えようがないと首を左右に振った。
「で、どうするの?」
トシオが冷めた視線で、マユミの顔をのぞき込んだ。
「何か事情があったのかも知れない。それを確かめてから答えを出すわ」
「人が良いにも程があるね」
一時限目の授業が終わるチャイムが鳴り、十分間の休憩時間に入った。キヨミが二組の教室へ入って来てトシオに話しかけた。
「お兄ちゃん、ヒロシ今日休んだよ」
「休んだ、どうして?」
「知らない」
「マユとの朝練はすっぽかすし、学校まで休むとはね。エースで四番は、もうあきらめたのか」
きょうだいの会話が気になり、マユミがキヨミに尋ねた。
「キヨミ、先生はヒロシがどうして休んだのか言っていた」
「今日は休みます、だけしか聞いていない」
「学校を休むくらいだから、カゼでもひいたのかな、だから朝練に来なかったのかな?」
「ただのさぼりだよ」
マユミの心配をよそに、トシオは否定的な意見を言う。
「確かめてみる」
学校を休んだ理由を、一組の担任の由美先生に聞いてみることにした。
二時限目が終了し休憩時間に入ると、マユミは職員室へ出向き由美先生にヒロシが休んだ理由を尋ねた。
「由美先生、ヒロシが休んだ理由を教えてください」
「お母さんから体調不良で休むと連絡があったわ」
「体調不良って、けがですか、病気ですか?」
「先生も同じことを尋ねたのだけど、今日一日休めば大丈夫ですからって言うので、それ以上は聞かなかったの」
マユミは由美先生にお礼を言って職員室を出た。
授業が終わり、放課後の練習に部員たちが集まった。今日は運動場をサッカー部が使用しているので、空いた場所を利用しての練習になる。
ストレッチの後、前半はキャッチボールで肩を慣らして、双方が打球をイメージしてゴロやフライを投げて守備練習とした。後半はバットの素振りで汗を流し、トスバッティングに切り替えてボールを芯でとらえる練習を繰り返した。
マユミは帰宅前に、体調不良で学校を休んだヒロシのことが気になり見舞うことにした。自分の家とは反対方向の道を歩きながら、昨日の練習を振り返った。
「みんなとは別メニューで、投球と素振りだけだった。きゃしゃで体力のないヒロシでも、昨日の練習で学校を休まなくてはならないほど、体調が崩れるとは思えない。もしそうだとしたら、指導した自分にも責任がある…」
そうこう考えて歩いていたら、ヒロシの家の前に着いた。ここへは、今年の夏休みに一度来たことがある。マユミはその時の事を思い出した。
兜南小学校があるこの町は、駅を中心に東側は商店や住宅が立ち並び開けているが、西側は田んぼや畑が大半を占める農地である。
西側に位置するヒロシの家は、五百坪を優に超える敷地に、パパが三年をかけて完成させた、手作りのログハウスが建つ。敷地の中では放し飼いにされているゴールデンレトリバーのメイがのんびりと散歩する。色とりどりの野菜や果物が栽培されていて農園のようだ。
マユミのお母さんが、家で飼っている高齢の猫を検診ため動物病院へ連れて行った時、ヒロシのお母さんもメイを検診に連れて来ていて、お互いが高齢の動物を飼うのは大変ですねと話が弾み、ヒロシの家で開く野外バーベキュー会に家族で招待されたのだ。
マユミたち一家とは別にも、たくさんの人たちが招待されていた。集まった人たちから、ヒロシのお父さんは「パパ」と、お母さんは「ママ」と呼ばれていたので、マユミたち親子も「パパ」「ママ」と呼ぶことにした。
母がママにマユミを紹介すると、息子と同じ学校で同級生だと驚いた。庭でメイと遊んでいるヒロシに、あいさつするように手招きしたが、遠目に会釈しただけだった。マユミは同級生なので、ヒロシのことを知ってはいたが、会話をしたこともなかった。
お昼前からはじまったバーベキュー会は夕方まで続き、マユミはメイとたわむれ、おいしいお肉をお腹いっぱい食べて楽しい一日を過ごした。
見送ってくれるパパとママのうしろで、ヒロシが恥ずかしそうにマユミを見ている。それに気付いたマユミがヒロシに近づき、
「今日はありがとう」
と言って、右手を出して握手を求めた。ヒロシは照れくさそうに恥らいながら右手を差し握手を交わした。
開け放された木製の門を通り抜け、玄関先に立って声をかけようとすると、畑の手入れをしていたパパがマユミに気付いて声をかけてくれた。
「マユミちゃんだね」
夏に一度しか会っていないのに、パパはマユミのことを覚えていてくれた。
「おじゃまします、ヒロシの具合どうですか?」
遠慮がちに尋ねた。畑の手入れを中断して、パパがマユミの方へ歩いて来た。パパの後をゆっくりとした足取りで、メイがついて来る。メイの姿を見たマユミは、満面の笑みを浮かべて抱きついた。
「メイちゃん久しぶり、元気にしてた」
メイもマユミを覚えていて、尻尾を振って喜んだ。
「メイはもうおばあちゃんだから、元気がなくてね」
パパがメイの頭をなでながら微笑む。マユミとメイがじゃれあっていると、表のざわつきに気付いたママがログハウスから出てきた。
「あら、マユミちゃんじゃない」
ママも覚えていてくれた。
「ヒロシが学校を休むから、心配してお見舞いに来てくれたんだよ」
パパが「まずいな」という顔をしてママに言うと、
「心配してくれてありがとう。何ともないはずよ、ズル休みだから」
とママは正直に答えた。
「ズル休み、トシオの言ったとおりだ」マユミは心の中でヒロシを叱った。だがどうしてズル休みをしてまで、学校に行きたくなかったのかを確かめたかった。その表情を読み取ったパパが、鼻の下をかきながら、
「なぜ休んだのか、本人に聞いた方がいいかな」
と言って、マユミをログハウスの中に招き入れた。玄関を入るとすぐに大きなリビングルームがある。パジャマのまま、じゅうたんの上に寝転がりテレビゲームで遊んでいるヒロシの姿がマユミの眼に映った。
パパとマユミが入ってきた事にも気付かず、ヒロシはテレビゲームに夢中になっていた。パパが呆れて、
「ヒロシ、お客さんだ」
と怒鳴りつける。その声に驚いて、ヒロシは起き上がり振り向くと、マユミが玄関に立っていたので、更に驚いた。
「元気そうね、具合はどうなの?」
口調は穏やかだが、ヒロシを見る眼は明らかに怒っている。ヒロシは返す言葉もなく、正座してうつむくだけだった。パパは黙って二人を見ていた。そこへママがメイを連れて入って来た。
「ヒロシ、どうして学校を休んだのか正直に話しなさい。心配してお見舞いに来てくれているのだからね」
ママがメイを放した。メイはマユミにすり寄ってから、ヒロシの横で寝そべった。しばらくの間、沈黙が続く。ヒロシは痛いほどに三人の視線を感じて、重たい口を開いた。
「筋肉痛がひどくて」
蚊の鳴くような声で、ヒロシが答えた。
「筋肉痛?」
マユミは呆れた顔で、うつむいたままのヒロシを見た。マユミの視線が、痛いほどヒロシの心に突き刺さる。
「ソフトボールでピッチャーがやりたい、ホームランが打てるようになりたい、だから練習には毎回参加する。マラソン大会で上位半分以内にゴールするために努力する、がんばるって言ったじゃない」
ヒロシは、正座したままうつむいて黙り込むだけだった。都合が悪くなったときのお決まりのポーズだ。
「ヒロシ、男らしくないぞ、黙っていないでちゃんと答えなさい」
いつもは優しいパパが、きつい口調でヒロシに迫った。
「そのつもりだったよ」
「つもりだったよって、過去形ね」
「昨日の練習で、才能がないってわかったんだ。いくらがんばっても無理だよ、みんなについていけないよ」
マユミは腰に両手を当てて、ヒロシを睨みつけた。パパとママとメイもヒロシを睨んだ。みんなの視線を受けて肩をすぼめて委縮するヒロシに、マユミが怒鳴りつけた。
「バカッ!最初から何でもできる人なんていないわ。みんな一生懸命練習して上達していくのよ。一日練習しただけで、あきらめるなんて見損なったわ」
マユミの気迫に圧倒されて、ヒロシは更にうつむいた。パパとママは、マユミとヒロシを交互に見ながら様子をうかがった。メイはヒロシから少し離れた場所に移動して寝転んだ。
誰も何も話さない、わずか一分ほどだが、長く感じられた沈黙を破るようにマユミが口を開いた。
「あきらめるのね」
ヒロシはうつむいたままだ。パパが一歩前に出て、ヒロシを諭した。
「黙り込んでいたんじゃ問題は解決しない。自分の想いをちゃんと伝えなさい」
「ヒロシ、しっかりしなさい」
ママも声をかけた。のっそりとメイが起き上がり、ヒロシの横に座り「ワンッ」と軽く吠えた。家族に促されてヒロシは、閉ざしていた口を開いた。
「教わったとおり壁にボールを投げたけど、まともに投げられないし捕球もできない。教わったとおりにバットを振ったけど、まともにバットも振れない。ぼくには無理だ、みんなと同じようにはできない」
マユミがリビングに上がり込み、ヒロシの前に立った。
「さっきも言ったでしょ、最初から何でもできる人なんていないって、みんな上手になりたいから練習しているんじゃない」
ヒロシの目から、涙があふれそうになっていた。
「マユミは自分が何でもできるから偉そうに言えるんだ。トシオもタケシもそうだよ」
ママがマユミの前に出て、ヒロシとの間に入った。
「心配してお見舞いに来てくれて、一緒にがんばろうと言ってくれているのに、その言い草はないでしょ、マユミちゃんに謝りなさい」
ヒロシの目から涙がこぼれ落ちた。肩を震わせて、泣きじゃくりながら話し出した。
「ピッチャーやりたよ、ホームランも打ちたいよ、だけどぼくには無理だ。ぼくだけじゃない、キヨミはトシオのノックを受けながら泣いていたじゃないか、トシアキやヒデユキやリョウタもトシオが怖いから練習しているんだ。優勝なんて、できっこないよ」
マユミはヒロシに背を向けて、ログハウスから出て行った。反論してこないことにヒロシは気が抜けて、マユミの背中を見つめる。
「帰らないで、ぼくを見捨てないで」と心の中で叫んだが、マユミは振り返らず遠のいて行く。ヒロシはマユミを引き止めようと、大声で叫んだ。
「ぼくの言ったとおりなんだ」
マユミが足を止めたので、ヒロシは「ほっ」とした。
「何もわかってないくせに」
マユミが険しい表情で振り向きヒロシを睨みつける。
「キヨミはノックが捕れない自分が、歯がゆくて泣いたのよ。トシアキもヒデユキもリョウタも、上手になりたいから自分の意思で練習している。信じられないのなら、かぶと公園へ来ればわかる。今夜からみんなで自主練習するから」
「そんなのウソだ」
マユミは何も言い返さずに、ヒロシに背を向けた。
「そんなのウソだ…そんなのウソだ…」
と心に中で叫びながら、ヒロシはマユミの背中を見つめたが、マユミは振り向くこともなく去って行った。ヒロシはどうしたらいいのかわからなくなり、頭を抱えて床に顔を押し付けて泣いた。
パパとママがヒロシの両隣に、ゆっくりと腰を下ろした。
「良い娘だな、マユミちゃんは」
パパがそう言うと、
「マユミちゃんのこと好きなんでしょ、このままじゃ嫌われるわよ」
ママが優しく頭をなでた。
パパもママも、マユミがバーベキューに来てから、ヒロシが嫌がらずに学校へ行くようになり、会話の中には必ずマユミの話題が出てくるので、好意を持っていることに気付いていた。
ヒロシが、床に押し付けていた顔を上げて話し出した。
「好きだよ、好きで、好きでたまらないよ。だけど勉強もスポーツもできないぼくには、振り向いてくれないよ。マユミは、乱暴で自分勝手だけどスポーツができるトシオが好きなんだ」
どうしてトシオの名前が出たのか、ヒロシにもよくわからなかった。スポーツで競い合っているマユミとトシオを見ていると、仲良く思えて心の片隅でトシオをライバル視していたのだろう。
「ヒロシの恋敵はトシオ君なのか?」
パパが微笑んだ。
「このままじゃトシオ君には勝てないわね」
ママも微笑む。ヒロシはパパとママが、トシオのことを知っていることに驚いた。
「パパとママは、トシオのこと知ってるの?」
「よく知っているは、ねえパパ」
「トシオ君か、カッコいいよな。何よりも妹想いのところが、大人から見ても素敵だな」
乱暴で自分勝手、妹に優しくしている姿など見たことがなかったヒロシは、パパがトシオは「妹想い」だと言ったことが信じられなかった。
パパがトシオの話を続ける。
「いつだったかな?」
パパがママに問いかけた。
「かぶと公園での出来事?」
「そう」
「去年の今頃だったかしら」
ママが記憶をたどりながら答える。
「トシオ君とキヨミちゃんは双子なのに体格は随分違うだろ。キヨミちゃんは未熟児だったんだ。身体の小さいキヨミちゃんは、幼い頃からいじめっ子に目を付けられていたが、いつもトシオ君が前に立ちふさがって守っていたんだ。トシオ君も本当は、おとなしくて優しい性格だったんだよ。だけど身体の小さい妹を、いじめっ子から守るには、自分が強くならなければ、と心に決めたんだ」
パパからトシオの意外な側面を聞かされたヒロシは、
「パパがどうしてそんなこと知っているの?」
と興味を示した。
「ケガをしたトシオ君を、家に送って行った時、おかあさんから聞いたんだ」
トシオがケガをしたと聞いて、話しの続きが気になった。
「公園で何があったの?」
「ママと一緒にメイを連れて、かぶと公園の周りを散歩していたときだった。三人の男の子が小さな女の子を取り囲んで、いじめていたんだ」
「小さな女の子って、キヨミ?」
パパはうなずいて話を続けた。
「キヨミちゃんを取り囲んでいたのは、六年生の悪ガキどもだった」
「キヨミはどうなったの?」
「キヨミちゃんは悪ガキどもに囲まれても、泣いたりしなかった。なぜだかわかるか?」
ヒロシはわからない、と首を左右に振った。
「お兄ちゃんのトシオ君が、必ず助けに来てくれると信じていたからだよ」
「トシオは来たの?」
「妹から離れろ、と叫びながら飛んで来た」
「トシオは強いけど、相手は六年生の三人組だよ、勝てっこないよね」
「身体の大きな六年生の三人組に、トシオ君は勝てなかった。だけど身体を張って、キヨミちゃんを守ったんだ」
「トシオはどうなったの?」
ママが続きを話した。
「パパがメイを連れて止めに入る前に、トシオ君はこっぴどく悪ガキどもにやられたわ。メイが牙をむいて悪ガキたちを追い払い、パパがトシオ君に「大丈夫か」と声をかけると、自分のことより、キヨミちゃんのことを気にかけていたのよ」
パパがヒロシを諭す。
「トシアキ君もヒデユキ君もリョウタ君も、他のみんなもトシオ君の優しさを知っているから、ついていくんじゃないかな」
「今のヒロシでは、トシオ君には勝てないわね」
何も知らなかったヒロシが、涙をこらえてママの顔を見た。
「ママねぇ若い頃は結構人気があってモテたのよ。言い寄る男性たちを振り払うのに苦労したんだから」
ママが急に、自分の若い頃の話に切りかえたので、ヒロシは少し戸惑った。
「だけど結婚相手がパパになったの、どうしてかわかる?」
息子の自分が言うのもおこがましいが、きれいなママは自慢であった。ママのハートを、ひいき目に見ても冴えないパパが、どうして射止めたのか知りたくなった。
「どうしてパパに決めたの?」
「それは男同士、パパに聞いて」
ママがパパにウインクして部屋から出て行った。照れくさそうに頭をかきながら、パパがママとの馴れ初めを話し出した。
「パパとママが大学生の時だった。ママは学生バンドグループのボーカルをやっていたんだ。小柄で可愛いママは、男子学生の憧れのマドンナだったんだ」
パパがヒロシの顔を見た。ヒロシは「そうだろうね」という顔でうなずいた。
「パパはママに憧れていたというよりも、恋をしていたんだな。なんとかママに近づこうとして、グループに入れてほしいとバンドのリーダーに頼んだんだ」
「入れてもらえたの?」
「あっさり断られた」
「どうして?」
「ママ目当てに、バンドに入りたいという申し込みがいっぱいあってね」
「それだけで」
「詳しく説明すると、バンドに入るには条件があったんだ」
「条件って何?」
「楽器が弾けて、歌えること」
「パパはギターが弾けるし、歌だってうまいじゃない」
「当時はギターも弾けなかったし、音痴だったんだ」
いつもママと仲良くギターを弾きながら歌っているパパを見ていたヒロシは、信じられないという顔をした。
「パパはどうしてもバンドに入りたくて、楽器も歌も練習してうまくなるから、と食い下がったんだ」
「それで入れたの?」
「リーダーは、練習してうまくなると言うのは簡単だ。そうじゃなくて何か答えを出せ、そうしたら認めてやるってね」
「ピッチャーやってホームランが打ちたい」とトシオに申し出た時、「同じようなこと言われたな」と思い出した。
「それでパパはどうしたの?」
「学園祭ののど自慢大会で、楽器を弾いて歌って優勝するって言ったんだ」
「パパ優勝したんだ」
パパは首を左右に振って、「できなかった」と答えた。
「どうして、パパとママは結婚しているじゃない」
「学園祭まで一ヵ月しかなかったんだ。パパは必死で猛練習したけど、優勝できるほど楽器も歌もうまくならなかった」
「だったらなぜママと結婚できたの?」
「優勝はできなかったけど、学園祭までの一ヵ月間、楽器と歌を猛練習している姿を、ママはちゃんと見ていてくれて、パパの想いが伝わったんだ。だからヒロシもあきらめずに、練習がんばってみたらどうだ」
パパはママのハートを射止めるために、一生懸命努力したんだ。
ヒロシは、マユミに想いを伝えるために「がんばる」と心に決めた。
男同士の会話が終わったのを見計らって、ママが部屋に戻ってきた。
「ヒロシ、何をすればいいのかわかった。マユミちゃんが言っていた自主練こと、本当かどうか、自分の眼でかぶと公園へ行って確かめてきたら」
素直に「はい」とは返事ができなかった。みんながそこまで打ち込んでいるのが本当なら、ズル休みした自分がみじめ過ぎる。
「ヒロシ、自分の目で確かめたら答えが出ると思うよ」
パパも見に行くように促した。パパとママとメイの眼が、ヒロシに「行け」と言っている。ヒロシが重い腰を上げて立ち上がると、ママがメイにリードを付けてくれた。
外はもうすっかり日が暮れて暗くなっている。踏切を渡り商店街を抜けると、かぶと公園が見えてきた。近づくにつれて聞き覚えのある声が聞こえてくる。
「トシオの声だ、タケシの声もする」
ヒロシが立ち止ると、メイが「進め」と逆にリードを引っ張って歩き出す。外灯の明かりの下に映し出されたトシオたちの姿が、はっきりと見えるところまで近づいた。外灯の明かりが届く狭い敷地で、みんなが一生懸命に練習する姿を目の当たりにしたヒロシは、ズル休みした自分が恥ずかしくなった。
公園の大時計が、午後の八時を示した。
「今日はここまで、みんなお疲れ」
タケシの号令で、みんなは道具を片付けて家路についたが、トシオとタケシは公園に残った。
「あのふたり、どうして帰らないのかな?」
ヒロシが思案していると、
「ふたりの練習はこれからよ」
背後で聞こえた声に驚いて振り向くと、マユミがメイと一緒に立っていた。
「マユミ」
「リードを離しちゃダメよ」
みんなの練習に見入っていたので、メイのリードを離してしまったことに気付かなかった。
「メイちゃんが、ここへ連れてきてくれたの」
「トシオとタケシは、まだ練習するの?」
「ふたりは学校の練習でみんなに教えているから、自分たちの練習ができていないの。だから夜ここで自主練習していたのだけど、今夜からみんなが練習に加わったので、また教える羽目になってしまったの。だから更に残って、自分たちの練習をするのよ」
ふたりは黙々とバットを振り続けている。
「わたしにも真似できないわ」
「みんなは塾をさぼって、ソフトの練習をしていて叱られないの?」
「ソフトの大会が終わったら、二倍勉強するからと約束して、親の許しをもらっているのよ」
みんながここまで、本気で取り組んでいることを知らなかったヒロシは、恥ずかしくてたまらなくなった。
「トシオがひとりで、優勝するんだって意気込んでいるんじゃないのよ、みんなが優勝を狙ってがんばっているのよ。昨日カツトモが塾の帰りに、ここで練習しているふたりを見かけたの。そのことをみんなにメールしたら、ここの練習にも参加しようということになったのよ」
「そう言えば、昨日の夜メールが届いていた」とヒロシは思い出した。だがメールが届いたときには、学校を休むと決めていたので見ていなかった。
「がんばってみる?」
「うん」
ヒロシは小さくうなずいた。
翌朝ヒロシは、かぶと公園にやって来た。先に来てストレッチをしているマユミに、
「おはよう」
と声をかける。それだけで胸がときめいた。マユミが振り向いて微笑む。
「おはよう、時間がもったいない、早くストレッチやりなさい」
「う、うん」
とうなずいて、マユミがやっていることを真似た。
「さあ、いくわよ」
額にうっすらと汗を浮かべたマユミが、ついてきなさいと右手を上げて合図を送った。ヒロシはうなずいて、後を追いかける。
「公園内を二周走り、商店街を抜けて踏切を渡り、神社の方へ行くから」
後ろを追いかけてくるヒロシに、練習コースを説明する。
「神社とかぶと公園を往復すれば、二キロ位になる。二キロを走れるようになれば、何とかなるわ」
憧れのマユミの美しい後ろ姿に見惚れて、しばらくはついていけたが、五百メートルも走ると息切れがして苦しくなった。段々と引き離され、歩き出したヒロシに気付いたマユミが、足を止めて振り返った。歩きながら追いついてきたヒロシに、
「ペース早い?」と聞くと、
「わからないけど、ついていけない」
「ハァハァ」と苦しそうに、肩で息をしながら答える。
「初日だから、歩いてもいいから往復するのよ」
ヒロシが「ホッ」とした顔でうなずき、ふたりはしばらく歩いた。呼吸が整うとヒロシは、同じ空気を吸いながら目標に向かって、マユミとふたりで同じ時間を共有していることが、嬉しくてたまらなかった。
「ぼく、マユミとふたりっきりなんだ」
喜びも束の間、ヒロシの呼吸が整ったことを確認するとマユミは、
「ペースを少し落とすから、ついてきなさい」
と言って走り出した。神社で折り返し、かぶと公園に戻るまで会話もなく、ただただつらいだけのランニングであった。
「二十分か、あと六分は縮めなきゃ」腕時計を見てつぶやき、
「朝ごはんしっかり食べて、学校でまた」と言って、マユミは駆け足で帰っていった。ヒロシは後ろ姿を見送ると、重たい身体を引きずりながらとぼとぼと歩いて家に帰った。
授業中、ヒロシは眠たくてたまらなかった。早朝ランニングは、今まで経験したことのない運動量だったので、身体が自然に休養を求めている。
ヒロシほどではないが、キヨミやトシアキたちも疲労を隠せない。トシオとタケシ、それにマユミの三人は、何事もなかったかのように普段通りに授業を受けている。ヒロシは上下のまぶたが閉じるのを我慢しながら、黒板を見ているが頭の中には何も入ってこない。
午前の授業を何とか乗り越え、給食時間になった。献立は大好物のカレーライスだ。いつもなら飛びついて食べるのに、今日は疲れすぎて食欲がわかない。同じクラスのキヨミが、給食を食べ終えてヒロシの肩を軽くたたいた。
「食べないと、元気出ないわよ」
生返事をしていたら、運動場からトシオの声が聞こえてきた。
「トシオはもう食べて、運動場にいるの?」
「お兄ちゃんは、食事の時間を割いてでも身体を動かすのが好きだから、食べるのは人一倍早いわ」
キヨミが「クスッ」と笑って答えた。
「同じ小学六年生なのに、毎日あれだけの運動をして疲れないなんて、どこにそんな体力が詰まっているんだ」と心の中でつぶやき、運動場から聞こえてくるトシオの声を聞きながら、ヒロシは好物のカレーライスを口に運んだ。半分ほど食べ終えたとき、トシオが誰かと会話しているに気付いた。
「マユミの声だ」
ふたりが楽しそうに会話していることは間違いない。カレーライスを口に運ぶのも忘れ、会話の内容を確かめようと聞き耳を立てたが、周りの雑踏で聞き取れない。居ても立ってもいられなくなり、窓から運動場を見てみると、トシオとマユミの他に、ソフトボール部の仲間が集まり談笑していた。
「ぼくだけ仲間外れ…」
寂しそうに運動場を見つめるヒロシの後ろ姿に、
「早く食べて、みんなの所へ行ったら」
と担任の由美先生が声をかけた。心の中を見透かされたようで気恥ずかしくなり、残りのカレーライスを胃袋の中にかき込み、教室を出ていった。
昼休みはいつも、机に伏せて昼寝をする習慣がついていたヒロシは、運動場で楽しそうに会話するトシオたちの輪の中に、どうやって入っていこうかと悩んだ。校舎の出入口に並べられた下駄箱の陰から、遠目でトシオたちを見ていたら、タケシが気付いてトシオに耳打ちした。
「ヒロシがこっちを見ている」
トシオが下駄箱の影からこちらをのぞき見るヒロシを見て言った。
「なにやってんだ、あいつお昼寝の時間じゃいのか」
「こっちへ来たいんじゃないかな」
タケシが言うと、
「来たければ、来ればいいじゃん」
とトシオが素っ気なく言う。
「それができないんだろ」
「どうして」
「ヒロシだから」
「手間がかかるね、呼んでやれば」
とタケシに目配せする。
「ヒロシ」
タケシが声をかけて手招きする。ヒロシは声をかけられて、偶然気が付いた振りをするが、すでに走り出してしていた。その姿を見たトシオとタケシは、吹き出しそうになるのをこらえた。
ヒロシはみんなの輪の中に入ったが、何を話したらいいのか戸惑った。話題に乏しい自分を、この時は悔やんだが、それもすぐに杞憂に終わった。
好きなテレビ番組や、新しいゲームソフトの攻略方法の話題で盛り上がる。テレビゲームはヒロシの得意分野だ。最新の対戦型ゲームソフトの攻略方法を話し出すと、トシオたちが耳を傾けて感心する。ヒロシは少し鼻が高くなった。いつも昼寝をして過ごしていた昼休みのが、もったいなく思えた。
授業が終わり放課後の練習時間に入ると、トシオとタケシは人が変わる。今日も運動場は別の運動部が使用しているので、空いた場所での練習となる。
「全員集合」
キャプテンのタケシが号令をかける。
「今日も運動場は別の部が使用するので、空いた場所での練習だ。ペアを組んでノックを想定した手投げの守備練習と、トスバッティングを中心におこなう」
「ヒロシだけは特別メニューの練習だ。用具室の壁から十一メートル離れて、ウインドミルで一時間ボールを投げろ、残りの一時間は素振りだ」
トシオの命令に、ヒロシは不機嫌な顔で反発する。
「どうしてみんなと一緒に練習できないの?」
その質問にタケシが答える。
「ぼくとトシオが話し合って、ヒロシの練習方法を決めた。ピッチャーをやるにはウインドミルで十一メートル投げられるようにならないと、ホームランが打ちたいのなら、フルスイングできないと打てない」
「ピッチャーやってホームランが打ちたいのなら、トシオとタケシを信じて」
マユミが優しく微笑む。今の自分のレベルでは、みんなと同じ練習についていけないことは、ヒロシ自身が一番よくわかっていた。
「わかった」そう言って、ヒロシは用具室の壁に向かって走り出した。
時は流れ、マラソン大会の日が訪れた。今までのヒロシなら、天変地異が起きて「中止になればいいのに」と願っていたが、今朝は違う。つらい早朝練習にも耐え、持久力もついた。大好きなマユミの指導もあったが、自分なりにもがんばった。
学年で上位半分以内に入れば、トシオたちに認められる。それよりも、自分のために指導してくれたマユミに、感謝を伝えるためにも、何としてでも学年で上位半分以内に入ってやると闘志がみなぎっていた。
運動場は生徒と保護者、見物に来た地元の人たちでごったがえしていた。
午前九時に、一、二年生がスタートして一キロの旅に出る。ゴールが一緒にならないように、その二十分後に、三、四年生がスタートして二キロの度に出た。
更に二十分後、五、六年生がスタートラインに集合した。五年生でも走りに自信がある者は、スタートラインの前方に集まって来る。マユミ、トシオ、タケシの三人は最前列に並んだ。ヒロシは控え目に、中間の位置に立った。
「位置について、ヨーイ」
「バン!」
スターターピストルの音が響く。五、六年生が一斉にスタートして、三キロの旅に出た。
ヒロシはマユミから教わった通り、ペース配分を守りながら走った。抜かれても焦らずに、自分を信じて走り続けた。学校を起点に町内を回るコースには、保護者や近所の人たちが沿道に繰り出し声援を送ってくれた。
一キロ地点の沿道から応援するパパとママとメイの姿が、ヒロシの視界に飛び込んできた。
「ヒロシがんばれ!」パパが叫ぶ。
「ヒロシしっかり!」ママの声援も聞こえた。
「ワンッ!」とメイが吠えた。家族の応援がパワーとなり、大地を蹴る足に力が入った。たくましく走り去ったヒロシの後ろ姿を見て、パパとママは成長した我が子に感動した。
パパが「ヒロシは、やれるんだ」、ママは「わたしたちの子よ」と目と目で語り合い、メイも「ワォーン」と遠吠えで答えた。
マユミが先頭で折り返してきた。
「ヒロシがんばれ!」
すれ違いざまに、マユミの声援が聞こえた。その声を聞いて、更にヒロシはパワーを得た。マユミを追うように、トシオ、タケシの順で復路を駆けてきた。
「しっかり走れよ!」
トシオが右手を振って、声をかけた。
「トシオが応援してくれた」
怖いだけで苦手なトシオが、声をかけてくれたので目頭が熱くなった。
先頭を走るマユミを追って十メートル程離された二位争いは、トシオとタケシが競っている。先頭集団のレースも終盤、ゴールまで残り三百メートル。運動場に戻って来たマユミは、トラックに入りラストスパートをかける。それを見たトシオとタケシもスパートをかけて追いかける。
「負けてたまるか」
闘志をむき出しにして、トシオが懸命にマユミを追いかける。タケシも「負けてたまるか」とふたりを追いかけたが、マユミを抜くことはできなかった。ゴールした三人は、互いの健闘をたたえあった。
「マユミ六連覇おめでとう、今年も勝てなかったな」
トシオが微笑むと、タケシもマユミの六連覇に拍手を送った。
「ありがとう」
マユミも笑顔で答える。
六年生の中に混じって、五年生も次々とゴールしてくる。短距離が得意なカツトモとヒデユキも上位でゴールする。
マユミはヒロシの順位が気になり、タイムと順位を計測している先生のところへ、六年生が何人ゴールしたかを確かめにいった。
「あと五人で半分ゴールする」
先生に人数を確かめたマユミが、トシオたちに報告したとき、ひと固まりの集団が運動場に入って来た。人数は七人、六年生が四人と五年生が三人だった。
「あとひとり」
タケシが、目の前を通り過ぎて行く七人を見送った。
誰もが「だめか」とあきらめかけたとき、
「ヒロシが来た」
とマユミが叫んだ。トシオたちが校門に目を向けると、確かにヒロシが校庭に入って来た。その後を追うように、六年生の女子がひとり校庭に入って来た。ヒロシは顔をしかめながら懸命に走る。運動場のトラックに入ったふたりは、デットヒートで競り合っている。トシオたちが声援を送ろうとしたとき、ヒロシを追いかけながら「ワンッ」と大型犬が吠えた。
「なんだあの犬は?」
トシオがメイを指さした。
「ヒロシの家族よ、わたしたちが応援するよりメイの応援のほうが心強いわ」
老犬のメイが、ヒロシを追いかけて応援する姿に、マユミは目頭が熱くなった。
メイはヒロシに並走して、トラックの外側を走った。
「ヒロシ、先にゴールしたら上位半分以内に入れるわよ」
マユミが叫んだ。女子の猛追を受けて「もうダメだ」と弱気になりかけていたが、マユミの声援で踏ん張り、更にメイが並走して応援してくれている姿を見て、「最後まであきらめないぞ」と闘志をみなぎらせ、一歩前に出た。マユミもメイの後に続いて、ヒロシを追いかけながら声をかける。
「このままゴールしたら、目標達成よ」
横目でマユミを見てうなずき、「ウオッー」と雄叫びを上げながら、最後の力を振り絞ってヒロシは走った。息が切れ、足の筋肉がけいれんしかける。ゴール直前でヒロシが再び雄叫びを上げる。
「ウオッー」
身体ひとつヒロシが先にゴールした。
「やったぁー」
駆け寄ったマユミがVサインを出して喜んだ。ヒロシも肩で息をしながら、倒れ込みそうになるのを堪えてVサインを出して笑顔で答える。ヒロシのゴールを確認したメイが、その場に座り込み寝そべった。
寝そべったというよりも、倒れ込んだメイを見たママが、
「メイッ!」
と叫んで駆け出した。パパもママの後に続いた。ふたりは倒れ込んだメイの前にひざまづく。
「あの犬どうなったんだ?」
トシオも気になりタケシの顔を見た。
「倒れたみたいだな」
ヒロシは倒れ込んだメイを見て、気が動転し立ちすくむだけだった。
「ヒロシを応援してくれて疲れたのね」
ママがメイを抱きかかえた。
「無茶するなよ」
パパがメイの頭を優しくなでて言った。
「ヒロシ」
マユミがヒロシの肩を叩いて駆け出した。青ざめた顔で、ふらつきながらヒロシもメイのもとに駆け寄る。
「メイちゃん大丈夫?」
マユミがメイの顔を覗き込む。
「メイッ!どうしたんだよ」
ヒロシはメイの頭に頬をすり寄せて涙ぐむ。
「ヒロシを応援して走ったから、疲れただけだよ」
パパが優しくヒロシの肩をさすりながらなぐさめる。
「念のために病院へ連れていく。ヒロシもマユミちゃんも、心配しなくていいからメイは大丈夫」
ママがふたりに、マラソン大会に戻るように諭した。
最後のランナーがゴールして、上位に入賞した生徒の表彰式も終わり、マラソン大会は終了した。自然と集まったソフトボール部の仲間たち。
ヒロシは学年で上位半分以内にゴールして、目標を達成したがメイのことが気になって浮かない顔をしている。
「タケシ、今日はマラソンでみんな疲れているから」
トシオがそこまで言うと、
「今日は練習休み、みんな早く帰って明日からに備えて休養すること」
タケシが軽くうなずいて言った。
「明日は運動場が自由に使える。ヒロシ、みんなと同じ練習をやるからな」
そう言ってトシオが、「早く帰れ」とヒロシの背中を押した。
老犬のメイは一命を取り留めたが、その後は散歩に行く元気もなくなり、ログハウスのリビングで寝ているだけの生活が続いた。ヒロシは家を出る前に「メイいってくるよ」と声をかけ、帰宅すると「メイただいま」と床に寝ころぶメイに声をかけて頬ずりをした。メイもヒロシが声をかけると、頭をもたげて尻尾を振った。
ヒロシはようやく、みんなと一緒に練習することができる。今日はソフトボール部が、運動場を優先的に使用できる日だ。ストレッチで身体をほぐし終えると、キャプテンのタケシが集合をかけた。
「時間を有効的に使って練習する。キャッチボール、守備、打撃、走塁練習の順でやるぞ」
「ヒロシやるぞ」
トシオがヒロシを指名した。
「ぼくでいいの?」と右手の人さし指で、自分の鼻を指さした。
「さっさと構えろ、時間がもったいない」
トシオは十メートル程離れたヒロシの胸元に軽くボールを投げた。少しぎこちないが、ヒロシはボールを捕球して「ホッ」とした。返球もおかしなフォームは改善されて、相手の胸元へ投げることができた。キャッチボールを繰り返しながら、トシオは徐々に間隔を広げ送球のスピードを上げていく。かぶと公園の夜の自主練で、マユミから指導を受けていたヒロシは、二週間前とは比べ物にならないくらいキャッチボールが上達していた。
タケシの号令で、各自が決められたポジションに向かう。ヒロシは戸惑いながら、投球練習に向かうマユミの顔を見る。ヒロシの視線に気付いたマユミが、ライトを指さした。
「ぼくピッチャー志望なんだけど」
心の中でつぶやきながら、ライトの守備位置についた。ノックはいつものようにトシオが打つ。サードから強弱をつけて、左右に振り分け六球ずつノックを放つ。内野の守備陣は、そつなく捕球してファーストへ送球する。
「次、連携プレー五、四、三」
サードに放った打球を、トシアキが捕球してセカンドのキヨミへ送球、キヨミは捕球した後、ファーストへ向きを変えて素早くヒデユキへ送球した。厳しかったトシオのノックで、みんなの守備力は格段に上達していた。連携プレーをひととおり終えて、外野のノックに移る。
「次、外野いくぞ」
トシオがレフトからノックをはじめる。リョウタは練習の成果がみられ、前後左右に打ち分けられた打球を無難に捕球する。センターはトシオだから、次はライトのヒロシである。一本目のノックは、定位置のイージーフライだ。ヒロシの動きはぎこちないが、なんとか捕球できた。
トシオは二本目のノックを、ライトのライン際へ打ち上げた。ヒロシは動こうともせずに打球を見送った。
「何やってんだ、打球を追え」
「えっ」
ヒロシはグラウンドに落ちて転がるボールを眼で追った。
「あのな、打者が打つ球は、どこへ飛ぶかわからないんだ。飛んだボールを追いかけないでどうする」
言われてみてヒロシは、「なるほど」と理解する。トシオは前後左右に振り分けてノックを放った。捕球こそできなかったが、ボールを追うことをヒロシは覚えた。
タケシの号令で、打撃練習に切り替える。マユミがバッティング投手を務め、ひとり十球のフリーバッティングをこなす。ヒロシ以外は五、六球を芯でとらえることができるようになっていた。中でもトシオは、すべて芯でとらえホームラン性の当たりを五本飛ばした。
タケシがマユミに、一メートル前に出て全力投球するように指示した。ひとり三球、ただでさえ早いマユミのボールは、一メートル手前から投げれば、その急速は倍にも感じられる。ヒロシは三球とも見送るのが精一杯で、他の部員も振り遅れの空振りに終わった。タケシは一球芯に当てたが、内野の頭を超えるのが精一杯だった。トシオは意地を見せて、一球だけレフトの後方へ打球を飛ばした。
「この球速についていけないと、宮崎ゆり子を攻略できないな」
トシオが悔しそうに、拳を握りしめた。
「まだ時間はある。がんばろう」
タケシがトシオの肩を軽く叩く。午後六時なって下校時間のチャイムが鳴り響く。後片付けが終わっても、みんなは帰らない。かぶと公園で夜の自主錬をやった翌日から、グランド整備は全員でやるようになった。
練習を終えて帰宅した部員たちは、空腹を満たすために夕食をかき込み、かぶと公園に集合する。八時までみっちりと練習に励み、くたくたになった身体を引きずりながら帰宅する。トシオとタケシは、いつものように一時間延長して、自分たちの練習を繰り返す。
夜連を終えて自宅にたどり着いたヒロシは、メイに「ただいま」の挨拶をすると、そのままソファで眠りについた。
ソフトボール大会を一週間後に控え、組合せ抽選会が行われた。兜南小からは、キャプテンのタケシが抽選会に参加した。
タケシは抽選を終えて帰宅し、トシオに電話を入れて結果を報告した。
「Aブロックだ、宮崎ゆり子のチームはBブロックになった。勝ち進めば直接対決は決勝戦だね」
「最高だな、初戦で対戦して勝っちまったら、後の試合はやる気がなくなるからな」
「心強いね」
「宮崎ゆり子からホームランを打って、絶対優勝してやる」
トシオの逸る気持ちが収まるのを待って、
「トシオ、ひとつ問題があって」
と告げる。
「問題?」
翌日の昼休み、教室でトシオとタケシが話し合っていた。
「監督か、春の大会はいらなかったじゃないか」
「監督といっても、指揮をとらなくてもいいんだって」
「何のための監督だ?」
「安全面を考慮して、保護者的な役割を担うんだって」
「他の学校はどうしていた?」
「どこの学校にもいるよ、監督だけでなく控え選手もね」
「監督のいない学校は、大会に出場できないのか?」
「そこはなんとかクリアしたよ」
「どうやって?」
「監督名の欄に、由美先生の名前を書いた」
「由美先生?」
「そう由美先生」
「どうして選りに選って、由美先生なんだよ」
「どうしてかな?思いついた先生の名前が、由美先生だったんだ」
「ただの猫好きのおばさんだぜ、いくら保護者的な役割だといっても監督だろう、ルールくらいは知っているかな、それよりも引き受けてくれるのか?」
「ただの猫好きのおばさんはひどいんじゃない。こう見えても先生はまだ三十二よ」
会話に集中していたふたりは、由美先生が教室に入って来たことに気付かなかった。
「あ、いや、その」
トシオは慌てて「おばさん」発言を取り消そうとしたが、言葉にならなかった。
「おもしろそうじゃない。監督引き受けるわよ」
「本当ですか」
タケシが満面の笑みで由美先生の顔を見ると、トシオも「お願いします」と頭を下げた。
「ただし、ソフトボールはやったことがないけどね」
「背に腹は代えられない」とふたりは、由美先生に監督を引き受けてもらうことにした。
毎日厳しい練習が続いたが、弱音を吐かずにヒロシはついていった。大会前日の今日は、ソフトボール部が運動場を優先的に使用できる。ストレッチとキャッチボールの後、キャプテンのタケシが号令をかけて、みんなを集めた。
「いよいよ明日は大会本番だ、体力の温存も考えて、今日は今までの練習成果を確かめることにする。まずは守備から、決められたポジションについて準備して」
各自が決められたポジションについた。いつものようにトシオが、内野には左右に振り分け、外野には前後左右に振り分けたノックを放つ。みんなはそつなく打球をさばけるようになっていた。ヒロシもぎこちない動きではあるが、何とか捕球することができるようになった。
打撃練習は実戦を意識して、マユミが緩急をつけて投球した。ひとり十球、トシオは正確なスイングで、八球を芯でとらえて打ち返した。タケシも六球を芯でとらえた。カツトモたちも三割は芯でとらえることができた。ヒロシは芯でとらえることはできなかったが、三球をバットに当てることができた。
最後にマユミが打席に入る。ピッチャーができるのはマユミだけだ、代役にトシオがマウンドに立ちオーバースローで二十球を投げた。勝手がちがう投球だが、八割を芯でとらえて弾き返した。打撃でも身体能力の高さを示した。
疲れを残さないように、適度な練習で締めくくることにする。タケシが「集合」の号令をかけて、みんなを集めた。
「今日の練習はここまで、明日の大会に備えて疲れを残さないように、かぶと公園での夜練はなしとする」
トシオがマウンドに、ゆっくりと歩いて行った。かぶと公園の夜錬で、ヒロシはマユミから、ピッチャー目指してピッチングの指導を手厳しく受けていた。トシオは、その成果を試すことにした。
「ヒロシ、ここに来い」
ヒロシは一瞬、何のことだかわからなかったが、トシオが手招きしているのでマウンドに「来い」と呼んでいるのだと気付いた。
「どうしたものか?」と戸惑うヒロシの背中を、タケシが押した。
「トシオが、マウンドから投げろと呼んでいる」
タケシがカツトモに、「受けてやって」と目配せした。カツトモはミットを持って、キャッチャーの守備位置についた。
はじめてマウンドに立ったヒロシは、心臓が爆発しそうなくらいドキドキした。
「ここだぜ」
カツトモがミットを叩いて構える。ヒロシがマユミに視線を向けると、軽くうなずいてカツトモの構えるミットを指さした。ヒロシもうなずき返して、大きく深呼吸をした後、投球動作に入る。
「さっさと投げろ」
トシオが急かす。ヒロシは全神経を集中して、思い切りカツトモのミットめがけてボールを投げた。ストライクゾーンは少し外れたが、カツトモのミットにボールが収まった。十球投げたところで、トシオが右打席に入った。
「当ててもいいから、思い切り投げ込め」
ヒロシは打者に向かって、はじめてボールを投げた。緊張のあまり力み過ぎて、ボールは大きく左上に逸れた。
打者に向けて二十球のボールを投げた。球威はないが、半分はストライクが取れた。
「これ以上やると疲れが残る」
トシオがヒロシに終了を告げる。
「使えるか?」
トシオがタケシに、答えを求めた。
「一イニングだけなら、何とかごまかせるかも」
グランド整備を済ませて帰宅準備をしていたら、由美先生が段ボール箱を担いでやって来た。
「あー重かった」
段ボール箱を地面に置くと、
「横一列に整列」
と声を張り上げた。
「監督の指示だ、全員整列」
たけぽんが号令をかける。監督の指示と言われれば、トシオも黙って従った。横一列に整列した部員に向かって、
「ユニホームを配るわよ」
と言って、段ボール箱を開いた。守備位置に合わせた背番号が付いたユニホームを手にした部員たちは、飛び上がらんばかりに喜んだ。
この粋な計らいは、由美先生が部員たちの親に「一度練習を見に来て欲しい」と頼み込み、見に来た親たちが「子どもたちが優勝に向けて猛練習する姿」に感動してユニホームを作ってくれた。
帰宅したヒロシは、リビングで寝そべるメイに「ただいま」と声をかけて、興奮気味に話しかけた。
「メイ、マウンドから投げたんだよ、ぼくピッチャーやったたんだよ。パパ、ママユニホームありがとう」
上機嫌のヒロシは、食事中もパパとママにマウンドからボールを投げたことを自慢する。明日のソフトボール大会が、「待ち遠しい」と目を輝かせる。パパとママもヒロシが、今まで見せたこともない張り切り様に頬が緩んだ。
大会当日は、雲ひとつない晴天となった。兜市は市民の健康促進のため、運動施設が充実している。小学校学年対抗のソフトボール大会は、市内に設けられた六つ球場でおこなわれる。
前日から地元の体育振興会の人たちが、球場を小学生用に整備してくれていた。当日の審判や記録係なども、同じく体育振興会の人たちが受け持ってくれる。
六年生の試合が開催されるグラウンド周辺では、早くから生徒の家族や近所の人たちが試合開始を楽しみに待っていた。
決勝まで七試合をこなさなければならないので、時間に余裕がない。Aブロックの第一試合は、午前八時にプレイボールがかかる。
兜南小学校はAブロックの第一試合で、兜第三小学校と対戦する。
主審がホームベースの左右に両チームのキャプテンを呼び寄せて、先攻、後攻を決めるじゃんけんをするよう指示した。
「タケシ、負けるなよ」
トシオがベンチからプレッシャーをかける。トシオとタケシは、先手必勝、初回から先制点を奪い取り主導権を握って、一気に攻め込む戦略を立てていたので、じゃんけんに勝つことは必須条件であった。タケシも、じゃんけんから気合が入り、繰り出す手に力が入った。勝利を願いVサインのチョキを出して、勝利したタケシは胸を撫で下ろして「先攻」を取った。
兜南小は整列の前に、一塁側のベンチ前で円陣を組んだ。
「さあ、気合入れていくぜ、絶対勝つぞ!」
タケシのかけ声に続いて、「ウオッー」とみんなが気勢を上げる。
両チームが整列し、あいさつを交わした後、先攻の兜南小の一番打者、カツトモが真新しいユニホームで左打席に入る。対する兜第三小は、ド派手なユニホームにエースナンバー十八の背番号を付けた大林君がマウンドに立つ。
このド派手なユニホームを着用することに、他の部員たちは反対したが、大林君が建設会社の社長の父親に頼んで、全員分の費用を出すことで了解を得た。
グラウンドの周りで観戦している生徒の家族や近所の人たちが、ザワザワしながら大林君の一球目に注目する。中でも騒がしいのが、大林君のために会社を休日にして応援に駆けつけた、建設会社の社員たちだった。
大林君は心地よい緊張感を味わいながら、カツトモに一球目を投げた。伸びのあるストレートが、カツトモの膝元を通過してキャッチャーミットに収まった。主審が右手を大きく突き上げて、ストライクをコールする。
「球速、コントロール共に、なかなかのピッチャーだな」
タケシがトシオに耳打ちする。
「早い回に叩いておかないと、調子に乗るとやっかいだな」
カツトモは大林君の二球目に食らいついたが、セカンドゴロに仕留められた。続く右打者の二番トシアキは、初球を打ちショートフライに打ち取られる。三球でツーアウトを取った大林君に、応援団は歓声を上げて大はしゃぎする。
三番のタケシが右打席に入った。マウンド上の大林君は、一、二番を凡打に打ち取り、兜南小の技量を甘く見て、タケシへの初球を、ど真ん中へ投げ込んだ。
「なめるなよ」
フルスイングでジャストミートされたボールは、レフトの頭を越えてフェンスオーバーのホームランになった。
この一振りで気落ちした大林君から、四番の右打者トシオはセンターに、五番の左打者マユミはライトポール際へ、オーバーフェンスのホームランを放った。三者連続のホームランを打たれた大林君は、マウンド上で立ちすくみ続投不可能となる。建設会社の応援団も意気消沈となり、交代したピッチャーからヒロシ以外全員安打で、兜南小が十対0の圧勝で一回戦を制した。
続くBブロックの第一試合では、鳥崎鉄男がホームランを含む三安打を放ち、宮崎ゆり子が三振の山を築き、無安打無得点を達成し兜北小が快勝した。
初戦に勝利した兜南小は、Aブロック二回戦で兜第一小との対戦となる。兜第一小の沢村君は、エースで四番、地元で強豪の少年野球チームに所属する名うての野球少年だ。
タケシはじゃんけんに負けたが、兜第一小が後攻を選んだので先攻となる。
沢村君は、微妙に変化するボールを投げ丁寧にコーナーを使い分ける。兜南小の打線を翻弄し、一、二、三回を三者凡退に抑えた。
マユミも緩急をつけた投球で、相手チームにつけ入る隙を与えず、一、二回を無安打に抑えた。三回の裏、兜第一小の攻撃はワンアウトの後、八番打者が両チームを通じて、初安打をレフト前に放った。
九番打者が送りバントでランナーを二塁に進める。マユミはピンチを迎えるが、一番打者を平凡なライトフライに打ち取り攻撃終了かと思われたが、今日はじめて飛んできたボールに緊張したヒロシが、グローブに収まったボールを落球してしまった。
ツーアウトでスタートを切っていた二塁ランナーは、一気に本塁を駆け抜けて、思わぬ形で先制点を与えてしまう。マユミは気にすることもなく、後続を三振で仕留めて、この回を終了させる。
「気にしない、取り返したらいいんだから」
マユミはベンチの中で、落ち込んでいるヒロシを励ました。ヒロシは小さくうなずいて、トシオを横目で見た。ヒロシの視線を感じたトシオが、
「どうした?」
と声をかける。
「怒ってないの?」
「何を?」
「ぼくのエラーで一点取られた」
「それがどうした」
トシオの返答に、ヒロシは拍子抜けした。自分のエラーで先制点を取られたのに、一番怖いトシオが平然としている。
「エラーなど気にするな、二点取り返したらいいんだ」
「うん」
ヒロシは大きくうなずいた。
四回の表、兜南小の攻撃は、二巡目の打席に立つ一番のカツトモ。沢村君の投球にしぶとく食らいつき、ショートへの内野安打で塁に出た。二番のトシアキに、タケシが送りバントのサインを出す。
三塁側に転がそうとしたが、トシアキの送りバントはピッチャーの前に転がってしまった。
マウンドを駆け降りた沢村君は、ダブルプレーを焦ってボールを掴み損ねてしまい、どこへも送球できなかった。
ノーアウト一、二塁とチャンスを広げた兜南小は、マウンドで悔しがる沢村君を畳みかける。
三番タケシのセンター前タイムリーヒットで同点とし、一、三塁で迎えた四番のトシオが、レフトオーバーの二塁打を放ち試合をひっくり返した。続く五番のマユミが右中間に三塁打、六番の右打者キヨミもライト前にタイムリーヒットを放って追加点。二回戦もクリーンナップトリオの打撃が爆発し、マユミの力投で兜南小が勝利を収め、決勝へと駒を進めた。
兜北小の二回戦は、宮崎ゆり子が二試合連続で無安打無得点を達成し、鳥崎鉄男の二試合連続ホームランで、兜西小に完勝して決勝へと駒を進める。
六年生のソフトボール大会決勝は、順当に勝ち進み春秋連覇を狙う兜北小と、春の大会のリベンジに燃える兜南小が、優勝を賭けて対戦することになった。
決勝戦は、午後三時からのプレイボールとなる。両チームがグラウンドに整列して、あいさつを交わす。キャプテンのタケシと鳥崎鉄男が、ホームベースの前で先攻、後攻を決めるじゃんけんをした。
じゃんけんに勝ったタケシは主審に、「後攻」を告げる。その選択にみんなは、「どうして?」と首をかしげた。守備につく前、三塁側のベンチ前で円陣を組む。
「タケシ、なぜ先攻じゃないの?」
マユミの問いかけに、
「決勝戦で宮崎ゆり子から、サヨナラホームランを打ちたいからね」
トシオが茶化すと、
「真面目に答えて」
とマユミがトシオを睨みつける。
「兜北小が決勝の相手に決まった後、トシオと戦略を相談したんだ。宮崎ゆり子から簡単には点を取れない。表の攻撃をしのいで、その裏に反撃する。最終回まで持ち堪えられたら、勝機が見いだせるかも知れない」
みんなも今までの対戦相手とは、レベルが違うことを認識している。先制攻撃で簡単に点を取れる相手ではない。キャプテンの戦略に異議を申した立てる者はいなかった。
「先生は、みんながどう戦おうと口は出さないけど、チームプレーが必要なときもあることを忘れないでね」
トシオの顔を覗き込むように、由美先生が微笑んだ。トシオは素知らぬ顔で横を向く。タケシが号令をかける。
「絶対勝つぞ!」
円陣の中で手を重ねて、みんなが呼応する。
「ウオッー!」
一回の表、兜北小の攻撃。マユミは一番打者を三振に、二番打者をショートゴロに仕留めた。続く三番の左打者宮崎ゆり子に対して、速球を二球続けて投げ込みツーストライクと追い込んだ。
「春より球速が増している」
宮崎ゆり子は、バットをワングリップ短く持った。ボール球を一球挟んで、四球目に投げ込まれた外角低めの速球を、流し打ちでレフト前に運んだ。ツーアウト一塁で、四番の鳥崎鉄男が右打席に入る。
マユミとカツトモのバッテリーは、初球を外角高めに僅かに外した。選球眼の良い鳥崎鉄男は、手を出しそうになったが見送った。強打者に内角は投げづらい。二球目は外角低めにチェンジアップでタイミングを外しにいったが、中学生高学年並みの長身で、リーチが長く体格のいい鳥崎鉄男は、泳がされることも無くジャストミートでボールをとらえて弾き返した。
センターのトシオは、打球を見送るだけで動こうともしなかった。流し打った鳥崎鉄男の打球は、ヒロシの頭上を越えてフェンスオーバーのホームランとなる。
「初回から二点の先制はきついな」
トシオはセンターの守備位置から、サードベースを回る鳥崎鉄男を見つめてつぶやいた。タケシが透かさず、マユミに駆け寄った。
「ドンマイ、取り返したらいいんだ」
「ふっー」とひと息ついて、マユミは軽くうなずいた。後続を三振に仕留めて、兜南小の攻撃に移る。
サウスポーから繰り出される鋭い速球が、鳥崎鉄男のミットに収まる。宮崎ゆり子の投球練習を、ベンチから見つめる兜南小のナインは、「凄い」とため息をついた。
打席に向かう一番のカツトモを、タケシが呼び止めた。
「カツトモ」
振り向いたカツトモに耳打ちする。
「先頭打者が塁に出れば、ゆさぶりをかけられる。初球をフルスイングして、二球目をセーフティバント」
タケシの作戦に軽くうなずいて、カツトモは打席に入った。
宮崎ゆり子は予想通り、最初から飛ばしてきた。初球からカツトモに、自慢の速球を投げ込む。カツトモは作戦通りにフルスイングした。振り遅れたスイングを見て、宮崎ゆり子は二球目も渾身の力で速球を投げ込んだ。
カツトモは素早くバットを持ちかえて、三塁線にバントした。意表を突かれた守備陣を尻目に、ヒデユキと校内で一、二を争う俊足は、一気に一塁ベースを駆け抜けた。今大会で宮崎ゆり子が許した初安打は、セーフティバントの内野安打だった。
二番のトシアキは、はじめから送りバントの構えだ。転がせば、カツトモの足ならなんとかなる。神経を集中させ、相手守備陣が警戒する中、初球を見事に三塁線に転がしカツトモを二塁に進めた。宮崎ゆり子は初安打に続き、今大会ではじめてスコアリングポジションにランナーを背負った。
三番のタケシが打席に入る。マウンド上の宮崎ゆり子は、はじめて背負ったピンチに苛立っていた。見透かしたように、鳥崎鉄男がマウンドに駆け寄る。
「この程度で動揺するな。まだはじまったばかりだ」
そうは言ったものの、鳥崎鉄男自身も、兜南小の攻撃に焦りを感じていた。
「負けないわ」宮崎ゆり子は自分に言い聞かせて、
「大丈夫」
と答えた。鳥崎鉄男は守備位置に戻りミットを構える。
宮崎ゆり子は深呼吸して気持ちを整え、タケシの膝元に速球を投げ込んだ。判定はストライク、見送ることしかできなかった。
「早すぎる。まともには打てないよ」
タケシがバットをワングリップ短く持った。それを見た宮崎ゆり子は、
「打てるものなら、打ってみなさい」
と言わんばかりに、二球目も膝元に速球を投げ込んだ。スイングしたバットは、ボールに触れることもなく空を切った。ツーストライクと追い込んだバッテリーは、実力の差を見せつけようと三球勝負に出た。
鳥崎鉄男が外角低めにミットを構えた。正確にコントロールされた速球に、バットを当てるのが精一杯のスイングだったが、幸運にも打球は一、二塁間を抜けてライト前に転がった。カツトモは自慢の足を生かして三塁ベースを回る。あらかじめ前進守備を敷いていたライトが、キャッチャーの鳥崎鉄男に素早く送球する。
ライトからの送球を見たネクストバッターのトシオが、カツトモに滑り込むように指示する。滑り込んだカツトモの左足に、捕球したミットで鳥崎鉄男が素早くタッチした。クロスプレーの判定は、「アウト」その間にタケシは二塁に進んでいた。
失点を阻止してツーアウトにしたが、ランナーが二塁に残りピンチは続く。迎えるバッターは、打倒宮崎ゆり子に燃える四番のトシオ。
「春とは比べものにならないくらい強くなっている。このチーム、どれだけ練習したの?」
兜南小のベンチを見て、宮崎ゆり子は心の中でつぶやいた。
「簡単には、勝てそうにないな」
鳥崎鉄男も同じことを感じていた。
打席にゆっくりとトシオが入る。鳥崎鉄男のサインに、宮崎ゆり子は三度首を振って拒否する。
「あの時の勝負にこだわるのか?」
鳥崎鉄男が内角高目にミットを構えた。宮崎ゆり子が鋭い眼差しでうなずいた。春の大会でトシオに内角高めの速球を、フェンス直撃のあわやホームランかというレフトオーバーの二塁打を打たれたことが、彼女には許せないのであろう。
「一度だけだぞ」
とうなずく鳥崎鉄男に、宮崎ゆり子もうなずき返した。トシオが足場をならしながら、「あの時と同じ球でくる」と読んで構えた。宮崎ゆり子は渾身の力をふりしぼり、内角高目の速球を投げ込んできた。
「もらった」
フルスイングしたトシオのバットから、「快音」が響いた。
「やられた」
レフトポール際に、弾丸ライナーで飛んでいく打球を眼で追う鳥崎鉄男、うしろを振り向き、唇を噛みしめて打球を見送る宮崎ゆり子。
「ファール」
三塁塁審が両手を広げた。トシオの打球は、ポールの手前で僅かに左に逸れた。
「クソッ」
一塁ベースの手前で、奥歯を噛みしめて悔しがるトシオ。肩をなで降ろした鳥崎鉄男。拳を握りしめる宮崎ゆり子。
「打ちも打ったり、投げも投げたりだな。トシオが力んだ分だけ打球がスライスした」
二塁ベースに戻ったタケシは、ふたりのプライドを賭けた真っ向勝負を分析しながら羨ましく思った。
仕切り直しの二球目のサインに、宮崎ゆり子はあっさりとうなずいた。
「彼女の性格なら、もう一度同じコースで勝負にくる」
トシオは、そう信じていた。
渾身の力をふりしぼって投げ込まれた二球目は、正確にコントロールされ外角低目のストライクゾーンに入ってきた。
「外角低目」
打ち気に出ていたトシオのバットは止まらない。思い切り腕を伸ばしてフルスイングしたバットの先端にボールが当たり、平凡なライトフライに終わった。
得点こそ入らなかったが、一、二回戦を完璧に抑えてきた宮崎ゆり子を、兜南小は初回から苦しめた。ベンチへ引き上げる宮崎ゆり子が、鳥崎鉄男に話しかけた。
「このチーム、強い」
「手強いな、猛練習したんだろう。守備も打撃も、春とは比べものにならない。トシオとの勝負にこだわるな、チームの勝利が優先だ」
「わかってる」
宮崎ゆり子は、感情を押し殺して答えた。鳥崎鉄男はトシオを筆頭に、春よりも格段にレベルアップしている兜南小に脅威を感じていた。
二回と三回の攻防は、両チームのエースの踏ん張りと、守備陣の堅い守りで、両校共に三者凡退の無得点で終えた。
四回の表、兜北小の攻撃は三番の宮崎ゆり子からだ。トシオと真っ向勝負がしたい宮崎ゆり子は、塁に出て鳥崎鉄男のバットで点差を広げたかった。バットをワングリップ短く持って、マユミの投球に食らいつく。
マユミも、これ以上点はやれないと、丁寧にコースをついて投げた。ワンボールツーストライクと追い込んで、内角低目の速球で勝負に出た。ストライクゾーンギリギリに入った膝元のボールを、宮崎ゆり子はコンパクトなスイングで打ち返した。打球は一、二塁間を抜ける鋭いゴロとなった。
「しまった」
マユミが打球を眼で追う。ファーストのヒデユキは、打球の速さに身動きできない。
誰もがライト前のヒットだと思った瞬間、「バシッ」とボールがグローブに収まる音がした。キヨミが左へ飛び込み痛烈な打球を捕球していた。素早く起き上がり一塁へ送球する。ヒデユキが慌てて、一塁ベースに入り捕球体勢に入る。
宮崎ゆり子が全速力で一塁ベースを駆け抜ける前に、ヒデユキのグローブにボールが収まった。
「キヨミっ!」
マユミは大声で叫びグローブを叩いた。
「ナイスプレー」
タケシもキヨミのファインプレーを称賛した。
キヨミは照れながら、グローブを頭の上にあげてセンターのトシオを見た。トシオは右手の親指を、胸の前で立てて微笑んだ。
キヨミのファインプレーで盛り上がり、勢いがついたかに思えたが、続く四番の鳥崎鉄男が、二打席連続のホームランをレフトへ叩き込んだ。
打球を見送ったマユミが、マウンドで「がっくり」と肩を落とす。タケシが透かさずマウンドへ駆け寄る。
「エースが落ち込んだらだめだ。みんなを見て」
マユミが後ろを振り向くと、みんなは腰をかがめて「さあ来い」と守備態勢に入っていた。
仲間の雄姿を見て気を取り直したマユミは、後続を二者連続三振に仕留めた。ベンチに戻ったみんなの視線は、自然とスコアーボードに向いた。宮崎ゆり子相手に、三点のリードが重みとなり意気消沈となりかける。
「みんな、楽しんでいる」
由美先生が手を叩いて声をかけた。
「さあ元気出して、勝負はまだこれからよ。今、この時を楽しまなくっちゃ」
「そうだ、楽しもう!」
ヒロシが真っ先に、右手で小さくガッツポーズをして気合いを入れた。
「このままやられてたまるか」
トシオはバットを握りしめる。タケシが号令をかけて、ベンチの前で円陣を組んだ。
「絶対勝つぞっー!」
「ウオッー」
「さあ、反撃開始だ」
タケシが、進撃の気勢を上げる。
四回の裏、先頭バッターのトシアキが打席に入る。
「中途半端なスイングはするなよ、思い切り振れ」
トシオが発破をかける。速球に振り遅れないように、バットをツーグリップ短く持ってトシアキはホームベース寄りで構える。
「気をつけるのはクリーンナップトリオだけだ。他の連中は君の速球で抑えられる」と眼で合図して、鳥崎鉄男がど真ん中にミットを構える。宮崎ゆり子もそれに答えて全力投球した。トシアキのバットは速球についていけず、むなしく空を切り簡単にツーストライクと追い込まれた。
バッテリーは三球で勝負を決めにきた。トシアキは球速に負けないように、一か八かでワンテンポ早目にバットを振った。それでも振り遅れたが、幸運にもバットにボールが当たった。フラフラと舞い上がった打球は、セカンドの後方にポテンと落ちた。一塁ベースを駆け抜けたトシアキは、振り向いて兜南小のベンチに右手の拳を突き上げた。
点差を縮めるべく三番のタケシは、チームプレーに徹して送りバントを決めた。入れ替わりで四番のトシオが打席に入る前、タケシが耳打ちする。
「外野は前進守備だ、ワンヒットではホームまで帰れない。右打ちで進塁打も考えてくれ」
「フェンスを越せば、歩いて帰れるぜ」
バットを肩に担いで、トシオは打席へ向かう。打席から外野の守備位置を確認して頭にきた。
「ここまで前進守備するか?なめやがって」
宮崎ゆり子と鳥崎鉄男のバッテリーは、トシオに対して徹底的に外角低目で攻めた。一、二球目はコースを外れボールになるが、三、四球目はストライクゾーンぎりぎりに入りツーボールツーストライクと追い込んだ。
「チームプレーですか?宮崎ゆり子さん」
とつぶやき、ヘルメットを被り直したトシオは、マウンド上の宮崎ゆり子に鋭い視線を向けた。トシオの挑発的な視線を感じたが、宮崎ゆり子は無視した。トシオは「内角で来い」と構えを変えない。宮崎ゆり子は鳥崎鉄男のサインにうなずく。勝負球も外角低めに投げ込んだ。正確にコントロールされたボールは、ストライクゾーンに入っている。
「この構えでフルスイングすれば空振り、見送ればストライク」
鳥崎鉄男は、「抑えた」と確信した。宮崎ゆり子の表情には、真っ向勝負ができない悔しさがにじみ出ている。
外角低めのボールを、トシオはハーフスイングでバットに当てた。打球は二塁手の右へ転がる進塁打となった。
ベンチに戻るトシオが、ネクストバッターのマユミに耳打ちする。
「ホームに返せよ」
「ありがとう」
と微笑んで、マユミは打席に向かった。
ベンチに戻ったトシオを、由美先生が抱きしめた。
「放せよ」
と言ったが、自分からは離れなかった。
三塁にランナーを進め、マユミのバットに期待がかかる。
「トシオが進塁打を打つなんて」
勝負を避けた宮崎ゆり子は、トシオがチームプレーに徹したことで、兜南小の勝利に対する執念を見せつけられた。
バットをワングリップ短く持って、マユミが打席に入った。宮崎ゆり子が鳥崎鉄男のサインにうなずいた。高低と緩急をつけて内角、外角へとボールを散らしてタイミングを取らせない。ワンボールツーストライクと追い込まれたマユミは、バットを握り直して足場を固める。
勝負球は外角高目にコントロールされた速球が、ストライクゾーンに入ってきた。
「まともに振ったら当たらない」
食らいつくように出したバットが、ボールを芯でとらえた。打球は三遊間を抜けてレフト前に転がる。それを確認したトシアキが、全速力でホームベースを駆け抜ける。
「やったー」
マユミは一塁ベースの上で、バンザイをして飛び跳ねた。ベンチに帰ってきたトシアキを、みんながハイタッチで迎える。はじめて許した失点に気落ちした宮崎ゆり子から、ファインプレーで気を良くしている六番のキヨミが、センター前にヒットを放つ。ツーアウト一、二塁。このチャンスで一気に宮崎ゆり子を攻略しようと攻め込むが、簡単に打ち崩せる投手ではなかった。後続の七番右打者のリョウタは、バットを振る余裕もなく三球三振に抑え込まれた。
ベンチへ戻る鳥崎鉄男の脳裏に、じわりじわりと攻め込んでくる兜南小の足音が響いた。
五回の攻防は、両校共に三者凡退で終了したが、マユミに異変が現れ出した。連日の練習で打撃投手を務め、大会での連投、決勝戦ではどの打者も気の抜けない兜北小相手に奮闘し、蓄積された疲れが出はじめた。
六回の表、兜北小の攻撃は、一番からはじまる好打順。
疲れの見えてきたマユミに対して、鳥崎鉄男は、一、二番打者にセーフティバントの構えで、揺さぶりをかけて体力を消耗させる作戦に出た。
「鉄男、小細工なしの勝負をしましょう」
宮崎ゆり子が、トシオとの真っ向勝負ができない不満をぶちまけた。
「小細工?これは立派な戦略だ。流れは向こうにきている。ここで叩いておかないと、勢いづかせて形勢が不利になる」
鳥崎鉄男は、キャプテンの立場で戦いを進める。宮崎ゆり子の心の中は、くすぶったままだ。
一、二番のコンビは三振に仕留められたが、フルカウントまでセーフティバントの構えで揺さぶった。その度にダッシュでマウンドから駆け降りるマユミは、体力を奪い取られた。
三番の宮崎ゆり子が打席に入る。肩で息をするマユミを見て、やるせない思いになった。
「勝負とは、こういうものなの?」
マユミの投球は、明らかに球威球速が落ちていた。打ちごろのボールになった初球を見送った宮崎ゆり子に、「来い」とネクストバッターの鳥崎鉄男が目配せした。宮崎ゆり子は主審に、「タイム」を申し出て打席を外した。
「なぜ打たない」
「こんなやりかた間違っている。真剣勝負じゃない」
「ソフトボールは団体競技だ。個人プレーで勝負して、自己満足したいのなら別の競技を選べ。一、二番も自分を犠牲にして、相手ピッチャーを苦しめた。相手も手を抜くことなく、全力で攻めてきている。これは真剣勝負だ」
そう告げると、「打席に戻れ」と目配せした。打席で構えなおした宮崎ゆり子は、トシオがチームプレーに徹して進塁打を打ったことを思い出した。
マユミは丁寧にコーナーを突いて攻めるが、宮崎ゆり子はカットしてファールでかわす。投じた球数は十球、スリーボールツーストライクのフルカウント。ファアボールは出したくない。次打者は四番の鳥崎鉄男、二打席連続でホームランを打たれている強打者だ。
「このバッターで切らないと」マユミは大きく深呼吸して、カツトモとサインを交わし、勝負球を内角高目に決めた。正確にコントロールされたボールは、ストライクゾーンぎりぎりに入ってくる。しかし疲れの隠せない投球にはキレがなく、宮崎ゆり子のバットがライトのライン際へボールを弾き返した。
深めに守っていたヒロシが、一目散にボールを追いかける。抜ければ三塁打、ボールの処理に手間取ればランニングホームランもありうる。
二塁ベースを回ろうとした宮崎ゆり子を、三塁コーチが止めた。
「ウオッー」と雄叫びを上げて、ヒロシがボールに追いつき中継のキヨミに送球したからだ。
「ナイスプレー」
タケシが声をかける。マユミが右手を振って微笑む。ヒロシは小さくガッツポーズする。
四番の鳥崎鉄男を迎えて、内野陣がマウンドに集まった。
「これ以上、点はやれない」
タケシの言葉に、マユミとカツトモのバッテリーは軽くうなずいた。内野陣が守備位置に戻り、主審がプレイボールを告げると、カツトモが立ちあがり鳥崎鉄男を敬遠した。五番打者との勝負に賭ける。
ツーアウト一、二塁。呼吸を整え、マユミが五番打者に一球目を投げた。疲労で抑えが利かないボールは、真ん中高めに入る。五番打者は、ジャストミートしてセンター前に運んだ。ツーアウトなので宮崎ゆり子と鳥崎鉄男は、打者が打った瞬間にスタートを切っていた。
トシオが猛然とダッシュして、バウンドを合わせ捕球してキャッチャーのカツトモに送球する。三塁ベースを回った宮崎ゆり子を、三塁コーチが慌てて止めた。送球はストライクで、カツトモのミットに収まっていた。
「ナイスプレー!」
ヒロシが大声で叫ぶと、トシオは苦笑いして右手の親指を胸の前で立てた。
失点は阻止したが、満塁となりピンチは続く。なんとか抑えようと、気力をふりしぼり六番打者へ投じた初球も、威力のない棒玉となりフルスイングされた。
「やられた」バットにボールが当たった瞬間、カツトモが奥歯を噛みしめた。
万事休すかと思われたが、打者が力み過ぎて打ち損じ、打球はショートの後方へ舞い上がった。タケシがホームに背を向けながら、上を見上げてボールを追いかける。
「右だっ!」
トシオがセンターから声をかける。捕球できなかったら、ランナーはツーアウトなので打った瞬間にスタートを切っている。確実に二点、打球の処理に手間取れば三点が入る。
「トシオから見て右なら」
タケシは右の軸足に力を込めて、左側へダイビングキャッチを試みる。左腕を思い切り伸ばして空中でボールを捕球できたが、そのまま左肘からグラウンドに倒れ込んだ。素早く起き上がりグローブを突き上げて、捕球したことをアピールする。捕球を確認した二塁塁審が、「アウト」をコールした。
ベンチに戻るタケシに、トシオが駆け寄り「ナイスキャッチ」と肩を叩いた。タケシは、左肘の痛みをこらえながら笑顔を返す。ベンチに戻ったみんなはハイタッチで、ピンチをしのいだことを喜んだ。
タケシはベンチの右端に腰かけて、右手で左肘を押さえて痛みをこらえる。
「痛めたのか?」
トシオの問いかけに、
「まずいな、バットが振れないかも」タケシの顔が歪んだ。
マウンドに向かう宮崎ゆり子を、鳥崎鉄男が引き留めた。
「この回を抑えれば勝てる」
兜南小のベンチを、「見ろ」と鳥崎鉄男が目配せする。
「タケシはさっきの守備で左肘を痛めたようだ、まともにスイングができないだろう。マユミもあの様子では君の球をヒットにはできない」
「二、三番を抑えれば、トシオと勝負してもいいの?」
「ここまでよくがんばった。点差は二点ある好きに勝負しろ、配球は自分で決めていい」
鳥崎鉄男が微笑んだ。宮崎ゆり子はゆっくりとマウンドに向かった。
六回の裏、先頭打者のトシアキが打席に入った。何としてでも塁に出て、クリーンナップにつなごうと闘志を燃やす。宮崎ゆり子もトシオとの真っ向勝負を実現するために、気合いを入れ直した。コーナーを突いた速球で、ポンポンとツーストライクを取りトシアキを追い込んだ。
「球速が増してないか?」
カツトモがマウンド上の宮崎ゆり子を指さすと、トシオもうなずいた。
「当てて転がせ、転がせば何とかなる」
タケシがトシアキにアドバイスを送る。トシアキはうなずいて、足場をならして構え直す。バッテリーは三球勝負に出るが、ラッキー安打を許さないように膝元へ速球を投げ込んだ。鳥崎鉄男のミットにボールが収まった後、トシアキのバットがむなしく空を切る。
三番のタケシは、素振りもしないで打席に入る。鳥崎鉄男はスイングができないと確信し、ミットを真ん中に構えた。宮崎ゆり子も七分の力で三球ともど真ん中に投げ込み、見送りの三球三振に仕留めた。
ツーアウトとなり、四番のトシオが打席に向かう。ベンチに戻るタケシが、すれ違いざまに耳打ちする。
「トシオ、一発頼むぜ」
「任せな」
タケシのお尻を軽く叩いて打席に入った。鳥崎鉄男が軽くうなずくと、「三球三振に仕留める」と宮崎ゆり子もうなずき返した。投球動作に入り、大きく腕を回して初球から内角高目の速球で勝負に出た。
「ミートされれば、フェンスオーバーだ」
鳥崎鉄男はマスク越しに球道を見る。
「バシッ」
ミットにボールが収まり、ストライクがコールされる。
「なぜ振らない」
鳥崎鉄男は首をかしげて、宮崎ゆり子に返球する。二球目も内角高めに速球を投げ込んだが、またしてもトシオは身動きもせずに見送った。
タイムをかけてマウンドに駆け寄り、ボールを手渡しながら、
「トシオはなぜバットを振らない」
と問いかけると、左手に握ったボールを見つめて宮崎ゆり子が答えた。
「外角低目を待っている」
「一打席目に打ち取られた球か、トシオらしいな。どうする?」
「受けて立つは、外角低目で」
「君らしいな、好きにしろ」
守備位置に戻った鳥崎鉄男が、外角低目のストライクゾーンにミットを構えた。宮崎ゆり子はプライドを賭けて、渾身の力をふりしぼり外角低目のストライクゾーンぎりぎりに速球を投げ込んだ。
「必ずここへ投げ込んでくると、信じていたぜ」
コースを見極めたトシオは、左足をホームベース寄りに踏み込み、軸足に体重を乗せてフルスイングする。ジャストミートでとらえたボールは、快音を響かせ弾丸ライナーでライトのフェンスを越えた。
一塁ベースを回ったトシオは、右手の拳を突き上げた。
打球を見送った宮崎ゆり子は、悔しさよりも全力で勝負できたうれしさの方が上回っていた。ダイヤモンドを回りホームベースを踏んだトシオに、鳥崎鉄男が苦笑いした。ベンチに戻ったトシオを、みんなが大騒ぎで出迎えた。
反撃ののろしが上がったかに思えたが、続くマユミを三球三振に抑え込み宮崎ゆり子も意地を見せた。
「トシオ」
ホームランの興奮が覚めやらないトシオに、タケシが耳打ちする。
「それを決めるは、キャプテンだ」トシオがタケシの肩を軽く叩いた。
三対二で兜北小がリードで迎えた最終回、タケシが主審に守備位置の交代を申し出る。
「ピッチャーとライトを入れ替えます」
ライトの守備位置に向かうヒロシにトシオが声をかける。
「キャプテンの言ったことが、聞こえてないのか」
ヒロシにはタケシが主審に申し出た守備位置の交代は、はっきりと聞こえていたが、夢の中の出来事だと自分に言い聞かせてライトの守備位置へ向かおうとする。
「さっさと投球練習しろ」
トシオがヒロシを呼び止めて急かした。
「無理だよ」
ヒロシが足を止めて振り向き、マウンドを見て言った。
「できるわよ」
マユミが微笑んで、マウンドを指さした。
「ヒロシ出番よ」
由美先生がベンチからVサインを出す。
「ピッチャーなんて、ぼくにはできない」
「嫌ならやめとけ、自分からチャンスを逃がすとはね」
ちゅうちょするヒロシを睨みつけて、トシオが吐き捨てるように言った。ヒロシは、どうしていいのかわからなくなった。マユミが見かねてヒロシに駆け寄り、ボールを手渡して説得する。
「一生懸命練習したじゃない、自分を信じて投げるのよ。夢だったんでしょピッチャーやるのが」
手渡されたボールを見て、「ここに立つためにがんばってきたんだ」とつらい練習を思い出した。
「ぼく投げる」
ヒロシは腹をくくった。マユミはウインクして、ライトの守備についた。マウンドに立ったヒロシは、足が震えて心臓が爆発しそうになっていた。プレッシャーで押しつぶされそうになる身体を、気力で持ちこたえる。大きく深呼吸をして、投球練習の一球目をカツトモの構えたミットに目がけて投げ込んだ。
かろうじてストライクゾーンには入ったが、球威球速はマユミの半分程度であった。
「いい球投げるね」
カツトモが、大見栄のハッタリをきかせて返球する。二球目、三球目は制球が定まらずストライクが入らない。
「楽に、楽にね」
カツトモが、肩を上下させて返球する。ヒロシはもう一度大きく深呼吸して、緊張をほぐした。四球目はど真ん中に決まった。練習球の最後は高目に浮いたが球威球速は少し増していた。
捕球したカツトモが、「よっしゃー」と叫んでマウンドに駆け寄り、ヒロシにボールを手渡した。
「自信を持って思い切り投げ込め、打たれてもみんなが守ってくれる」
ヒロシはボールを握りしめ、うしろを振り向き大きく両手を広げて守備陣に声をかけた。
「しまっていこうぜ!」
「ウオッー」威勢のいい元気な声が返ってきた。
兜北小の攻撃は下位打線とはいえ、初登板のヒロシには驚異であった。
「ど真ん中に投げろ」
カツトモがミットを構える。ヒロシは覚悟を決めて投球動作に入る。全神経を打者に集中し、一球目をカツトモが構えるミットに目がけて投げた。
ヒロシはカツトモのミットに「バシッ」とボールが収まり、バッターが空振りする姿を想像したが、現実は悲しいものであった。投げたボールは、自分の頭上に上がり足元に落ちてきた。
タケシが駆け寄り、ボールを拾ってヒロシに手渡した。
「落ち着いて、余計なことは考えず、カツトモのミットだけを見て投げるんだ」
ヒロシはうなずいたが、頭の中は真っ白になっていた。天を仰いで自分に言い聞かせる。
「ぼくはできる、ちゃんと投げられる」
気を取り直して投球動作に入る。
鳥崎鉄男が打者にサインを送ると、打者は笑みを浮かべてうなずいた。
ヒロシは懸命にボールを投げるが、ストライクが入らない。打者は見透かしたように、立っているだけだ。連続フォアボールでノーアウト一、二塁となる。続く打者への初球がデッドボールで、無死満塁となり絶体絶命の窮地に追い込まれた。
「これ以上失点すると、勝ち目がなくなる」
センターのトシオが奥歯を噛みしめた。カツトモが内野陣をマウンドに集めた。
「何やってんだ、打たれてもかまわないと言っただろ。フォアボールやデッドボールでランナーを貯めたら大量失点につながる。ど真ん中に投げろ、強打者でも打ち損じがあるんだからアウトを取れる」
「ヒロシ落ち着け、自信を持って投げろ。必ず守ってみせるから」
左肘を右手でさすりながら、タケシが励ます。
「守備なら任せなさい」
キヨミがグローブを叩いた。ヒデユキとトシアキもグローブを叩いて「任せろ」と意思表示する。
以前のヒロシなら立場が悪くなると、うつむいたまま黙り込んでいたが、今は違った。
「みんなありがとう、ぼくがんばる。ストライク投げてアウトを取る」
ヒロシは力強く答えた。内野陣が守備位置に戻る。下位打線に続いて一番打者が打席に入る。ヒロシが投球動作に入り、守備陣は呼吸を止めて腰をかがめて構える。全力投球で投げたボールだが、球威球速もなく打ちごろの絶好球となり、ど真ん中に入っていった。センターから見ていたトシオは、「やばっ」と思わず叫んでしまった。
ヒロシが投じた十球目は、打撃練習のように弾き返されて右中間に大きく舞い上がった。センターのトシオとライトのマユミが、舞い上がったボールを懸命に追い駆ける。
「追いつかなぜ」
ややライト寄りに飛んだ打球を追いながらトシオがつぶやく。右中間を抜けたと判断した三塁コーチがランナーに、「走れ」と声をかけて大きく腕を回した。
トシオは「ダメだ」とあきらめたが、マユミはダイビングキャッチで打球を捕りに行く。精一杯伸ばした右手のグローブに打球が収まり、そのままグラウンドに叩きつけられた。激しい衝撃を受けて倒れ込んだマユミだが、グローブに収まったボールは離さなかった。
「動くな、そのまま寝ていろ」
と叫んでトシオが駆け寄り、ボールをグローブから取り出して中継に入ったキヨミを無視して、「タケシ」と叫んだ。状況を素早く判断したタケシが、二塁ベースに入る。それを見定めたトシオが、タケシのグローブ目がけて送球する。
「ヒデユキッ!」トシオが大声で叫び、一塁ベースを指さした。
ボールを捕球した左肘に激痛が走る。タケシは痛みをこらえて素早くファーストのヒデユキへ送球する。ライト寄りにそれた送球をヒデユキが捕球して、頭から一塁ベースに戻りグローブでタッチする。
スタートを切っていた各ランナーは塁に戻れず、兜南小はトリプルプレーで絶体絶命のピンチを切り抜けた。
右中間に大飛球を打たれたヒロシは、マウンド上で両膝を着いてうなだれている。
「ワンアウトも取れずに大量失点してしまい、優勝の望みを完全になくしてしまった」
ヒロシは心の中でみんなに詫びた。涙があふれそうになるのを必死でこらえていたら、タケシがヒロシの肩を軽く叩いた。
「チェンジだぞ」と言うと、続いてトシオが「ベンチに戻れ」とグローブで頭を「ポン」と叩いた。ヒロシは何が起きたのか理解できないまま、みんながベンチに引き揚げる後ろ姿を眼で追った。
由美先生がVサインを出して、生徒たちをベンチに迎い入れる。
「カッコいい、プロ野球でも見たことないよ」
ベンチに戻ったヒロシが、由美先生からトリプルプレーの経緯を聞いて驚いた。
「ぼくがうなだれている間に、みんなが必死のプレーでアウトを一度に三つも取ってくれたんだ」
あふれそうになる涙を、上を向いてこらえたが、こらえきれずに頬を伝った。
「まだ終わっちゃいない。これからだ、何としてでも逆転して優勝するぞ」
トシオは感動にふっけっているヒロシに、「喝」を入れる。
「最終回、一点差、逆転勝利で優勝するぞ、気合い入れていこう!」
キャプテンのタケシが、右手の拳を突き上げて叫んだ。
最終回の先頭打者のキヨミが、「よしっ!」と元気な声を出して打席に入った。おとなしいキヨミが、闘志をむき出しにした姿を見てトシオは微笑んだ。
「手強いチームだけど、私は負けない」
マウンドで、空を見上げて宮崎ゆり子が深呼吸をする。
「思い切り投げ込め」
鳥崎鉄男がミットを構える。軽くうなずいて一球目を投げた。「ズバッ」と速球がミットに収まる。キヨミは手も足も出ない。
「球速が落ちてない」
トシオが腕組みをしてつぶやく。宮崎ゆり子は、渾身の力をふりしぼり三球勝負でくる。キヨミも負けまいとボールに食らいつくが、ファーストのファールフライに打ち取られる。続くリョウタは、三球三振にねじ伏せられて兜南小は追いつめられた。
左打者の八番ヒデユキを迎えて、
「この打者で終わりにするぞ!」
鳥崎鉄男が、野手に声をかけた。
打席に入ったヒデユキに、
「終わりにするなよ!」
トシオがベンチから叫ぶ。
「バットに当てて転がせば、ヒデユキの足なら何とかなる」
トシオがタケシの肩を軽く叩いた。
この打者でゲームセットにしようと、宮崎ゆり子は大きく腕を回して一球目を投げ込んだ。速球がヒデユキの膝元に喰い込んでくる。誰もがヒデユキの技量では、「打てない」そう思った瞬間、ヒデユキは素早くセーフティバントの構えに切り替えた。膝元に喰い込んでくるボールを、ちょこんとバットに当てて三塁線に転がした。意表を突かれた三塁手は、猛ダッシュでボールを捕球したが、一塁ベースの手前まで到達しているヒデユキを見て送球をあきらめた。
ヒデユキの出塁で、チャンスをつないだ兜南小のベンチは盛り上がったかにみえたが、ネクストバッターは、この大会でまだノーヒットのヒロシである。
打席に向かうヒロシを呼び戻して、タケシが耳打ちする。
「相手は三球勝負で攻めてくるから、一、二球目は空振りで油断させる。そうすれば三球目も、間違いなく速球を真ん中に投げ込んでくる。いいか、その球を、一、二、三のタイミングでフルスイングすればバットに当たる」
「最後の打者になったらどうしよう」と委縮していたヒロシは、タケシのアドバイスを聞いて「なるほど」と感心する。
「ここで打てばヒーローだぞ」
「ヒーロー」と聞いてヒロシは奮い立った。
「そうだ、ぼくはヒーローになるためにがんばってきたんだ。家で待っているメイためにも、そしてなによりも大好きなマユミに、想いを伝えるために、打つ、打つ、打つ」
心の中で叫んだヒロシの表情に、闘志がみなぎってきた。
「なにをアドバイスした?」
トシオが自信に満ちたヒロシを見て、タケシに聞いた。
「ヒットが打てるように、おまじないをかけた。駄目元の一発勝負に出る」
自信とは裏腹に、見た目にも迫力のない素振りをしてヒロシが右打席に入った。
鳥崎鉄男は宮崎ゆり子に、「好きなように投げろ」と目配せした。軽くうなずいた宮崎ゆり子は、三球勝負で決めようと、初球からど真ん中に速球を投げ込んだ。
「あっ」と情けない声を出して空振りしたヒロシに、内野陣が気を取られた隙に俊足のヒデユキが盗塁を決めた。
「しまった」
鳥崎鉄男が、苦虫を噛みつぶしたような顔でつぶやく。ヒデユキの盗塁で、スコアリングポジションにランナーを進めた兜南小のベンチは盛り上がる。
鳥崎鉄男が立ち上がり、万が一のことを想定して、ヒロシシフトで前進守備の外野手に、もう一歩前に来るように指示を出す。
宮崎ゆり子は二球目も迷いなく、速球をど真ん中に投げ込んだ。ボールが鳥崎鉄男のミットに収まった後、ヒロシのバットはむなしく空を切る。
「なにがおまじないだ、いつものヒロじゃないか」
トシオがタケシの顔を見ると、ヒロシもベンチを見ていた
「ここまでは作戦通り、これからが勝負」
タケシが軽くうなずくと、それを確認したヒロシもうなずき返した。打席でバットを構えるヒロシの顔が、見る見る情けない顔に変った。
バッテリーは弱気なヒロシを見て、タケシの読み通り三球勝負できた。
宮崎ゆり子が投げ込んだ三球目のど真ん中の速球を、一、二、三のタイミングでヒロシはフルスイングした。バットは見事にボールを芯でとらえたが、球威に押されて跳ね返された。打球は大きく弧を描き、セカンドベースの後方へフラフラと舞い上がる。
ヒデユキもタケシのサインどおり、宮崎ゆり子が投球した瞬間に走り出していた。勢いのない打球がセカンドベースの後方へポトリと落ちた。前進守備のセンターがボールに追いつきバックホームしようとしたが、ヒデユキがすでにホームベースの手前まで走っているのを見てあきらめた。
全力疾走で一塁ベースに向かうヒロシに、トシオがベンチから身を乗り出して叫んだ。
「ヒロ飛び込め!」
トシオの叫び声を合図に、一塁ベースに向かってヘッドスライディングする。
センターがバックホームをあきらめて、ファーストへ切り替えた分、送球が遅れた。頭から滑り込んだヒロシと、送球を捕球した一塁手の微妙なタイミングの判定は、「セーフ」土壇場で兜南小は同点に追いついた。
ベンチではヒデユキをハイタッチで迎い入れ、ヒロシコールが起きた。
ヒロシに同点打を打たれたことが信じられない宮崎ゆり子は、気勢を上げて喜ぶ兜南小のベンチを呆然と見つめる。
キャッチャーマスクを右手で突き上げて、
「ツーアウト!」
鳥崎鉄男が声を張り上げて、同点に追いつかれて沈み込んだ野手に、「喝」を入れる。
我に返った守備陣から、「ツーアウト!」と元気よく返事が返ってくる。
宮崎ゆり子がうしろを振り向き、両手を広げて微笑んだ。気を取り直した守備陣が「さぁこいっ」と構える。
兜南小のキャプテンタケシは、一気に攻め込んで逆転サヨナラを狙った。一塁ランナーのヒロシに、初球から盗塁のサインを出した。カツトモもサインを見て軽くうなずいた。
宮崎ゆり子がカツトモに初球を投げ込んだ瞬間、ヒロシはスタートを切った。カツトモは盗塁を助けるために、大きくバットを振って空振りする。
「またか」
鳥崎鉄男は、またしても意表を突かれた盗塁に焦り、二塁への送球が大きく上に逸れてセンター前に抜けてしまった。
「やった」タケシが拳を握りしめた時、ヒロシが二塁ベースの手前でつまずき転倒した。バックアップに入ったセンターが、ボールを捕球して二塁へ送球する。ショートが受取り、唖然とした顔で見つめるヒロシの頭にタッチした。
二塁塁審が「アウト」のコールを告げて、ゲームセットとなる。
「なにやってんだ」
タケシが頭を抱える。
「落はこれかよ、ヒロらしいね」
トシオがベンチで、膝を叩いて大笑いする。
両チームが、ホームベースの前で整列する。
「三対三の同点引き分け」
主審が引き分けを告げる。
「ありがとうございました」
両チームの選手が握手を交わして、健闘を称えあう。ベンチへ戻るトシオを宮崎ゆり子が呼び止めた。
「なんだよ」
振り向いたトシオに駆け寄り、宮崎ゆり子が握手を求めた。
「ホームラン打たれたの、はじめて」
トシオは左利きの宮崎ゆり子に合わせて、左手を差し出して握手する。
「まぐれだよ」
「ヒーローになり損なったな」
タケシがヒロシの肩を軽く叩いた。
「でもがんばったよね」
マユミが微笑むと、ヒロシは心の中で「それだけ?」とつぶやき、
「来年は完投して、ホームラン打ってやる」
と意気込んだ。
「無理だな」
トシオが冷たく言った。
「ぼくはもっともっと練習する」
「それでも無理だな」
「どうして」
泣きそうになるヒロシに、
「来年は中学生だ」と返した。
「あっ、そっか」